オスマン帝国の盛衰と西欧(前編)     2008.4.8―12.15

                                  木下秀人

1 イスラム世界の成立―ムハンマドの死、正統カリフ時代632661

2 ウマイヤ朝―アラビア帝国661750

3 アッバース朝―イスラム帝国7501258

4 イスラム文化の黄金期―西欧にギリシャ文化を伝える

    後ウマイヤ朝7561031、元朝12711368=モンゴル、十字軍10961291

5 トルコのアナトリア西北部=ビザンチン領への進出

6 オスマン朝―非アラブのイスラム盟主12991922

6−1 ビザンツ帝国征服1453 

      デヴシルメ、イェニチェリ、奴隷

6−2 陸・海のシルクロード支配

サファヴィー朝圧迫1514、マムルーク朝征服1517、スルタン・カリフ制

6−3 余裕のウィーン包囲1529―フランスと親近、ルターの宗教改革を間接支援      

      カピチュレーション、大宰相、ハレム 

以下(後編)

6−4 宮廷の退廃、女人政治156648

6−5 最大の版図、大宰相家の政治、ウィーン包囲敗北、カルロヴィッツ条約16481703

6−6 チュリップ時代、宮廷の浪費と軍事費と赤字財政170389

6−7 セリム3世のニザーム改革、保守派の抵抗で挫折、英国の登場17891808

6−8 マフムト2世、改革派、イェニチェリを市街戦で撃滅、関税自主権放棄180839

6−9 ギュルハネ勅令=タンジマート改革、クリミア戦争、外債で財政破綻183976

6−10 アジア初の憲法、専制と反専制、第1次大戦でドイツに加担18761922

 

1 イスラム世界の成立―ムハンマドの死、正統カリフ時代

7世紀始めにアラビア半島の西南の砂漠都市メッカに生まれたイスラム教は、ムハンマドの死後4代は話し合いの正統カリフ時代632661(首都メディナ)、アラビア半島全域を勢力下に収めた。ローマ帝国は既に395年に東西に別れ、西ローマ帝国は476年ヴァンダル族に滅ぼされ、コンスタンチノープルを首都とする東ローマ=ビザンツ帝国がササン朝ペルシャ226642と対峙していた。新興イスラム軍はビザンツ帝国軍を破りシリアを支配し、ササン朝ペルシャ軍を破り642年イラクを支配下に収めた。

 

2 ウマイヤ朝―アラビア帝国

 その後カリフ位をめぐって、血縁による系譜を重視するシーア派と、話し合いによる継承を主張する主流派=スンニ派との宗派の分裂があった。それに宗教を利用して民衆を集め権力を手にしようとする野心家が参入して争いが生じ、シーア派が敗れて、アラブ人が支配しダマスクスを首都とする「アラビア帝国」ウマイヤ朝13代661749が続いた。

この時代に、ムスリム軍は艦隊を整備して地中海を押さえ、西は北アフリカから海を渡ってイベリア半島、東はイラク・イランからパミール高原に及ぶ大帝国を支配することとなった。カリフ位の継承は世襲とされたが争いは消えず、アラブ部族間の対立に被征服民族も加わり、戦いの結果、多民族多宗教を容認し、支配階層はアラブか否かを問わない「イスラム帝国」が生まれた。アッバース朝である。

 

3 アッバース朝―イスラム帝国

 アッバース朝377491258は、ムハンマドの叔父の系譜で同じクライシュ族、政権誕生時にはシーア派の援助を受けたが確立後はこれを排除してスンニ派となり、クーファでカリフに奉戴されたがやがて交通の要所バグダッドに首都を建設した。5代カリフ=ハールーン・ラシッド時代786809が「イスラム文化」の最盛期といわれる。16世紀にウィーンを包囲したスレイマンの時代は「オスマン帝国の最盛期」であることに注意する必要がある。

西欧ではチャールス大帝がローマ教皇により800年戴冠し、西ローマ帝国に代わってフランク王国が登場、政権と教権の新しい体制が発足していた。しかしイスラム世界では、カリフを頂点とするピラミッド的な政治体制は崩壊し始める。「カリフが任命した知事や軍司令官が地位を世襲化し、地方豪族が武力で政権を奪取、モロッコ=イドリース朝788985、チュニス=アグラブ朝800909、東部イスラム世界にターヒル朝82173、サッファール朝867908、サーマーン朝875999など、各地に独立・半独立の諸王朝が出現してカリフの威令は衰えを見せ始める。カリフ自身、トルコ系親衛隊のカイライと化して実権を失っていった。」イスラム−思想と歴史、中村広治郎

