日立の人々 改定版          2000作成−2007.12.30改定

                                 木下秀人

このホームページを作った01年に載せていたこの文集が、エラーで削除されていたことが判明した。多少の修正を加えて再録する。

 

1 久原さんと小平さん 設備投資による生産性向上

2 鮎川さん 株式市場からの資金調達

3 馬場さんとGEのスタインメッツ 技術開発の推進者

4 倉田さんのマネジメント研究

5 久原さんと若草伽藍の礎石

6 倉田さんの「愛国主義」と南原繁

7 小平さんと足利尊氏

8 森嶋さんとソビエト革命

9 横田さんと中央研究所

10       宗教あるいは理想について

 11 鮎川さんと倉田さん 財団の発想

 12 穂積五一さんと倉田さん

 13 日立と日本のマネジメント その優位と停滞

  

1 久原さんと小平さん 技術開発と設備投資による生産性向上

久原さんの創業した久原鉱業は、明治の証券市場で国宝株とまでいわれた。久原さんは長州の藤田組が井上馨の斡旋で手に入れたが、経営に行き詰っていた小坂銅山の建て直しに成功し、それが日立鉱山買収・独立につながったが、これはその成功理由の分析である。

理由は二つある。一つは銅という金属は砲弾の材料で、当時世界のあちこちであった軍事行動による需要増大、直接には日本の日清・日露戦争による値上がりがあった。しかし他社に優越できた第二の理由が、表題に掲げた「技術開発と設備投資による生産性向上」で、小平さんは従来手作業に委ねられていた鉱山設備の電化合理化の中心人物であった。従って独立した久原さんが日立鉱山で、すでに東京電灯で活躍していた小平さんを改めて求めたのは当然の成り行きだった。

技術開発については、「藤田伝三郎の雄渾なる生涯」砂川幸雄、草思社1991によれば、東大冶金出身の武田恭作・竹内惟彦さんのコンビによるパイロチック・スメルティングという新しい精錬技術が生産性向上に貢献したという。武田さんが手がけてうまくいかず、欧米の実情視察の留守中に、偶然溶鉱炉に投じた薪と石炭が端緒になって発見されたという。この話は、高尾さんからお聞きしたことがある。

 

2 鮎川さん 株式市場からの資本調達

工学士でありながら米国で鋳物工としての生活を体験した鮎川さんは、帰国して戸畑鋳物=現日立金属を創業した。同時代の米国で株式や社債による大衆からの資本調達が行われているのを知っていた。時代は資本家資本主義から大衆資本主義・経営者資本主義への転換期であり、産業支配の新しいシステムとして、カルテル、トラスト、コンツェルンなどが登場し、その資本的・金融的・経営的結合方式の是非が論議されていた。財閥系銀行資本に属しない、独立した産業資本の久原鉱業は、早くから株式を公開して資金調達を株式市場に依存し、一時は国宝株とまでいわれた。しかし欧州大戦景気で拡大した事業が戦後の不景気でうまくいかず、株価も下がり、融資する銀行もないままに行き詰った。

昭和2年、久原さんから経営建て直しを委ねられた鮎川さんは、万策を講じ危機を乗り切ると、この産業組織を持ち株会社に改組し、株式公開による資金調達を目指した。昭和3年久原鉱業を日本産業に改称、翌年鉱業部門を分離=日本鉱業とし、日産を持ち株会社として昭和8年日本鉱業と日立製作所株式を売り出し、多額のプレミアムを獲得した。既に日本は戦時体制=軍需景気下にあり、以後この方式による資金調達で新興財閥=日産グループが誕生・拡大した。私の履歴書、昭和40年1月日本経済新聞

鮎川さんの構想は米国資本導入による満州開発に及び、関東軍暴走による軍需景気による株価上昇で得た余裕資金は企業買収=M&Aにも向けられ、やがて参謀本部に転じていた石原莞爾から話が持ち込まれ昭和12年満州国へ進出=満州国特殊法人満州重工業の設立となる。しかし米国資本導入は米国行きさえ外務省に阻まれ、副総裁高碕達之助と計画した米国式大農法の導入も、細分化された土地に開拓農民を配置する石原に拒否される始末で、大豆の売り込みでヒットラーに会ったり、日米戦争回避に動いたりしたが、昭和17年満州重工業総裁を高碕氏に譲った。戦後、満業=日産グループは財閥解体の対象となり、多数の子会社を持っていた日立も、解体・再出発となった。日本鉱業は現在、新日鉱ホールディングスという持ち株会社となっている。

