オスマン帝国の盛衰と西欧(後編)     2008.4.8―12.15

                                  木下秀人

 後編の主題は西欧に差別撤廃を押しつけられ、ロシアにはクリミア戦争を仕掛けられ、バルカンでは民族独立の騒乱、決着の都度領土を失い、改革の努力も実らず財政破綻し衰亡するオスマン帝国、決定打は第一次大戦でのドイツ加担であった。

ウィーン包囲で西欧の心胆を寒からしめたスレイマン1世は、オスマン帝国の政治的全盛期の大帝と讃えられる君主であったが、西部ハンガリア遠征中に軍陣で死去した。

スペインのイスラム=グラナダ王国は1492スペイン王国に征服され=レコンキスタ、この年はまたイサベラ女王の援助によりコロンブスがアメリカ発見の年でもあった。

西欧は地理上の発見で大航海時代に突入していた。ルネッサンスと宗教改革さらに科学技術の発展が果実をもたらす時代に突入しようとしていた。しかしイスラム世界はこの西欧世界の変化に無関心のまま、一時最大の版図を誇示するものの、旧体制を改革しえないまま西欧に押されて衰退・没落していく。改革の試みはあった。しかしその度に守旧派に押し返された。西欧に対する過去の圧倒的な文化差に起因するあまりにも過剰な優越意識が、虚心坦懐に西欧に学ぶ事を妨げた。

外交官や通訳も軍艦の運用もギリシャ人の手に委ねられたままで、大宰相もイェニチェリもバルカン出身でもかまわなかった。東ローマ帝国はギリシャ文化・ギリシャ語の世界であったから、それを受け継いだオスマン帝国にギリシャ人が登用されるのは、イスラム多民族・多宗教許容思想から不思議ではなかったが、ギリシャ民族の反乱独立であわててトルコ人の養成にかかる始末だった。東洋における大文化国中国やインドが近代化に遅れたことと同じかもしれない。日本は古代以来、外来文化取入れに熱心な周辺国だった。

民族主義と民族独立は、西欧近代が国家統一のため掲げたイデオロギーだが、多民族国家オスマン帝国の原理とは矛盾・背馳し、多民族・多宗教が混在・共生してきたバルカン半島にとっては無理で不自然な分断をもたらす悪魔の思想というべきであった。

 本編後半については、新井政美教授の「トルコ近現代史」によるところが多いが、さらに別稿、オスマン帝国崩壊以後の、トルコ共和国の歩みは、新井教授の「トルコ近現代史」の要約である。

前編

1 イスラム世界の成立―ムハンマドの死、正統カリフ時代632661

2 ウマイヤ朝―アラビア帝国661750

3 アッバース朝―イスラム帝国7501258

4 イスラム文化の黄金期―西欧にギリシャ文化を伝える

    後ウマイヤ朝7561031、元朝12711368=モンゴル、十字軍10961291

5 トルコのアナトリア西北部=ビザンチン領への進出

6 オスマン朝―非アラブのイスラム盟主12991922

6−1 ビザンツ帝国征服1453まで 

      デヴシルメ、イェニチェリ、奴隷

6−2 陸・海のシルクロード支配

サファヴィー朝圧迫1514、マムルーク朝征服1517、スルタン・カリフ制

6−3 余裕のウィーン包囲1529―フランスと親近、ルターの宗教改革を間接支援      

      カピチュレーション、大宰相、ハレム 

後編

6−4 宮廷の退廃、女人政治15661648

6−5 最大の版図、大宰相家の政治、ウィーン包囲敗北、カルロヴィッツ条約16481703

6−6 チュリップ時代、宮廷の浪費と軍事費と赤字財政170389

6−7 セリム3世のニザーム改革、保守派の抵抗で挫折、英国の登場17891808

6−8 マフムト2世、改革派、イェニチェリを市街戦で撃滅、関税自主権放棄180839

6−9 ギュルハネ勅令=タンジマート改革、クリミア戦争、外債で財政破綻183976

6−10 アジア初の憲法、専制と反専制、第1次大戦でドイツに加担18761922

     クリミア戦争、新オスマン人運動、財政破綻、憲法制定と停止、専制政治化の近代化、イスラム主義、アルメニア問題、青年トルコ運動

後編

6−4 宮廷の退廃、女人政治15661648

11 セリム2156674、スレイマンとヒュッレムの次子

   セリム2世は、スレイマン大帝と寵妃ヒュッレムの次子、ヒュッレムの画策で前妃の息を殺し、ヒュッレムの死後父の寵を得、兄を殺して即位。暗愚で快楽にふけり政治は大宰相ソコルル・パシャ任せ、既にその反対を押して1570ベネチア領のキプロスに侵攻1878まで領有、今日のキプロス=ギリシャ系トルコ系の分裂問題の始まり。さらにレパントの海戦1571でスペイン連合艦隊に破れ、制海権を西欧に奪われる端緒となる。オスマン海軍にイスラム船員が不在で、海軍長官は出世の通り道で軍事経験に無関係だった。

12 ムラト3157495、セリムの子、女人政治の公然化

   大宰相ソコルル・パシャ150579は在任156578、スレイマン時代とその後の政治を支えた功臣で、セリム2世、ムラト3世にも仕え、台頭する西欧に対し構造面で問題あるオスマン体制の改革を志向したが、ムラト2世の母后がイェニチェリと図って1579暗殺した。指導力なきスルタンはロボット化され、母后による宮廷政治=女人政治が公然化し、第2次ウィーン包囲の失敗=オスマン帝国の落日の始まりまで続く。

13 メフメト315951603、ムラトの子

   即位の時、幼少の弟を19人殺したという。オスマン帝国の皇位継承は、バヤジット113891402以来強者が相続したから、イェニチェリの関与が始まり、残った兄弟は殺されるのが普通だった。ローマでもビザンツでもあった習慣である。

14 アフメト1160317、メフメトの子

   この皇帝のころから長子相続となり、弟は殺さないで幽閉し、それが復活してムスタファ1世となった。以後このパターンが一般化した。法令集を編纂、古来の法=理想的状態への復帰による現状改革を志向。死後、寵妃キョセムは、息子=17ムラト4世と18イブラヒムの後見人として国政に権勢を振るった。

15 ムスタファ11617−8、メフメトの子、アフメトの弟

 殺されないで、兄の後即位、しかし1年。 

16 オスマン2161822、アフメトの子

キョセムの子ではない。3

西欧では30年戦争161848、トランシルバニアが戦場となり、1620オスマン軍ウクライナ侵攻。

イスラム共同体には、ジハードという共同体の拡大・防衛の義務があり、イェニチェリはその先頭に立って戦い、戦利品の分配にあずかってきた。しかし領土拡大は次第に困難となり、利権の細ったイェニチェリは次第に軍規が乱れ無頼集団と化し、首都でたびたび反乱を起こすようになった。オスマン2世は、このイェニチェリの転覆を図ったが失敗し殺された。

