トルコ近現代史―1699−1999(中篇)

        イスラム国家から国民国家へ、新井政美2001みすず書房

  1923−1999

               2006.8.18−08.12.29  木下秀人

中篇目次

これまでの要約 1 オスマン帝国の劣勢  2 民族独立という刃  3 東西貿易とイスラムの掟  4 治外法権と関税自主権  5 近代化への模索―フランスから英国へ  6 新オスマン人の改革  7 憲法と議会―停止の30年間

  8 汎イスラム主義と汎スラブ主義―バルカン半島  9 青年トルコ人革命

10       トルコ共和国の誕生

8章 一党支配の時代  1 カリフ制の廃止と新憲法の制定  2 反対派の組織化―進歩主義共和党  3 クルド人の反乱  4 世俗化改革の断行と反対派の一掃  5 自由共和党の実験―野党勢力を認めるか  6 共和人民党の「六本の矢」  7 一党支配化の文化政策―「イスラム」から「トルコ」へ  8 アタチュルク―イノニュ=イスメット間の軋轢とアタチュルクの死  9 一党支配の経済発展  10 一党支配期の国際関係  11 第2次大戦とトルコ

9章 複数政党制への移行  1 トルコ社会の変容と民主党の結成  2 複数政党制と政治文化の変容

以下、後編

10章 民主党の時代  1 民主党政権下の経済発展  2 イスラムの復活?    

  3 民主党時代の国際関係  4 反政府運動の高まりと1960年クーデタ

   第11章 第2共和制の時代  1 体制の変革  2 新憲法の発布と民政移管

     3 デミレルの登場  4 60年代の経済発展  5 社会の変容と政治の多様化

     6 軍部の「最後通告」  7 70年代前半の政局  8 70年代後半の内政

     9 軍事クーデタ  

   終章 第三共和制―21世紀を迎えるトルコ  1 軍政と総選挙  2 政界の再編と旧指導者の復権  3 80年代の経済再建  4 イスラム主義の高揚と繁栄党の躍進  5 21世紀へ向かうトルコ

   おわりに

 

これまでの要約

1 オスマン帝国の劣勢

1453、ビザンツ帝国を滅ぼしたメフメット2世は世界帝国の真の皇帝を自認したが、1529スレイマン1世のウィーン包囲は、堅固な要塞と冬の到来で撤退せざるを得なかった。

1699、第2次ウィーン包囲は失敗した。カルロヴィッツ講和条約が結ばれた。西欧のオスマンへの反撃が始まった。ルネッサンスと大航海時代を経て、西欧はイスラムから受け継いだギリシャの科学・哲学を消化発展させ、シルク・ロードに代って3本マストの帆船による東洋貿易ルートを確保し、科学技術の進歩でも経済活動でも、かつてのイスラム世界をはるかに凌駕していた。しかしオスマン帝国はそれに気づかなかった。

2 民族独立という刃

西欧は30年戦争=宗教戦争後のウェストファリア条約で、国民国家=領域国家という枠組を獲得し、民族独立という概念の多民族多宗教並存国家への適用によって、バルカンや中央アジアで独立運動を起こし、オスマン帝国を揺さぶり弱体化させた。神聖ローマ帝国ハプスブルグ王朝もこの影響を受けた。ロシアはギリシャ正教徒=ロシア正教徒保護を名目に介入し、南進政策で何度も戦争=露土戦争・クリミヤ戦争を仕掛けた。ロシアの東方進出は英国を刺激し、オスマンは列強の勢力争いに巻き込まれた。

3 東西貿易とイスラムの掟

かつて西欧諸国が傭兵に頼っていた時、オスマン常備軍の破壊力は抜群だったが、西欧近代科学は軍備も充実させ、伝統技術のオスマンに引け目を感じなくなった。征服で獲得できる領土や財産はもはやなく、東西貿易独占の利益も失われたオスマンに、内外戦費の負担は重かった。国家財政はすっかり疲弊した。さらにイスラムの利子禁止は厳格だったので、金融業や為替の扱いはキリスト教徒かユダヤ教徒が担当した。商工業もイスラムは苦手で、専ら農業や牧畜といった第1次産業が主体のイスラムは、近代産業社会=資本主義社会システムに対する順応性に欠けていた。

