ローマ帝国から近代へ―キリスト教、ゲルマン民族、イスラム教(前編)

                2007.9.17―08.12.16 木下秀人

 イスラムに関心を持つようになったのは中村元先生の比較宗教論から井筒俊彦先生の著作を知り、歴史的背景を知りたいと思ったからである。トインビーの歴史の研究、ギボンのローマ帝国衰亡史、ヒッティのアラブの歴史、上智大学中世思想研究所訳のキリスト教史、ピレンヌのヨーロッパ世界の誕生、エスポジト編イスラームの歴史、中央公論社新旧の世界の歴史、HARギブ、バーナード・ルイス、牧野信也・中村廣冶郎・伊藤俊太郎・山内昌之・新井政美の各先生の著作などが参考になった。

 この論文は、東西ローマ帝国、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の関わりを近代の手前まで概観し、長くなったので二つに分けたもの。続いてオスマン帝国とキリスト教西欧との歴史概観がこれも二つ加わる。

この研究によって明治以来の西欧やキリスト教に偏った歴史観が修正できた気がする。ご参考になればうれしい。

前編

1 ローマ帝国の政治と皇帝

2 ローマの宗教と、ユダヤ教、キリスト教  

3 ローマ帝国のキリスト教迫害と殉教

4 ローマ帝国の分割―東方の優位

5 コンスタンチヌスのキリスト教公認=ミラノ勅令

6 ゲルマン民族大移動とコンスタンチノープル遷都

後編

7 ローマ帝国の東西分裂、ゲルマン民族の西方進出

8 西ローマ帝国の滅亡―フランク王国とローマ教会

9 イスラム勢力の勃興

10 フランク王国とローマ教会、政権と教権

11 終わりに―ビザンツ帝国、イスラムとバルカンの政治・宗教・民族

 

前編

1 ローマ帝国の政治と皇帝

 紀元前27年、アウグスツスの皇帝就任で始まったローマ帝国は、イタリア半島の都市国家ローマが、先進文明ギリシャに学び、衰退したギリシャに代わって地中海沿岸の地域を貴族が率いる市民軍が征服して成立した。初期には王でなく元老院が選出する執政官が支配するシステムで、元老院を形成する貴族とは広い土地を支配し私兵を蓄えた部族長だった。地域拡大に伴い貴族間の争いが生じ元老院支配、三頭政治を経てカエザルが実権を握り暗殺され、養子のオクタビアヌス=アウグスツスがアントニウスとクレオパトラ軍を破り初代皇帝となり、ローマ帝国が始まった。

1−1 BC27AD96=ユリウス・クラウディウス朝5

初期の世襲皇帝たちは共和制を尊重して、軍隊の忠誠宣言後に元老院により元首=プリンケプスに選ばれた。アウグスツスBC27AD14、先帝の妻の連れ子を娘の婿にしたチベリウス1437、遠い縁戚で暴虐となり宮廷で殺害されたカリグラ3741、カリグラの叔父で最後の妻とした姪アグリッピナに殺害されたクラウディウス4154、アグリッピナの連れ子で母も妻も殺しローマに放火し罪をキリスト教徒に着せたとされるネロ5468は元老院と軍に迫られ自害。

1−2 続いて内乱の1

ガルバ、オトー、ウィテリウスの3人が帝位につき次々に失脚

1−3 6996=フラウィウス朝3代

先帝ウィテリウスを破ったウェスパシアヌス10年は貴族ではなかったが混乱を収め善政だった、その子ティトス2年=父子継承の最初、愛されたが病に倒れた、継いだのは先帝の弟ドミチアヌス15年、終わりは暴虐で軍・側近と共謀した妻に殺された。

