野口食堂の事

聞き込みに寄ると、元々この建物は、”野口食堂”という。大正時代からあった大衆食堂の従業員の宿舎跡地として残ったらしいのです。
現在の浅草公会堂前に一棟(豪華木造三階立て!)そして、こちらに一棟を中心に半径五十メートル程、一帯が野口食堂関連跡地で、
かなり何棟も建て増しで広がっていた様です.是非、そんな眼で店内を注意して散策して見て下さい。。。至る所にその形跡が、、、
写真も何かのお祝い事のようで、かなりの人数で写っていますから、当時大変規模が大きかった事が窺えます。
当店内奥に参りますと、冷っとする半地下室が、食品の貯蔵庫。その上、中二階が控え室、アプローチ横が食堂メイン部分で、
あと、二階や繋がっているところは、従業員が住んでいたようです。(東京蛍堂建物の後ろにあたる現:ヨシカミさん、試着室から
繋がる裏の現:韓国料理店、シルバーショップの現:マースさん辺りまで)インテリア内装を見ていると、1950~60年くらいの素材
なので、これは、ベースの上からリフォームした様な感じだと思われます。)
そして、時代が変わり町も変わり、ここだけが取り残されて残ってしまっている状態なのです。

~東京蛍堂との出会い~
大正ロマンの会を主催していた店主が、いつでも帰ってこれる場所があったればなぁ~と6年間探していました。
そんな中、表に出さない物件を紹介して貰い、理解ある大家さんと出会い決まりました。
驚いたのは、内装途中にこの額が写真ごと落ちてきたので、呼ばれたな、、、”これは、やるしかない”と、、、
当時のオリジナルの風合いを残したいので、三年位かけて少しずつ手作りで内装しました。(漆喰、床等)

~コンセプトは~
”古物を中心に来店された、孫娘からおじいちゃんまで、断絶している世代を繋ぎ、老人のシンクタンクを引きずり出し、活かし時代を
紡ぐ”陣は、気取らない土着の庶民のパワー溢れる浅草に置く。(宗教関係なくこれだけ集まる場所、日本と云えば東は浅草西は京都)
のひとつを堀探り、学び、日本の原点回帰を考える。 屋号は、東京には蛍は、いないけれども、蛍の様な純粋な人がきっと東京にも、
いてその人たちが集まれるお堂(寺子屋:勉強になる場所)の様なという思いで命名しました。
 週の半分は、地方にオンリーワンの一点もの古物の仕入れに出向き、見聞を広めると共にどんな風に”そのもの”が使われてきたかを
勉強し、東京に持ち帰ってきて物が使えるまで、掃除、直し、知識を入れて営業。売り上げのガソリン代を頂き、また地方へ、、を繰り
返す。ゆきずまった東京の価値感を外(地方)から見直す作業。貰ったお金はこの店に一票入れてくれたというバロメーター的思いで
気合入れて毎日頑張れています。

~東京蛍堂のこれから~
大正ロマンを切り口に、自分のルーツを探求すべく、骨董から教わる歴史と、日本の事を勉強し迷っている若者も、ついでに未来へ
持っていく。事上練磨やりつつ商品をレベルアップして身の丈で人と、ものに出会い、進んで行きたい。骨董を生業とし、ものを囲わず”活かす骨董に。。”

そして、蛍が集まる泉を純粋に保ちたい。

嘆いているばかりの人生より
逆にこんな良い時代だから、思い切って自分が愉しんでやる仕事で小さくても幸せなコミュニティーを作りたい。そんな思いで
営んでおります。。


野口食堂は、成瀬巳喜男監督『乙女ごころ三人姉妹』(1935年トーキー第1作)にも、活気ある浅草風景の中に出てくる様です、、。
見たい!
もう100年前の事なので未だ、野口食堂については探索中、、情報求ム
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