4 治外法権と関税自主権

西欧がオスマンの多民族多宗教間の差別撤廃を求め、自由貿易主義で関税引き下げを求めた時、オスマンはこれに応じた。領事裁判権や関税自主権について問題意識がなかった。金融システムを異教徒に任せつつ、多額の外債で関税収入すら担保に取られる始末。オスマン帝国はたちまち財政破綻に追い込まれた。計算というものが存在しない、不思議な国家運営、それがオスマンの近代だった。第1次大戦でドイツ側について負けたオスマンは英・仏・露・伊によって領土を分割支配され、アルメニアの独立を認めさせられ、国家滅亡の危機に追い込まれた。

5 近代化への模索―フランスから英国へ

オスマンの近代化は、(1)1729フランス人の指導による砲兵隊改革で始まり、ルイ16世を理想の君主と仰ぐ(2)セリム317891807のニザーム改革(洋式軍隊の創設・行政改革・大使館設置)は頓挫したが、(3)マフムート2180839は、イェニチェリをつぶし、ウラマーの経済基盤=ワクフを政府の管理下に入れ、翻訳通訳の育成・留学生派遣・大使館再開などを実施したが資金に苦しみ、貨幣改鋳・英国と自由貿易協定に調印、財政破綻の端緒を作った。

エジプトのアリー軍との「内戦」に敗れた危機にスルタンが死去し、後任は16183961で、(4)英国大使だったレシト・パシャ大宰相が就任し、若いスルタンに1839「ギュルハーネ勅令」を公布させ、英国の主導の下、露・普・墺の支持を得てアリーをエジプトに追い返し、「タンズィマート改革」が始まった。列強にカピチュレーションを逆手に取られて非ムスリムの権利保障を押し付けられ、各種評議会は非ムスリム優位に決定、人頭税は廃止、立法司法や教育改革など意欲的ではあったが列強の圧力と旧勢力との妥協で不徹底、近代システム導入に対するイスラム保守派の反感が、1859スルタン交代を求める陰謀として発覚した。

6 新オスマン人の改革

政府内部に新オスマン人という若い改革派が育っていた。新スルタンは改革に熱意を示さなかったが、改革派は皇太子やその弟と結びパリ・ロンドンから故国の専制政治を弾劾した。「ムスリムと非ムスリムの平等」批判から彼らは、非ムスリムを切り捨て、ムスリムの国民国家の実現を期した。トルコ語は公用語だったが、アラビア語やペルシャ語を取り入れた文語で、共通な国語はなかった。クリミヤ戦争の出費で税収は既に借金の担保、1863発券銀行すら英仏資本という始末、1875政府は2億ポンドの債務のデフォルト=財政破綻を宣言した。メドレセ学生のデモで大宰相が交代、軍隊が宮殿を囲んでスルタンも退位。

7 憲法と議会―停止の30年間

身近に2人の廃位をみた(5)新スルタン・アブデュルハミド2世は用心深く、西欧介入のミドハト憲法と議会を容認したが、自ら挿入した緊急事態条項を適用し、1878議会の一時停止・憲法停止を宣言、30年に及ぶスルタンの専制政治を始めた。最初の6年に15人大宰相交代、後の25年は8人で間に合わせた。鉄道建設でフランスとドイツを起用、世界のムスリムの基金で聖地と結び、農民の労役で道路建設、郵便・電信事業なども発展させた。スパイ網を張り巡らせた暗黒政治だったが、教育は普及し、識字率向上で新聞も発行、財政は列強支配の下に置かれた徴税システムは近代化された。

8 汎イスラム主義と汎スラブ主義―バルカン半島

非ムスリムを分離し、諸々のムスリムをイスラムで統合しようとする考え方は=汎イスラム主義は西欧に受け入れられなかったが、非トルコ系ムスリムの忠誠心の確保には成功だった。問題はロシアだった。その南下策=汎スラブ主義を阻止すべく英・墺・独は1878ベルリン条約でオスマン・ロシア条約を改定、オスマンは領土5分の2、人口550万人を失い、難民を受け入れねばならなかった。アルメニア過激派学生が爆弾テロで報復の連鎖、マケドニアでもテロ・暴力が横行、それを抑える治安特殊部隊から、青年トルコ運動の指導者が育ち、1894「統一と進歩委員会」は穏健路線だったが、1896過激派が宮廷革命未遂、スルタンは追放するのみ、1902パリで「青年トルコ会議」、1905陸軍大学を出たムスタファ・ケマルがダマスカスで反政府組織に加入、1908英露が対独で接近しオスマン分割合意との報で、軍はスルタンに「憲法復活」を要求、スルタンはこれを入れ、30年の専制政治に幕が下りた。

