2009年の初めに

                         2009.1   木下秀人

1 自民党と民主党

 全く突然、福田首相は辞任し、今年9月で任期満了となる衆議院議員選挙に勝つために麻生氏が首相になった。小沢民主党は安倍・福田・麻生、いずれも総選挙の洗礼を受けず自民党内のたらいまわしだから、早く解散しろという。就任当初こそ福田首相の就任時と同じ人気を維持した麻生氏だが、発足早々信じられない不適切発言を繰り返す閣僚が出現、任命責任で人気低下に加えて、その後本人にも不適切発言や漢字の読み間違いなどが多発し、9月米国のサブプライム・ローン問題の爆発という緊急事態発生で解散を先延ばししているうちに本人も自民党も支持率を落し、小沢一郎と民主党に勝ち目がなくなってしまった。

 日本には欧米のような階級による社会の分裂がないから、2大政党による政権交代は難しいのではないかという説がある。昭和2年、憲政会と政友本党が合同して立憲民政党となり、政友会との2大政党時代となったが、民政党政権に対し政友会の犬養毅・鳩山一郎が統帥権干犯事件で海軍軍縮条約に反対、政権奪取のため軍部ファッショに組し、平和への道を狭め翼賛会で政党政治を閉じた歴史あり。鳩山氏は京大滝川事件の文部大臣だった。

 戦後日本は、自民党の長期政権が続いたが、内外の政治学者は否定的な評価をしていない。自民党が社会党の主張を取り入れたこと、支持基盤の地方=農家を初期には米価維持政策で支え、後には公共事業の地方配分で支えた。その支えが行き詰った結果が今日の苦境であるという。

 民主党の支持基盤は自民党と変わらないといわれるが、旧民社党勢もいないわけではない。政局にこだわるのは政策に差がないからで、戦前から同じ。果たして民主党はどんな政策で自民党に対抗するのか。野党は日本では政局を求める以外の道はないのであろうか。

 

2 米国発の世界不況と市場

 サブプライム・ローンは、住宅価格上昇をベースに、普通の住宅融資=プライム・ローンが適用されないので家が買えない低所得層への融資システムだった。戦後米国経済が推し進めてきた金融証券民主化の一環ともいえる。債務不履行リスクを保険を付けて分散した。

住宅価格上昇にもリスク分散にも限度がある。サブプライム・ローン関係金融商品はその限度を大きくはみ出し、全世界の金融機関に大量にばら撒いた。

住宅価格上昇が下降に転じ、地方金融機関の破綻が歴史ある証券会社の破綻に波及した時、「百年に一度の異常事態」が米国に発生、世界経済に金詰り=信用収縮をもたらした。グリーンスパンは、効くはずだった市場の規制が効かなかったと嘆いた。

 岩井克人教授は、朝日新聞0810.17の論文でいう。驚いたがこれは理論的には予測されていたことと。ケインズは、市場経済は不安定で政策によるコントロールが必要と考え、戦後米国の政策はケインズ主義で運用され成功した。やがて景気対策の無駄が大きくなり、フリードマン流の新古典派が、国家の介入・規制を廃し市場任せの自由化が効率と安定をもたらすと主張、レーガンやサッチャーが取り入れ、ブッシュが極限まで推し進めた。実験のほころびはアジア通貨危機から見え始めたが、今回の危機で破綻した。

 資本主義は本来不安定なもの。それは貨幣が、「皆が貨幣と思って受け取ってくれるから貨幣だ」という信用の自己循環に支えられているからだ。またニクソンショック以後の金融市場において、株式・債券・為替などの商品価格は、実需でなく思惑=投機によって動く不安定なもの。サブプライムを束ねた商品は不安定なのに安定的に扱われ貨幣のように見えてしまった。隠されたリスクが現れて破綻するとすべての金融商品の信用が失墜した。資本主義社会は本質的に不安定なもの、セカンドベストを目指し、永遠の実践主義で行かざるを得ないという。この結論に同意する。

 

3 GMとドラッカーと資本主義の倫理

 亡くなったドラッカーの米国デヴューを飾ったのが、「経済人の終わり」1935で、チャーチルの書評がタイムズに載り英米でベストセラーになった。GM調査で出来たのが「コンセプト・オブ・コーポレーション」で、GMではその後従業員意識調査を実施したが、職場改善プログラムが全米自動車労組に拒否され、トヨタやGEに受け入れられたことは日経私の履歴書05.2に詳しい。

ドラッカーは、共産主義やドイツ・ファシズムに対抗して自由経済社会を維持するためには、経営者・中間管理者のあり方が問題であると指摘し、経営者教育という分野を開き世界に貢献した。

 古典的資本主義は資本家が主導したが、産業の高度化は個人資本から証券市場による大衆資本への依存=株式会社の登場を促し、資本家に代わって経営者が会社の支配者となった。ウェーバーは資本主義の行く末を「精神なき専門人・心情なき享楽人」が牛耳る事を懸念したが、ドラッカーは「経済人の終わり」「産業人の未来」で、経営者・管理者=市場経済の担い手に、自由民主主義社会の維持という、「ピュリタニズムの精神」に代わる倫理的規範を期待した。

 ドラッカーは学界での無視に反し産業界では広く迎えられた。日本でも多くの著書が新しいマネジメントの教科書として受け入れられ戦後マネジメントの構造改革に貢献した。ドラッカーの受け入れを阻んだ労組の享受する一般をはるかに上回る優遇策の削減が、公的援助の前提にされていることは皮肉である。

米国で所得格差が拡大し経営者と一般労働者の年収差が急拡大したのは、レーガン・ブッシュの新古典派的自由主義採用と関わるという。緩めすぎた規制の再考が必要のようだ。

 

4 価格決定・市場・認識論

 今回の事件を、どう見るか。限度を越えたマネーの過剰供給で、かつて金と結合していた時に存在した、実物資産との交換価値という信用に疑問が発生した。信用収縮である。原油価格は半年で4分の1に下落した。銀行は返済能力が信用できず貸すのをためらい貸金の取立てに走り、黒字倒産がささやかれ、消費者は財布の紐を閉じ、商品は売れず、経済活動は停滞している。要するに米国がマネーを過剰発行して世界中に撒き散らし、その価値を下落=信用を失墜させた。

 だからといって価格決定に果たす市場の機能が減じたわけではない。自由市場に公定価格はない。価格はすべて「市場」での取引で決定される。毎日の買い物は安い価格を提示した店で買う。価格は常に変動し不安定である。

 同じような不安定が「真理認識」にも存在する。キリスト教の聖書には人間は万物の霊長として「カミ」により作られたと書いてあるが、学問の進歩=真理の探究は宇宙に無数にある星の一つが太陽で、地球はその衛星、大昔に地球に生命が生まれ、進化して陸海の生物となり、人間はその一つに過ぎない事を明らかにした。ただ、今でもそれを信じない人がいて、絶対といえない不安定さがある。学会は真理の価値決定の市場というべきだろうが、分からないことは残る。それを「分からないとすることが知ることだ」とは論語の言葉である。

 「民主主義」について、各国の歴史的事情によって内容に違いがあるという学者もあれば、欧米流を他国に押し付けようと戦争までした国があった。政治的真理も不安定で、歴史の流れの中で次第に固められるしかないようだ。                     おわり

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