トルコ近現代史―1699−1999(前編)

        イスラム国家から国民国家へ、新井政美2001みすず書房の要約

1908−1923

               2006.8.04―08.12.29  木下秀人

 第1章から第5章までの記述は「オスマン帝国の盛衰と西欧」と重なるため省略した。この稿も1923年、オスマン帝国滅亡、トルコ共和国成立までの記述は前稿と重複する。

6章 第2次立憲制の時代

1 革命と反革命 

2 「統一派」の失墜と復活―権力闘争と対外戦争

3 「統一派」の改革政治

4 「民族経済」の出現

5 トルコ・ナショナリズムの生成と発展

6 第1次大戦とオスマン帝国の崩壊

7章 独立戦争の展開とトルコ共和国の成立

1 首都の混乱と抵抗運動の準備

2 抵抗運動の組織化

3 独立戦争の展開―東部戦線

4 独立戦争の展開―西部戦線

5 抵抗運動の統一

6 ローザンヌ条約とトルコ共和国の成立

 

6章 第2次立憲政の時代19081918

1 革命と反革命19081909  

革命は内外で歓呼して迎えられた。「統一と進歩委員会」はスパイ網を一掃し、腐敗した官僚を追放しリベラル派と入れ替えた。しかし彼らはスルタンの廃位すら行わず、憲政の復活で満足し体制の根本的変革は求めなかった。彼らは政治経験に乏しく組織力もないので、スルタンが任命したメフメット・サイト・パシャが引き続いて責任の座にあった。統一派は、スルタンの陸海軍大臣の任免権を阻止し、サイド・パシャ解任、親英派キャーミル・パシャによる内閣改造に持ち込んだが、ブルガリアの独立、オーストリアのボスニア・ヘルツェゴビナ併合、クレタとギリシャの合併が列強に黙認され、オスマン側はさしたる抵抗が出来なかった。

国内では、専制支配から解放されて、港湾労働者とタバコ工場労働者のストライキが全国に広がった。統一派はこれを行き過ぎとしてストライキ法を制定、労組結成やストライキを「公共の利益」により抑圧した。「女性解放」は改革派も賛成だったが、民衆には受け入れられず、開放的女性への事件が続発した。旧体制下で優遇されていた階層には不満があった。1908実施の30年ぶりの選挙は祝祭的雰囲気で公正自由に行われ、統一派は大勝したが、その議員の多くは統一派に同意した地方有力者で、288名の内訳は、トルコ=147・アラブ=60、アルバニア=27、ギリシャ=26、アルメニア=14、スラブ=10、ユダヤ=4であった。

大宰相は統一派を軽視した。彼の政敵は宮廷で、選挙で自由党を支持した。統一派は不信任案を可決して内閣を倒したが政治には不慣れ、英国が反対党を支援するなど、政局には不安があった。徴兵免除特権を廃止されたメドレセの学生や、士官学校出に地位を追われた「叩き上げ」将校が、自由党の画策する「反革命」に蜂起し、大宰相は辞任。しかし「シャリーア」の復活を叫ぶメドレセ学生など、蜂起は自由党が描いた方向から外れ、政府議会の反応も鈍く、統一派は軍の支持を得て鎮圧に成功した。戒厳令下、反乱首謀者は処刑、議会の採決によりスルタンは退位、軍を掌握するマフムート・シェヴケト・パシャが圧倒的権力者として現れた。

2 「統一派」の失墜と復活―権力闘争と対外戦争

軍を掌握するシェヴケト・パシャは、軍が内閣や統一派の影響下に入ることを嫌い、統一派は軍が独走の可能性を持つことを懸念し軍の干渉を嫌ったが、下級将校の支持は期待した。統一派は英国頼りに対し、軍はドイツ人顧問を通じてドイツの強い影響下にあった。憲政擁護だけが共通項だった。統一派はやがて財務・内務相を送った。

議会はスルタンの特権にからむ憲法を修正、集会法・出版法・ストライキ法などを制定し、中央権力強化と支配体制強化をはかった。民族名を冠した政治結社が禁じられ、住民は平等の権利義務を負うオスマン人、そのために多少の自由制限は必要と考えられた。

税制改革による歳入増は、陸相になったシェヴケト・パシャの主張する軍事費で帳消しにされた。課税強化と政治活動規制諸法が1910、アルバニア・ムスリムの反乱を誘発、強攻策は効なく統一派離脱者で民衆党が結成され、統一派閣僚は全員辞職。この混乱にイタリアがトリポリに侵攻(−12、ローザンヌ条約でリビア割譲)、野党結成で苦境に追い込まれた統一派は解散総選挙。