15 ムスタファ1世、再任162223、メフメトの子、アフメトの弟、1

17 ムラト4162340、アフメトの子、ムスタファの甥

オスマンの弟でキョセムの子。成人まで母キョセムが後見。1635年イェニチェリ3万をサファヴィー朝との戦いに追いやったが1639講和、バグダッドを支配下に入れる。

18 イブラヒム164048、アフメトの子、ムラトの弟

 精神に異常あり、母キョセムが後見人として権勢を振るう。 

西欧、1648カトリックとプロテスタントとの宗教戦争=30年戦争は終結、ウェストファリア条約でカトリックとプロテスタントの議会・裁判の同権とカルヴァン派の容認、神聖ローマ皇帝ハプスブルク家の弱体化、フランス、スウェーデンの領土獲得、スイス、オランダの独立承認、ドイツにおける連邦主権の確立のほか、主権国家相互の領土尊重、内政不干渉という新たな西欧的秩序が形成された。

 

6−5 最大の版図、大宰相家の政治、ウィーン包囲敗北、カルロヴィッツ条約16481703

19 メフメト4164887狩猟者、イブラヒムの子、ウィーン包囲で大敗

 政治はせず、狩猟に熱中、それが39年在位。母トゥルハンと祖母キョセムが争い、キョセムは絞殺され、トゥルハンはしばらく政治に関与するがここで女人政治終わり。

バルカン半島では 1657トランシルバニアが、宗主国オスマンに無断でポーランド侵攻に失敗、オスマンはトランシルバニアを撃って宗主権を回復。オスマン、ハプスブルクにその承認と歳貢の増額を要求、拒否されたオスマン、ハンガリアに侵攻、占領地をハプスブルクから奪取。フランスのルイ1416381715は、ハプスブルクの弱体化を狙って中立。オスマンはウクライナのコサックのポーランドからの自立を求めての支援に応じ、新領土を獲得、この時歴史始まって以来の広大な領土となったが、皮肉にもそれは転落の始まりだった。

女人政治が終わって1654、大宰相府が設置され、今まで宮廷の御前会議で決定されていた政務を、宮廷外の大宰相の役所で処理するようになった。アルバニアのデブシルメで徴用され出世したキョプリュリュ家で、大宰相が5代断続的に16651710まで続く。165661=初代メフメト、−76=息子で実力大宰相ファーズル・アフメットが死去すると、妹婿のカラ・ムスタファが大宰相となった。反キリスト教で野心家の彼は1683515万の兵を率いてウィーンに向かった。

2次ウィーン包囲で、カラ・ムスタファはレオポルト皇帝の和議提案を降伏以外はなしと蹴ったが、強化された城壁にてこずっているうちに9月ポーランドからの援軍が到着、武器でも戦法でも往年の優位を失っていたオスマン軍は陸戦で西欧軍に始めて大敗し、カラ・ムスタファは処刑された。キョプリュリュ家の大宰相は間を置き1710まで続く。なおトルコがドイツに敗れたことは、長崎に到着したオランダ船カピタンの風説書によって幕府に知られていた。鎖国時代の日本は海外情勢に盲目ではなかった。

西欧とオスマンとの力関係の逆転が内外に明らかになった。ポーランドはローマ教会、ハプスブルク、ベネチアと神聖同盟を結成、東方教会のロシアも入れてオスマンを包囲した。ロシアはクリミア、ハプスブルクはハンガリアに侵攻するが、ハプスブルクにむしろフランスを牽制させたい英国とオランダが仲介に入り1699カルロヴィッツ条約を結んだ。これはオスマンが、非イスラム国と対等の立場で結んだ初めての条約となった。

20 スレイマン2168791、イブラヒムの子、メフメトの弟、在位4

21 アフメト2169195、イブラヒムの子、メフメトの弟、在位4

22 ムスタファ216951703、メフメトの子、在位8

1699カルロヴィッツ条約でハプスブルクはハンガリアを譲受、さらにトランシルバニア=ルーマニア、クロアチア、スロヴェニアの領有権を獲得、中東欧で覇権を確立した。ロシアは1年遅れで講和し、黒海沿岸のアゾフを獲得し黒海進出に足がかりを得た。

多宗教・多言語・多民族で、イスラム統治下何世紀も共生を続けてきたこの地域の国境の安易な変更は、宗教と民族を理由とする大規模な人口移動を生み出し、大混乱が生じた。西欧近代が生み出した民族独立=民族国家というイデオロギーが、その後もこの地域で独立運動の旗印となって一人歩きし、今日まで止まない紛争地域となった。

   トルコの脅威は消滅し、ハプスブルクはオーストリア・ハンガリア・ボヘミアという広大な国土を獲得した余裕で、ホーエンツォレルン家を1701プロイセン国王と認め、ハプスブルクの対抗勢力となる下地を作った。

プロイセンは、18世紀オーストリアに侵攻し英国に接近、ハプスブルクは1756宿敵フランスと同盟、西欧国際関係の枠組みが大きく転換した。オスマンは西欧諸国に圧迫され弱体化し、その権力の真空状態に付け込もうとする西欧諸国の利害の錯綜にもまれつつ衰亡の道を歩む。

  

6−6 チュリップ時代、宮廷の浪費と軍事費と赤字財政170389

 オスマン・トルコ史の真の面目はカルロヴィッツ条約までである。アフメト3世のチュリップ時代170330は、消えなんとするオスマン文化の最後のまばたきでしかなかった。三橋富治男、トルコの歴史1964

カルロヴィッツ条約でオスマンは初めて非イスラム国と対等な立場で条約を結んだ。対等どころか西欧の優位を認め、これに学んで改革する必要が生じた。対ハプスブルクで永年にわたり共同戦線を張ってきたフランスが手本となった。

 第2次ウィーン包囲は多額の戦費を要した。陸と海のシルクロードによる東西貿易はオスマンに膨大な利益をもたらしたが、大航海時代が始まって既に200年、世界は地中海から大西洋・太平洋に向かって開け、東西貿易の覇権をめぐる争いは、スペイン・ポルトガルのアメリカ大陸時代からオランダ・英国のインド・アジア時代となり、1600英国東インド会社、1602オランダ東インド会社の設立で、かつてオスマン財政を潤した香料・絹・木綿貿易の利益はオスマンから失われた。

非イスラム世界との戦い=ジハードは、勝利によるイスラム世界の拡張や償金獲得どころか、戦いはオスマン領土を狙って先方から仕掛けられ、防衛費が財政を圧迫し、敗北は領土喪失につながった。