 

3 馬場さんとGEのスタインメッツ 技術開発の推進者

馬場さんは、GEにおけるスタインメッツに相当する人である。パソコンでGEのホームページをのぞくと、18761892のエジソンの時代に続いて、18921923をスタインメッツの時代としている。昔ニューヨークに駐在された平井忠正さんから見せていただいたGEの社友クラブのパンフレットに、ドイツ移民で工学の基礎教育を経たスタインメッツが、コッフィン社長の片腕として技術開発を担当し、エジソン流の発明時代から、電磁気学・物理学・化学・数学などのサイエンスに基礎を置き、優秀な人材を組織して研究所を作り、新しい製品を次々と送り出し、GE発展の一時代を築いたとあった。エジソンを含めそれまでのGEは、きちんとした技術教育を受けていない素人集団だった。

続砥柱余禄56集に平井さんの「スタインメッツのこと」という文章が載っている。当初スタインメッツの自宅の裏小屋に置かれた研究所は、その後ウイットニー、ラングミュア、クーリッジなどの俊秀を集め、タングステン電球から電子管にいたるGE発展の基礎技術を次々と生み出す中心人物であった。亡くなったのは馬場さんの学位取得の年であった。

馬場さんはマックスウェルの教科書を熟読され、卒業論文は英文で東大に残っているという。小生は中研で晩年の馬場さんに接する機会があったが、スタインメッツについて感想を聞けなかったのが悔やまれる。

馬場さんの技術指導は、製品開発の場における学位論文の奨励であり、その技術開発と人材養成が社業発展に寄与したのは勿論だが、有言実行、・羊頭羊肉、致知格物天道開・捨贋執真人道完などの巧みなスローガンには、強い意思と深い哲学が織り込まれていた。1964岐阜の正眼寺夏季講習会で語った「私(大変人)の人生管見」にその哲学と実践を知ることが出来る。

なお、戦後馬場さんが始められた「落穂拾い」は、馬場さん臨席の製品事故の検討会として続けられ、日立独自の事故・不良の社内フィードバックシステムであった。大型納入製品の稼働状況を馬場さんが現場訪問して伺うという形で始まったこの仕事は、その後お客様からの苦情・事故報告の社内検討会に発展した。製品の範囲も数量も激増した状況で、いかに顧客の苦情に答え迅速なサービスを提供するか。GEはこれをコンピューターを活用し、顧客と直結し顧客・製品情報の即時把握・即時対応のネットワークを作って先行した。それは馬場さんの個別製品の「落穂拾い」を量産・IT時代へ拡大適用するシステムなのであった。

 

4 倉田さんのマネジメント研究

小平さんは技術開発に熱心で、特許を取らせたり、徒弟養成の学校を作ったり、大福帳式の計理に原価計算を導入したり経営革新に熱心だった。その小平さんに倉田さんは、銅を生産し電線を使っているのだから電線を作るべきだと建策、それならお前がやれと電線工場立ち上げを任された。時代は欧州大戦後の不況で、産業合理化がスローガン。米国ではテイラーシステムがもてはやされ、ホーソン工場の産業心理実験が行われていた。日立電線に、倉田家から寄贈された倉田さん若き日の勉強を偲ばせる蔵書とノートが残っている。フォアマンの役割と権限といった組織論についての英文の引用が目に付いた事を記憶している。倉田さんは、日立で小平さんに次ぐベンチャービジネスの経験者・成功者だった。

戦後、小平さんから社長に指名された倉田さんを待っていたのは、爆撃で荒廃した工場の整備と事業の立ち上げ、復員する従業員の受け入れ、戦時中の債権債務の整理、過度経済力集中排除法による日立本体の工場・事業の整理であった。GHQとの折衝で日立は、戦時中に拡大した事業所の処分のみで本体は分割を免れたが、新しくできた労働組合のインフレと厳しい経営環境での賃上げ要求は、会社側の5555人の人員整理案と衝突、昭和25年大争議となった。息つく閑もない難題の連続に一段落をもたらしたのは、大争議中に始まった朝鮮戦争であった。