9 青年トルコ人革命、ドイツに加担

(6)1908青年トルコ人革命である。政治経験も組織力もない彼らは、体制の根本的変革は行わず、総選挙で大勝したが中身は地方有力者で、メドレセの学生やエリート将校に地位を追われた叩き上げ将校が、反対党と結託して蜂起したが鎮圧され、スルタン退位、軍を掌握するシェヴケト・パシャが権力者となった。軍はドイツ寄り、統一派は英国頼み、風運急なバルカンでオスマンは議会政治も経済基盤も安定しないまま1914ドイツ側で欧州大戦に参戦し、非トルコ系ムスリム=フセインのアラブ軍にも攻撃され、オスマン帝国とともに汎イスラム主義は崩壊し、トルコ民族主義だけがアナトリアに残された。

10 トルコ共和国の誕生

敗戦の混乱の中で、イスタンブルの政府と宮廷は成すところがなかった。連合国の過酷な国土分割に対し立ち上がったのがアンカラを中心とする抵抗軍で、ムスタファ・ケマルを代表者とする委員会だった。イスタンブルとの妥協で1919.10実施の総選挙でケマルは過半数を獲得、新議会は1920.1国民誓約を採択、内容が連合軍の思惑と違ったので、英軍はイスタンブル占領、アンカラは1920.4大国民議会を開き、ケマルを議長とし、この議会が5月内閣を組織し、革命政権として立ち上がった。中央政府は1920.8.10セーブル条約を締結、オスマン帝国は僅かを残して分割・植民地化された。アンカラ政府はこれを認めなかったから、その実施を迫ってギリシャ軍が侵入したが、ケマルはこれを阻止した。

1921.1.20ケマルは基本組織法=国民主権と共和制を内容とする憲法を成立させた。連合 国はセーブル条約改定のローザンヌ会議を1922.10.27開き、アンカラ代表をイスタンブルが認めなかったので、11.1議会がスルタンとカリフの分離・スルタン制の廃止を決議、連合国も承認、オスマン帝国は1922.11.4滅亡した。講和会議でカピチュレーションと債務管理局廃止は認められたが、海峡の非武装国際管理や外国企業の既得権継続・関税自主権が1929まで認められないなどの譲歩もあったが、1923.8議会は承認した。この間、改革の9原則を発表して総選挙に踏み切ったケマルは、1923.10.29新議会でトルコ共和国を誕生させ、初代大統領に選ばれた。戦争で人口の2割を失い、独立で150万のアルメニア人、90万のギリシャ人、ともに永年商工業で都市を支えてきた人々をも失った。トルコは疲弊したムスリムの農民・牧畜民が圧倒的な国、トルコ語とクルド語の人の国に変貌、経済は破滅的状況で、その上にオスマン時代の対外債務7800万ポンドが残存していた。

 

8章 一党支配の時代 19231945

1 カリフ制の廃止と新憲法の制定 

 カリフ制廃止には反対があった。イスタンブルで前首相ラウフが、1923.11.1宣言の内容と採択の仕方を批判する声明を公表した。抵抗運動参加者でも旧体制で上層の出身者が、イスタンブルでケマルの独断的手法を批判した。国外でも、インドで、反英運動指導者がカリフ制維持の必要性を説く書簡を公開しており、イスメット首相宛の書簡が、届く前に新聞に公開される事件が起きた。アンカラ側は、書簡の無断公開は祖国反逆罪に当ると責任者を逮捕・威嚇し、懲役にされる者も出た。ケマルは1924.2言論人を招いて、カリフ制廃止の意向を伝え、世論誘導を依頼した。軍首脳者の説得も成功し、1924.3.3議会は挙手による圧倒的多数でカリフ制廃止を決議した。カリフ一族は翌日、列車で国外退去した。

 憲法については、ケマルの草案に対し議会の自由討論で修正が加えられたが、1924.4.20可決され5.24発効した。

2 反対派の組織化―進歩主義共和党

 ケマルへの反対勢力は議会にも人民党にもいたが、軍内部が重要だった。議員と軍人・官僚は兼職禁止となった。恵まれた階層に生まれ議員となった高級軍人に、ケマルは軍職に専念することを求めたが、彼らは軍職を辞し議会の反対派となった。数で勝る主流派がイスメット内閣の信任投票で圧勝すると、反対派30人ほどが人民党を離れ進歩主義共和党を結成し、自由主義を唱え権威主義や中央集権に反対、権力分散・漸進的改革を主張した点が、急進的・中央集権的なケマル路線と異なっていた。共和人民党と改称した人民党は議員総会で戒厳令施行を否決されると、ケマルは「若輩」イスメット首相を引っ込め、リベラルなフェトヒを首相とし、新内閣は信任された。