「棍棒選挙」といわれる干渉で統一派は議会も内閣も制したが、かもし出された絶望感で野党「自由と連合党」は下級将校団連携、沈静していたアルバニアで完全自治を求める反乱勃発。有力なパシャたちが統一派を見限り始め、統一派除外の内閣が出来、議会解散総選挙。混乱中に1912.10モンテネグロの宣戦でバルカン戦争。選挙延期でイタリアと休戦、戦争継続の統一派は逮捕され、英国の仲介でロンドン休戦会議。

統一派はクーデターで陸相射殺・大宰相辞職させさが権力奪取はせず、これを見たバルカン諸国は攻撃再開、3月エディルネ(トルコ西北端オスマンの古都)陥落5月平和条約で反対派が活発化し、6月大宰相シェヴケト・パシャ暗殺。これには統一派ジェマルが、徹底した反対派摘発・追放で応じ、統一派はやっと自派でエジプトのアリーの孫=サイト・ハリム・パシャを大宰相とする統一派内閣を成立させた。

3 「統一派」の改革政治

バルカン諸国は相互利害対立で、ブルガリアがセルビア・ギリシャを攻撃、オスマンもブルガリアに宣戦、1913.8ブカレスト条約によってオスマンはバルカン領の殆どを失ったが、エンヴェル率いるオスマン軍のエディルネ奪還によって、統一派特にエンヴェルは威信を高め、パシャ・陸相・参謀長となり、スルタンの姪と結婚した。イスタンブル軍政長官として反統一派追放に功あったジェマルもパシャ・海相(陸軍だったが)となり、内相だったタラートは1917大宰相就任までパシャを辞退したが、再度財務相になったジャーヴィトとともに改革推進に当った。しかし軍人と文官との内部対立が表面化していた。

統一派は、非トルコ系住民に対する融和策として、小学校までだった地方ごとの母語による教育を中学校まで認め、地方法廷で地方言語の使用、派遣官吏は地方言語に通じたものとする、地方に財政権限委譲法などの改革を行った。バルカン戦争によってオスマン帝国は、アラブを主要な構成要素とするムスリム国家となったことに起因する。統一派はアラブ改革派のパリ会議にメンバーを送り、アラブを帝国に引き寄せようと考え始めた。

バルカン領喪失によるアラブとイスラムへの重心移動は、イスラム改革を標榜する雑誌創刊などの改革をもたらした。しかし復古指向ではなく、ウラマーの頑迷を批判し国家が替わって宗教管理=時代の変化に即応した法の制定を指向した。

改革は1915以降具体化した。シェイヘル・イスラム=最高法学者の管轄化にあったシャリーア法廷を法務省に移し、裁判官の任命も法務省の下に移し、シェイヘル・イスラムを閣議から外した。ワクフ管理権もメドレセやモスクの財務権とともにワクフ省に移し、メドレセの教育内容も教育省の監督下に置いた。国家の運営するメドレセが作られ、神秘主義教団の法による統制も具体化され、「イスラム化」と国家による宗教管理=「世俗化」が表裏一体で推進された。

1917家族法が制定され、女性は結婚契約時に夫が第2夫人を持つことを禁じ、不履行には離婚請求できることが明記された。ムスリムにもキリスト教徒にも歓迎されず、1920連合軍の占領後は機能しなかったというこの家族法は、女性の地位向上には大きな意義を持った。エンヴェル・パシャ夫人を総裁とする「女性就労促進イスラム教会」が設立され、女子教育ではイスタンブル大学に1915女子部が設置された。

4 「民族経済」の出現

自由貿易体制下で西欧資本に従属し、半植民地的状況にあったにも拘わらず、財務相ジャーヴィト始めオスマン人経済学者は自由貿易支持であった。自由貿易で利益を得たのは非ムスリムで、低率関税はムスリム職人のギルド組織を解体、ムスリムの困窮度は増す一方だった。バルカン戦争というオスマン人に絶望感と悲観論を広げた戦争の間に、経済ナショナリズムがやっと芽生えた。オスマン在住ギリシャ正教徒住民の敵国ギリシャへの献金を契機に、ギリシャ商店ボイコット運動が発生、替わって500軒を越えるムスリム商店が開店し、ムスリム商業委員会が、非ムスリムを含むイスタンブル商業会議所に対抗した。宮廷を含む体制内に支持基盤を持たない統一派は、大衆動員という新しい政治手法を多用し、ナショナリズムがトルコ人とその居住するアナトリアに目を向けさせた。

