所沢薬王寺 新田義宗の墓

所沢市有楽町8-18(04-2922-2258)にある曹洞宗・薬王寺の山門をくぐると、巨大な銀杏の古木2本が目に入る
正面に本堂があり、右脇に鐘楼がある。
新田義貞の三男義宗は兄義輿らと兵を挙げたが、その武蔵野合戦(文和元年・1352)で敗れ,そして越後へ落ちていったが、ここから伝説がはじまる
義宗は「北国へ逃げていった」と家来たちに言いふらせ、自分は所沢に隠れ住んだ。
そして再起の機会を待ったが、足利氏は、ますます力を増大させていきやがて南北朝も統一され、戦乱は治まっていた。
義宗に武将としての機会はついに訪れなかった。
彼は頭を丸めて僧衣をまとい、隠れ家をお堂にかえ一体の薬師如来像を彫りあげた。
その如来像の腹に、守り本尊を埋め込んだがそれは戦死した家臣や、一族の菩提をとむらうためであった。
薬王寺の歴代住職墓地の応永20年(1413)の塔は、銘文に「同年・31日逝卒 自性院殿義慧源宗大居士」とあり、新田義宗の墓と伝えられている。
しかし群馬の『うつぶしの森』は義宗討死にの地とされ、正平23年(1368737歳で死去したとされている。
話しは具体的で敵の一矢を右眼に受けうつぶしに落馬し壮絶な死を遂げ敵に義宗の首を渡さないため火葬した。
そしてその骨壷が昭和42年に発見された経過を『新田一門史』で新田宵子氏は書いている(薬王寺提供の資料)。
しかしこの説も伝説の一つであろう。
なぜなら所沢の伝説は、その後もより具体性をもって展開されているからである。
市内寿町22-7に居住する荻野晏弘氏の先祖・濱田屋安兵衛が「私より7代前の当主が書写して今日に至った品」として、薬王寺に新田家の『菩提寺・縁起』を届けている。
それは火災にあって寺に『縁起』がなくなってしまったことによるがその書類のなかに、義宗が応永20年に永眠したのちに、霊を慰めるため子孫らが所沢村に移り住んできたとある。
つまり、新田家の嫡流が永住するようになったというのである。
濱田屋安兵衛は、味噌麹を手広く商っていたが明治天皇が所沢の斉藤家に宿泊したとき濱田屋にも重責をを負った用人たちが宿泊している。
薬王寺にある荻野家の墓には『為先祖累代・自性院朝臣義宗公孫々35代嫡孫新田二郎源忠則』と記載がある。
側面には、嫡流の系譜も刻まれている。
荻野氏の自宅には「正一位白旗梅軒稲荷」があるがそれは源氏の旗印を名にした稲荷である。
火災にあい、再建されたであるが、そこに上が宝珠形、下が半円形で五輪塔の上部とみられる塔の一部が風化しながらも残されている。
空海が東寺建立のおり寺の鎮守として稲荷神をまつったときから、寺と稲荷は結びつきをもつようになった。
荻野家敷地には、堂も併せて建っていたとも考えられるし、塔は不自然な存在ではない。
また荻野家では、代々中央に大きく新田大中黒の紋を入れ、荻野家の紋等を両側に従えさせた提灯を使用してきた。
こうしたとこから見て荻野家が義宗の嫡流ではないかと推測される