かつて圧倒的だったオスマンの軍事・財政・文化の優位が失われた。しかし西欧の攻勢に加えて独立運動=反乱が止まない。内外の敵に対する軍事費を賄う東西貿易の利権は失われた。優位に立った西欧の近代経済システムの学習が必要だった。しかしこの国で金融を預かるのはユダヤ人、外国貿易はギリシャ人、商工業はギリシャ人・アルメニア人、彼らは皆オスマン人だったがイスラムではなく、西欧の言語に通じそのシステムに詳しいオスマン人はいなかった。古い体制の変革が必要だったが、コーランに則ったシステムの変更を社会的に納得させるのは甚だ困難であった。多民族国家という体制、コーラン絶対という思想と二つの矛盾が、時間の経過と共にオスマン帝国を崩壊に導く要因となる。

23 アフメト3170330、メフメトの子、ムスタファの弟、在位27

 フランス視察報告、チュリップ時代、

 列強との政治軍事問題多発。大宰相イブラヒム・パシャは宿敵ハプスブルクを抑えるためフランスに接近、イルミセキズ・チェレビーを派遣。視察報告がその後の改革のモデルとなる。1630年代オランダで有名な投機事件を起こしたチュリップが逆輸入され、栽培・鑑賞がブームとなり球根価格が高騰し、つかの間の平和時代=チュリップ時代171830を生み出した。

チュリップはトルコ原産だが、オランダで品種改良されて、アジア貿易で潤う時代に球根が投機の対象となり、先物取引が過熱しバブルとなり、その破裂で数千人の破産者が出たという。日本にオランダ船リーフデ号が漂着したのが1600年、乗っていたオランダ人=ヤン・ヨーステンと英国人ウィリアム・アダムスが徳川家康に西洋新知識を伝え外交・通商顧問として用いられ、洋学はその後の日本で重要な学習科目となった。しかしオスマンは新興独立国オランダの文物では、チュリップにしか興味を感じなかったらしい。

アラビア文字の活版印刷が1724始めて許され17種出版。遅れたのは宗教規制が原因。

 フランスの亡命貴族ボンヌバル、イスラムに改宗し1731砲兵隊長となり幾何学校を建て改革に従事、イェニチェリの反対で閉鎖。しかし1776海軍工学校設立へ続く。 

1709ロシアに敗れたスウェーデン国王がオスマン領に逃れ、ロシアが侵攻、オスマン軍はこれを押し返した。さらに海賊行為を繰り返すベネチアを攻めたがハプスブルクが介入しオスマンは敗れ、1718パサロヴィッツ条約でワラキア西部、セルビア北部、ボスニア北部を割譲。

1730サファヴィー朝の混乱に乗じたイラン侵攻が劣勢となると、財政難と社会不安で浪費する宮廷に反乱が起き、スルタンは退位、大宰相は処刑された。

24 マフムト1173054、ムスタファの子

   ハプスブルクはトリエステ港を開き地中海貿易に参入、バルト海に進出したロシアは正教の擁護者として黒海・バルカンをうかがい、ハプスブルクと協調して17367オスマン領に攻め入った。

 ロシアはコンスタンチノープルを狙い、ハプスブルクはドナウ川を睨みながらの講和会議1737で、ロシアは強硬だったがハプスブルクは逆にロシアへ譲歩しすぎないよう忠告して、オスマンに西欧諸国には内部対立があり、それは外交に利用できることを教えた。決裂後の奮戦でオスマンはパサロヴィッツ条約の失地を奪い返し、ロシアの要塞を破却した。

25 オスマン3175457、ムスタファの子、マフムトの弟、在位3

26 ムスタファ3175774、アフメトの子

 1757インドで英国軍プラッシーの戦、ムガール・ベンガル太守軍を破る。

 176874ロシアがオスマンに宣戦=露土戦争、オスマンは黒海の北岸を失い、ロシアはオスマン帝国領内のギリシャ正教徒の保護権=その後のロシアの介入の口実を獲得。

27 アブデュルハミト1177489、アフメトの子、ムスタファの弟

 

6−7 セリム3世のニザーム改革、保守派の抵抗で挫折、英国の登場17891808

28 セリム317891807、ムスタファの子、初めて本格的近代化政策=ニザーム改革

 スレイマン1世以来の賢帝といわれ、フランスのルイ16世を尊敬し王子時代から文通したという。フランスに学び上からの改革を実行しようとした。即位後3ヶ月で勃発したフランス革命でロシアとの戦いを講和に持ち込んだが、民族独立革命というウィルスが帝国内を蝕み崩壊させることになる。このウィルスに、西欧在住のギリシャ、セルビアがたちまち感染し、西欧の後押しを得てオスマン在地支配者の横暴に対する農民反乱に、民族独立という旗印を与えることになる。

 フランス革命がオスマンにもたらした影響は、それまでのフランスに代わって英国の登場だった。フランスはハプスブルクに対抗すべくオスマンと結ぶこと多く、ルイ16世はセリム3世の尊敬する人物だったが、革命の覇者ナポレオンがエジプト占領したのが致命的だった。英国は地中海とオスマン帝国の世界に干渉し、オスマンはフランスと対抗する英国に接近し始めた。

1791停戦後、西欧諸国の軍事・行政の調査に使節を派遣し、イェニチェリに代わる新しい歩兵部隊の創設を命じ、晩年にはこの軍団は兵22685、士官1590に達し、陸軍に工学校を設立した。179397ロンドン、ウィーン、ベルリン、パリに在外公館を設置、大使に随行した若手書記官が言語と新知識を習得し、やがて新オスマン人として後の改革を担うことになる。

ウラマーの政治関与の禁止、財政近代化なども含むニザーム改革(ニザームは新軍団の呼称)を実行しようと試みたが、中央集権化・西欧化に反対するイェニチェリやウラマーなど既特権階層がエディルネ派遣のニザーム軍団をそそのかして首都に向かわせ、シェイヘルイスラム=ウラマーの最高権威が改革はイスラム法に反するとし、セリムの退位をも正当化するファトワを発するに至って、セリムは退位させられた。

29 ムスタファ4180708、アブデュルハミトの子、在位1

しかしバルカンでロシア軍に相対していたアレムダール・ムスタファ・パシャの軍が改革派を率いて首都に入ると、救出直前にセリムはムスタファ4世に殺害された。アレムダールはムスタファ4世を退位させ、その弟マフムト23歳を即位させた。

 

6−8 マフムト2世、改革派、イェニチェリを市街戦で撃滅、関税自主権放棄180839

30 マフムト2180839、アブデュルハミトの子、ムスタファの弟、啓蒙専制君主

アレムダール・パシャは地方のアーヤーン出身で唯一の大宰相となり、全国のアーヤーン=在地有力者を招集し改革遂行につき「同盟の誓約」を取り付け、ニザーム軍団再建にかかったが、手勢を不穏なバルカンに帰した隙にイェニチェリに襲われ、イェニチェリ多数を巻き添えにして爆死した。マフムト2世は兄ムスタファを殺害させ、王家唯一の男子となることで生命と帝位を守ると同時に、敵を意識しつつ慎重に改革を続行した。