バルカン敗戦でトルコ系難民が続々流入する中で、内相タラートは、ギリシャ系住民をギリシャに移住させるため、秘密組織を使ってギリシャ人を恐慌に落し入れ、移住を余儀なくさせた。バルカンからの流入難民は27万人、ギリシャへの移住民は15万人。このギリシャ人と後の強制移住で退去のアルメニア人に替って、ムスリムが会社を作り経済活動を担うことが奨励された。大戦中の不当利益予防委員会も非ムスリムを集中的に摘発したから、ムスリム・トルコ人の会社設立は急増し、大戦中の食糧供給独占で大儲けした商業特別委員会が資本金を支えた。民族資本が育成された。

民族経済育成の障害が対外債務とカピチュレーションなことは明白だったから、1914統一派は大戦参戦につきドイツと密約し、債務支払い停止を宣言、カピチュレーションをも廃止した。外国企業が享受した特権は廃止され、1917民族信用銀行が設立され民族会社を支援することが定められた。この銀行の事務手続きはトルコ語で行われると規定された。

大戦による敵国企業の接収と民族資本への譲渡で、英仏資本の抜けた穴を同盟国=ドイツ資本が埋めることが期待されたが、外資導入は進まず、軍需優先の物資国家管理で物価は高騰、生活は急速に悪化した。消費物価指数1914100は、19181823に跳ね上がった。1916最後の非トルコ系ムスリム=アラブが、英人ローレンス指導下で反乱を起こした。

5 トルコ・ナショナリズムの生成と発展

19世紀、西欧ナショナリズムが影響し始めた頃でも、オスマンの支配階層はトルコ人独占ではなかった。「平等」原理で官僚機構に立身する非ムスリムが増大した。支配者集団で「トルコ人」とは、アナトリアの粗野で無知な農民・遊牧民であった。バルカンで独立運動やテロ活動を行うキリスト教徒の鎮圧に向かったオスマン軍は、多民族のムスリムからなるオスマン軍であった。オスマン帝国はイスラム史の最先端を担う存在だったのに、トルコ人が、イスラムと無縁の地域から移住してきたトルコ系民族の末裔であることを話題にしたのは西欧の影響だった。

オスマン帝国の衰退で、トルコの脅威から開放された西欧では、東方文物を愛好するトルコ趣味が流行した。言語や歴史のトルコ学も進展し、それに改革で西欧に留学し亡命した知識人が同調し、歴史や文法で幾つかの著作も成された。文学作品も生まれた。しかし彼らはオスマン国民だった。

帝政ロシア領内でトルコ系ムスリムの民族運動も始まっていた。中央アジア交易や繊維工業で繁栄していたタタール人が、ロシア人と対立し、ロシア化が強要されるに及んで民族運動が盛り上がり、ロシア領内全ムスリムの一体化の共通言語として共通トルコ語が掲げられ、ロシア政情の変化とともに政治化した。

オスマン・トルコ人間で、ペルシャ語やアラビア語によって粉飾され難解となったオスマン語を簡略する運動が始まっていた。民衆がエリートの言葉を理解できないことから、文語を口語に近づける運動があった。雑誌が創刊され、ペルシャ語アラビア語の影響を排した簡略なトルコ語が主張された。具体的な作品も発表され、政府の支援もあり、国民全体への知識の普及が国家再建に寄与する=トルコ人の民族的覚醒がオスマン帝国を救う決定的要因と考えられた。ロシア領内のトルコ人の評判など関心の外だった。しかし野蛮な征服者ティンギス・ハンや血に飢えたタタール=ティムールがトルコ民族などと論争を提起した雑誌が合流し、トルコ・ナショナリズムは権力の近くで大きなうねりとなっていく。

イスラムにナショナリズムはないにも拘わらず、ナショナリストは、西欧文明にイスラムを調和させ、ムスリム・トルコ人がそれに主体的に参入することを主張した。アナトリアとその住民が重視された。デュルケームの多元主義社会学が、多民族多宗教のオスマン社会に調和をもたらす特効薬として学ばれ、過度の個人主義で原子的個人に分解された社会を、職能団体を基礎にして救い出そうとするギョカルプの提示する枠組みは、後のトルコ共和国へのイデオロギー的基礎を提供した。