1−4 96193=五賢帝時代

ローマ帝国の最盛期といわれる。ネルウァ9698、帝に推された時66歳、先帝に見出され養子・副帝となった将軍トラヤヌス98117は外征により版図を最大とし最善の君主と崇められた。ハドリアヌス117138は先帝の姻戚、争いなく継承し内政充実で平和と繁栄を謳歌し、次の2人の賢帝を発掘し後継者とした。アントニヌス・ピウス13816150歳ほどの元老院議員とマルクス・アウレリウス・アントニヌス16218017歳である。アントニヌスは裕福な貴族で息子がいたが、ハドリアヌスの指示どおりマルクスを娘婿・後継者とした。「この2皇帝の下ローマ世界は42年間知徳によって統治された」=ギボン。マルクスは義弟ルキウス・ウェルスと共治したが、辺境はパルティアの侵攻ゲルマン人の侵入に悩まされ、二人とも遠征地で死去し賢帝の時代は終わった。続くマルクスの子コモドス180192は若年で皇帝となり、身内からの暗殺未遂事件におびえて暴虐化し悪臣の暴政を放置し、やがて側近に殺された。    マルクスの妻も不行跡で有名だったという。ローマの繁栄は終わった。 

1−5 193225=セウェルス朝7代、

ペルチナクス193、卑賤の出だが元老院議員で首都長官だった。3ヶ月で推戴した近衛隊に殺された。

ディディウス・ユリアヌス193、近衛隊が競売にかけた帝位を競り落とした裕福な元老院議員。各地の知事総督が蜂起し66日で近衛隊に殺された。

セプテミウス・セウェルス193211は北アフリカ出身で決起したパンノニア総督、規律の緩んだ近衛隊を各地から精鋭を集めて再編成し、元老院には東方からの弁舌優れた奴隷たちを議員とし立法権と執行権をむき出しの形で行使、元老院を無力化し共和制を破壊、独裁政治を断行した。陣中で死去。ギボンにローマ衰退の帳本人とされた。

カラカラ211217はセウェルスの子、共治帝だった弟ゲタを殺害、遠征中近衛隊に謀殺された。

マクリヌス217218、軍に擁立されたが東方軍団が蜂起して謀殺された。

エルガバルス218222はセウェルス帝の遠縁、東方軍団に担がれたが母とともに謀殺された。

アレクサンデル・セウェルス222235、先帝の従弟14歳、始めは元老院に助けられ順調だったが、ペルシャとの戦いの最中ゲルマン人が反乱、賠償金で和解しようとする軟弱姿勢に軍が母親とともに謀殺。セウェルス朝は終わった。軍はマクシミヌスという将軍を新帝に推した。軍隊が皇帝の進退を左右し、皇帝の位を売買さえする時代が来た。

1−6 235285=軍人皇帝時代

50年間に地方も含め26人の皇帝が入れ替わった。世の乱れは貴族に代わって有能な軍人が権力を握る機会を提供する。それをいかに統御するか。広いから分割は一つの試みだったが、任じられた皇帝が有能とは限らないからやがて分裂となり、外部要因も加わり動乱を招くことになった。

木下説 どうもすさまじい権力争いに驚くしかない。中国は秦BC246206、漢BC202AD8、後漢25220、魏・蜀・呉の三国時代220280、晋265316に西晋265316、五胡十六国と続く。既に儒教思想による統治システムがあり、366敦煌では仏教の石窟が掘られ始めているが、ギリシャ哲学や政治思想が継承された気配がない。日本はまだ国家すら形成されていないが、中国でも日本でもローマに見られるような権力をめぐる血なまぐさい争いは見られないのではないか。天皇家も初期には承継をめぐって武力闘争があったが、やがてルールに基づく継承がなされ、王権と政権が分離されるようになる。

 