倉田さんは、日本経済の重化学工業化、輸出振興、国産技術・科学技術振興を通じての国民経済への貢献を経営の柱とされ、自らの退職金を基に青少年に対する科学技術教育振興の財団を設立されたが、経営面では事業部門の分離独立、子会社統括システムの創設、GEにならって経営研修所の設立など、今日なお生命を失わないマネジメントの基本を樹立された。事業の分離独立は、当時のGHQに分割された本体を再結集する流れに逆らう斬新な手法であった。  

倉田さんは、人の話をよく聞かれ、まとめ上手であると同時に、自らのリーダーシップで事を行う勇気と決断力を備えておられた。事業分離には、戦時中に鮎川構想のもと自らも多数子会社を擁する企業体となっていた日立の戦後についての小平さんの構想があったかもしれない。倉田さんは福岡県宗像郡出身で、戦時中笠戸工場長を勤められ、その地区の有力会社の社長さん方と交流があった。東洋レイヨンの田代さん、出光石油の出光さんなどである。経営研修所などは当時ナイロンの技術提携で米国事情に詳しい田代さんとの交友が効いていると推定されるが、いずれも倉田さんが言い出されたのであって、下から持ち上げたのではない。

 

5 久原さんと若草伽藍の礎石

奈良の法隆寺については明治以来、再建・非再建論争があって、若草伽藍は再建前の寺をいい、その塔の礎石が明治初年に発掘され、昭和になって周囲の発掘調査が行われて再建が確定した歴史がある。法隆寺は夏期大学があり、たまたま家内が参加した平成9年のレジメを見て驚いた。久原さんが登場している。

高田良信管長の「若草伽藍の心礎について」。明治時代に発掘された礎石は、法隆寺に隣接しかつて寺域と推定される北畠治房男爵邸の庭石とされ、さらに大正4年、久原房之助に譲渡され、大阪住吉の別邸にその上にあった五重の多宝塔とともに移された。1万貫=37.5トンの巨石を運ぶのは大変で、駅まで9町はコロの上に台木を載せ1週間かかり、日露戦争でロシアが旅順に大砲を運ぶのに使った貨車で大阪まで運んだ。1500円かかったという。

欧州戦後の不況処理でこの屋敷は久原の手を離れ、野村銀行(後の大和銀行・野村證券)の創立者、野村徳七氏の野村合名の所有となった。野村は久原鉱業の増資新株の引き受け幹事で市況が悪くてマイナス・プレミアムになった時、断固として契約を履行したという。

昭和14年、法隆寺に礎石返還論が起り、野村氏は寄付を快諾したので、運搬費6200円をかけて聖徳太子ご命日の1022日にめでたくもとの位置に戻ったという

大正初めの久原さんは飛ぶ鳥落とす勢い、それが欧州大戦中の急拡大の咎めで戦後不況に資金繰りが苦しくなり、鮎川義介に経営再建を委ねたことは周知のとおり。

礎石を最初に持ち出した北畠氏は、もと平岡鳩平という法隆寺村のタバコ屋だったが、幕末維新期に天誅組に加わり、挙兵失敗を生き延びて東征大総督有栖川宮に近づき、買い取った系図で南朝の北畠親房の後裔と称し、大阪控訴院長・男爵にまでなった。高田良信氏の話である。法隆寺の「聖徳」189号に高田良信氏の記事が載っている。

 

6 倉田さんの「愛国主義」と南原繁

倉田さんは、福岡県宗像郡の出身で、宗像大社は沖ノ島に古い祭祀遺跡を伝え古事記に載っている由緒ある社。日本海海戦の砲声が聞こえたという少年時代を過ごして敬神愛国の心深く、伊勢に道場を持つ修養団の後援をされたり、本社のあった新丸ビルの屋上に日の丸の旗を掲げさせたり、紀元節の制定を祈念して年賀状に代え寒中見舞いを続けた。退職金を基に科学技術振興財団を作り、アジア留学生の父と慕われた穂積五一さんの海外技術者研修協会の理事長をされた。お葬式には日の丸を掲げた人が見え、とかく国粋主義・右翼と見られがちであった。

そんな倉田さんと同じように、戦後最初の紀元節に、日の丸の旗を校門に掲げ盛大に紀元節を祝った学校があった。東京帝国大学で総長は南原繁であった。その時の「新日本文化の創造」という講演は広く一般の反響を呼び、占領軍に「気概のある日本人の代表的な意見」として翻訳され、本国にも配布されたという。南原講演を「聞き書き・南原繁回顧録」1989により要約する。