6 第1次大戦とオスマン帝国の崩壊

オスマン帝国は欧州で孤立していた。昔日の栄光を失い瀕死で、民族主義による独立、西欧の領土拡張の対象となっていた。民族主義に対しイスラムによる統一を指向し、近代的改革で西欧の理解を得ようというオスマン知識人の目論見は外れた。孤立を脱するため、ロシアとの同盟を持ちかけたが、サラエヴォ事件の直後で英仏がロシアと接近中だったから拒否され、タラートと、エンヴェルが独断でドイツとの交渉を成立させた。

木下説 なぜ中立を選ばなかったのか。日本がロシアを破ったのを歓迎したはずではなかったか。普仏戦争でフランスを見限ったとしても、英国を見誤った。最悪の選択だった。

 戦争が始まると、募金までして英国で完成した戦艦2隻は接収され、黒海に逃げてきたドイツ軍艦2隻を購入してロシア要塞を砲撃、英・仏・露に1914.11宣戦布告、シェイヒェル・イスラムが聖戦=ジハードを宣言した。既にマルヌの会戦が膠着して、短期決戦戦略に誤算が明らかなドイツにオスマン軍は加担し、ドイツの要請でカフカスやスエズに軍を展開させた。エンヴェル・パシャ指揮のカフカス戦は、厳冬の山中行軍で支援無きまま孤立敗走した。このロシア軍の勝利が、オスマン領内のアルメニア人のロシア軍への参加・オスマン軍からの脱走・ゲリラ化を引き起こし、この「反国家的行動」に対しシリアの砂漠地帯へのアルメニア人の強制移住が、6080万人の犠牲者をだし問題となる。スエズ運河への攻撃も失敗し、ドイツの作戦計画による攻撃はいずれも成功しなかった。

 連合国側は、8万の英・墺軍をゲリボル半島に上陸させたが、オスマン軍はこれを撃退、ムスタファ・ケマルの勇名が広まった。ケマルはアナトリアでもロシア軍をも撃退、この軍事的才能と政権中枢からの距離が、後に彼を独立革命戦争の指導者に押し上げた。

 イラクでは、英軍がバスラに上陸、バグダッドを目指したが、オスマン軍に敗れたので、新たに英・印連合軍を追加投入しバグダッドを陥落させた。インドの参戦は、メッカのシャリーフ、フセインの反乱とともに、オスマンの汎イスラム主義的宣伝とジハード宣言が無力だったことを見せ付けた。オスマンの全面的敗色が濃厚となった。

 1917ロシア革命は、ロシアの東部アナトリアからの撤退と1878ベルリン条約で奪われた領土の返還をもたらした。しかし1918共にドイツ側で参戦したブルガリアが降伏、独・墺も休戦申し入れで、オスマンも1918.10.30レムノス島のムドロス港で休戦協定に調印した。既に1916サイクス・ピコ協定で、オスマンの分割は協定済みだった。統一派は、連合軍による首都の占拠を想定して、アナトリアへの遷都、そこからの再起を期した。

 

第7章      独立戦争の展開とトルコ共和国の成立 19181923 

1 首都の混乱と抵抗運動の準備

 タラート・パシャは失政を認め、他の中央委員とともに統一派幹部を辞し、ドイツ魚雷艇で首都を脱出しベルリンに行き、何人かはアルメニア人に暗殺された。休戦協定には東方6州はアルメニア人の州と記され、「強制移住問題」の責任追及が公言されていた。

 統一派が消えた首都では、兄の1918.7の死去で新スルタンとなったメフメット619181922が実権回復の画策をした。押さえ込まれていた「自由と連合党」も息を吹き返した。親英派の大宰相は、英国の意向もあり、統一派の勢力一掃で有力メンバー100名ほどを逮捕、アルメニア人虐殺などの責任を追及し、マルタ島へ流した。しかし統一派の勢力は既にあらゆる分野へ着実に浸透していた。議会・官僚機構ことに軍と警察、地方でも大きな影響力を保持していた。1918.11.11統一派は「再生党」を結成、統一派で非主流だったアリー・フェトヒはオスマン自由主義者民衆党を組織、この党にムスタファ・ケマルが参加した。