2 ローマの宗教とユダヤ教、キリスト教

ローマはギリシャと同じく自然宗教で、ギリシャ神話の神々にラテン名が与えられ―ゼウス=ユピテル、アテナ=ミネルバ、アポロン=アポロ、アフロディテ=ウェヌス、ディオニュソス=バッカスなど今日残っているように多神教の世界、征服地の民族宗教を抑圧しなかった。政府が特定の宗教を保護はしないがローマ伝統の祭祀は行われ、皇帝権力の増大につれて、皇帝が神格化・崇拝されるようになり、それに従わないものとの軋轢が生じた。唯一の神への信仰を掲げるユダヤ教とキリスト教である。

ユダヤ人は、自らを神に選ばれた選民とする独特の民族宗教を奉じた。古代に国を築き、離散を重ねエルサレムに神殿を築き、祭儀を中心とする共同体を形成していたが、BC63年ローマ軍に敗れ、多数のユダヤ人が捕虜として連れ去られ、ローマの保護下でヘロデ王の時代となった。この頃からユダヤ人のローマ居住が始まり、エルサレムでは親ローマで妥協的なサドカイ派と、同化に反対はしないが宗教的伝統は継承するパリサイ派があり、パリサイ派が主流となった。民族宗教だから布教はしない。

キリスト教は、このローマ支配のユダヤ人社会の中にヨダヤ人イエスをメシアと仰ぐ宗教集団として誕生した。そしてイエスが社会の平和と秩序を乱す廉でローマ官憲に捉えられ十字架にかけられた時、その死に復活と犠牲という新たな意味を与えてAD30年ごろキリスト教が成立した。

旧約聖書はユダヤ人と共通であるが、イエスは受肉し復活したメシアであるという新しい教義を編み出し、布教を活発に行った中心の一人が、ユダヤ教から劇的回心―使徒行伝9章―をしたパウロである。キリスト教徒の主流は、ユダヤ教からの改宗者であり、イエスはユダヤ人、その教義はユダヤ教批判=異端だったから、イエスをローマ官憲に告訴したのはユダヤ人だった。近親憎悪ともいうべきその関係から、やがて両教徒は反目するようになった。唯一の神を崇め他の神を拝しないことは共通であるが、ユダヤ教はユダヤ人のみの民族宗教であるのに対し、キリスト教徒は民族をかぎらないでユダヤ教にない教会組織で布教活動を積極的に行った点に、多神教社会ローマの習俗と衝突する契機があった。

歴史家のトインビーは「歴史の研究」で、ユダヤ教徒から見ればキリスト教徒は背教者で、奇跡は神のみ業ではない、十戒の中の一神教と偶像否定の原則を裏切ることにより勝利を得た。イスラム教はユダヤ教より徹底した一神教と偶像否定の宗教で、その目覚しい成功がキリスト教世界の東西に偶像崇拝の是非という長く続いた論争を提起した。結局、東方の偶像破壊令を西が否定=偶像崇拝を容認することによってローマ教会は東方の支配を脱した。その西欧にユダヤ教の亡霊を復活させたのはルターの宗教改革であるという。淡々としたキリスト教論評の言説が面白い。

旧約聖書のヘブライ語に対し、新約聖書がギリシャ語であったように、初期のキリスト教徒の活動はローマ帝国の後の東方教会の領域が主で、十二使徒の筆頭ペテロは初代ローマ教皇とされたが、東方教会の初代はアンチオキアの総主教であり、パウロのローマ人への手紙でローマにも信徒がいたことは明らかであるが、彼の伝道は東方教会の領域が主であった。ペテロは伝道先のローマで、パウロはエルサレムで捕らえられてローマに送られ、ネロ時代に殉教したとされる。

 ユダヤ教は偶像崇拝を禁じ、ユダヤ民族を「神に選ばれた選民」とし、「神に約束されたカナンの地」にユダヤ国家を建てることを目指した。他民族の宗教を排除はしなかったが拝しなかったから、ローマの多神教社会においては「秩序を乱す危険な存在」として差別されていた。