首都圏では改革を受け入れていた砲兵隊を強化充実し忠誠心を確保。海軍強化のため愛国心に疑念あるギリシャ人船員に代えてムスリム船員募集を試みた。外交官と共に海軍はギリシャ人依存からの脱却が問題だった。

官僚には早期配置転換で改革派を少しずつ重要ポストにつけ、地方では弱小反対勢力を強者に制圧させ、その強者は相続時に財産没収、分割相続、軍事力に訴えたりして徐々に保守層の力を殺ぎ、1820頃にはアナトリア、バルカンの殆どが中央政府の統制下に入り、これがその後の改革の地ならしとなった。

180612露土戦争、182129ギリシャ独立戦争、−32列国独立承認などバルカンの反乱、列国の干渉、エジプト知事アリの独立画策など、多事多難時代に改革を継続した。

1826イェニチェリに代わる近代装備の新軍を創設、反対するイェニチェリを首都の市街戦で殲滅した。さらにウラマーの経済的基盤である寄進財産=ワクフを政府の管理下に入れ、イェニチェリと関わりの深い神秘主義教団=ベクタシー教団を弾圧した。

新軍は地方に力が及ばず、その空白に生じたギリシャ独立戦争をエジプトのアリの軍で打ち破った。この勝利が、ギリシャの独立運動を刺激すると同時に、ギリシャ正教の擁護者を任ずるロシアに介入の口実を与えた。ロシアの介入は英仏の干渉を招きギリシャ独立承認を余儀なくされた。

アリのエジプト軍はシリアに侵入し、叛徒として解任されると今度はアナトリアに侵入。マフムト2世は英国に援助を求めようとした。ロンドンで外務大臣ムスタファ・レシト・パシャは、英国から交換条件として自由貿易要求を突きつけられ、輸入関税325%、輸出関税12%という関税自主権も専売制もない裸の貿易体制が1838.8約定された。オスマンには、それ以外に譲るべき見返りはなかった。しかしオスマン軍は翌1839.6敗北。マフムト2世は敗報を聞くことなく病死。明治日本が苦しんだ条約改正は、まさに砲艦外交で米国に押し付けられた関税自主権回復を含む不平等条約の改正だった。

 

6−9 ギュルハネ勅令=タンジマート改革、クリミア戦争、外債で財政破綻183976

31 アブデュルメジト118396116歳、マフムトの子、183976

16歳の皇帝と保守派の大宰相では解決できないこの危機に、ロンドンにいた改革派の外務大臣ムスタファ・レシト・パシャは、パーマストンと交渉しスルタンの信任を得て、ギュルハネ勅令発布で改革への意思を明示し、アリを支持するフランスを除外した英普墺露の支持を取り付け、英軍にアリ軍をシリアから撤退させた。オスマンは以後クリミア戦争までの15年を改革に専念できた。

アリのエジプト知事の世襲は認められ、エジプトには事実上アリ王朝が成立183948。(この王朝がアリの死後、ナセルのクーデターで追放される1953まで続く。)

ギュルハネ勅令は、法によりスルタンの権限を制約する法治国家、国民の生命・名誉・財産の保障、徴税請負制の廃止、徴兵制の実施などを宣言し、西欧の知識を蓄えた官僚によって、行政・立法・教育分野での西欧の制度を導入しようとした。「ギュルハネ」はレシト・パシャが内外関係者の前で勅令を読み上げた庭園の名称。

ムスリムと非ムスリムの権利の平等は行政・裁判では一定の成果を上げたが、カピチュレーションという既得権を盾に譲歩をせまる列強の圧力と、国内既得権層の抵抗に悩まされ、クリミア戦争後さらに改革譲歩を迫られた。

1838英国に始まる列国との通商条約は、領事裁判を許し課税自主権を欠く不平等条約で、産業革命による安い輸入品増大で国内産業は成長どころか壊滅し、貿易収支と財政を悪化させ、1856オスマン帝国銀行を創立し外債を発行したが、そのオスマン銀行は英仏に支配され、関税自主権を奪われた中で輸出は伸びず貿易収支は赤字続き、1875帝国財政破綻の原因となった。

明治日本が苦労した問題を早くに経験したわけだが、西欧勢は束になって襲い掛かる始末で状況ははるかに悪く、改革に挙国一致体制は築けなかった。日本は、尊王・攘夷という旗印で国論を沸騰させ幕府を倒し、長州・薩摩が戦って敗れると攘夷は無理と開国に切り替え、維新では内戦は最小限に抑えられた。江戸から続く貿易では日本は、蚕糸・陶磁器という輸出商品を持ち、財政破綻どころか銀に対し割高の小判があった。神仏はイスラムのような硬い掟の宗教でなく、古来の神道には定まった教義すらなく、仏教と習合共存していた。鎖国時代に長崎から入る洋書研究で蓄積した西欧に関する知識があり、福沢諭吉や渋沢栄一のような先覚者が孤立していなかった。

 クリミア戦争―聖地管理権

イェルサレムの聖墳墓教会・ベツレヘムの生誕教会の管轄権のカトリック教会とフランスにある優先権に対し、ロシアがオスマン政府に1853帝国内のギリシャ正教徒保護権の公式承認を要求してオスマン領ワラキア、モルダヴィアに侵入、ロシアの黒海支配を嫌う英仏が介入、クリミア戦争が始まった。1855セヴァストーポリ要塞陥落でクリミア戦争は終決。英国の支持獲得のため1856非ムスリムに、ムスリムと平等の権利を認める改革勅令でパリ条約=講和が成立した。

この改革勅令は、信教の自由、非ムスリム共同体の自治、混合法廷、兵役義務と納税による免除、外国人の不動産所有などを認め、宗教法と近代法の折衷=新法典の制定、学校の開設、近代的土地私有を認める法律の施行などが行われた。ウラマーが独占していた司法と教育に新しい担い手が追加され、特に公教育にその傾向が甚だしかったが、非ムスリムにムスリムと同等の国事関与を認め、信教の自由保障は、背教者は死に値するというイスラムの大原則を覆すもので「特権勅令」といわれ嫌悪された。

 改革と戦争遂行は税収を担保とする外債発行1854で賄われ、不平等条約下で経済は半植民地的農業モノカルチュア化しており、貿易は常に輸入超過で、かつて重要な輸出品だった綿製品は英国からの輸入が1825604060倍となり、伝統的手織り紡績業が壊滅した。絨毯は機械化できず生き残ったが西欧資本の支配となった。金融恐慌と農産物不作で1875財政破綻し、タンジマート改革は挫折した。

 鉄道網は、まず英国資本で貿易港イズミルと綿花産地を結ぶものだった。その後、バグダッド鉄道の権利をドイツが獲得し、フランスにも最大の出資権が与えられて急速に発達し、オスマン農業は国際市場に結び付けられた。政府は土地国有原則から1858土地法により、証書を直接農民に交付しようとしたが、土地保有という概念を知らない農民は有力者名義の土地集積=私有化促進に動かされ、外国人の所有権容認もその傾向を促進した。