ウマイヤ朝の生き残りがイベリア半島に後ウマイヤ朝7561031を建国した。イスラムが消化しアラビア語に翻訳したギリシャの哲学・科学を11世紀西欧に伝える役割を果たしたのはこの王朝である。コルドバとトレドのモスクではイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒の学者がギリシャの学術研究に従事し、ここで学んだ西欧の学徒が各地の大学にルネッサンスの種子を伝えた。

アッバース朝5代ハールーンの後継をめぐり内紛が起り、イラン系・トルコ系奴隷軍人=マムルークが主力となり地方有力者の王朝独立が相次いだ。シーア派ブワイフ朝9321062のバグダッド占領945はカリフ位を空洞化させた。十字軍戦争の英雄サラディンはイラク出身のクルド人で、シーア派のファーティマ朝9091171を廃しアイユーブ朝11691250を創始したサラーフッディーンである。

1055年アッバース朝は、アフガンからホラサーンまで支配したガズナ朝9551187に代わって勢力を拡大したセルジュク朝にバグダッドの支配権を委ね、1258モンゴルのフラグ・ハーンのバグダッド侵攻で滅亡した。

エジプトを支配していたマムルーク朝=奴隷王朝12501517はアッバース朝の亡命者をカリフとして遇したが名目に過ぎなかった。フラグがイランに建国したモンゴルのイルハーン朝12561336は暗殺教団を降伏させ、ビザンツ帝国と友好関係を維持し、イスラム化してさまざまな分野の写本を大量に作成し、イラン・イスラム文化成熟に貢献したが、やがて分裂消滅した。アナトリアではトルコ系のセルジュク朝が勢力を蓄えていた。

 

4 イスラム文化の黄金期―西欧にギリシャ文化を伝える

 東の首都の学問は、アッバース朝7代カリフ・マームーンがバグダッドに知恵の館830を設立しギリシャ語、シリア語の文献を集めアラビア語に翻訳、その蓄積の上にイスラム思想の黄金期を迎えた。ギリシャの学術はローマには受け継がれず95%はビザンチンに行き、それがアラビア=イスラムに受け継がれたと伊東教授はいう。知恵の館がそれである。哲学・医学のイブン・スイーナーはブハラに育ち学びイランのハマダーンで1037没したが、10世紀ブハラのモスクには大学の先駆形態があった=伊東俊太郎、12世紀ルネサンス。ホラサーン生まれセルジュク朝バグダッドで活躍した保守的神秘主義哲学のガザーリー1111没、アリストテレスの注釈者イブン・ルシュッド、アンダルス1198没などを輩出した。このうちスイーナーとルシュッドの書物は、1031後ウマイヤ朝滅亡=キリスト教軍によるレコンキスタ後のイベリア半島トレドやコルドバを通じて西欧世界に流出し、ギリシャの哲学と科学を西欧に伝えた。しかしトルコが制したオスマン帝国を含むイスラム世界には受け継がれなかった。バグダッドに多数あった図書館の本は、1258モンゴル軍に焼き尽くされたという。

中世を通じてキリスト教の教義をめぐる哲学論議が盛んであった西欧に対し、アラビア語で語られたコーランを神の言葉として翻訳を許さず、神を論ずることすら不信仰と断ずるガザーリーの哲学が主流となった。

神秘主義のその哲学は、信仰のあり方としては認められるとしても、ギリシャ思想に存在する理性の働き=学問の自由・思想の自由を封じ、イスラム世界を西欧から隔離し、伝統的信仰中心の狭い世界に閉じ込めることとなった。

 

5 トルコのアナトリア西北部=ビザンツ領への進出

ササン朝ペルシャ226642の領域がイスラム化され、中央ヨーロッパをゲルマン民族に奪われた東ローマ帝国は、首都コンスタンチノープル周辺に領域を狭められていた。そこへセルジュク朝トルコ10381194が、バグダッドに入城1055し、アナトリアを制してコンスタンチノープルに迫った。 