 統一派は、休戦直前に地下組織「カラコル」を作り、メンバーを護りアナトリアへ逃がすこと、アナトリアでギリシャ人やアルメニア人に対する抵抗運動を組織し強化することを目的とした。連合軍に押さえられた武器弾薬を奪取しアナトリアに送った。

 政府と宮廷は、議会を解散、統一派に圧迫を加え、再生党の活動も禁止した。イスタンブルの保全を願い、英国を恐れていた。

 連合軍は、戦時中の密約に添ってオスマン領を分割する必要があった。1916.5サイクス・ピコ協定では、英国はバグダッドを含むメソポタミア南部とパレスチナのハイファ、アッカ両港、フランスはシリアとキリキア地方、イタリアはアナトリア南西部を占領と約されていた。連合軍がこれら地域の占領を重く感じているのを知ったギリシャが、アナトリアを受け持つことが英国の後押しで認められ、ギリシャ軍はイズミルに上陸してエーゲ海沿岸を占領した。

 オスマン政府は抵抗運動抑圧に走った。抵抗運動側は、高い威信を持った指導者を求め、ムスタファ・ケマル・パシャに接近した。ケマルは盟友アリー・フェトヒが逮捕された時、アナトリア行きを決断した。彼の忠誠心を確信していたスルタンと政府が、彼を第9軍監察官に任命し、黒海沿岸サムスン地区のキリスト教徒とムスリム・トルコ人との衝突を抑えるよう命じた。抵抗運動はようやく象徴的な「指導者」を得た。

2 抵抗運動の組織化

 1919ケマルは英軍占領下のサムスンに上陸、既にギリシャ軍が侵入していて戦うしかなかったが、不正規兵を含めても弱体な軍事力では、ゲリラ戦しかなかったし、フランスが占領する南部アナトリアには、占領軍が支援するアルメニア人との緊張関係があった。しかし東部にはアゼルバイジャンから帰還した第15軍団がカラベキル指揮下で健在で、中部のアンカラにいたアリー・ファト指揮の第20軍団とともに独立戦争に重要な貢献をすることになる。

 ケマルは、祖国の危機と中央政府の無能を訴えた書状を回し会議を開こうとし、政府はケマルを解任、逮捕を命じるが、カラベキルは拒否。エルズルム会議でケマルは、1東方諸州を分離しない、2スルタン・カリフ位保全のために国民軍が必要、3ケマルを長とする委員会を立ち上げた。東部を米国の委任統治にする案は否定した。ケマルは中央の「カラコル」とも接触し、被占領地域では地下組織が有効でも、それ以外では彼の委員会が抵抗運動を主導するとの意思を明確にした。中央では大宰相が替わって、ケマルと妥協が成立し、10月総選挙で抵抗運動側が過半数となったが、これは旧統一派の組織力の勝利だった。ケマルは新議会をアンカラの彼の委員会の影響下に置くことに成功した。

 新議会は、1920.1国民誓約6ヵ条を採択した。1 アラブが多数で占領下のオスマン領の将来は自由投票で決せられ、それ以外は分割されない。2 ロシアから解放後自由意志で祖国に加わった東北アナトリアに再度住民投票を受け入れる。3 西トラキアの法的地位は住民の自由投票による。4 イスラム・カリフとオスマン・スルタンの王座のあるイスタンブルとマルマラ海の安全は守られるべきである。ボスフォラス・ダーダネルス両海峡は開放を認める。5 少数民族の権利はムスリム大衆と同じに保障される。6 我々にも自由と独立が必要、政治・司法・財政の発展を阻害するいかなる制限にも反対する。外債の支払い方法もこの原理に従う。

 この内容は、当然連合国の思惑と乖離していたので、英軍はイスタンブルを占領し、オスマン側の唯一の執行機関としてアンカラの委員会の存在がクローズアップされた。占領で「カラコル」の活動は決定的な打撃を受けたが、殺害・逮捕の混乱中にケマルの要請で88人の議員がアンカラへ脱出した。4月スルタンが議会を解散すると、脱出議員に選出議員349人を併せて、アンカラで1920.4「大国民議会」が開かれ、ケマルを議長に選任した。ケマルはトルコでなくオスマンを使わざるを得なかったが、この議会は占領以降のイスタンブル議会の決定をすべて無効と宣言し、5月内閣を組織、アナトリアの抵抗運動はケマルに指導される革命政権として立ち上がった。

