クロアチア・スロベニア旅行報告
紺碧のアドリア海の世界遺産を訪ねて

2009/11/21関西空港発で11/30までクロアチア、スロベニアに旅行しました。JTB旅物語トルコ航空で行く!紺碧のアドリア海感動紀行10日間 のツアーに参加して、スロベニアでは自然が美しいブレッド湖、ポストイナ鍾乳洞、と首都リュブリャナ、クロアチアではプリトヴィッツェ湖群国立公園、とシベニク、トロギール、スプリット、ドブロヴニクのアドリア海沿岸の中世の町、首都ザグレブ、を駆け足で回ります。季節外れで天候によっては観光できない所もあるかもしれないと予め予告されていましたが、参加者少なく、ゆとりがある旅でした。いずれも夏の良いシーズンなら写真も撮れないほど混む景勝地ですが、シーズンはずれで観光はゆっくりでした。最終日ドブロヴニクは雨でこれだけは残念でした。参加者は高齢夫婦4組、若手女性1組あと高齢女性4名合計12名。
下に訪れた街をGOOGLE EARTHの地図で示します。



訪れた町とスナップ写真

スロベニア  Slovenia
スロヴェニアは四国ほどの面積でオーストリア、ハンガリー、クロアチア、イタリアと国境を接している。公用語はスロヴェニア語、宗教は ローマカトリックが95%、人口約200万人。スロヴェニア人90%、 その他ハンガリー人、イタリア人。首都はリュブリャーナ。ユーゴスラビアより1991年に独立、2004年にEUに加盟した。
西側諸国に近いという地理的条件と、勤勉で秩序的なスロベニア人の気質によりユーゴスラビア連邦時代は連邦の中で最も経済的に豊かな先進地域となっていた。ユーゴスラビア連邦から独立した後、初期の経済的混乱からすぐに立ち直り、国民1人当たりのGDPは欧州連合(EU)内でもギリシャ、ポルトガルに匹敵する水準となった。
スロヴェニアの主な観光名所は、ポストイナなどの6000か所の鍾乳洞、「アルプスの瞳」と称されるブレッド湖で本当に美しい景観が見られる。
ポストイナ
ポストイナ鍾乳洞 Postojnska Jama
スロベニアに8500以上あるカルスト地形の鍾乳洞のひとつ。何百万年もかけて形成された全長21kmの大鍾乳洞でその規模はヨーロッパ最大で、美しさは世界一と言われている。リュブリャナから56km。まずトロッコ列車で2kmを約10分走る。この間も美しい鍾乳石などが見える。トロッコを下車して各国語のガイド付きで約1.7kmを徒歩で観光する。(日本語はなし) スパゲッティ、カーテン、石柱など様々の鍾乳石が見れる。本当に大きく素晴らしい景観でした。洞窟内は年中8℃。内部は写真禁止になっている。毎年80万人の観光客を集めているが、今回は殆ど我々だけ。右写真は日本語パンフレットから最も有名なブリリアント鍾乳石。

観光案内所で入口

トロッコ列車で鍾乳石を見ながら

案内所の左横の出口
ブレッド湖 Blejsko Jezero
「アルプスの瞳」と称されるブレッド湖観光。東西2.1km、南北1.4km、周囲6kmの周遊道路があり、深さは30mかってはハプスブルク家のリゾート地であった。
小島には聖マリア教会があり、環境への配慮からモーターボートの使用は禁止されているので手漕ぎボートで行きます。20人位乗れる小船で船頭さんは1人です。
130mの丘の上に建つブレッド城はスロベニア最古の城で遠くにユリアンアルプス、湖に映える小島などを見ることができます。昔のチトーの別荘などがあります。
天候の関係で行けないかもしれないと断りがあったが晴れで問題なく船で渡り観光。
ブレッド城では民族の踊りのリハーサルを見る。

ブレッド島

ボートを漕ぐ船頭さん

99の階段

ブレッド島

聖マリア教会

ブレッド城で来年の催しの練習

ブレッド城広場

ブレッド城(130mの崖の上)