3 クルド人の反乱

 旧オスマン東方からイランの山岳地帯に分布するクルド系は、16世紀初頭以来オスマンの支配下で部族単位の自治を許されてきたが、部族横断的権威・調停者として神秘主義教団があった。20世紀にナショナリズムが芽生えると、オスマン・クルド人援助進歩クラブが組織されたが、オスマンやトルコの利害と対立するものではなかった。しかしオスマンの敗戦で英軍がバグダッドを占領し、メソポタミア安定のために北部のモースルを占拠し、モースルの安定とアルメニア国家保全のためにクルド人に接触を始めた。クルド人社会にはリーダーが不在で、ムスリム・オスマン的自覚が英国に不利、他方「統一派」がクルド人を抵抗に誘ったので、クルド部族の大半はケマルに味方した。クルディスタンの重要性に固執する英国は、クルド不在の講和会議でクルディスタンをアルメニアと英仏占領地に組み入れ、残りをクルド自治領としてセーブル条約に盛り込んだ。これと別に、イスタンブルに「クルディスタン向上委員会」ができ、自治領外に置かれたクルド人がアンカラ政府に自治を求めて決起し鎮圧された。

 独立戦争後のローザンヌ講和会議で英国は、油田のあるモースル辺を委任統治のイラクに編入に懸命で、クルド自治領は問題外だった。一部のクルド人が部族間の連絡を欠いたまま1924.9蜂起し、同調・支援がなくて未発に終わるかと見えたが、1925.2.8アナトリア東南部でのトルコ守備隊との衝突が、大規模反乱に転化した。クルド人の自治・独立を求め、カリフ制廃止に反対した。政府は東方諸州に戒厳令を敷き、イスメット支持の共和人民党強硬派が、野党に対するフェトヒの融和的態度を批判して内閣不信任案可決でフェトヒを辞任させ、イスメットを首相にした。新政府は治安維持法を成立させ、議会の承認なしで死刑執行できる反乱地域の東部独立法廷と、承認を要する反乱地域外のアンカラ独立法廷の設置が決定された。

 反政府言論活動の新聞が発禁となり、進歩主義共和党の東方諸州支部が反乱に関係したとて1925.6.3閉鎖された。反乱も鎮圧され、逮捕者7447名、首謀者と神秘主義教団の指導者660名は処刑された。「封建遺制の根絶」が決定され、族長や教団の指導者の家族などが、アナトリア西部に追放された。「よきトルコ国民」を育てるため、クルド地域に学校・図書館が整備された。反対政党が葬られ、共和国の国民国家化が見えてきた。

4 世俗化改革の断行と反対派の一掃

 ケマルの改革は今までの諸改革の延長上にある。しかし背後の精神は異なっていた。問題は宗教であった。ケマルは、宗教に基づく法には関心を示さなかった。彼にとって文明とは西洋文明に他ならなかった。スイス民法がトルコに適用すべく検討され、準備された法案が可決された。刑法はイタリアから導入された。西洋の法を、イスラム法の枠内に位置づけようとした今までの立法改革とは歴然とした差異があった。さらに今までは、改革しても旧来の組織と並存で、「宗教」は「国家」に管理されるが、「国家」の行う改革には「宗教」の承認が必要だった。ケマルは新旧の総合どころか、旧来のものを一掃することをためらわなかった。

 カリフ制廃止で、シェイヘル・イスラムも廃止。ウラマー養成機関のメドレセは閉鎖、シャリーア法廷も廃止で、イスラムにかかわることは国家の「宗務局」で管理する。人々の宗教生活を深いところで支えてきた神秘主義教団の修業場や聖者廟は閉鎖された。トルコ帽が鍔つきの西洋帽に替えられた。反発は治安維持法と独立法廷で押さえられた。

 ケマルは改革の意味の説明と実施状況視察で遊説にでた。予定変更した日に本来の宿泊地でケマル暗殺計画が発覚した。首謀者は国会議員で反対派の有力メンバーだった。独立法廷が到着し拘束は100名を超え、野党や旧統一派の有力メンバーが根こそぎ去れた。15名が死刑、将軍たちは軍の圧力で放免されたが政治生命は断たれた。アンカラの法廷ではケマルへの敵対的態度が問われ4名が死刑となった。政敵・ライバルは潜在も含め一掃された。