3 独立戦争の展開―東部戦線

 中央政府では替わった大宰相が、「叛徒の殺害が宗教的義務」というファトワを出させ、ケマルの国民軍に敵対する不正規軍をカリフ擁護軍としてケマルを牽制した。中央の軍事法廷は、ケマルやアリー・ファト等に死刑を宣告した。これに対しアンカラでは、ケマルが「スルタンに忠実宣言」や「抵抗運動が合法」というファトワを地元の法学者に出させたり、議会が大宰相を非国民・反逆者と宣言したり、祖国反逆罪法を制定し「スルタン・カリフの救済者」である大国民議会に対する反抗を祖国に対する反逆と規定し、その場で裁き刑を執行する権限のある独立法廷法も成立させた。しかし当初アンカラ軍は反革命軍に敗れ、それを見た連合国はエーゲ海沿岸駐留のギリシャ軍を内陸に向け、英仏両軍もマルマラ海・黒海沿岸に展開、国民軍を圧迫した。

1920.8.10連合国は中央政府とセーヴル条約を締結、オスマン帝国は僅かを残して分割・植民地化された。東トラキアとイズミルはギリシャに割譲、ボスフォラス・ダーダネルス両海峡は開放され沿岸は非武装化、東部アナトリアはアルメニアとして独立、レバノン・シリアはフランス委任統治、アナトリア東南部はフランスの勢力圏、イラク・パレスチナ・トランスヨルダンは英国の委任統治、キプロスは英国領、アナトリア南西部はイタリアの勢力圏、エーゲ海上の諸島はイタリア領、モースルから北のクルディスタンはオスマン領だが自治権付与、ヒジャーズはアラブ人国家として独立。オスマン領として残ったのはアナトリア中北部の残りとイスタンブルだけであった。廃止宣言したカピチュレーションが復活され、英・仏・伊の財政委員会が財政を統括、ギリシャ軍の侵攻は是認された。

 唯一の光明はソビエトによる20.6国民誓約の承認で、抵抗運動の国外承認1号となった。ボリシェヴィキとの接触はエンヴェルにより始められ、カラコルと1920.1相互援助友好条約まで成されていた。ケマルは連合軍のイスタンブル占領で、カラコルを解散して国民擁護団に替え、ボリシェヴィキと西欧植民地主義との戦いで協力する意思を表明していた。その結果が誓約承認であった。しかしアルメニア問題が障害となった。ザカフカスで成立したダンナク派のアルメニア政権は、ブレスト・リトフスク条約でオスマンに返還されたアナトリア東部3州をも併合すべく進撃を始め、これにカラベキルは反撃し1920.12ギュムリュ平和条約をダンナク政権と締結、しかし赤軍はエレヴァンでアルメニア社会主義ソビエト共和国を成立させていたので、領土の決定はモスクワ政府との条約に持ち越された。しかしアンカラ政府は、セーヴル条約によるアルメニア国家建設を阻止した。

4 独立戦争の展開―西部戦線

 1921に入るとギリシャ軍は、ケマルがアリーに替えて総司令官としたイスメットの軍に敗退した。革命軍が挙げた初めての勝利でアンカラは威信を高め、選挙で破れた大宰相に替わり政権を取って攻勢を仕掛けたギリシャ国王は威信を失墜した。ケマルのアナトリアでの運動が押さえきれないと見た連合国に、過酷なセーヴル条約見直しの機運が高まり、1921.2.21ロンドンで予備交渉が中央政府とアンカラ政府も加えて始まった。セ−ヴル条約に固執するギリシャと、国民誓約にこだわるアンカラ政府に妥協はなく、アンカラ政府は、ギリシャ・英国に違和感を抱く仏・伊と、アンカラ政府承認への交渉を始めた。

 1921.3.16モスクワでアンカラ政府との友好条約が締結された。ギリシャは武力攻勢に出てトルコ軍に破れ、英国の援助を得て国王自らイズミルに上陸、トルコ軍はアンカラの50キロ地点まで押し戻された。議会の批判派から3ヶ月の非常大権を付与されたケマルは、地域住民の支持を得て総力戦を展開し、9.13ギリシャ軍の進攻を止めた。戦線はなお1年膠着したが、ケマルは議会から「元帥」と「イスラム戦士」の称号を与えられ、フランスが条約を締結してキリキアから撤兵したので、トルコ軍は南部の部隊を西部に向けることが出来た。1922.3英・仏・伊はギリシャ・イスタンブル・アンカラ3政府に停戦を呼びかけるが、ケマルは受けず、内部対立のギリシャ軍を破りイズミルに入り、さらに英軍が臨戦態勢で待つ海峡地帯に進軍した。既に仏・伊軍は引き揚げていたので、連合軍司令官は和平を決断、ギリシャ艦隊を退去させた。ギリシャの政変で国王が退位したことが状況の転換を促した。英国はギリシャに、東トラキアからの撤退を求め、1923.10.3ムダニアで講和の運びとなった。