ブレッド城登り口

ブレッド城の窓から
リュブリャーナ Ljubljana
スロベニアの首都。14世紀以降はハプスブルグ家の支配下にあり、スロベニア文化の中心地として発展、今の人口は27万人。リュブリャニツァ川の南側が旧市街、北に新市街があり、旧市街の北にはリュブリャーナ城Ljubljanski grad がある。
三本橋の東隣にかかる "竜の橋" から観光を開始します。旧市街の川沿いには朝市が賑やかに立っており、その中を西に50mほど通り抜けると、三本橋トロモストウイエに出ます。後旧市街を回り立派なフニクラケーブルでリュブリャーナ城に上ります。再び三本橋に戻り自由散策。プレシェーレン広場中央がフランシスコ教会。右に広場の名にもなっている詩人、プレシェーレン[1800-1849]の像がある
聖ニコラス大聖堂、フランシスコ会教会Franciscan Churchなどを観光。

三本橋を旧市街から見る
三本橋トロモストウイエTromostovje プレシェーレン広場広場とリュブリャニツァ川を隔てた旧市街とを結んでいるのが白亜の美しい三本橋 (トロモストウイエ)。中央が車道、両端の二本は歩行者用です。ヨジェ・プレチニクの設計。
リュブリャーナ城 Ljubljanski grad 9世紀に砦としてスパンハイム家が建てて後ハプスブルグ家の所有となる。現在の城は16-17世紀のもの。
聖ニコラス大聖堂 Stolnica sv. Nikolaja キリスト教スロベニア布教1250年を記念して建立。入口の青銅の扉にはスロベニアの歴史が描かれている。豪華な内装、大きなパイプオルガンなど、18世紀のバロック調の豪華な内装が印象的。

新市街側からみた三本橋

龍の橋(左右に計4匹 )

旧市庁舎

中央青果市場

聖ニコラス大聖堂

大聖堂内部

市場の花屋さん

リュブリャナ城から見る

リュブリャナ城

城へのケーブル
クロアチア Croatia
クロアチアは美しいアドリア海とその沿岸の古い街並みが魅力のヨーロッパでは人気のリゾートです。北はスロベニア、南はボスニア・ヘルゼゴビナに接している。面積は九州の約1.5倍、人口: 443.6万人(2008年IMF発表)、首都はザグレブ。
公用語はクロアチア語、宗教は カトリック、セルビア正教で、 クロアチア人(89.6%)、セルビア人(4.5%)等。
2005年 EU加盟交渉を開始しているがまだ実現していない。片仮名のフの字の逆の形でアドリア海に面した細い海岸部を領土として中世の遺跡と紺碧のアドリア海の景観を作り出している。ザグレブは内陸の中央にある。美しい滝と湖のプリトヴィッツェ湖群国立公園でハイキングを楽しんで、夕闇せまるザグレブを少し見て、アドリア海に沿って古代ローマ時代の旧市街、シベニク、トロギール、スプリト、ドブロヴニクを観光。
ザグレブZagreb
ザクレブはクロアチアの首都。丘の上のカプトルとグラデツの二つの都市が合わせてハプスブルグの面影が残る首都。宵闇迫る中、旧市街2地区を観光。
2本の尖塔が印象的な聖シュテファン大聖堂、屋根にクロアチア王国、ザグレブ市、スラヴォニア地方の紋章がモザイクになっている聖マルコ教会などを徒歩で観光。モザイクがきれいだが夜で写真うまくとれない。多少ピンボケですが美しい。
石の門KamenitaVrata 1731年大火で焼けたが左側に灰の中から無傷で見つかったマリア像が安置されている。
街の中心はイエラチッチ広場、ユーゴ時代には共和国広場と呼ばれた。イエラチッチ総督の像があり沢山の人が集まっており、ブルーのトラムが数珠つなぎに走っている。見どころ多いのに今度のツアーでは時間が無くあまりゆっくりできなかったのは残念。

夕刻のイエラッチ広場

聖シュテファン大聖堂

石の門

聖マルコ教会
プリトヴィッツエプリトヴィッツェ湖群国立公園

クロアチアのアドリア海と首都ザグレブの間にある。ザグレブの南110km。
広大な森林に囲まれた大小16の湖と92の滝が織りなす光景は、素晴らしい大自然の芸術である。プルトヴィッツェ川が、森の中を縫うように蛇行しながら静かに流れ エメラルドグリーンやコバルトブルーの湖を形成し、標高150mから標高637mまで棚田状にさまざまな滝が姿を見せる。滝と湖には覚えられないが全部名前が付いている。1979年世界自然遺産に登録された。