 財政破綻。政府は財政難で、貨幣改鋳などの古い手は通用せず国内業者から借り入れ、1840には英国の銀行から借り入れていたというが、クリミア戦争で財政は完全に破綻した。1854エジプトの税収を担保に英仏銀行と300万ポンドの借款契約=33年返済、利子6%でこれが最初。翌年500万ポンド追加で両国の監視団受け入れ。18583回目はインフレで混乱した通貨制度建て直しが意図されたが、メキシコ銀の大量流通で金に対する銀の下落があり、金融業を営めないムスリムに代わって非ムスリムの業者が富むことになった。暴落した紙幣回収のため英国資本のオスマン銀行が、フランス資本と協力し、完全回収に成功。1863オスマン銀行は解散し、銀行券発行の特権を有する英仏資本によるオスマン帝国銀行が発足、中央銀行は外国支配で、オスマン政府には紙幣発行権すらないということになった。

新オスマン人運動。

この厳しい状況下でスルタンは宮廷で浪費生活、レシト・パシャの急死1857の後を受けた大宰相アリー・パシャも改革に熱意なく改革派を中枢部から疎外した。他方、改革におけるキリスト教徒にムスリムと同等の権利を与えることはシャリーアに反するというウラマーが、メドレセの学生を集め軍人も加わり、スルタンの退位を促す陰謀が発覚した。また、政府内部で遠ざけられている改革派の若い知識人には不満が蓄積されていた。新オスマン人運動が始まった。

 イブラヒム・シナースィ、砲兵廠からパリに留学、帰国後教育審議会、レシト・パシャ死後アリー・パシャに疎まれ、出版啓蒙活動に転じエフェンディーと新聞=諸情勢の翻訳者を1860創刊。1840英人が新聞=事件の報道者を創刊していたが、クリミア戦争で部数を伸ばし効用が認知されていた。シナースィは初の戯曲も書いたが皇太子ムラトの支援を得て西洋政治思想の導入を目指し「世論の叙述」を発刊、集まった若いオスマン人の語学力で啓蒙思想の勉強を始めた。1863政府批判でシナースィは免職され出版条例発布後パリに脱出、雑誌の編集を受けた名門出身翻訳曲勤務のナームク・ケマルは、誌上に政治批判の論陣を張り1865いずれも名門出の同志5人と秘密組織を結成、皇太子ムラトや改革派政府高官ズイヤ・パシャやアリー・スアーヴィと連絡し、エジプト知事の弟でタンジマート改革の重要人物だった富豪ムスタファ・ファーズル・パシャが大宰相を批判し追放されパリに住み、批判論文を二つの雑誌に載せた。政府の首都からの追放に会い3人は祖国を脱出パリに合流、スルタンの万国博招待で退去命令を受けロンドンに移り、ここに「新オスマン人」といわれる運動がヨーロッパで始まった。

新オスマン人協会の名で雑誌「自由」を創刊し、治外法権に守られて首都の外国郵便局経由で、雑誌や新聞は当局の検閲なしで読者に届けられた。彼らは専制政治からの開放、国民の自由意志による立憲制について熱っぽく語った。ただ平等についてだけはイスラム法に反するとした。列強の保護のもと富を蓄え兵役免除税を払って祖国のために血を流さない非ムスリムは新オスマン人にも「ずる賢い」存在で、この点では国内保守層と意見を同じくした。それはイスラムの多宗教国家から非ムスリムを切り捨て、近代民族国家を目指す事を意味した。1867出資者ファーズル・パシャの首都への帰国を期にナームク・ケマルも1870帰国。他の2人も1871アリー・パシャ死後帰国、新オスマン人たちは保守派の去った祖国で活動することになる。しかし政治改革は進展しなかった。

32 アブデュルアジズ186176、マフムトの子、アブデュルメジトの弟

 財政破綻 

スルタンは誇大妄想気味で、大宰相マフムート・ネディーム・パシャは西洋に無知でロシア大使の言いなり。この二人の下でオスマン財政は末期的症状。国内は18737の大飢饉で農村人口激減、税収も落ち込み、西欧は経済恐慌でオスマンに援助の余裕なく、1875102億ポンドの債務履行できず破産となる。ケマルは創刊した「警告」での政府批判で首都から遠ざけられ、さらに1873キプロスに流刑。

1876ボスニア・ヘルツェゴビナ、ブルガリアで反乱が農民虐殺を生み、西欧の介入に反対し首都でメドレセの学生が改革派高官の指導でデモ、大宰相解任後、士官学校校長指揮の大隊が宮殿を囲み、シェイヘルイスラム=ウラマーの最高権威がスルタン退位のファトワを出しクーデター完成、スルタンと陸相殺害で新オスマン人待望のスルタン=ムラトが誕生した。

33 ムラト5世−1876、アブデュルメジトの子、在位3ヶ月

 改革派待望のスルタンの筈だったが、彼は皇太子なのに叔父スルタンに疑われ、永年の監視下の緊張とアルコール多飲で精神失調となり3ヶ月で廃位、改革派には悲劇となった。なぜなら代わって就任した弟は、アブデゥルアジズ派のスパイといわれ保守派だったが、前二代のスルタンの最後に鑑みて慎重に改革派を装ったが、憲法草案にスルタンが緊急時に対処できる項目を追加し、即座にそれを適用して成立したばかりの憲法を停止、議会は閉鎖、「危険人物」は追放し暗黒の専制政治を始めた。

 

6−10 アジア初の憲法、専制と反専制、第1次大戦でドイツに加担18761922

34 アブデュルハミト218761909、アブデュルメジトの子、ムラトの弟

 憲法制定と停止

財政破綻で西欧債権国から新たな改革を要求されたオスマンは、1876改革派ミドハト・パシャが憲法を起草した。アジア最初の憲法で、法治主義、議会の設置、ムスリム・非ムスリムの完全平等を定め、最後の項目とスルタン権限が問題となった。スルタンは憲法発布を遅らせ、緊急事態には戒厳令を発布し憲法を停止する権限を政府に与え、危険人物の国外追放権をスルタンに認める項目を追加させ、事態切迫でミドハト・パシャはこれを飲んで公布され、これが悲劇の始まりとなった。

この頃バルカン半島では、1875ボスニアで蜂起、1876セルビアとモンテネグロがオスマンに宣戦、ブルガリアでも反乱が起きその収拾のため、1876列国会議を首都で開いたがまとまらなかった。ロシアがスラブ民族独立を名分として不凍港を求めて南下し宣戦、ロシアのひとり勝ちを阻止する列国の介入=ベルリン条約で1878ロシアの南下は食い止められたが、オスマンはセルビア、モンテネグロ、ルーマニアを失い、領土の5分の2、人口550万人、半分はムスリムだった。大量の難民がオスマン領に流れ込みキリスト教徒の暴行・虐殺を語った。ロシアも得る所少なかった。英国はキプロスを獲得、オーストリアにはボスニア・ヘルツェゴビナの占領が認められた。今日まで混乱が持ち越されているバルカン問題の始まりである。