東ローマ皇帝は西ローマに救援を求めたが、やってきた十字軍10961291は逆にコンスタンチノープルを略奪占領120461してラテン帝国を建て、その間、東ローマはニケーアに亡命する始末。味方に裏切られた東ローマには、新たな敵が身近に迫っていた。アッバース朝の蒙古フラグ・ハーンによる滅亡1258の混乱に乗じて進出したトルコ勢だった。

トルコ共和国はトルコ人の政治的集合体の初めを紀元前3世紀のフン族に求め、フン族がアッティラの急死459で求心力を失って崩壊後、6世紀に中央アジアに存在した遊牧民族の突厥=チュルク(西突厥−739、東突厥−744)を「トルコ」国名の初めとする。

375年西ゴートを圧迫しドナウ川をローマ側に越えさせ、民族大移動の引き金を引き、東ローマのハンガリーに侵入したのがフン族だが、フン族自体は周辺他民族に同化消滅した。東ローマ領が次第に狭められる中で、この地域に勢力を伸ばしアナトリアに侵入したのが、イスラムに改宗しマムルーク=奴隷兵としても重宝されたトルコ諸族であった。

セルジュク朝10381194はオグズ族のセルジュク家。アラル海東方の砂漠の遊牧民だったが、アム川を渡りホラサーンに入り、ガズナ朝を破り、1055年アッバース朝カリフの依頼でバグダッドに入り、1071年ビザンツ軍を破り皇帝を捕虜にし、領土はシリア、アナトリアから中央アジアに及んだ。

この王朝が、シーア派のファーティマ朝の支配するエルサレムを一時期占領したことがビザンツの十字軍要請につながった。有能なイラン人宰相が1092暗殺教団に暗殺されると王朝は内紛で分裂、地方政権が分立する時代となった。この時アナトリアを制し、ルーム・セルジュク朝10751308を破り、ビザンツ帝国を滅ぼしバルカン半島に進出、イスラム世界の盟主となったのがオスマン朝12991922である。

なお、フン族と漢を苦しめた匈奴の関係は不明、突厥はチュルクの漢字表記と考えられ中国の史書に552年の伊利可汗から739西突厥滅亡、744東突厥滅亡まで記録がある。

 

6 オスマン朝―非アラブのイスラム盟主

 アラビア人ムハンマドに発するイスラム世界は、アラビア人支配のウマイヤ朝から、イスラムに改宗した他民族を差別なく活用するアッバース朝=イスラム帝国となったが、モンゴル軍によってアッバース朝が滅ぼされると、政権はアラビア人の手を離れ、非アラブのトルコ人が支配するオスマン帝国となった。歴代スルタンと事跡・背景を要約する。 

 

6−1 ビザンツ帝国征服まで

 歴代皇帝=スルタンには、3人再任がいる。代数はそれを加算しない通常方式に従ったので、数字に重複が生じた。

1 オスマン112991326 

   アナトリア西北部の遊牧民族長、ムスリムの戦士=ガーズィー集団を率いて攻め上りオスマン君候国を築き、ニコメディア=イズミット近くのマルモラ海の一角に姿を現した。 

2 オルハン132660、オスマンの子

   ビザンツのブルサを占領し首都とし、ビザンツ内紛で並立皇帝の娘を妃としバルカン半島のトラキア=ビザンツ帝国のヨーロッパ側に進出、バルカン半島とオスマンの関わりが始まる。

3 ムラト1136089、オルハンの子

 東トラキアのエディルネを占領、ブルサに次ぐ第2の首都とする。従来のガーズィーに替わる常備歩兵軍イェニチェリを創設、ブルガリア、セルビア連合軍を破りブルガリア王を陪臣としアルバニアは宗主権を認め、コソボで連合軍を破りセルビア王を処刑、ムラト1世も戦死。当時この地方諸国に不和軋轢あり、ベネチアとジェノアに対立あり、封建領主に対し農民蜂起があるなどイスラム側に有利な条件があった。法王が呼びかけた十字軍はバルカンでなくアレクサンドリアに向かう不手際で、バルカン半島はオスマンの勢力下に入り、コンスタンチノープルは孤立した。

 