入口1
樫の木のボードウォークトレイルが整備されており、コラナ川近くのインフォーメーション入口1からガイド付きトレイル開始。まず高さ78mのプリトヴィッツェ滝を見て、カルジェロヴァツ、カヴァノバッツ、ミラノヴァッツの下湖群を廻り、P3から電動ボートで圏内最大のコジャク湖[深さ最大46m、全長2.3km]を渡る。 上湖群をプルシタヴィツイ(たくさんの滝)など少し見て、カロヴァッツ湖畔のST3でバスに乗りホテル下のST2入口2に戻る。下湖群はハイキングで堪能した。季節が少し違ったためか湖面は澄んでいてエメラルドグリーンではなかった。
この地区の自然を愛し、保護を訴えた人々の名前がついた湖や滝が多くある。世界的オペラ歌手が愛したミルカトルニナ滝はミラノヴァッツ湖からカヴァノバッツ湖に階段状に流れ落ちる美しい滝である。

パーク内案内板(入口1)

大滝(ヴェリキスラップ)

下湖群の滝

階段状の滝

整備されたボードウオーク

空いている散策路

電動ボート

パーク入口付近の案内板

コジャク湖

連絡バス(

プルシタヴィツイ

カロバッツ湖畔

グランディスコ湖畔
シベニク Sibenik
アドリア海に面した小さな町。
ガイドによる旧市街の観光。 ゴシックとルネッサンス様式が融合した世界遺産・聖ヤコブ大聖堂を観光する。プラチ島の石灰岩を用いたルネッサンスの大聖堂で、多くの建築家たちが関わり、1555年完成。ゴシック様式とルネサンス様式の両方を兼ね備えたつくりになっている。大聖堂の屋根の、組み合わされた石の平板は、セルビア軍の爆撃により1991年に損傷を受けた。それ以来損傷は修復が続けられている。
彫刻家ユライダルマティナッツは教会には珍しい様々な表情の72人の人の顔を刻んだ。

聖ヤコブ大聖堂


聖堂側面

72人の人面彫刻

たくさんの教会

聖イヴァン教会

聖バルバラ教会

市庁舎(レプブリカ広場)
トロギール Trogir
スプリットの西25kmにありギリシャ時代にさかのぼる要塞都市 古都。 城壁に囲まれた小島に、石畳の路地が複雑に入り組み、教会、塔、宮殿など様々な建築様式のローマ、ベネチア時代の遺産が多い。中でもロマネスク様式とゴシック様式が融合した聖ロブロ教会はクロアチアを代表する教会で、1997年に世界遺産に登録された。 
アドリア海に面した小さな町には必ずオスマントルコから町を守るヴェネチア時代の要塞がある。北門が旧市街の入り口でここから旧市街を徒歩で観光し、南門に出る。
さらに奥のチォヴォ島はヨーロッパのセレブが住む島。

手前がバスセンタ

時計塔

市庁舎

北門

聖ロヴロ大聖堂

ライオンはヴェネチアのシンボル

トロギール運河
スプリト Split
アドリア海沿岸最大の港町。ローマ遺跡が残る神秘的な街・
ローマ皇帝ディオクレティアヌス帝[244-311]が3世紀に建てた古代ローマ皇帝の宮殿跡が一つの街になっている。南北215m、東西180m、周囲を厚さ2m、高さ20mという城壁に囲まれている。1700年前の宮殿建物に今も600人ほどの人々が生活する。海側の青銅の門から入場、地下部分をを見て、北側の金の門へ抜ける。東の銀の門の外には青空市場で果物、野菜などを売っている。北門の外にはグルグールの像がある。前庭でクロアチアの伝統音楽男性4人によるアカペラ、クラバ体験。
ジュピター神殿、大聖堂などを見学。海岸通りはローマ時代はプロムナードがなくすぐアドリア海であった。ザグレブに次ぐクロアチア第2の都市でトロギール、シベニクなどに近い。


ローマ時代の推定図

宮殿海岸通り

前庭(皇帝の住居への入口)