この時、専制政治への復帰を望むスルタンは、非常事態を口実に憲法施行を停止し、生みの親ミドハト・パシャを危険人物として国外追放した。

憲法発布でキリスト教徒問題は解決したというオスマンを列強は認めず、国政選挙で人口比率ムスリム66−非ムスリム34%に対し、議会比率は6040%で1877初議会が召集された。議会では明治日本と同様、政府政策に批判に集中した。スルタンは議会も閉鎖した。

ミドハト・パシャ追放と同時にナームク・ケマルも投獄され、新オスマン人の生き残りアリー・スアーヴィは、廃帝ムラトの復位を目指し宮殿を襲撃し撲殺された。ミドハトは西欧を歴訪し改革の青写真を作りつつあったが、捕えられ処刑された。スパイ網が張り巡らされ、密告が奨励され専制支配体制が固められた。

専制政治下の近代化

権力の中枢が大宰相府から宮殿に逆戻り、官僚たちは権力を失い、1882までの6年間に15人の大宰相を解任されたが、1908青年トルコ人革命までの25年半は8人で間に合わせた。スルタンは決断力に乏しい臆病な人物だったという回想がある。臆病だから慎重に人物を見極め仕事を選んで近代化を進めたという説も成り立ちうるらしい。

新オスマン人は排除されたが、中央集権化は進み、鉄道・道路網など中央統制のインフラが整備された。スルタンは鉄道網建設を英仏でなくドイツに委ねることで列強の分断を図り、1888ドイツ銀行にアンカラへの鉄道敷設権と営業権を与え、フランスにはシリア鉄道でこれと競わせ、アラビアの聖地につながるヒジャーズ鉄道では世界のムスリムから寄付を集めた。農民を動員して舗装道路網を整備し、海運事業ではオスマン籍の汽船を1895までの10年に3047から4756隻まで増やした。郵便・電信事業もこの時代に発展した。教育も小学校に新式初等教育が導入され、専門教育機関も普及、イスタンブル大学の再スタートが1900年、国家財政逼迫の中教育予算には財政的裏づけが講じられた。

教育の普及は識字率を向上させ、新オスマン人により始められた新聞事業も継承発展された。ただ言論は、政治から離れ啓蒙に徹し、西洋の文芸思潮の紹介など思想的政治的議論を離れスパイ網と検閲に敏感となった。

破綻財政の建て直しで、宮廷費用は国庫でなくスルタンの個人資産で賄うとした。1881累積債務とロシアへの賠償支払いに債務管理局を設立した。英仏墺独伊とオスマン銀行とオスマン政府計7名の理事会で5000名の職員。専売の塩・タバコ税、絹・狩猟・漁業税などが押えられ、後には財務省5500に対し9000名を擁し、全国家収入の31%を徴収した。

イスラム主義

改革はイスラムと矛盾するとは考えられず、イスラム的近代国家が模索された。インドのムスリムにスルタンのカリフとしての影響が及ぶことを警戒した英人が、カリフはアラブのクライシュ族であるべきでトルコ人カリフは不自然と宣伝を始めた。スルタンはオスマン帝国がイスラム的伝統を最も正しく継承していると主張し、イスラムをシンボルとして活用することで統治の正当性を誇示しようとした。帝国内の異端的諸部族を正統派に改宗させ、不正規軍にアラブやクルドの遊牧部族民を編入教化し、部族民学校で部族長の子弟教育も行った。

教育にもイスラム色が強化された。アラビア語の重要性が強調され、世俗・実践的教育と並行し宗教教育が強化され、担当ウラマーの待遇向上とモスクの修理改築が図られた。

帝国外にもイスラム大国の力を誇示し、近代化に邁進しスルタンが「啓蒙的専制君主」であることを強調した。

イデオロギーとしてのイスラム主義は、1860年代末の新オスマン人の論説に現れていた。1872アフメッド・ミドハトは、「オスマン帝国とオーストリア」で、オーストリアの最大の敵は「汎スラブ主義」のロシアで、「汎ゲルマン主義」のドイツと同様「汎イスラム主義」のオスマン帝国の利害と一致し同盟し得ると説いた。汎イスラム主義は西欧の世論に受け入れられ、欧州の勢力均衡の重要な要因だという主張はオスマン知識人に感銘を与え、首都の言論界を賑わした。しかしムスリムが一体となってキリスト教徒を追放しようとしているという憶説が現れ、政府は「汎イスラム主義」という言葉の使用を禁止し、オランダ領インドネシアの反植民地闘争を報じた新聞が停刊とされた。1881英国エジプト占領、フランスのチュニジア占領で、オスマンが隣のトリポリ防衛を図るとそれがイスラム主義の表れだと非難される始末だった。

スルタンはこの諸刃の剣を、イスラム的価値の強調としてうまく使い、帝国を30年に渡って維持することに成功した。タンジマート改革で追及された西欧近代的「国民国家」への志向が、多民族国家の実情に会わず崩れそうなのを、旧来のイスラム的価値の強調に方向転換することで非トルコ系ムスリムの忠誠心をつなぎとめた30年だった。しかしそれには民族独立によるバルカン領の喪失、オスマン領に混在しつつ独立を求めるアルメニア人問題の顕在化などの難しい問題を伴った。

アルメニア問題

古くからのキリスト教のアルメニア教会を持っていたアルメニア人は、アナトリア東部を主に帝国内に散在、自治共同体を組織し、18世紀以降首都で金融業や徴税請負や宝石商などで成功し造幣局の主要な役職を独占、劇場を作りシェイクスピアの劇を上演するなど政府やムスリム住民と親和していた。西欧との通商が活発化しキリスト教徒とムスリムの権利が平等になると、列強の保護を受けるべくキリスト教に改宗してムスリム商人を圧倒した。ムスリム農民から土地を買収して地主となるものもあった。新興階層は子弟を西欧に留学させ、民族主義のビールスに感染するものがいた。ロシアの南下でロシア支配下に入ったカフカス地方のアルメニア人が、1877露土戦争でアナトリア侵攻の尖兵となり同地のアルメニア人に独立を鼓吹しベルリン会議に代表を送ったが、ロシアのみが利する独立は認められず、その後西欧で学ぶ若者がテロ活動に走り、オスマン官吏を殺害、報復で衝突が発生した。しかし英露は牽制しあって動かずやがて平静にもどった。富裕なアルメニア人には米国などへ移住するものが現れた。多民族共生が難しくなっていく。