「紀元二千六百何年という歴史問題は科学的実証的に解明さるべきだが、民族の神話伝統まで否定してはならない。日本民族の使命の意識、民族の永遠性についての信念、国民の個性というべきものを失ってはならない。同時に今までの日本民族の持っていた心理的欠陥=個人の独立の人間としての意識や理想の欠如が独特の国体観念となって少数者への盲従となり、戦争と敗戦の根本的原因となった。これは反省しなければならない。

わが国社会にはなお封建的精神と制度が残っている。日本人はいまこそルネッサンス、宗教改革を行うべきである。狭い民族主義でなく、世界的な普遍性の基盤に立って新しい日本の建設、国民であると同時に世界市民として自らを形成する、その紀元元年として出発すべきだ、それが私が紀元節を祝うということの趣旨でした。」

南原さんはその年の330日、かつて若き学徒を征途に送った大講堂で、戦没学徒の慰霊祭を行った。何等の宗教的儀式を持たぬ記念祭で南原が祭主を務めた。

さらに429日の天長節にあえて式典をあげた。人間宣言をされた天皇に敬意を表しお祝いすると同時に、極東軍事裁判を目前にして天皇が法律上政治上戦争に責任を持たないこと、しかし天皇は道徳的精神的な責任を感じておられるとすれば、(退位を)側近の人たちが考えてもらいたいことを話した。

南原さんというと、講和・平和問題で吉田首相と衝突したことだけが世間に知られている。小生も南原総長時代に入学したが、上述のことはこの本で初めて教えられた。倉田さんの感想が伺いたい気がする。

 

7 小平さんと足利尊氏

平成9年社友会に入ったので、昔総会の前日小平さんの墓参りをしていたのを思い出し、谷中の墓地を訪れた。日暮里駅の近くで分かりやすいところだった。近くに竹内綱の墓があった。吉田茂の実父である。

気になったのは小平夫人に小室信夫七女とあったこと。その名はどこかに記憶があった。いろいろ調べて小室氏183998は、丹後国与謝郡岩滝村で生糸を扱う豪商の家系で、文久3年尊皇攘夷派に組し、京都等持院にあった足利尊氏の木像の首を切り落として川原にさらした。その趣意書が小室氏の執筆という。のち自首して徳島藩に預けられ、維新後岩鼻県権知事、徳島県大参事、外遊してイギリスの立憲制度を視察、明治7年板垣・副島・後藤・江藤とともに民選議院設立建白書を提出し自由民権派として活躍したが、実業界に移り、製糸・製麻・鉄道・銀行にかかわり、北海道運輸会社を設立、共同運輸を経て日本郵船の基礎を築いた。24年貴族院議員に勅撰され、3161歳で死去。谷中天王寺墓地に葬る。

小平さんとの接点は「小平さんの思い出」に義兄弟井上嘉都治・小室三吉・静夫・文夫の写真があり、文夫が東大の同級生と分かった。小平夫人はその妹だった。結婚は37年すでに小室信夫はいない。新郎31、新婦18、媒酌はのちに鹿島建設社長となる鹿島精一氏、これも同級生である。

小平さんは昭和26105日死去、小室信夫の立派な墓も近くにある。

 

8 森島貞一さんとソビエト革命

小生がお会いした頃の森島さんは、公職追放で常務を退かれ顧問であられた。時々会合などでお見えになられるといつも穏やかな表情で、年齢差もありあまりお話を伺うことはなかったが、ある時、ロシア革命のさなかペテルブルクにおられたと伺った。そこに久原商事の店があり、シベリア鉄道で行って逗留中に革命が起きた。大正62月出発7月帰朝と年譜にある。久原商事は当時三井物産・三菱商事を目指して発展中で、ロシアへは日本軍払い下げの旧式銃砲を売り込んでいた。政権が変わって売上代金は未回収で残り、後年久原さんがスターリンに会ったとき「ロシアには貸しがある」といったのはこのことである。新劇でチェーホフの桜の園でラネーフスカヤ夫人を当り役とした東山千栄子は、生糸の輸出商社の支店長夫人で帰国中だったという。菊池昌典、ロシア革命と日本人

