ローマ帝国から近代へ―キリスト教、ゲルマン民族、イスラム教(後編)
2007.9.17―08.12.16 木下秀人
前編
1 ローマ帝国の政治と皇帝
2 ローマの宗教と、ユダヤ教、キリスト教
3 ローマ帝国のキリスト教迫害と殉教
4 ローマ帝国の分割―東方の優位
5 コンスタンチヌスのキリスト教公認=ミラノ勅令
6 ゲルマン民族大移動とコンスタンチノープル遷都
後編
7 ローマ帝国の東西分裂、ゲルマン民族の西方進出
8 西ローマ帝国の滅亡―フランク王国とローマ教会
9 イスラム勢力の勃興
10 フランク王国とローマ教会、政権と教権
11 終わりに―ビザンツ帝国、イスラムとバルカンの政治・宗教・民族
後編
7 ローマ帝国の東西分裂、ゲルマン民族の西方進出
395 テオドシウス死去、帝国は2子に分割=東西分裂
テオドシウス最後の1年は、部下に殺害された西方の正帝を兼ね、帝国唯一の皇帝だったが、その死後ローマ帝国は東西に分裂、東の都=コンスタンチノープルは兄、西=ラヴェンナは弟が皇帝となった。西の政権はやがてゲルマン諸族に踏みにじられ、476傭兵隊長により滅ぼされ、同じゲルマンでカトリックに改宗したフランク族の登場までイタリアは戦乱の巷となった。後ろ盾を失ったローマ教会は、無知・野蛮な侵入者の懐柔教化・権威保持に努めた。ゲルマン諸族はアリウス派で、東方政権に定着地を与えられないまま、劫略を重ねつつイタリアに侵入しローマに迫った。西ローマ政権は無力だったから、ローマ市民を守る責任はローマ教会にかかった。
410 西ゴート、アラリックのローマ劫略
西ゴート族のアラリックは王395−410となり、アルバニア辺で傭兵隊長だったが、西ローマの将軍スティリコに懐柔され軍事的にも押さえられていた。陰謀でスティリコが失脚し、攻め込まれた宮廷はラヴェンナに逃れ、元老院は和平交渉に失敗、ローマが初めて劫掠された。
その後アラリックはアフリカに渡ろうと南に向かったがまもなく病死。後を継いだアタウルフ410−15はホノリウスの妹を妃としガリアへ撤退、西ゴート王国395−711を建国、トゥルーズを首都としたが711イスラムのウマイア朝により滅亡。
431 エフェソス公会議、ネストリウス派異端決定の真相
平凡社、キリスト教史2、H.I.マルー氏によれば、この会議は、アリウス説に反対するアレクサンドリアのキュリロスが東方宮廷に働きかけて開催させ、強引にネストリウス説を異端と決定させようとしたもの。東方の司教やローマ教皇使節の到着前に開催し決議する乱暴さ。ローマ使節は到着後これを承認したが、東方側は反発しキュリロスを罷免、東方テオドシウス2世は混乱を収集できないまま解散。ネストリウスのみは罷免されたまま死去した。両派の和解は東方ヨアンネスと西方キュリロスによる433年の「エフェソスの信条」となったが、まもなく東方教会中のキュリロス派が「キリスト単生説」を告発、ローマ教皇レオが介入してエフェソスで会議、これが「盗賊会議」という驚くべき名称で歴史に残り、纏まらなかったのでカルケドン公会議となる。教義争いは勢力争いそのもの、僧兵のような武装集団も跋扈し、宮廷と教会の足並みがそろいにくい東方に対するローマ教会の巧妙・強引な手法が明らかである。
451 カルケドン公会議、ローマ教皇レオ1世の要請で東方マルキアヌス皇帝が召集
西方はレオの代理ほか少数の出席だったが、今に伝わるカルケドン信条を制定し、東方教会の「キリストの人性は神性に吸収され単一の本姓となっている」という単生説を異端とし、「キリストは人性と神性の2格を備える」=両性説を正統とした。東方にはエジプト、パレスチナ、シリアなど、今日までこれに服しない教会が残った。宮廷もカルケドン支持で一貫できなかった。