アルメニア問題で批判されたスルタンを蘇らせたのはギリシャとの戦争だった。1829独立後は平静だったが、1897オスマン領クレタ島でギリシャへの併合を求めて反乱、ギリシャが支援して出兵、さらにバルカンまで軍を進め、オスマンは反撃してアテネに迫り、ロシアの介入で停戦。オスマンは僅かな賠償金を得たが、この勝利は「トルコ民族」としての国民意識形成の契機となった。なお、ギリシャには古代エーゲ海に植民都市があり東ローマがそれを引き継いだ意識あり、事あるごとにエーゲ海西岸にこだわる癖がある。

マケドニアも深刻だった。ベルリン条約でオスマンに戻されたマケドニアは、ブルガリア人=ブルガリア教会・ギリシャ人=ギリシャ正教・アルバニア人=ムスリム・トルコ人=ムスリム、しかもギリシャ人のかなりの部分がセルビア人という複雑な民族構成で、多くは独自の言語を持つ南スラブ人というべきなのに、その「民族」運動を「本国」が支援したために泥沼の紛争が今日まで続く。民族独立ビールスの恐ろしさである。多数派のブルガリア人がアルメニアをまねて革命組織を作り、暴力が日常化する。そのマケドニアの治安を司る第三軍の中から後に「青年トルコ人革命」を主導する青年将校が育っていく。

青年トルコ人運動

1827マフムト2世が作った軍医学校のイブラヒム・テモとイスハク・スキューティが友人2人を誘い1889「オスマンの統一」という組織を作り、これが後の「青年トルコ人」といわれる運動の核となった。4人はアルバニア人・クルド人・チェルケス人でトルコ人ではなかったが、イスラム世界の中心であるオスマン帝国を専制から救い発展させるためすべてのオスマン人に団結を求めようとした。活動はスパイの目に留まったが尋問されただけで釈放、着実に賛同者を増やした。軍医学校は貧しい階層の子弟の学校だったが、1894パリへ逃れた人が参加し、アフメット・ルザやナーズム博士の指導で「統一と進歩委員会」と改められ、官僚・知識人が主導するようになった。アフメット・ルザはガラタサライ・リセ卒業後、翻訳局勤務、パリに留学、中学校長、教育局長、1889万国博視察でパリに行きそこに留まり運動を指導した。穏健路線・外国介入拒否が基本方針だった。

首都のグループは政府高官・高級将校・ウラマーに指導され宮廷クーデターを目論み、調整役のミザンジュ・ムラトは列強の圧力に期待し、路線がばらばらだったが内外各地に支部を増やし、1896首都のクーデターの未遂発覚で国内活動壊滅。国外で専制体制変革を目標に活動した。スルタンは逮捕者も有為の人材として辺境勤務への追放程度だったから脱出して運動に加わることが出来た。

1899マフムト2世の孫で現スルタンの妹婿、親英派自由主義のダマト・マフムト・パシャが西欧に脱出、運動統一のためパリで19021回会議を開いた。中央集権的支配強化で全オスマン人の団結・統合を目指すアフメット・ルザ=少数派と、中央統制から自由になりたいという非トルコ系グループ=多数派が対立した。中央集権派=官主導、自由=地方分権派とすると、この官と民の対立はその後も重要な論点であった。

1905陸大を卒業したムスタファ・ケマルが参謀大尉でダマスカスに着任した。そこには軍医学校時代の反政府活動で追放された人物による「祖国」という組織があった。ケマルはこれに加入し、バルカン領随一の経済都市サロニカ=テサロニキに密行して支部を作った。

1906サロニカで「オスマン自由委員会」が郵便局員タラート中心に結成された。タラートはエディルネの電信局勤務だったが、「統一と進歩委員会」活動でサロニカへ左遷されていた。委員会は急速に成長し駐屯軍の将校に勢力を広げ、後にタラートと共に政権を担うジェマルやエンヴェルも含まれていた。タラートはパリのルザを中心とする中央集権派と接触、ナーズム博士がパリから来て1907「統一と進歩委員会」に名称変更が決定された。ケマルがサロニカへ転任した時、かつてのメンバーは皆「統一と進歩委員会」に移っており彼も平会員として加入した。

1908新興ドイツへの警戒から英国王とロシア皇帝がマケドニアなど東方問題を会談し、それがオスマン帝国分割の合意成ったと伝わると、73日アフメット・ニヤーズィ少佐が憲法復活を掲げて決起、エンヴェルが続いた。鎮圧に派遣された部隊が反乱軍に同調すると、スルタンは723日深夜、憲法の復活を宣言し30年の専制が終わった。「青年トルコ人革命」が成就した。しかしオスマン帝国が困難な状況にあることに変わりはなかった。

 

以下、新井政美教授の「トルコ近現代史」の要約。

2次立憲制の時代19081918

革命と反革命

革命は国外でも歓迎された。マンチェスターでオスマンのアルメニア人が祝宴を開き、ロンドンのオスマン大使が招かれ、駐在のサロニカのムスリム商人も加わり、主催者は、今後アルメニア人とトルコ人は、オスマンの名の下で兄弟として協力発展に努めるだろうと挨拶した。

歓喜と興奮が去った後、統一と進歩委員会(以後統一派という)はスパイ網を一掃し情実と賄賂で腐敗した官吏を追放し、リベラルな者と入れ替えた。だが彼らはスルタンの廃位すら行わず、政権を手にもしなかった。目指したのは憲政の復活であって革命ではなかった。仕事は723日で終わっていた。政治的経験に乏しい士官学校・軍医学校出の若者が政権の座につけるとは誰も考えていなかった。組織力もなかった。政治は専制期に大宰相の経験あり革命前日7回目の任用を受けたメフメット・サイド・パシャが担当した。

8月スルタンは憲法に反して陸海大臣の任命権は自ら保持するとの勅令を発した。タラートはスルタンと会見、大宰相を解任させ要求どおりの内閣を作った。親英派リベラルのキャーミル・パシャが3度目の大宰相、統一派には入閣者はいなかった。

10月5日混乱を見透かしたようにブルガリアが独立宣言、翌日オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナの併合宣言、クレタはギリシャへの吸収合併を宣言。すべてベルリン条約体制への違反だったが列強は黙認、断食月のオスマンは閣議さえ開けなかった。

国内では首都の港湾労働者とタバコ工場労働者がストライキに入り、これが帝国各地に広がり4ヶ月で111件、分かっている参加者は43千人、専制時代に押さえ込まれていた不満が一気に噴出した。統一派は厳しく対処し、1908ストライキ臨時法を制定、公共の利益のため労働組合は結成禁止、既存組合は解散、ストライキ権は大幅に制限された。