4 バヤジット113891402電撃者、ムラトの子、ティムール軍に敗北

   オスマンのヨーロッパ侵入を阻止すべく、ハンガリア王ジギスムントを中心に十字軍が組織されたが、1396ドナウ川の要衝ニコポリスで撃破され、イスラム世界におけるバヤジットの評価を高めアナトリアの大部分がオスマン支配となった。そこに現れたのがサマルカンドのスンニ派イスラムのティムールで、1402アンカラの戦いはティムールの勝利、バヤジットは捕虜となり落命、オスマン帝国は崩壊。しかしティムールはサマルカンドに帰り、中国の明に向かって東征中死去。バルカンではハンガリア王は神聖ローマ皇帝位に執心で失地回復には熱意なく、ビザンチン皇帝は支持を求めて列国行脚中でさしあたりの危機が去ったことに満足。中絶したオスマン朝に、再興の時間が与えられた。  

 

空位時代   140213

 内乱と王位継承争い。アナトリアのトルコ系住民はオスマン支配の復活を望んでいたし、戦場から離脱した官僚・武将には再建に応ずる用意があった。メフメト1世がビザンチンの支援を得て内戦を勝ち抜き、アジア・ヨーロッパの領地を回復統合し、これに応えた。

5 メフメト1141321、バヤジットの3男

 メフメトは正式にスルタンを称し、ベネチア艦隊を破ってダーダネルス海峡の制海権を取り戻した。なお、この頃オスマン王朝での神秘主義教団=デルヴィシュの影響が薄れて、正統スンニ派が取って代わった。 

6 ムラト2142144、メフメトの子、ビザンツを属国とする

 ビザンチン=マヌエル2世、オスマン=バヤジット1世の遺子に内乱幇助。ムラト2世報復でコンスタンチノープルを包囲1422、属領とし歳貢を獲得。マヌエル2世を継いだヨハネス81425-48は首都防壁を補修し、自ら大主教とローマに赴き援助を要請した。ローマ教皇は新十字軍の必要を説き、ハンガリーの国民的英雄=ヤーノシュ・フニャディがオスマン軍を破り、アルバニアでもイスカンダル・ベイが決起。オスマン軍敗れての講和をローマ教会認めず、ムラト2世ヴァルナに親征して1444勝利。さらにフニャディをコソボに破る。ハンガリーの東欧・バルカンでの覇権は終わったが、この地域の独立への息吹は、次のオスマン時代にもくすぶることになる。

ビザンツ帝国の領域は首都のその周辺に狭められ、強大なオスマン軍の前に風前の灯、多数の学者市民が首都を離脱し、西欧に逃れルネサンスの1因となる。ローマ教会も西欧諸国も救援する余裕はなかった。英仏は百年戦争13381453で荒廃、ドイツ=神聖ローマ帝国は諸国乱立時代だった。

ムラト2世は文化に理解あり、宮廷に学者・文人が集まったという。

 

7 メフメト2144445征服者、ムラトの子、幼少時の在位

6 ムラト2世、再任144551、メフメトの子

  2度目の就任、実質30年の治世で、後継にビザンツ攻略を委ねた。皇妃マーラはセルビア王の娘で、夫の死後、メフメト2世を動かして聖アトス山を破壊から守り、正教会の総主教選出やバルカン問題に影響を及ぼした。

7 メフメト2世、再任145181、征服者、ムラトの子、ビザンツを征服

 ビザンツ帝国を、舟を陸路運んで防備の薄い金角湾に浮かべる奇策で滅ぼし1453、コンスタンチノープルを首都とする、西欧に対峙し東ローマに代わって欧亜を支配するオスマン帝国を築いた。西方貿易商人は中立だったが、ベネチアのみは恩賞目当ての義勇兵が参加した。黒海北岸に勢力を築いていたジェノア人が追い出されて、黒海はイスラムの海と化し、ジェノア人は大航海に向かったという説がある。コロンブスのアメリカ発見は39年後の1492、彼はジェノア人だった。この年イベリアでグラナダが陥落し西欧の巻き返しが始まった。

 ギリシャ正教の法灯はロシアに移され、モスクワ大公国のイワン3世がギリシャ正教の保護者となった。周辺地域の諸君公はオスマンに歳貢を納める陪臣となり、オスマンは西欧に勢力を伸ばしたが、それは一時的に過ぎなかった。