1927.10.15共和人民党結成最初の大会で、ケマルは6日間36時間の大演説で独立戦争を総括し、アナトリアの抵抗運動を彼のサムスン上陸から語り始め、運動の意義を理解しない反動分子による進歩主義共和党結成を非難し、トルコ共和国の成立と自己の活動とを一体化させた。それは国史の一部として教科書に載せられ国際的にも認知されていった。

1928憲法第2条「トルコ国家の宗教はイスラム教である」という文言が削除された。ローマ字の採用が決定され、トルコ語表記にアラビア文字使用が禁じられた。「脱イスラム化」による近代国家建設が始まった。

5 自由共和党の実験―野党勢力を認めるか

 1925制定の治安維持法は1929まで廃棄されなかった。共和人民党は唯一の政党で、自由討論の気風は失せ、議員総会も議会も内閣提案を承認するだけ、党首が大統領、副党首が副首相、県の支部長が知事。ケマルはその弊害を理解していた。

 1929世界恐慌の影響は、社会各層に体制への不満を鬱積させた。ケマルは野党の存在の必要を認め、クルド人反乱で首相からパリ大使となっていたフェトヒを1930.8説得して15人の自由共和党を設立させた。野党の出現は、不満層の支持を集め、フェトヒの遊説で熱狂的な群集と警官隊が小競り合いとなり、死傷者がでる発砲事件を起こした。地方選挙で自由共和党は512議席中30議席を獲得した。僅かな議席に共和人民党は脅威を感じ、フェトヒが選挙での政権党の不正を糾弾すると、フェトヒを祖国反逆罪と叫ぶ反応が出るに及んで、ケマルは旧友に苦衷をつげフェトヒは11.17自由共和党を解散し、民主主義への試みは放棄された。 

 野党の支持の高さは、不満の広範な存在を意味した。与党は文化団体や知識層を取り込もうとした。「トルコ人の炉辺」はクルド人へのトルコ語教育に貢献し、文化政策の重要な担い手で260支部に3万会員を擁し、ケマルは遊説の折支部に立ち寄った。これが与党の文化組織に吸収され「人民の家」と改称され1945には500近くに達した。続いて教員連盟・出版委員会・予備将校団・女性同盟・学生同盟などが整理閉鎖され、1931唯一つの批判的新聞も停刊、大学も教員の3分の2が入れ替えられ、与党の知識階層への統制が完成した。

6 共和人民党の「六本の矢」

 ケマルはまだ共和国宣言も行い、1923.2、イズミルに「経済会議」を招集、カピチュレーションや外国企業の特権の廃止、国民経済の確立を訴えた。外国資本の国家統制化を指向し、鉄道網の国有化に踏み切り、タバコ専売公社の買収を行い、アルコール・塩・砂糖などを専売にし、オスマン以来の10分の1税を廃止、国民の大多数を占める小農民の負担を地主と都市住民に負担させた。イスタンブルと連携して民族資本による起業の奨励のため、1924勧業銀行を作り、1927産業奨励法を制定した。しかし企業の半数は食品加工で、4分の1は繊維工業、重工業はなかった。1929関税自主権を回復して保護貿易体制が出来たその時、世界恐慌が起こった。輸出農産物価格下落の危機の中、共和人民党は国家資本主義政策を打ち出した。野党の自由主義と通商協定を結んだソビエトの影響がある。1931党大会は「六本の矢」を採択した。共和主義・国民主義・人民主義・世俗主義に国家資本主義に革命主義を加えた。いずれも明確な定義に乏しかったが、世俗主義に対する反動はオスマン時代には僅かだったのに、共和国時代には社会的・政治的不満が宗教に名を借りて発現した。ケマルがイスラムを後進性と反動の象徴、革命主義・共和主義の障害と見なしたからである。ケマリズムと称されるこの指導原理は専ら理性に働きかけるもので情感に訴える力に乏しい欠点があった。その穴を埋めるため、救国者・国父としてのケマル像の強調・崇拝の徹底が行われた。1934議会はアタチュルクという姓を贈った。