このときコンスタンチノポリス司教座にローマに次ぐ地位を認める条項が付加されたが、レオはこれを拒否、2年後この条項を除いて承認された。ローマにはフン族の来襲が待っていた。
452 ローマ教皇レオ1世(440-61)、フン族アッチラのローマ劫掠防止
ローマ教皇レオ1世は、宮廷が無力なので自らフン族アッチラと交渉しローマ劫掠を防止したと讃えられる。しかし賠償金の額は明らかでないし、堀米庸三氏はアッチラが軍を返したのは食料の欠乏、疫病の発生、東ローマ軍の来援によるという(世界の歴史3、1968中央公論社)。アッチラは453年病死。フン族は求心力を失って分散・同化しハンガリーに名を留める。
455 ヴァンダル王、ゲイセリックのローマ劫掠
5世紀始めフン族により移動し始めたヴァンダル族は、ライン川を渡りガリアに侵入、409年スペインに入り、ゲイセリック428−77が王となって艦隊を建造、ジブラルタル海峡を渡り、439年西アフリカのカルタゴを首都とする地中海の一大勢力となりヴァンダル王国439−534を建国、ゲイセリックに率いられてローマに迫った。教皇レオ1世はこのときも交渉に当たり、ヴァンダル軍の入城を市民の退去後とし、14日間の劫掠を認めた。今回も宮廷はなすところなく、教会の権威が民衆に高まったという。レオ1世はこの功により、グレゴリウス1世と共に大教皇の名を与えられた。ゲイセリックは461ピレネー山脈を越えスペインで暗殺された。ヴァンダル王国は534年、地中海を支配する東方皇帝ユスチ二アヌスの艦隊に滅ぼされた。
457 東方皇帝レオ1世、コンスタンチノープル総主教により戴冠
これが宗教指導者による皇帝の戴冠の始めで、東方では続いて行われ、西方では800年ローマ教皇によるフランク国王カールのローマでの戴冠の先例となった。
8 西ローマ帝国の滅亡―フランク王国とローマ教会
476 西ローマ帝国、傭兵隊長オドアケルにより皇帝が廃せられて滅亡
ゲルマン・スキリア族出身の傭兵隊長オドアケル433−93は、14歳の西帝に帝位を東帝に返還させ、ローマ帝国は東方ビザンツ帝国により統一された。ビザンツ皇帝レオはオドアケルのイタリア支配を容認したが、次の皇帝ゼノンは認めず、東ゴート王テオドリック471−526にオドアケルを攻撃させた。オドアケルはラヴェンナで降伏し490暗殺された。ゲルマンの侵入第1波は西方に向って西ローマを滅ぼしたが、6世紀の第2波のスラブ、ブルガール、アヴァールの侵入はビザンツを脅かすことになった。西方の地盤は既に固まっていたからである。
ローマ教会は、西ローマ政権の東方ビザンツへの統一による消滅とゲルマン部族の相次ぐ侵入に対して、ゲルマン部族の教化=アリウス派からカトリックへの改宗に努め、とかく教会政治に干渉するビザンツ皇帝に替わる保護者を、侵入異民族であるフランク族に求めた。フランク族は支配者であるが少数派だから、教会の権威を利用するメリットがあった。東方と異なる「政権と教権の分離」を基盤とする西欧システムへの模索が始まった。このフランク族が後にイタリア・フランス・ドイツの母体となる。
ローマ教会と東方教会には教義をめぐる対立があったが、ローマは東方教会に司教座の2位をも容認しなかった。ローマ教会は滅亡した西ローマ帝国に代えて、ゲルマンのフランク王国に接近し、宮宰ピピンのクーデターを容認し手を結ぶようになる。イスラムが、西欧をフランクと呼ぶのはここに由来する。
486 フランク王国486−751建国、カトリック改宗で教会と親和