欧州大戦中にロシアで大正6312日、ロシア暦でいう2月革命でロマノフ王朝が倒れ、知らせを受けたスイス亡命中のレーニンが、ドイツ参謀本部と取引し、封印列車に乗ってペテルブルクのフィンランド駅に着いたのが43日。森島さんそこでどういう体験をされたかは詳しく伺わなかった。当時そこのネフスキー通りには輸入食品で有名なエリセーエフの店があり、日本留学を終えペテルブルク大学の日本語講師だった若きエリセーエフがいたはずである。東大で上田万年に学び、夏目漱石に愛されたエリセーエフは、脱出してソルボンヌやハーバードで日本学の中心人物となった。駐日大使をしたライシャワーはハーバード時代の弟子である。「赤露の人質日記」中公文庫は彼の革命体験記で、ロシア脱出は困難を極めたらしいが、外国人で仮政府を承認したの本国民の森島さんは、危険な思いもなく北欧に向かわれたという。

 

9 横田さんと中央研究所

中央研究所は昭和47年創立30周年を祝い30年史を作ったが、その中の「敷地は、今村銀行の今村さんから取得した」という記述について横田さんから、実は自分が関係したと話があり、その後中研に移った小生にも聞こえてきた。

今村さんは今村銀行のオーナーで、毛利家の公債を預かっていたが、昭和初年の金融恐慌で破綻し、毛利家の預かり金は国分寺の今村さんの所有地で返済することにした。毛利家では土地の売却を鮎川さんに依頼した。鮎川さんの指示は日産の山田敬介専務、日産土地の佐々木社長を経て横田さんに伝えられた。当時横田さんは日立航空機の代表取締役で、佐々木さんとは瓦斯電気工業からの旧知の仲だった。

その頃、小平さんに中央研究所設立計画があり、常磐沿線という声もあったが東京の学者を呼ぶのにはまずいと小平さんを説得し、現地も見せ気に入ってもらったが、「7万坪では1事業所10万坪の原則に外れる」というので、付近の茶畑を買い足して11万坪で認可された。その後今村さんの住居部分のを買い戻しに応じて一段落したという。

以上の話のうち11万坪は現状と違うので、庶務の富岡さんに登記所で調べてもらった。結論からいうと今村繁三氏から50205坪、以外から9751坪取得あわせて6万坪で、坪5円だったという。売り戻し分を中研東側の部分とすると7万坪となり、小平さんが社史でいっているのと符合する。

今村銀行は今村清之助が設立、繁三氏はその息、清之助は信州伊那の出身、幕末の横浜で両替商、維新後は東京で株式売買で成功し、渋沢栄一と株式取引所を設立、陸奥宗光とともに米欧視察から帰ると今村商店の経営は番頭に譲り、各地の鉄道会社の設立に加わり、帝国ホテルの発起人となり、明治21年今村銀行を設立、財界に有力者だったが3553歳で病没した。繁三氏の息である今村啓三さんの直話によると、繁三氏は東京高師付属で岩崎弥之助と同級生、ケンブリッジのトリニティーカレッジで鉄道学を修め、銀行倒産後は汽車会社の監査役だった。今村家は田町にあり、県道場があって鮎川さんはよく来ていたという。鮎川さんは今村さんと旧知だったのでこの話が成立した。

 

10       宗教あるいは理想について

小平さんは人情に厚い人だったが、ビジネス倫理については厳しかったという。

兄上が小平さんと東京で高等中学校=後の一高で勉強中に父上が死去され、負債があって兄上は帰郷して銀行勤め、小平さんは兄上の援助で大学を卒業できた。だから就職後の小平さんは兄上に代わって弟妹の面倒を見た=小平さんの思い出。栃木の隣に分家があり漢学者で、文人・書家が常に食客として滞在した。書物の入った桐の箱が沢山あり、虫干しが大変だったという。そのあたりに小平さんの漢籍の素養の源があるのだろう。中研に小平さんの書いた「生年不満百 常壊千年憂」という字が残っている。古詩で万葉集山上憶良の文章の注に出てくる。小平家は神道だが、小平さんが特定の宗教に肩入れされた形跡はない。