7 一党支配下の文化政策―「イスラム」から「トルコ」へ

イスラム的伝統を消した空白を埋めるために、トルコ民族としての誇りの感情=ナショナリズムの醸成に力が入れられた。イスラムに関わる伝統的制度は一掃され、カリフ制・メドレセ・シャリーア法廷・ワクフ省が廃止された。生活にしみこんだイスラム的要素=神秘主義教団の修行場や聖者廟が閉鎖され、宗教的称号やターバン・トルコ帽が禁止された。女性のヴェールは禁止されなかったが好ましくないもの、婦人参政権も1930地方、1934国政選挙で実現した。1925西暦採用、1926飲酒合法化、1935金曜に代って日曜が公的休日となった。

 改革の頂点は1928文字革命だった。アラビア文字に代えてトルコ文字=ラテン文字の使用を義務付けるこの改革は、識字率向上が名分だったが、192710.6%男17.44.7194022.4%男33.911.2への識字率の向上は、学校の5062から11040への増加の賜物というべきで、文字革命の脱イスラム化が明らかであろう。

 イスラム自体のトルコ化もあった。1933一日5回の礼拝のアザーンがトルコ語化され、音楽学校で作曲された旋律に載せて流された。

 公共の場に、ケマルの銅像・肖像が掲げられ、9名の歴史家によるトルコ史が書き上げられ、トルコ語からアラビア・ペルシャ語の要素を駆逐する事業が始められ、アナトリアの歴史研究から遊牧の起源を探る地理学も重視された。

 しかし脱イスラム・トルコ民族の強調は都市部の話で、神秘主義教団は地下で活動したし、トルコ帽もヴェールもつけない農村部の人にその禁止は無意味だった。読み書きの出来ない彼らに文字革命は別世界の出来事だった。しかしケマリストの改革は農村部の意識に着実に浸透していった。それに役立ったのは「人民の家」の農村版「人民の部屋」と「村落教員養成所」の運動だった。1935村落4万のうち教師のいない村35千、教師数は減少していた。そこで1940兵役で読み書きを習った青年に除隊後半年講習を受けさせ、教師とする運動が始まり、次いでその養成所を、農村青年を小学校教師に育成する5年の全寮制養成所とし、農業・畜産の実習や近代技術も教えることとし、全国に21箇所の養成所がケマリストの理念の農村浸透に大きな役割を果たした。

8 アタチュルク―イノニュ=イスメット間の軋轢とアタチュルクの死

 国家資本主義について、アタチュルクは民族資本が自立するまでの方策と考え、外国銀行勤務実績あり勧業銀行総裁を任せるジェラール=バヤルを経済相に任じ、首相のイノニュ=イスメットは永続的政策で自由主義に替わるものと考え、あらゆる分野で国家主導・エリート官僚主導を貫こうとした。彼らは「幹部」という雑誌を出しそれにはかつてマルクス主義者だった人が含まれていた。アタチュルクは国家資本主義に懐疑的で、イノニュ首相はそれを知っていたが構わなかったから、経済政策の対立は先鋭化した。アタチュルクは政務は首相任せで、専門家と纏めた改革策を首相に実施させ、頭越しに閣僚の入れ替えも行った。対立は深刻となり1937.9イノニュを解任しバヤルを首相に任じ、共和人民党副党首とした。しかしアタチュルクは既に病んでいた。バヤルはイノニュの政策・閣僚をそのまま引継ぎ、反イノニュの動きに反対、1938.11.10アタチュルク死去で議会はイノニュを大統領に指名した。イノニュは1939.1バヤル(経済相はそのまま)に代えてサイダムを首相・党書記長に任じ、かつてアタチュルクのライバルで陰に隠れていた人、国外にいた人と和解し、権力を確立していった。

9 一党支配の経済発展

 トルコ経済は大きく変化した。1930トルコ共和国中央銀行が設立され、資本金1500万リラで1931.10開業した。初めての自前の中央銀行だった。ソビエトは、トルコへ20年償還無利子で800万ドルの借款を供与し、助言を行った。193315カ年計画が策定され、@ 国内原料使用の産業育成 A 農民に雇用機会を与えるため原料産地に近接して工業中核都市を地方に分散する B 繊維産業で国内需要充足・輸出で外貨を稼ぐ C 当面消費財生産で生産財生産を準備、が要点だった。1933トルコ工鉱業銀行をシュメール銀行に改組し、1935ヒッタイト銀行も設立、国営企業管理と国有持ち株会社という性格で、工場設立・経営参加・鉱山経営をした。低利資金運用・職員訓練・技術者管理者供給で産業発展をリードした。政府は農業部門にも介入した。「統一派」の支持基盤である地主・富農層の融資に役立った農業銀行が、貯蔵庫を建設し農産物の買い支え・価格調整に進出した。農業生産は1923193258%伸び、小麦生産が自給可能まで回復した。1938農産物事務所が価格調整まで担当、都市向け商品作物への転換も見られるようになった。