クロヴィス466−511、フランス・ベルギー国境のライン川低地西部に発し、一族を纏めて481即位し北岸に進出、ローマ軍を破り支配地を広げ、妹を東ゴート王妃とし、自身はブルグンド王女と結婚、その王妃クロチルダの勧めで500頃カトリックに改宗した。アリウス派のゲルマンの正統派への改宗の始めで、支配地ガリアの住民に合わせたものという。
「メロビンガ王朝486−751といわれるこの王朝には、残忍と好色の血が流れている。4代以後は王朝断絶まで贅沢で怠惰な後宮生活しか残されていなかったという(堀米庸三、世界の歴史3)。それでも265年続いたのは宮宰=官房長官がしっかりしていたからで、やがてその宮宰ピピンに乗っ取られることになる。しかしガリアはローマから遠く、まずイタリアに入ったゲルマンは東ゴートだった。
493 東ゴート王国493−553建国、イタリアを支配
国王テオドリック、首都をラヴェンナとし、西ゴート王アラリックの援軍を得てオドアケルを降伏・謀殺させ、イタリア支配を皇帝に認められ東ゴート王国が成立。しかし異端のアリウス派だったから教会と対立。
テオドリックはフランク王クロヴィスの娘を妃に迎え、娘を西ゴート王とブルグンド王に、妹をヴァンダル王に嫁がせたが、フランク王国は勢力拡大を止めず、それを阻止するテオドリックはビザンツ側に警戒され、艦隊を差し向けられた。
491−518 ビザンツ皇帝アナスタシウスは単性論者
518 ビザンツ皇帝ユスチヌス、公会議決議承認、アリウス派弾圧
キリストにおける神性と人性の問題は431エフェソス公会議以来の宿題で、451カルケドン公会議で「二つの本性」というローマ教会の主張が受け入れられたが、東方の教会では「人性は神性に吸収され一つ」という単性論が根強く、ゲルマン民族に受け入れられたのはそのアリウス派だった。
475皇帝バシリコスの発した「エンキクリオン」=単性論支持命令は総主教アカキオスの反対で撤回され、ゼノン皇帝は482「一致令」=ヘノティコン発布でこれをあいまいに肯定しようとした。反発したローマ教会は主教座の権威をかざして484総主教アカキオスを破門、それを認めない東方教会はローマ教会と断絶した。エジプト、シリアは帝国の穀倉で、政権側は異端攻撃で波風を立てたくなかった。
H.I。マルーは、ビザンツ帝国では、キリスト教会の上にローマ以来の伝統を保持する皇帝がいて、教会は一存で行動できなかったが、ローマ教会の上には西ローマ帝国は既になかったから、ローマ教会は蛮族の教化に自由に腕を振るうことができた。皇帝に宛てた教皇の手紙と蛮族の王に宛てたものでは言葉遣いが全く異なるという。
ユスチヌス皇帝は518−9カルケドン始め4つの公会議の決議を再確認し、アカキオスを弾劾してこの分裂を終わらせた。しかし偶像崇拝を禁ずるイスラムの影響下726、偶像破壊令が教義問題を再発させる(325ニケーア公会議参照)。ギリシャ・ローマ美術の影響下にあるローマは逆に偶像に寛容だった。
ユスチヌス1世518−27のアリウス派弾圧は、ローマ教会を喜ばせ東ゴート王国を動揺させた。526テオドリックが男子後継者なく死去、幼少の娘の子を娘が摂政で支えたが、その子が534幼少で死ぬと彼女が女王となったが、甥テオダハドに幽閉535暗殺された。
彼女を支援しなかったユスティニアヌス1世527−565はユスチヌスの甥で、軍を派遣しテオダハドを攻め、テオダハドはローマからラヴェンナへ逃走の途中で536暗殺された。王位は軍司令官ウィチギスが継承し故女王の娘と結婚し、フランク王国と和平後、537ローマを囲んだが落せずラヴェンナに撤退、フランク軍の応援を得て皇帝軍からミラノを奪回したが、540ラヴェンナで皇帝軍に降伏、ウィチギスは東方へ連れ去られたが、西ゴート王の甥ヒルデバルトを新王とし、新王も暗殺され、ウィチギスの甥トティラが継承した。トティラ軍は皇帝軍を破り543ナポリ奪還、546ローマを落したが、552皇帝軍が北方から来てタギエナの戦いでゴート軍は破れトティラは戦死した。