キリスト教も、ギリシャ・ローマの多神教を否定し、ローマ世界の伝統的祭祀を拒否し皇帝崇拝などしなかったが、他民族・他教信者への布教を熱心に行ったので、教勢の拡大とともに、ユダヤ人以上の社会的危険分子と見なされ嫌われ迫害されるようになった。さらにキリスト教徒は異教の信仰を徹底的に排除し施設を破壊したので反感を招いた。キリスト教の浸透につれてローマ帝国の版図にあった土俗的なさまざまな神たちの祭りや習俗は消されていった。

 

3 ローマ帝国のキリスト教徒迫害と殉教

50  ユダヤ人、ローマから追放

51−57 パウロの伝道

 64  ネロの迫害、ペテロ殉教

タキトゥスによれば、ローマの大火をネロの放火という根深い風評があり、これを打ち消すためキリスト教徒を身代わりにしたという。「それは、日頃から忌まわしい行為で世人から恨み憎まれ、クリストゥス信者と呼ばれていた者たちである。この一派の呼び名の起因となったクリストゥスなる者は、ティベリウスの治世下に、元首属吏ポンティウス・ピラトゥスによって処刑されていた。その当座は、この有害なる迷信も、一時鎮まっていたのだが、最近になってふたたび、この禍悪の発生地ユダヤにおいてのみならず、世界中からおぞましい破廉恥なものがことごとく流れ込んでもてはやされるこの都においてすら、猩獗をきわめていたのである。」年代記、岩波文庫下。

ギボンは、タキトゥスを引用し、キリスト教徒はユダヤ人の後に反乱しエルサレム滅亡を引き起こした過激・狂信者集団と混同された。だからその後にキリスト教の信仰教義は一度も処罰の対象となっていないと指摘している。ちくま文庫版ローマ帝国衰亡史2

 67  パウロ、ローマで殉教

 70  ローマ軍、エルサレムを占領、ユダヤ戦争終わり、ユダヤ人虐殺、神殿破壊

 132  ユダヤ人、イスラエルで反乱。パレスチナ人はユダヤ人?

  「ユダヤ人はいつ、どうやって発明されたか」というシュロモ・サンド=テルアビブ大学歴史学教授の著書が建国60周年のイスラエルでベストセラーという。08.5.31朝日新聞。ユダヤ人はエルサレムから追放とされるが、大部分はパレスチナ人として残留したのではないか。イスラエル政府の「ユダヤ人国家」には根拠がない。パレスチナ人を含むすべての市民に開けた民主国家を目指すべし、初代首相ベングリオンも就任前の著書でそう指摘し、就任後は言わなくなったという。

197  セウェルス、ユダヤ教徒・キリスト教徒の改宗勧誘を禁止  

250  デキウス、政治権力によるキリスト教徒迫害始まる

ネロ以後のキリスト教徒の殉教者は、塩野七生、ローマ人の物語によれば、12人に過ぎないという。ギリシャ、ローマは多神教の世界、唯一の神に固執しローマの宗教儀礼を拒否するユダヤ教徒と同様に、キリスト教徒も民衆レベルでは排斥・差別の対象となった。しかし政府に処刑されたのはトライアヌス帝=2人、アントニヌス・ピウス帝=5人、マルクス・アウレリウス帝=5人で、秘密結社による反社会活動=布教の責任を問われた聖職者ばかりであった。

これに対しデキウスは、ローマの神への供犠式に参加する者に証明書を付与して識別。伝統宗教による帝国の統一強化をはかった。犠牲者は民衆に広がり、キリスト教徒は、説を曲げるか殉教かを選ぶことになった。権力による迫害という新しい局面の始まり。デキウスはゴート族との戦いで死んで、その後迫害か寛容か、宗教が政治課題となって続く。教会財産目当ての迫害もあったという。

 