馬場さんは四国丸亀の人、大学時代結核が思わしくなく、弘法大師の八十八ヶ所めぐりで健康になったという。昭和初年の不況時に昭和電工の電解槽設計で過労、神経衰弱になった時は温泉療法で克服した。漢学の中で特に易学や朱子学を研究され、「言ったことは死すとも成し遂げるべし」{やれるだけのことは言わねばならぬ}という有言実行論は親鸞の歎異抄に発しているというし、「致知格物天道闢・捨贋執真人道完」、「空己尽孚誠」などのュ二ークな言葉を残し、技術開発のリーダーとして博士育成に力を注ぎ、実務を離れた戦後は「落穂拾い」「油さし」と称して己納品の事故不具合の点検原因追及に厳しい指導をされた。「返仁会」や「落穂拾い」は馬場さんの貴重な遺産である。

高尾さんは馬場さんと同じ丸亀出身で浄土真宗、一高時代、近角常観氏に傾倒されたが排他的ではなく、従業員の修養のため招いたのはキリスト教の本間俊平氏であった。工場の守護神として熊野神社を招聘したのは高尾さんだった。

倉田さんは古来の神道、古事記にスサノオがアマテラスに天の安川で「心の清く明かき」ことを誓約しアマテラスがスサノオの剣を噛み砕いて生まれた女神3柱を祀った宗像神社の氏子である。「心の清く明かき」ことは本居宣長によって神道の基本理念とされている。しかし倉田さんは宣長のように排他的ではなく、他の宗教にも敬虔な姿勢を失はなかった。

 久原さんには宗教色は認められない。旺盛な事業欲が欧州大戦後の破綻以後は政治支配欲に変わり、郷里長州出身の軍人=田中義一を支援し、田中内閣の閣僚となったが、田中首相は関東軍の雲張作霖爆殺事件の処理で昭和天皇の機嫌を損じ、陸軍を抑えきれず急逝した。陸軍の満州での暴走が、久原さんの後を継いだ鮎川さんの米国資本導入の妨げになったことは歴史の皮肉であろう。2.26事件にも登場したし、スターリンと会うなど政治史に名をとどめた。

鮎川さんには事業家としての理想があった。米国で職工体験後戸畑鋳物設立、久原鉱業を引き継ぐと日産グループに再編成し、株式市場を通じて資本調達という新しい手法で成功した。石原莞爾の満州国開発に招かれると、満州重工業として米国資本導入による大規模工業開発を目指した。(ケ小平の中国開発はその線上にある。)暴走する陸軍により米国資本導入が挫折した時、鮎川さんは満州重工業を辞めた。戦後は中小企業政治連盟を主導したが、その理想に時代がついていけなかった。

 

11       鮎川さんと倉田さん 財団の発想

倉田さんは昭和36年社長を駒井さんに譲り会長に就任、退職金を自ら設立された財団法人国産技術振興会に寄付され周囲を驚かせたが、それには日産の満州移駐に際しもらった功労金で戦没軍人遺児の育英会を作った鮎川さんの前例があった。鮎川さんには井上馨の育英会の前例があった。鮎川さんはまた、昭和172月シンガポール陥落を潮に高碕達之助に満州重工業総裁を譲り、退職金で財団法人義済会を作った。倉田さんは知っていたはずである。実業の日本、昭和25.4.15実業之日本社

当時私人の寄付による育英など公共のための財団は身近に存在していたこと、今日米国で金持ちが社会還元に寄付すると同じだったらしい。鮎川さんが陸軍につけた条件は200万円の元利を10年くらいで使い切ることだったという。

小生がこの事を知ったのは東京証券代行の先輩三宅さんの父君三宅光治中将が、満州事変時の関東軍参謀長で退任後この育英会に関わったと聞いてからである。当時海軍には恩賜財団軍人援護会があったが陸軍にはない。そこでこの振武育英会に三宅さんが責任者となり、熱心に遺族を戸別訪問するなどしてうまく運営されていたが、陸海軍一緒になろうと統合されたので三宅さんは離れ、満州協和会理事長で終戦を迎えることとなったのは運命であった。ソ連軍に連れ去られて消息が絶えたという。

倉田さんの寄付を中心として発足した財団はその後財界の支援を得て、皇居に近い北の丸にある科学技術館と、世田谷にある定時制・通信制の科学技術学園高校がそのまま継続し、科学教育専門テレビ局は経営不振で倉田さんを悩ませたが、日本経済新聞に売却され東京12チャンネルとして残っている。

 