 メフメト2世は、父君と同じく学芸に理解あり、首都に権威ある教育研究機関としてファーティフ・イスラム学院を建立、イタリア人画家を招いて自分の肖像を描かせ、西欧文化について開かれた関心を示した唯一の皇帝という=鈴木董、オスマン帝国。

   それまでのスルタンは、大宰相や武将と親密な仲間意識があったが、彼は東洋型専制君主を志向し、大臣もパシャも君主に奴隷のごとく奉仕する体制を作った(三橋富治男、トルコの歴史1964紀伊国屋書店)というが、有能な皇帝は長くは続かない。むしろスレイマン1世152066以後は、皇帝は暗愚で酒色におぼれ政務は大宰相任せ、オスマン帝国は西欧の攻勢に押されるばかりとなる。

 

 デヴシルメ、イェニチェリ、奴隷  

デヴシルメは、オスマンに特異な官僚育成のシステムであった。イスラムは、征服地において既存政治システムを人材もろとも生かして統治し、それが征服地の急速な拡大につながった。ウマイヤ朝ではアラビア人が優位=アラブ帝国だったが、アッバース朝では民族を問わずイスラム教徒なら参入できる=イスラム帝国となり、その結果各地で有力者が独立し統一が取れないことになった。そこから突出して覇を唱え、アラブでなくムハンマドの血統でもないオスマンの統治を支えたのが、人材登用におけるデヴシルメであり、イェニチェリという常備軍の創設で、西欧の識者を驚かせた。

デヴシルメとは「集める」という意味で、宮廷に奉仕する奴隷としてバルカン半島で75歳のキリスト教徒の優秀な若者を定期的に強制徴用する制度。

イスラムにおける奴隷は欧米の農奴・奴隷と異なり、イスラム世界外の非ムスリムか奴隷の子で、仕事は軍務・家事・農業など、解放することはムスリムには善行であったから、役人では大宰相、軍人では将軍になる者もあった。徴集された若者は宮廷に集められ、ムスリムとなり、適性に応じた教育を受け、宮廷の小姓、官僚や軍人に振り分けられ、能力主義で出世できた。

15世紀後半以降、大宰相以下宮廷官僚の大部分を占めるようになり、王女と結婚し歴代大宰相を務める家さえ生まれ、しかし暗殺され取り潰される恐れもあった。スルタンの母が多くの場合奴隷出身であった。宮廷では、皇帝、その生母、寵妃が争い、宦官を使って事件を起こすことがあった。

フランク王国では、有能な宮宰に王国が乗っ取られたが、オスマンでは有能な宰相は補佐に徹し、オスマンの血統は20世紀の滅亡まで維持された。イヴォ・アンドリッチ、ドリナの橋1966恒文社は、デヴシルメで徴集された少年が大宰相となり、故郷の川に橋をかける話である。

イェニチェリはデヴシルメで徴集した若者で身体強健なものを訓練して編成した常備軍団で、常備軍というものがない時代に威力を発揮しオスマンの発展を支えた。1609年に人員はイェニチェリ=37627、騎兵=20896、砲兵=1552などで、全員銃器の扱いに成熟し、一糸乱れぬ行動で西欧人を震え上がらせた。首都に駐在して治安を支え地方に睨みをきかせた。

しかし征服して略奪が許される非イスラム圏での戦争がなくなり、西欧軍事技術が強化されるにつれ、戦争によるうまみがなくなり、デヴシルメによる人員補充が困難となって縁故や世襲となり、既特権化したイェニチェリが首都で暴動やクーデターの騒乱要因となる。近代的軍隊への改革は何度か試みられたが成功せず、結局1826マフムト2世の首都内戦による撃滅=廃止に待たねばならない。

 

6−2 陸・海のシルクロード支配

8 バヤジット214811512、メフメトの長男

  東部アナトリアで太守、大宰相は弟支持だったが、父の死後すぐ首都に戻りイェニチェリの支持を得、大宰相を暗殺して即位。しかし弟との対立はエジプトのマムルーク朝との対立を生み出し、優柔不断で1512首都イェニチェリの蜂起で40歳の長子セリムに譲位した。