4 ローマ帝国の分割―東方の優位

286  ディオクレチアヌスは、マクシミアヌスを副帝として帝国を東西で分割。

自らは東方皇帝でニコメディア駐在、西方担当の副帝はミラノ駐在とした。

ディオクレチアヌスの両親は元老院議員の奴隷で、父は自由を獲得し書記となり、彼は軍隊に入って先帝の親衛隊長だったとき、帝位をめぐる内紛で先帝の岳父=近衛軍司令官を先帝の暗殺者として殺害し帝位についた。彼は常識人で治世21年、帝位を辞して最後の9年間は後継の皇帝たちに尊敬されて過ごしたという。

副帝のマクシミアヌスは、農民出身で文盲、戦場の働きで地位を築いた将軍で、ディオクレチアヌスには終生信服した。

皇帝に去られたローマは、首都から総督の管轄する都に格下げされた。

293  ディオクレチアヌス、東西に副帝を置き、帝国4分統治。

広い領域を4分し外敵に備える。4人の役割と権限は平等、任期20年で副が正に昇格というシステム。その結果、前後40年の平和がもたらされ、その間キリスト教徒の迫害もなかった。しかし20年後の交替で争いが生じた。

東の正帝ディオクレチアヌスはニコメディア=現トルコのイズミット駐在。

副帝ガレリウスはシルミウム=現セルビアのベオグラード近郊駐在。牧夫出身だが、才幹徳性はマクシミアヌスより優れていたという。

西の正帝マクシミアヌスはローマでなくミラノ駐在。

副帝コンスタンチウスは現ドイツだがルクセンブルク近郊のトリーア駐在。彼は3人と異なり名門貴族の出身で母はクラウディウス帝の姪、軍人として人生を始めたが温厚愛すべき人柄で、早くから帝位に就くことが期待された。

303  ディオクレチアヌスによる迫害、コンスタンチヌスの台頭

1年足らずの間にキリスト教迫害の4つの法令発布。1礼拝の禁止、2聖職者の逮捕、3供犠式による判別、4違反者は流刑・死刑と厳しかった。しかしその実施は、お膝もとの東方は厳しかったが、コンスタンチヌスの父が正帝だった西方はゆるく、父の死後権力争いに参加したコンスタンチヌスは、身内を殺したり残酷だったが「キリスト教」を政治問題化して「迫害派」を打倒した。キリスト教徒は、既に宮廷に存在し政治をゆるがすほどの勢力になっていた。コンスタンチヌスの母へレナは、後に聖地巡礼や聖十字架発見の聖女とされ、ナポレオンが流された島の名は彼女にちなみ、スエズ開通までは重要な寄港地だった。

 

5 コンスタンチヌスのキリスト教公認=ミラノ勅令

313  コンスタンチヌス、「キリスト教公認」のミラノ勅令。

コンスタンチヌスは、西の副帝であったコンスタンチウスの子で、東方帝の近衛軍将校だった。父が西の正帝になったので、東方ガレリウス帝の許可を得て父の下に参じ、ブリタニア遠征中に父帝が死去すると軍隊に支持され、軍団を率いてガリアのフランク族を制圧し、軍事力で競争者を打ち破り西の正帝となった。313年ミラノで唯一人残った東の正帝リキニウスと連名で発した「全宗教を寛容する」勅令をいうが、証拠文書は残っていない。キリスト教に他の宗教と同じ地位を認めたにすぎないという。

「キリスト教の国教化」とされるのは380年、テオドシウス1世が臣下に「キリスト教の正統信仰を義務付ける」勅令を発布した時。コンスタンチヌスもテオドシウスもこれによって3人の「大帝」のうちに崇められることになった。残る一人はローマ法典を編纂したユスティニアヌスである。

 