555 ビザンツ、東ゴート王国を滅ぼす。
ビザンツ帝国の下、ゲルマン民族割拠のイタリアに漸く平和が訪れた。しかしビザンツ帝国に平和はなかった。北方からスラブ民族が侵入、東方には強敵ペルシャがあり、南方からは新興イスラム勢力が攻め上って来る。
568 北イタリアにランゴバルド王国568−774。カトリックに改宗
587 スラブ族、ビザンツ帝国に侵入
603 ランゴバルド、クレモナ、マントヴァ占領
603−628 ビザンツ帝国、ペルシャと戦う
ビザンツとペルシャが長い戦いで疲弊している隙を突いて、アラビア半島を征した新興イスラムが進出、両大国はこれに対抗できなかった。
9 イスラム勢力の勃興
610頃 ムハンマド、アラビアのメッカで神の啓示を受ける。
ムハンマドはユダヤ教、キリスト教を学び、ユダヤ教徒とキリスト教徒は、同じ唯一神を崇める啓典の民ではあるが、啓典を隠したり改組したり、使徒を神格化する過ちを犯したりしてしまったことを批判し、最後の預言者としてのムハンマドに、天使ガブリエルから正しい啓典がアラビア語で伝えられ、イスラム共同体=ウンマを地上に正しく根付かせる使命が与えられたと主張した。
イスラムでは世界を「イスラムの地」と「戦争の地」に分け、ムスリムにはその信仰と共同体を護り発展させるために積極的に行動する=ジハード=聖戦・戦うことが求められる。「コーランか剣か」は西欧側の悪意ある誇張だが、イスラム世界の急速な拡大の背景にこの思想と、他宗教・他民族をイスラムの優越下ではあるが共存させるイスラム思想が、ユダヤ民族と異端を差別するキリスト教世界の切り崩しに貢献することになる。切り崩されたキリスト教世界とはイスラム世界に接していたビザンチン帝国であった。
614 ペルシャ、エルサレム侵入
617−9 ペルシャ、エジプト占領
622 ムハンマド、メッカからメディナへ聖遷=イスラム暦元年
632 ムハンマド没、正統カリフ時代632−661、ムハンマドの親近者が互選でカリ
フ位を継承。636ビザンツ軍を破りシリアを支配、民衆はローマ=ビザンツより緩やかなイスラム支配を歓迎、それがイスラム支配の急速拡大の理由だった。
637 イスラム、ペルシャを征服。イスラムは、先進文明国であるペルシャの統治制度と人材を温存吸収した。641エジプト征服、略奪せず徴税のみ。
英国のイスラム史研究の大家ギブによれば、「征服の速度以上に驚嘆すべきものは、イスラム征服者の秩序だった性格である。戦闘の数年間に破壊が行われたとしても、アラブ族は概して破壊の残骸を残していくどころか、征服地の人民と文化を新しく統合する事業に着手した。中略 イスラムは高度の文明を持つ外部世界に登場したが、略奪者の群れの粗雑な信仰としてでなく、キリスト教、ゾロアスター教に挑戦できるだけの首尾一貫した教理をもち、それだけの尊敬を払われた道徳的な勢力として登場した」という。H・A・R・ギブ、イスラム文明、加賀谷寛訳1967紀伊国屋書店
661 ウマイア朝661−749、アラビア人優位の帝国、首都=ダマスカス、カリフ位の世襲始まる。ムハンマドの血を引くアリー暗殺され、血統を重んじる非正統派シーア派が生まれる。征服地で非アラブのイスラム増加
674−8 イスラム、ビザンツのコンスタンチノープル包囲、防壁とギリシャの火でてこずる