 改革で利益を得たのは専ら富農層だった。90%の農家は10ヘクタール以下で、50ヘクタール以上は3%、500以上は1%に満たなかった。9割の農家は全農地面積の38%に過ぎず、3%に満たない60ヘクタール以上の農家が農地の18%を占めた。政府はギリシャとの住民交換などで流入した人・貧農などへの土地分配で101万ヘクタールを供与したが、難民1世帯当り4ヘクタール、定住化遊牧民1.7ヘクタールに過ぎず、その95%は灌漑のない荒蕪地で、世帯数2030万と推定される人々が、革命の掲げる近代化も世俗化も関知しない世界に存在した。

10 一党支配期の国際関係

 第1次大戦後の国際関係。英国=モースルの帰属、国連で調停1926.6英国委任統治下のイラクに編入。トルコは代償にモースルの石油収入の10%を25年間受領。ソビエト=かつて敵国だったが友好国に転化。フランス=委任統治下のシリア領アレクサンドレッタの帰属、トルコ系住民多数でトルコが帰属を主張して対立、1936シリア独立時に国連提訴、英国仲介、選挙は流血事件で取りやめ、フランス譲歩で選挙、トルコ系過半数で1939.7トルコに編入。英・仏・土相互援助条約締結。海峡問題=トルコは完全な主権回復を要求、1936.7モントルー条約で実現。東方=イラン・イラク・アフガニスタンと1937相互不可侵条約。西方=ギリシャ・ユーゴスラヴィア・ルーマニアと1934バルカン協商・国境現状維持を協定。しかしナチス・ドイツと、イタリアが膨張政策を取り、トルコは中立政策を西側陣営参加に転換し、国内に問題を引き起こす。

11 第2次大戦とトルコ

 イタリアはエーゲ海のドデカニソス諸島を要塞化し、エチオピアに侵攻した。ドイツはバルカン諸国を取り込もうとしたが、恐慌下で一次産品を高値で買ってくれる国だったが、チェコスロバキア解体で脅威が明らか、トルコは英国に接近し共同宣言、しかし参戦義務は回避し、ドイツとも不可侵条約。ドイツのソビエト侵攻で、ソビエトが連合国側となり、連合国側から強い参戦圧力があったが1945.2まで中立を維持した。

 この間トルコは、ドイツ・ソビエトの侵入に備え兵力12万を100150万に増強、軍事費膨張は増税と赤字財政=インフレでまかない、価格統制は地下経済をはびこらせた。1939まで着実に上昇したGDPも下降を始め、回復には1950までかかった。

 地下経済の隆盛は、大農場主や輸入業者を太らせた。1942.11富裕税は査定が地方官吏・商工会議所・地方議会代表に委ねられたので、殆どがイスタンブルの貿易業者に課せられ、55%は非ムスリムの負担とされた。延納は認められず、彼らは事業をムスリムに売却するか、強制労働に服するか、国外追放に処せられた。逮捕4000名、強制労働300名という富裕税は、欧米の批判で1944.3廃止されたが、共和国成立後も残存していたギリシャ人・ユダヤ人商工業者がイスタンブルから消え、トルコ経済のトルコ化が進んだ。1943大農場主から徴収すべく農産物税が新設されたが、実体は小生産者を苦しめた。 

 ナチ・ドイツの影響で、反ユダヤ主義が事件を起こしていたが、それは汎トルコ主義=極右民族主義の興隆と関わった。汎トルコ主義は、領内にトルコ系を抱えるソビエトとの友好のため禁圧されていたが、アタチュルクが推進した民族史研究は、共和国と中央アジアとの親近性を感得させるものだった。ドイツも汎トルコ主義感情を利用して枢軸側に引き入れようとした。汎トルコ主義者アトスズは、村落教員養成所が共産主義の温床と攻撃したが、大統領は認めず、アトスズ等を逮捕させた。しかし1944.9ソビエトはブルガリアに侵攻、1945.2ヤルタ会談でスターリンにトルコの参戦を国連加盟の条件とされ、1944.2ドイツ・日本に参戦したが、スターリンがモントルー条約の改定やブレスト・リトウスク条約で返還した領土の割譲を要求するに至って対ソビエト関係は悪化し、汎トルコ主義も反ソ・反露感情と一体となって生き続けた。