女性も抑圧されてきた。タンジマート以後西洋風になじみつつあった都市の女性に、1901西洋人の子守を雇わないこと、西洋人の店に入らないこと、馬車の中でもヴェール着用が求められた。そして憲法の復活と共に女性たちは団体を作り、新聞に論説を発表し始めた。女子の学校が増え始めた。それを苦々しく思う人もいた。開放的な服で歩く女性を侮辱する事件が続発した。暴力事件も起き、それを警察や軍隊が傍観して憲政の汚点として非難された。

青年トルコ人のリベラルで西洋風なイメージは、民衆にはなじみ易いものではなかった。それを革命後の特権や恩典のカットなど風向きの変化を敏感に感じて宗教関係者は自分の不満を民衆に同調させた。軍隊でもたたき上げの将校が学校出の優遇に不満を持った。多数のスパイは手当てをなくし、失職した役人も多かった。次第に革命への不満が高まった。

190830年ぶりの選挙が賑々しく行われ、議会開会当日には楽隊が議員の馬車を先導した。選挙は公正・自由に行われ、トルコ語を話せないアラブ人議員も問題とならなかった。統一派の支持者は、知的専門職・ムスリムの商工業者・地主であり、非トルコ系住民とも話し合い支持を得ていた。統一派に対抗したのは、かつてパリでアフメット・ルザの中央集権路線と対立したプレンヌ・サバハッティンの地方分権の支持者たちで「オスマン自由党」を結成したが、アンカラで1人当選しただけでサバハッティンも落選だった。

統一派は選挙に勝った。しかし議員の多くは統一派として当選したけれど地方の有力者だった。288名の民族の内訳は、トルコ147、アラブ60、アルバニア27、ギリシャ26、アルメニア14、スラブ系10、ユダヤ教徒4名だった。地方有力者が優勢で、オスマン的多民族多宗教の構成だった

大宰相キャーミル・パシャは統一派を軽視した。彼の敵は宮廷で、統一派はその盾に過ぎなかった。パシャは自由党を支持し、英国大使の支持がその立場を強くしていた。しかし統一派は1909不信任可決でパシャ内閣を倒し、以後英国の後押しで反統一派活動が活発化した。自由党の反統一派活動と別に、キプロス出身のナクシュバンディー教団のデルヴィーシュ・ヴァフデティーが新聞「火山」を発行しムスリム統一委員会を結成し、この新聞を機関紙とした。イスラム的色彩とスルタンへの親近感、統一派が関わるというフリーメーソンへの反感などで、この新聞はメドレセの学生に支持者を伸ばした。彼らは革命後徴兵免除特権を失い、リベラルで世俗的な統一派に反感があった。軍のたたき上げ将校や下士官にも士官学校出の将校に対する反感があった。

このような不満を背景にオスマン自由党がクーデターを起こした。1909首都の歩兵大隊が決起し、将校を捕らえ議事堂を占拠。しかし合流したメドレセの学生が「シャリーアの復活」を叫んで自由党のシナリオから外れ、制御不能となり、議会は開会も出来ず、大宰相は叛徒の要求を入れる方向で辞任。統一派は首都を脱出してサロニカで鎮圧のための「行動軍」を編成、第三軍司令官マフムート・シェヴケト・パシャの支持を得て鎮圧に向かった。参謀にはムスタファ・ケマルとエンヴェルが着いた。行動軍は抵抗も受けず首都に入り。戒厳令を布告、デルヴィーシュ・ヴァフデティーを絞首刑とした。スルタンは議会の投票採決によって退位した。

35 メフメト5190918、アブデュルメジトの子、アブデュルハミトの弟

行動軍を率いたイラク生まれアラブ系オスマン人マフムート・シェヴケト・パシャが圧倒的権力者として現れた。彼は軍が内閣や統一派の影響下に入る事を嫌い、統一派は軍が独走する可能性を懸念した。」。統一派の英国頼りに対し、軍はドイツ軍人顧問を通じドイツの強い影響下にあった。憲政擁護だけが共通項だった。統一派はやがて財務・内務相を送った。議会は憲法のスルタンの特権に絡む条項を修正、集会法・出版法・ストライキ法などを制定し、中央権力強化、支配体制強化を図った。民族名を冠した政治結社は禁じられ、住民は平等の権利義務を負うオスマン人、そのために多少の自由制限は必要と考えられた。

税制改革による収入増は、陸相になったシェヴケト・パシャの主張する軍事費により帳消しにされた。課税強化と政治活動規正法が、1910アルバニア・ムスリムの反乱を誘発、強攻策は効なく、統一派離脱者で民衆党が結成され、統一派閣僚は全員辞職。この混乱にイタリアがトリポリに侵攻(12、ローザンヌ条約でリビア割譲)、野党結成で苦境に追い込まれた統一派は解散総選挙。

棍棒選挙といわれる干渉で統一派は議会も内閣も制したが、野党=「自由と連合党」は下級将校団と連携、沈静していたアルバニアで完全自治を求める反乱が勃発。有力なパシャたちが統一派を見限り始め、統一派除外の内閣が出来、議会解散総選挙。混乱中に191210モンテネグロの宣戦でバルカン戦争。選挙延期でイタリアと休戦。戦争継続の統一派は逮捕され、英国の仲介で1913.5ロンドン休戦会議。

1913クーデターで統一派政権を樹立。エンヴェル・パシャ、タラート・パシャ、ジェマル・パシャの三頭政治、統一派は次第にトルコ民族主義に傾き、民族資本保護・カピチュレーション廃止を宣言したが認められなかった。

 この間マケドニア、アルバニア、リビアを失った統一派政権は、ロシアの汎スラブ主義の脅威に対抗するためドイツに接近し、第1次世界大戦でドイツに加担する失敗を犯した。この戦いではイスラムのアラブがオスマンに反乱し、英国の3枚舌外交でパレスチナ問題の種がまかれた。

36 メフメト6191822、アブデュルメジトの子、メフメトの弟、在位3

 敗戦で政府は瓦解、スルタンは専制政治の復活を狙い連合国に各地の占拠を許し、ギリシャ軍がイズミルに上陸した。この危機にアナトリアで立ち上がったのがムスタファ・ケマルで、アンカラにトルコ大国民議会を組織した。

 連合国は1920スルタンにセーブル条約を押し付け、帝国領の大半の分割を決めたのでケマルはトルコ人の支持を得て、ギリシャ軍・連合軍を追い落としイズミルを奪還したので連合国は、ケマルのアンカラ政府を加えたローザンヌ条約を新たに締結した。

 1922ケマルは二重政府の解消のため、スルタンとカリフの分離、スルタン制の廃止を国民議会に決議させ、廃帝メフメトはマルタに亡命、オスマン帝国は滅亡した。

 1923大国民議会は共和制を宣言し、多民族国家オスマン帝国は、トルコ民族の国民国家に生まれ変わった。カリフという地位も1924廃止され、オスマン家の成員は国外に追放され、オスマン王権は消滅した。

最後のカリフは、アブデュルメジト2192224、アブデュルアジズの子であった。

                           おわり 

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