ローマ帝国のキリスト教との関係について辻邦生氏の大作「背教者ユリアヌス」中公文庫が参考になる。ギリシャ・ローマ古典に通じ愛惜するユリアヌス35561副帝、36163正帝が、幼年時代に皇位継承にからむ殺戮を逃れ、学問に励んで見出され、ガリア統治に成功して皇位につき、キリスト教徒の異教排斥とユリアヌスの支援に応えないローマ神官の無気力に絶望しつつペルシャの戦陣に没するまでの歴史・宗教・哲学・ロマンを織り込んだ歴史物語。ローマ知識人のキリスト教徒に対する好意的でない見方がわかる。

ギボンのローマ帝国衰亡史15−16章、20−23章=文庫版2、3には、ユスティニアヌスからユリアヌスに至るキリスト教会とローマ帝国との関係が、啓蒙時代の人らしい片寄らなさで詳しく記述されている。アリウス派とアタナシウス派の教義論争が、東方で宮廷・民衆を巻き込んで流血騒ぎで展開する叙述には説得力がある。

 

帝国はやがて東西に分裂し西の帝国は滅亡、ローマ教会は残って東方教会に教義論争を挑み、三位一体の教義を正統と定め、東方教会と一体のビザンツ帝国に対しフランクに保護を求めて接近、ビザンツはイスラムにより滅亡、西欧はイスラムからギリシャ古典学術を吸収し、ルネサンスと科学技術革新を実現した。とりわけアリストテレスの論理学が討論と論証による真理探求法を教え、神学・哲学・科学に革命をもたらした。当初圧倒的に優位だったイスラムは次第に西欧に追いつめられていく。

トインビーはこの過程を、ユダヤの一神教をさらに純化したイスラムに対し、キリスト教の三位一体の教義はギリシャ・ローマの多神教崇拝への妥協でヘレニズム化とし、東方諸民族はヘレニズム的要素を除去した単生説を採用、神学論争では異端とされたが、一神教思想には純粋と指摘するにとどまっている。

  

6 ゲルマン民族大移動とコンスタンチノープル遷都

324  コンスタンチヌス、東西ローマ帝国を再統一、唯一の皇帝となる

コンスタンチヌスは東方のリキニウスを破り、ローマ帝国を再統一した。

325  ニケーア公会議、三位一体の教義を決めた。

キリスト教の教義決定会議=公会議の第一回で、皇帝が会議を招集し教義決定に介入した初め。父なる神・子なるキリスト・聖霊の三位一体を認めるアレクサンドリア司教アタナシウスの説を正統とし、神の唯一性を強調し三位一体説を認めないアレクサンドリアの司祭アリウスの説を異端としたが、アリウス説は東方ゲルマン世界に広く受け入れられた。

 

ギボンのローマ帝国衰亡史は、会議が各派入り乱れての争いの場ではあったが、冷静な討議の場でなかった実状を克明に記している。

この三位一体の教義は、西方ではアウグスチヌス354430により強化され、カタリ派などの異端を厳しく排除しつつ今日まで続いている。東方では教義は一本化できず、アタナシウス295373はアレクサンドリアの司教となったが、皇帝の支持が変わって生涯に5回追放され戻され、最後は賞賛のうちに死んだという。

同様にアリウスも、皇帝や宮廷の支持の変動で追放地から呼び戻され、その教義はエルサレム教会会議335では是、逆にアタナシウスが非とされ、コンスタンチヌスは死に際しアリウス派司教の手で入信したという。アリウス派は東ゴート族を通じてゲルマン諸族に浸透し、アリウス派が残存する東ローマと、それを排除し正統派に改宗させる西ローマの対立の1因となった。教義論争はその後カルケドン公会議451で、キリストは神と人二つの位格を持つ=両性説(三位一体はこれに聖霊を加える)と、神としての位格だけを持つ=単性説で争われ、単生説は異端とされたが、アルメニア、コプト、ヤコブなどの教会に現在も残り、中国に景教として伝わり、アッシリアにも残るネストリウス派(マリアはキリストの母だが神の母ではないと主張)も異端とされている。