クラバ

大聖堂の塔

銀の門の外の土産屋

銀の門の市場

城壁の内側地下

中庭のコリント列柱

外壁

1700年前の城壁に人が住んでいる

北門(金の門)

グルグールの像
ドブロヴニク Dubrovnik
アドリア海の真珠と呼ばれる世界遺産
ドブロブニクは13世紀から地中海の交易地として栄えてきた街です。その後、17世紀に大きな地震で被害を受け、そして90年代にはユーゴスラビアの内戦によって、大きく破壊されてしまいました。市民は直ちに街の再建に取り組みます。古文書を調べ、破壊された様式を守り、同じ石材を集め、すべてを元通りに修復・復元しようとしたのです。材料を加工する道具は、昔と同じものを作って使用しました。瓦も昔と同じ色・形のものを造りました。こうした努力が実り、ドブロヴニクの街は美しく再建されたのです。ミンチェタ要塞から見る旧市街。城壁の中で一番高い要塞。

ミンチェタ要塞から
残念な本降りの雨の中、ドブロヴニク市内半日観光に出かけます。
ピレ門から入り、オノフリオの大噴水を見て、クロアチア最古の薬局があるフランシスコ会修道院や大聖堂、ドミニコ会修道院、旧総督府などをガイドの案内で回る。
ピレ門からルジャ広場までのプラッツァ通りは旧市街の目抜き通りでかつては水路であったとのこと。
ルジャ広場 スポンザ宮殿。昔の税関だったそうです。
午後は自由行動。雨の中の城壁めぐりでミンチェタ要塞からの眺めを楽しみました。 
城壁は全長1940m、高さ25mにも達します。

晴れた日の遠景

オノフリオの大噴水

フランシスコ会修道院入口

ピレ門内側

プラツァ通り

旧港

城壁から見た旧市内

空いているプラツァ通り

スポンザ宮殿(元税関)

ルジャ広場・聖ヴラホ教会

城壁一周入口

城壁

整備されている城壁
ボスニア・ヘルツェゴビナ  Bosnia and Herzegovina
ボスニア・ヘルツェゴビナボスニアヘルツェゴビナ
ボスニア・ヘルツェゴビナ人口450万人面積 5万1126km2 首都はサラエヴォ。バルカン半島の北西に位置する共和国。クロアチア、セルビア、モンテネグロと国境を接する。ユーゴスラビアからの独立時、独立の可否や国のあり方をめぐってボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人がそれぞれ民族ごとに分かれて1992年から1995年までボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を戦った。
20万人の死者と200万人の避難民を出し未だに安定していない。住民はボシュニャク人が48%、クロアチア人が14%、セルビア人が37%などである。それぞれの民族の差異は主に宗教と歴史的経緯によるもので、それ以外の言語・文化の面では3つの民族には大きな違いはない。欧州の一員としての道を歩もうとしており、2001年、欧州評議会への加盟が実現した。また、ボスニア・ヘルツェゴビナはEU加盟を国家の最優先課題の一つとしており、2008年6月にEUとの間でEU加盟のための前段階のステップである安定化・連合協定(SAA)が署名されたものの、情勢の不安定化もあり、SAAの履行に大きな進展は見られていない。
モスタル Mostar
モスタルはボスニア・ヘルツェゴビナ南部にある都市。ヘルツェゴビナ・ネレトヴァ県の県都でもある。市内をネレトバ川が流れている。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争期には事実上独立したヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の首都であった。ドブロヴニクから135km。
このネレトヴァ川にはモスタルの名前の由来となった橋、スタリ・モストがかかっていたが、1993年にクロアチア人により破壊された。それが最近になって再建された白い石材で作られた、傾斜のきつい歩行者用の橋。スタリ・モストの意味はスラブ語で古い橋の意味。世界遺産に2005年登録された。

スタリモスト

モデルになった5分の一の橋

スタリモスト

人影がないオールドバザール
橋の近くに「1993年を忘れるな」と書かれた石が置かれている。これはクロアチア人によって橋が壊されたうらみを、ムスリム人は忘れないという意味なのか。現在もモスタルのムスリム人とクロアチア人は、ある線を境に分かれて暮らしているそうです。また当時の弾痕のある廃屋をそのまま保存しています。[右の写真]
1993年を忘れるな