 

第9章           複数政党制への移行19451950

1 トルコ社会の変容と民主党の結成

 トルコ社会で改革を支持してきたのは、軍人・官僚・教師などの知識層・都市のムスリム商工業者・地方の地主階層で、国民の大多数=8割の小農は改革には縁がなかった。1953でも村落で電気が通ったのが10%に過ぎなかったという。しかし中央集権体制で徴兵・徴税は確実に行われたから、農民にも国家は意識された。その国家は、神秘主義教団や聖者廟を閉鎖し、新たな規範を上から押し付ける存在だった。国家や政府には人気はなかった。

 しかも大戦中の物価高騰と農産物価格統制・農産物税の導入は、政府本来の支持層にも大きな打撃を与えた。保護され成長したムスリム商工業者に富裕税は課されたし、彼らは国家資本主義を邪魔と感じるほどに成長していた。給与生活者にインフレは痛手だった。さらに戦争末期に、地主層に土地分配法が提示された。イノニュは500ドニュム=47ヘクタール以上の私有地を国家が収用し、小農に配分しようとした。実施は1947まで延期され、1950収容する土地も5000ドニュム以上と骨抜きが行われたが、地主層の政府への不信感は拭えなかった。

 イノニュは共和人民党の不人気を感じ取っていたし、時代が民主主義に向かうことも理解し、1945.4サンフランシスコ会議でトルコは、国連の原加盟国となった。戦争末期に強まったソビエトの圧力が、アメリカに接近させ、アメリカの援助を受け、トルコは反共の前進基地となった。トルコは民主的で自由な資本主義国である必要に迫られ、イノニュに「安全弁としての野党」結成が描かれるようになった。

 1945.5イノニュは議会で民主主義の原理の広範な適用を示唆し、その月に土地分配法を提案した。議会で激しい政府批判が行われた。法案自体は満場一致で可決されたが、予算案の採決では5名が反対し、内閣信任投票でも7票が不信任だった。内閣と党人事に改造が行われた。64名の長老議員の複数政党による自由討論の必要を説く提案がなされた。言論界にこれを支持する新聞が現れ、政府批判論文掲載で除名される議員も出たが、イノニュは1947の総選挙を自由な直接投票で行うと述べ、バヤルが離党し新党結成でイノニュと協議を始めた。1946.1.7民主党が結成された。

2 複数政党制と政治文化の変容

 民主党が地方に支部を作り始めると、人々は熱狂的に歓迎した。驚いた与党は、臨時大会で自由化=直接選挙制の実施・言論自由化・大学自治の承認を約束し、終生党首制を止めイノニュは「国民指導者」を返上した。1946.7選挙で、民主党は465議席中62議席を獲得した。バヤルは選挙の不正を訴え、民主党は279議席のはずと述べた。

イノニュは軍の絶対的支持があったにも拘らず1930のケマルと異なり、複数政党制の定着を決断した。首相には強硬派のペケルを据え、両党の非難合戦は激しくなった。1947.1民主党は、ケマル主導で採択された「国民誓約」の完成のため民主党は結成されたと強調し、与党は窮地に立たされた。

イノニュは、両党首と個別に会談し、野党の存在を改めて確認し、ベケルを解任し穏健なハサン・サカを首相に任命した。1946.11与党は党大会で土地分配法一部改正・学校での宗教教育の容認・村落教員養成所の改革を表明、12月戒厳令を解除した。人民が有権者に代わって政治文化が大きく変化し始めた。

米国の経済活動への国家の介入批判で、新5カ年計画は廃棄され、民主党の要求を入れた「トルコ開発計画」が採択された。私企業活動の優先・農業と農産物加工業の重視、重工業の発展は目標から外され、鉄道建設に代えて道路が優先。世界銀行の調査団報告もこの線で纏められた。政府は1947IMF参加のため120%の通貨切り下げ=1.282.8リラ/ドルを行った。

与党と野党の政策の差が縮まると、野党内に対決重視派が現れ1948.7国民党が分裂した。国民党が宗教を政争の具にする傾向をとると、与党も大学で神学部長だったギュナルダイを首相にして選挙に備えた。1950.5の総選挙で与党得票率は39.8%、民主党は53.4%で選挙区の第1党が議席独占というルールのため408議席を獲得、与党は69議席に転落した。特に経済先進地域であるアンカラより西では1議席も取れなかった。イノニュは権力の座を降り、トルコは新時代を迎えた。          おわり

 

 

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