   弟のジェムには才気と覇気があり、アナトリアでオスマンに最後まで抵抗したカラマンの残存勢力に西欧が加わり、兵を挙げプルサを占領したが破れエジプトに亡命、キリキアでも破れ、兄と和平交渉は決裂、ロードス島の聖ヨハネ騎士団に逃れ、拘束の代償=年金付きでフランス各地を転々しナポリで急死した。ボルジア家のアレクサンドル6世による暗殺説もある。

  バヤジット2世は海軍増強に関心あり、べネチアやジェノアと張り合うまでになったが、櫂で漕ぐガレー船は地中海こそ制圧したが外洋に適せず、3本マストの帆船による大航海時代についていけなかった。インド航路が1498ヴァスコ・ダ・ガマにより発見され、帆船による大量輸送で陸路による東西貿易の利点は徐々に失われた。オスマン海軍は、地中海世界の海洋人の寄せ集めで、トルコ人の海軍ではなかった。海軍長官は中央政界の出世コースの通過点で、海軍の実務に無知な人物が多かったからという。小松香織、オスマン帝国の近代と海軍2004山川出版社。この海軍が近代まで続く。

9 セリム1151220冷酷者、バヤジットの子

   イェニチェリのクーデターで父に替わって即位。軍事的才能があり、大宰相の多くや反対者を多数処刑し、冷酷者と名づけられた。しかし学問に関心と敬意を払い、詩人でもあった。

 

サファヴィー朝圧迫、マムルーク朝征服、スルタン・カリフ制

イランでシーア派のサファヴィー朝15021736が成立し、シルクロードにつながるアナトリア方面を脅かしたので1514ジハードを宣言し首都タブリーズを制圧した。国内のシーア派分子4万人を粛清したのは空前絶後という。

また1516エジプトに遠征し1517マムルーク朝を滅ぼしカイロに入城、メッカ、メディナの保護権を掌握した。アッバース朝亡んでバグダッドの地位低下後のイスラム世界で、政治・経済・文化の中心であったカイロがオスマンの支配下に入った。エジプトは豊かな農産物、インド洋・紅海・地中海貿易の利益、アフリカからの通貨の地金、兵員・奴隷の供給をもたらし、オスマンの宝庫となった。

オスマンはシルクロードの三つの道、中央アジアルート、インド・ペルシャ湾ルートに加えて、紅海・エジプト・シリアルートのすべてを掌握した。

   エジプトには、モンゴルに滅ぼされたアッバース朝の末裔が1261亡命しカリフを称していたが、セリム1世はこれをイスタンブルに幽閉し、カリフ位は預言者との血筋はなくアラブでもないオスマンに「スルタン=カリフ制」として受け継がれたという説には禅譲の証拠がない。カリフ=聖法シャリアの保護者という意味で「スルタン・カリフ制」はロシアがクリミアへ進出する中で、クリミアのモスレムに影響力を残すために使われたのではないか=鈴木董。この制度は1922ケマル・アタチュルクによって分離され1924廃止されるまで存続した。

 

6−3 余裕のウィーン包囲、フランスと親近、ルターの宗教改革を間接支援

10 スレイマン1152066立法者、セリムの子

   オスマン帝国の政治的全盛期の君主。立法者というのは諸制度を整備し法典制定に熱心だったから。25歳で即位。その前年ハプスブルクのカール5世=スペイン王カルロス1世が神聖ローマ皇帝となった。イスラムとキリスト教に、それぞれの繁栄時代を築いた2人が相次いで登場した。カールと神聖ローマ皇帝を争ったフランスのフランソワ1世は、カールに対抗するためオスマンとの協調を求め、オスマンは西方進出のためにこれに応じ、スレイマンの版図は古代ローマの最大の四分の3となった。

ロードス島の聖ヨハネ騎士団を駆逐1521してイスラムの敵の根拠地を一掃し、地中海の制海権を握りアフリカ西岸を支配、東欧ではハンガリーを占領1521してハプスブルクを牽制し、東方ではイラン・シーア派のサファヴィー朝からバグダッドを1534奪い、モスクワ公国の南下を妨げ、西欧では祖父マクシミリアン1世死後ハプスブルク領を継ぎ、神聖ローマ皇帝に選出されたスペイン王カール5世と争うフランスのフランソワ1世と同盟し、ハプスブルクのウィーンを1529包囲した。気候不順で進軍が遅れ、ハプスブルク側に援軍の到着と城壁補修を許し、攻城は9.27から10.15まで続いたが、早い冬の到来で装備不十分とて撤退した。