沢山の弾痕の跡を残している廃屋

その他参考事項


■クロアチア、スロベニアは昔のユーゴスラビアユーゴスラビアを構成する共和国の1つです。バルカン半島は世界の火薬庫といわれるように民族、宗教、が複雑に絡み合う地域であったが、1992年から2003年までユーゴスラビア連邦共和国として纏まっていた。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ)が崩壊して、スロベニア・クロアチア・ボスニア・ヘルツェゴビナ・マケドニアの4つの共和国が独立した後、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争が起こり、20万人の死者と200万人以上の難民・避難民を出した紛争は1995年まで続き、いまだに多くの問題を抱えてはいるが、この10年前の内戦から立ち直り、今では多くの観光客をひきつける魅力ある国々になりつつある。今は人々に笑顔が見えるようになり 落ち着きを取り戻してきました。
今回の旅行は 政治的に安定してきたバルカン半島のスロヴェニア、クロアチアの2カ国を中心に、一寸、ボスニア・ヘルツェゴビナにも寄りモスタル観光をする旅で、航空機の乗り継ぎの関連で、行きはイタリアのベニス、帰りはサラエボからイスタンブールに行きます。
アドリア海沿岸でローマ時代の世界遺産が多いこの地方は、内戦で大分破壊されましたが、修復も早かったようです。

■外貨はユーロの5ユーロ札を用意してゆきましたが、スロベニアの通貨はユーロ、クロアチアはまだEUに加盟していないので、ユーロも使えますが原則として固有の通貨クーナです。1クーナは約20円で日本円から交換できます。
ボスニアヘルツェゴビナは一寸寄っただけなのでお土産や水程度はユーロもクーナも使えました。

■JTBの旅物語は沢山の設定日がありますが、本当は夏が季節もよくお勧めですが、今回の様なシーズンオフの日程のときは、ブレッド湖、プリトヴィッツェ湖群国立公園など寒いかもしれない、また雪など天候の関係で行けないかもしれないと断りがあったので心配しましたが、殆どが晴れで問題なく予定通りの観光ができました。逆に空いていて、バスも大型にたった14名で自由席、良い季節であれば立ち止まることもできない観光コースで自由に写真を撮ったりゆっくりと過ごすことができました。交友コースの選び方もよいかと自画自賛しています。但し、都市部観光は夕方になり写真は殆どが夜景になります。

■行き帰りは関空発2330トルコ航空でイスタンブルへ行きます。イスタンブルからヴェニスへ。待ち時間が長く、また当日はヨーロッパ各地の航空機のダイヤが乱れていてなかなか飛べませんでした。慌ただしいベニス観光の後トリエステで一泊。後はバスでスロベニア、クロアチアと観光します。帰りはサラエボからイスタンブルへ。スケジュール通りでもイスタンブル1645着、イスタンブル発2355、待ち時間約7時間の後関西空港へ。
最近航空会社の力関係や再編などで共同運航の組み合わせが変化しつつあり、ヨーロッパ線ではハブ空港での乗り継ぎに時間がかかり、乗り継ぎの空港は混んでいます。サテライト間の移動も長く旅行者にとっては不要な仕事と時間が無駄になる傾向です。

■ユーゴスラビアの歴史を簡単に
古代ローマから始まり。フランク王国、ハンガリー、神聖ローマ帝国、ハプスブルグ家などの支配を受け、ユーゴスラヴイアの構成国として過ごしたバルカン諸国は人種間、宗教の違いなどで内戦となるが、1995年内戦終結、今は6つの共和国として国際社会に晴れて独立を認められる体制になった。詳しくは多くの参考書によるが、たゆみない民族独立への努力が見られる。
1914-1918第一次世界大戦
1939-1945第二次世界大戦
1929ユーゴスラビア王国建設
1945チトーの下にユーゴスラヴィア連邦人民共和国を結成。
1980チトー大統領亡くなる
1991セルビア独立、スロベニア共和国誕生、クロアチア独立戦争
1992クロアチア共和国誕生

■参考
るるぶ情報版B16クロアチア・スロベニア
地球の歩き方A34クロアチア・スロベニア
GEMstoneクロアチア世界遺産と島めぐり
岩波新書赤版445柴宣弘ユーゴスラビア現代史