5 抵抗運動の統一

ケマルの前には2つの障害があった。旧統一派と左派である。カラコルに象徴される旧統一派は大きな役割を果たしたが、彼らは第2次立憲体制の復活を指向し、国内はケマルの統制下に収まったが、海外にエンヴェル・タラートなど大物が健在だった。エンヴェルは地方に声望あり、ボリシェヴィキと接触するなど左翼運動を利用して復権を目論んでいたが、ソビエト政府との条約締結で単独入国した時ケマルがギリシャ軍を破ったのを知り、中央アジアへ去り二度と戻らなかった。旧統一派に指導者がいなくなった。

 左派は1920.9緑軍結成で姿を現した。イスタンブル政府がケマルの運動をボリシェヴィキ・無神論者・不信仰者と非難したので、アンカラ側は民衆・兵士に、ボリシェヴィキ運動がイスラムの実践に他ならないことを納得させる必要があり、ムハンマドが好んだ緑を冠した緑軍が作られた。ケマル承認の、共産主義=反帝国主義=イスラムの実践という看板を掲げたが、それは逆に、マルクスや社会主義に傾倒する左派に活動の場を与えた。

 チェルケス・エトヘムは、西トラキアでゲリラ活動を経験し、特別部隊から武器弾薬資金の提供を受け、西北アナトリアに強力なゲリラ部隊を作り上げ、1920.5アンカラの東方の反革命蜂起鎮圧を任され緑軍に参加した。共産主義こそ唯一の開放の道というエトヘムは、緑軍のエスキシェヒール本部を手中に収め、イスラム的ボリシェヴィキ主義の新聞を発行。アンカラのケマルは緑軍を解散したが、この勢力の本拠は武力を備えたエスキシェヒールにあり、アンカラでも共産主義に親和な議員が人民グループを結成、7080名の勢力となった。進行中の対ソ交渉を考慮すると弾圧も出来ない。ケマルはトルコ共産党を作って人民グループの無力化を図ったが成功せず、彼らが作った人民社会主義党を党員逮捕で解党し、党の主な人は独立法廷で懲役刑とした。軍事力を持つエトヘムには、軍を送って破り、エトヘムはイタリアに流された。 バクーのトルコ共産党スプヒは、議会と連絡のためアンカラへの途中、アンカラ側の嫌がらせが激しいのでソ連領事が保護のため送還を要請、その船中で一行は暗殺された。左派も障害でなくなった。

 ケマルは1921.1.20議会で「基本組織法」=憲法を成立させていた。国民主権の共和制、立法権と行政権を議会に与え、トルコ国家が議会に統治され、議長に議会と内閣を統括する権限を与えるというこの基本法で、ケマルは立法・行政の両権を手中にしたが、スルタン・カリフの存在は無視されていた。ボリシェヴィキに対するケマルの融和的態度に懸念する議員=旧統一派もいた。ケマルは議会で支持基盤を固めるため、1921.5「権利擁護グループ」202名を与党として作り、ケマルの救国の英雄としての地位が強まり始めた1922.72権利擁護グループ63名が野党として結成された。無所属は90名であった。第2グループは、ケマルに抵抗ではなく、議会の議論の民主化・自由化を求め、ケマルに与えられ延長された「非常大権」法の解除・独立法廷の廃止、ケマル独裁化の抑制を目指した。課題は多かったが、時代はケマルに追い風だった。

6 ローザンヌ条約とトルコ共和国の成立

 連合国は、1922.10.27セーヴル条約改定の協議をローザンヌで開いた。招聘状がアンカラとイスタンブルに送られ、大宰相は共同代表をアンカラに提案、アンカラは議会が唯一の代表と回答、イスタンブルがこれに同じなかったので、議会は11.1スルタンとカリフの分離とスルタン制の廃止を決議し、大宰相は辞職、イスタンブルもアンカラの統治に服することになった。連合国もこれを承認した。オスマン帝国は1922.11.4で滅亡した。廃帝メフメト6世は11.17英国の軍艦でマルタに亡命した。議会は11.18前スルタンの従弟を新カリフに選任した。スルタンとカリフをめぐって議論があったが、ケマルは、カリフの職責は明言せず、称号の「神の使徒の代理」を認めず、「ムスリムのカリフ、二聖都の守護者、アブデュルアズィズ・ハーンの息子」のみを認めた。カリフ制の廃止と共和制の宣言が視野に入っていた。