なお、オスマンのウィーン包囲は1517に始まったルターの宗教改革に有利に影響した。皇帝に逆らって彼を保護する貴族があり、新教派主導の農民戦争152425もあり、神聖ローマ皇帝としてローマ教会を支配しようとする皇帝と教会は対立し、フランスとイタリアをめぐって戦う皇帝軍のローマ略奪1527すらあった。皇帝は新旧の国内宗教勢力の結集を必要とし、ルター派に譲歩を強いられた。

スレイマン時代にオスマンの勢力は、アジアの海でポルトガルに対抗してインドネシアのアチェのスルタンまで及んだ。その頃スペインは、メキシコ征服1519、ペルー征服1516、インカ帝国征服1533など新大陸に領土を広げ、ポトシ銀山開発などで莫大な富を蓄え、新大陸から多量に流入するスペイン銀貨が、西欧に金銀価格の変動=インフレをもたらし、それは維新期の日本に大量の金貨流出事件を起こすことになる。

 また、ハンガリアはラヨシ2世の戦死後にオスマン直接支配=中部・イスラム、ハプスブルクのカールの弟フェルディナント公の王国=西部・旧教と、オスマン間接統治のサポヤイ・ヤーノシュのトランシルバニア公国=東部・新教に内部分裂し、ハンガリアはオスマンとハプスブルクの圧力と三つの宗教と多くの民族という問題を抱えつつ近代に至り、民族独立というイスラム時代の共生を否定するイデオロギーのもと、火薬庫といわれ、騒乱の引き金となり未だに安定していない。

 

 カピチュレーション、大宰相、ハレム

カピチュレーションとは、ベネチアなどオスマンとの交易に従事する都市国家に、恩賜的に与えた免税などの通商上の特権で、次いでフランス1569、英国1580、オランダ1612と続いた。これが経済的政治的立場の逆転した18世紀末に、西欧側がオスマンを半植民地的状態に置く武器に転化し、明治日本が撤廃に苦労した不平等条約と同様に、オスマンの産業自立を妨げ、財政の疲弊、国力の衰退を助長することになる。撤廃は日本にはるかに遅れ、1914廃止宣言も列強に無視され、1922帝国滅亡まで存続した。

スレイマンは欧州に10回、アジアに3回遠征したが、以後君主が陣頭に立っての出征はなくなり、王宮にこもる君主に代わって政治は大宰相が担うことになった。

スレイマン時代を支えた大宰相はソコルル・メフメト・パシャ150579で、デヴシルメ制から昇進し1565大宰相となり、セリム2世、ムラト3世、に仕え、最後は宮廷内の政争に敗れ暗殺された名宰相。ソコルル死後78年、アルバニア系のメフメト・キョプリュリュ、165661が大宰相となり、1654年設立の大宰相府の主となり、御前会議にかわって宮廷から離れ、市中に独自の役所を構え国政を裁くことになっていた。子アフメト−76、その弟ムスタファ8991、従兄弟ヒュサイン971702、娘婿ヌマン−10と一族の5人が相次いで大宰相となり、宗教戦争が終わり国民国家建設に向かって躍動する欧州政局に対応しキョプリュリュ時代16561710といわれる。

大宰相家は取り潰されることこそあれ王権を脅かすことはなかった。スルタン・カリフ制という、王に教権と政権が集約するオスマン体制が理由であろう。王権に対抗牽制する教会組織はなくウラマーは孤立し、王権は専制的で違反者に容赦しなかった。

 オスマン家は当初政略結婚でビザンツの皇女やバルカンやアナトリアの領主の娘を妃としていた、優位になってからそれがかなわなくなり、雑多な種族の女奴隷をハレムに宮女として住ませ、上流階級としての教育を授けた。生んだ子が即位すると母后としてハレムの権力を握った。皇子は、17世紀初頭以後、知事として地方に出され軍事・行政経験を積ませる制度が廃止され、宮殿の一郭に幽閉されていたので、後継をめぐって宮廷闘争が生じた。スレイマンの寵妃ヒュッレム、ムラト3世の生母など。エジプト経由のヌビア系の黒人奴隷が宦官となった。

                                 前編おわり

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