698 イスラム、カルタゴ征服、北アフリカを支配下に収める
711 イスラム、イベリアに侵入、西ゴート王国滅亡。
ギボンはローマ帝国衰亡史に、上陸時のゴート軍との戦いは激戦だったが、713コルドバ征服では「公平で理性的な降伏条件で」希望者には財産携行の退去、キリスト教会は存続、ゴート人・ローマ人には民事裁判権が貢納義務を伴いつつ容認され、セビリアでも同様だったとして、後年のレコンキスタ1492におけるカスティリア、アラゴンのキリスト教政権が、イスラム・ユダヤ人を追放・排除した国土回復と比べて「アラブ征服者の穏便さと規律を賞賛せねばならない」と、イスラムの他宗教・他民族への寛容を記した。折から黒死病が蔓延し人口が急減、農地は荒廃し農業生産は急低下した。かの異端審問の展開はこの後である。
732 トゥール・ポワティエの戦い、フランクのカール・マルテル、イスラムの西進を阻止。イスラムもローマ教会のお膝元には進撃できなかった。
749 アッバス朝749−1258、イスラムなら民族を問わないイスラム帝国。シーア派の援助で成立したがシーア派は認めず、ムタジラ派に帰依するカリフもあり、主流スンニ派以外に教義論争あり。首都をバグダッドに建設。
帝国の版図拡大に伴い、各地に独立政権が誕生しアミールを称す、それをカリフが統率するはずだったが、カリフの権威は次第に失われ、アミールがカリフの別称となる。5代ハールーン・ラシッド786−809がイスラム文化の最盛期となる。7代マームーン827−848バグダッドに知恵の館を建設、ギリシャ・シリア語文献の収集、アラビア語への翻訳が始まる。これがやがて西欧に伝えられてルネサンスと科学技術振興の起爆剤となる。窓になったのはイベリア半島のイスラムである。
756 コルドバに後ウマイア朝756−1031始まる。
アッバス朝に滅ぼされたウマイア家の生き残り=アブドゥッラッフマーンがイベリア半島に迎えられ建国。この王朝下でコルドバは、パリ2万人、ロンドン2.5万人の時、45万人の人口を擁する巨大都市で、世界最高の学者学術文化を集め、アラビア語に翻訳され蓄積されたギリシャ古代文化が研究されていた。このイスラムの地で学んだ学者が、西欧に断絶していたギリシャの学問を伝え、その中心はアリストテレスの論理学で、そこからスコラ哲学論議が始まり「11世紀ルネサンス」や宗教改革が生まれ、西欧近代が展開されることになる。イスラム世界でなぜこの学問思想が受け継がれなかったかは別稿で考察したい。
10 フランク王国とローマ教会、政権と教権
751 フランク王国宮宰マルテルの子ピピン、ローマ教皇の支持で、メロリンガ朝を倒しカロリンガ朝を開く
754 ピピン、ラヴェンナの旧ビザンチン領をローマ教皇に寄進
ローマ教皇、ランゴバルドの圧迫に耐えかね、ビザンツ皇帝に来援を請うが動かず、フランク王ピピンがラングバルドを破り、ラヴェンナの旧ビザンツ領を教会に寄進。
ローマ教会は、教会の保護者をビザンツ帝国からフランク王国に乗り換えた。
「コンスタンチヌスの寄進」という偽書は、このときビザンツ側を納得させるために必要だったというのが堀米庸三説=世界の歴史3、中央公論社1968。
コンスタンチヌス皇帝がシルヴェステル教皇に「全帝国をキリスト教会の首長に寄進し、同時にローマの座を他のあらゆる教会の上位に置くことを約束した書簡」として残存するものが偽書であるとの論文がある。1440年イタリア人文主義者ロレンツォ・ヴァラが、使用書体の分析から、4世紀でなくずっと後の9世紀ローマでの作と証明した。世界の歴史16,中央公論社1996樺山紘一