 1922.11.20講和会議の代表には、ケマルの忠実な支持者で2度の戦勝を指揮したイスメットが外相となって選ばれ、愚直に国民誓約からの逸脱に反対して会議を中断・難航させ、7月カピチュレーションとオスマン債務管理局の廃止を含む国民誓約を認める内容で調印された。トルコ独立戦争の勝利であったが、二つの海峡は国際管理で非武装、既存外国企業の特権は継続、関税自主権が1929まで認められないなど譲歩もあった。議会は1923.8.23反対14名のみで批准した。既に第二グループは存在しなかった。

 ケマルは、講和会議中断中に総選挙を実施し、9原則を発表した。

@国民主権の堅持 Aスルタン制廃止、ただカリフはムスリムの最高機関 B国内治安の維持 C裁判の迅速化 D経済社会改革10項目(10分の1税是正 タバコ生産流通への援助 農工商業への貸付 農業銀行への資本金増加 農業機械化 工業育成 鉄道建設 初等教育の画一化と学校の拡張 衛生と社会保障の充実 林業・工業・牧畜業の発展) E徴兵期間の短縮と教育程度による期間の差異化・軍人の安全の保障 F予備仕官・傷病兵・退役者・寡婦・孤児への援助 G官僚機構の改革と知識人の公的任務への採用 H公共事業のための合弁事業の奨励と民間企業の保護

 その前文で第1グループを人民党に改組、さらに「議会の合法性に異議を唱え、スルタン制の復活を主張する者を祖国への反逆とみなす」という内容の祖国反逆罪法の改定を、第二グループの反対を押し切って可決。翌日議会解散・総選挙で、候補者はケマルに厳選されたので、第二グループは殆ど当選できなかった。新議会はケマルを議長、アリー・ファトを副議長とした。不満は抵抗運動に早くから参加してきた将軍たちに高まった。ケマルが自分たちより新参の位階の低い者を重用し、自分たちを政策決定から遠ざけている。それは背信と思われた。首相だったラウフは、イスメットが自分の頭越しにケマルと相談するのに怒り、辞任しアンカラを去った。1923.9.27新聞にケマルの「アンカラはトルコ共和国の首都」と発言した記事で、スルタン制と分離されたカリフ制がどうなるのか、議会は混乱しアリー・ファトは副議長を辞任、首相と内相兼務のアリー・フェトヒも内相職を返上、議会は副議長に、ケマルの推すイスメットを拒み,反ケマルのラウフを選んだ。

ケマルはこれを好機とし、内閣を総辞職させ、議会が首班に指名しそうな人に指名を受けないよう命じ、行き詰った議会が相談に来た時、イスメット首相と共和制宣言を示した。激論の後、反対ゼロでこの提案は可決され、1923.10.29トルコ共和国が誕生した。ケマルは大統領、イスメットは首相になった。

しかし1911.9イタリアのトリポリ侵攻から1922.9ギリシャ軍をエーゲ海に追い落とすまで11年続いた戦争で、兵力を供給したアナトリアのムスリムは250万人が死んだ。人口の2割近い数字だった。寡婦が3割を超える州も10以上、150万のアルメニア人とさらに住民交換の結果90万のギリシャ人の殆ども消えた。

トルコは人口を減らしただけでなく、長年商工業で都市を支えてきた貴重な人々を一挙に失い、疲弊したムスリムの農民と遊牧民が圧倒的な、トルコ語とクルド語人口に限られた国へ変貌した。

経済は戦争によって破滅的な状況だった。もともと大きな産業のない農業国だったが、先進地帯だった西南アナトリアがギリシャ軍の侵攻で壊滅し、企業家は多く国外に脱出した。インフレは天文学的で、対外貿易の落ち込みもひどく、オスマン時代からの対外債務中ドイツの1億7千万ポンドは帳消しにされたが、連合国の分は、独立した諸国に割り振った12938万リラの65%=8459万リラ=7800万ポンドが新生共和国に降りかかった。

                          おわり  

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