なお、偶像崇拝を禁じるイスラム教の影響下にあって、コンスタンチノープル教会で単性説のアルメニア人総主教は、イコノクラスム=聖像破壊運動に踏み込み、皇帝はイコン破壊令726を発し、教会を二分する大論争・社会問題となった。ローマの主張を入れ撤廃=決着は843年、宮廷と民衆を巻き込み世紀にまたがる大問題だった。

次いで「フィリオクエ」問題発生。聖書や公会議文書のギリシャ語正文をローマ側でラテン語に翻訳したが、三位一体の「聖霊は父なる神から発する」に「子からも発する=フィリオクエ」を勝手に付け加えた。抗議する東方教会の総主教との対立で開いた公会議の議決を、880年、東方教会は否認した。現在も続く二つの教会の教義の違いの一つである。

330  ローマ帝国首都、ミラノからコンスタンチノープルへ遷都

東方の都はニコメディアであったが、コンスタンチヌスは新首都をコンスタンチノープルに定めた。古代ギリシャ植民都市=コンスタンチノープルが、統一ローマの皇帝が駐在する首都となった。337、コンスタンチヌスの死後は二人の息子が東西の皇帝となった。

 

375  ゲルマン民族大移動

フン族が東ゴートを破ってパンノニアに押しやり、西ゴート族はドナウを渡ってローマ領に逃走、民族大移動が始まった。フン族と匈奴・突厥の関係は不明だが、トルコには突厥=チュルクとし、フン族をもトルコの先祖とする説がある。

彼らゲルマン民族は皇帝の了解のもと、部族が纏まって(例えば西ゴート族、総数4万、兵員8千という推定がある)移住し、ローマ軍への兵力提供=傭兵の義務を負った。しかし認められた居住地が山岳地帯で、ローマ人との結婚は死刑を以って禁じられていたから、同化する道は断たれていた。翌年、彼らは海に向かって略奪を続けながら進軍を始めた。

なお、「ゲルマン民族はローマ世界に入るとすぐにローマ化した。ローマ人はイスラムに征服されるとすぐにアラビア化した。コプト教徒、ネストリウス教徒、ユダヤ人の小規模の社会は、回教徒の世界に存続したが、コーランに源泉を持つその法がローマ法に代わって登場し、その言語がギリシャ・ラテン語にとって代わった。イスラムは驚くばかりのスピードで征服民族の文明を身につけ利用したが、異教徒にアラーへの服従を要求した」と、イスラムの独自性を指摘しているピレンヌ、「ヨーロッパ世界の誕生」1960創文社の説を付記しよう。

フン族はやがてパンノニアに侵入したが、アッチラの死により、国を建てることなく吸収同化されハンガリーとなった。

378  西ゴート、ハドリアノポリスでローマ軍を破る

共同皇帝ヴァレンス354378戦死。しかしコンスタンチノープルは堅固な城壁によって破れなかったので、西ゴート軍はギリシャを劫略してイタリア南部に向かった。

380  テオドシウス37995のアリウス派禁止令

テオドシウスは、西ゴートとの戦いで戦死したヴァレンス帝後の東方の正帝だがスペイン生まれで西方の神学に共感あり、ニケーア信条に基づくキリスト教を正統とする勅令を発布し、アリウス派の司教を更迭し、ミラノの司教アンブロシウスに操られ、388年元老院に古代ローマ伝来の多神教的祭祀廃絶を決議させ、それに関わる書籍や美術品を滅却、ギリシャ・ローマ古典思想との交流を遮断した。イスラムを通じてギリシャ古典が流入するには12世紀まで待たねばならない。

こうして三位一体派キリスト教がローマ帝国の国教となった。アンブロシウスは若きアウグスチヌスを回心させた人物だったが、皇帝を民衆虐殺事件で破門し公開謝罪させた豪腕で、教権の政権への優越の先例を勝ち取り、カトリック、東方教会、聖公会で聖人に列せられている。

                           前編おわり 

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