768−814 フランク王カール大帝の治世=フランク王国の最盛期
首都はアーヘン。かつての西ローマ帝国の領域をほぼ回復した。
800 カール大帝、ローマ教皇により「皇帝」の戴冠。
平凡社キリスト教史3、M.D.ノウルズによれば、教皇レオ3世はいかがわしい評判の人物で告発を無実の誓いで逃れたが、クリスマスにペトロの墓所で祈っているカールの頭に冠を載せた。人々はローマ人の皇帝と歓呼し、教皇は彼に跪拝礼をした。
ビザンチンの戴冠式を真似た、中世政治史上最も重大な意味を持つこの事件は、謎に包まれているという。主導したのは教会で、カールは驚いたが、東方で寡婦となった女帝イレネとの政略結婚で東方帝国を併合し、首都を西に移そうという思惑があったかもしれない。とにかくこの事実を黙認し、やがて東方からもフランク人の皇帝として受け入れられた。イレネとは、息子帝の摂政だったが797、息子を失明させ自ら帝位についた女帝である。
これが、政権を聖化=正統化する教権、教会を保護する政権の蜜月関係の誕生であった。476西ローマ帝国滅亡以後、東方のビザンツ帝国と東方教会に対抗して孤塁を守ってきたローマ教会は、念願の「ローマ帝国」を、教皇による戴冠に依存する皇帝という教会が強い方式で復活させることが出来た。
ゲルマン民族は蛮族で、侵入後はローマ・キリスト教文化に同化されたが、イスラム勢力はキリスト教と異質な宗教文化を持っていながら、ユダヤ教徒・キリスト教徒を排除せず飲み込み、多宗教・他民族国家を瞬く間に拡大した。しかしその脅威に主として相対したのは東方ビザンツ帝国だったから、フランク王国やローマ教会はビザンツの盾の蔭で独自の歴史を刻むことが出来た。
11 終わりに―ビザンツ帝国・イスラムとバルカンの政治・宗教・民族
ビザンツ帝国は、ローマ帝国首都のコンスタンチノープル遷都330、その東西分裂395に始まり、西ローマ帝国の滅亡476により決定的となった。
ローマ帝国にキリスト教が根付き、教会に勢力争いと教義論争があり、首都が東に移り、帝国が東西に分裂し、ゲルマン民族が侵入建国し、西ローマが滅亡し、フランクとローマ教会が結びついてビザンツに対抗し、十字軍はエルサレムでなくビザンツの首都にラテン王国を打ち立てるすさまじさ、結局、十字軍はイスラムに敗退。ローマ教会はフランクを教化・発展させ西欧となる核を作る。ビザンツはスラブやイスラムやモンゴルの侵入により領土を奪われ、コンスタンチノープルを中心とする都市国家となった状態で1453イスラム=オスマン・トルコの軍門に下った。
こうして世界史に躍り出たオスマン・トルコは、ビザンツに代わって地中海世界の王者となり、西欧世界を脅かす存在であり続けた。オスマン治下のバルカンは、多民族・多宗教・多言語が入り乱れつつ共存する世界であった。
圧倒的な軍事・経済・文化の差を意識しつつ西欧が巻き返しに出るには宗教改革とルネッサンス後の科学技術の振興が必要であった。中村健之介教授が「東方正教会に属するロシア正教会は、ルネサンスも宗教改革も経験していない。近代化・世俗化という濾過器を経ていない」(宣教師に古来と明治日本、岩波新書1996)と指摘しているが、同じことがイスラムについても妥当するであろう。イスラム世界は、盟主オスマン帝国ともども、西欧近代がもたらした軍事力と民族主義というソフトパワーに押されて敗北を重ねつつ現代に至る。
しかし、この地域に未だに混乱が収まらないのは、民族も宗教も入り乱れてたどった複雑な歴史に対し、近代西欧が押し付けた民族独立という単純な物差しで作った国家や国境線が現実的でないからではないか。
おわり