12 穂積五一さんと倉田さん

 穂積さんは、戦前東大の上杉慎吉一門の右翼団体だった七生社に属した。戦後大いに反省するところがあって海外技術者研修協会を設立し、アジア諸国からの留学生・研修生の寄宿施設=アジア学生会館を作り、生活の面倒を見られた。社会党代議士だった穂積七郎氏は弟だった。倉田さんは頼まれてこの団体の理事長を引き受け、文部省などとの折衝に当った。佐高信、黄砂の楽土―石原莞爾と日本人が見た夢、00.6新潮社に、痛烈な石原批判と並んでその対極にあったとして穂積さんが描かれている。自ら国粋的という穂積さんは戦時中に朝鮮・台湾の独立運動をしている人を助け、何度か牢獄に入れられたという。倉田さんの国粋主義と共鳴するところがあったに違いない。

 

13 日立と日本のマネジメント―その優位と停滞

 企業の基礎は、人、もの、金といわれ、人材育成、技術開発、資本調達、と置き換えることも出来る。日立には久原さん、小平さん、馬場さんと続く「研究開発と設備投資による生産性向上」の伝統があり、鮎川さんに始まり小平さん倉田さんに受け継がれた「近代組織論に基づく経営組織」と資金調達システムがあった。

倉田さんは分割された企業を再統合する時流に逆らって金属・電線部門を分離独立させ、グループ形成の方向を定めた。馬場さんは「技術者育成と技術の市場との調和」に心血を注ぎ、技術導入後の技術開発に鞭を入れた。倉田さんは「管理者・経営者の教育」を洗練させ、駒井さんは「青空天井」と称し現場からでも社長になれる=昇進の学歴を撤廃、各種教育機関を整備し、ローテーションや自己申告など人事システムを改革した。

倉田・駒井時代、日立の経営判断は時流に先駆けていた。戦後改革で開けた国内市場に向かって3種の神器が作れば売れる時代がやがて終わり、輸出が国内需要の調整弁から稼ぎの主力となる時代、日本製品が安さでなく技術力で海外市場に広がる時代が来ていた。 

1971=昭和46年、ニクソンショックで基軸通貨ドルが金との兌換を廃止した。それはドル安・円高時代の始まりだったが、米国で早速導入された先物取引を含む通貨取引は、通貨=マネーが売買の媒介という古典的役割から実物取引から離れて一つの商品として取引される新時代の幕開けを意味した。この新時代に適合して生きるためには、今までの官主導の開発主義による規制は通用しない。あらゆる商品が自由に売買できる市場を作る。そのために「金融自由化」「規制緩和」「構造改革」が必要となり、米国英国が先行した。しかし永年官僚主導の開発主義で一応の成功を収めていた日本はその世界的流れに抵抗し遅らせようとした。古いシステムには既得権がつきまとう。その排除には強い政治力が必要だが、その時日本は佐藤政権の後をめぐり田中角栄・福田赳夫・大平正芳三つ巴の政争で政治は機能不全だった。

吉山さんが社長に就任したのはまさにこの1971年だった。世界が新しいルールに即応して改革しなければならない時代。日立はこの新しい状況に適合するマネジメントシステムを打ち立てえただろうか。政治家にも官僚にも学者にもジャーナリストにもその自覚はなかった。小生も同様だった。当時その衝にあった人の回想録を見ると今でもその自覚がないのがわかる。情けない残念である。

日本は1979年第2次オイルショックを旧体制で対応でき欧米への輸出を伸ばし、空疎な優越感=ジャパン・アズ・ナンバーワン時代を迎えた。巨額の外貨を蓄積した銀行が地価株価の不動産バブルを発生させたのはその延長線上であった。

その後にソビエトの崩壊=冷戦時代の終わりという大変化が起きた。米国に軍事経済で圧倒的な優位をもたらしたこの変化は、他方においてそれぞれの囲い込んでいたブロックを解体し、低開発国の経済発展を促し、グローバル化=地球規模の市場拡大をもたらした。資源も市場も地球規模で求めなければならないこの状況に対応できたか。

要するに、日本はマネーの商品化時代への対応に失敗し、日立もそれにグローバル化を加えた新時代を理解できず、一時肉薄したGEとの格差の圧倒的拡大を許してしまった。その後の日本の政治と企業の話は別稿にゆずる。

                        おわり

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