北東ドイツ歴史紀行報告
中東部ドイツの歴史ある町めぐり

2012/5/17関西空港発で5/27までドイツ北東部を旅行しました。JTB旅物語ルフトハンザ航空で行く!北東ドイツ歴史紀行11日間 のツアーに参加して、ハンブルグ、リューベック、ツェレ、ハーメルン、ゴスラー、ハンミュンデン、アイゼナハ、エアフルト、ワイマール、ライプティッヒ、ドレスデン、ベルリンと元東ドイツであった町を中心に駆け足で回ります。一日大体2つの町を2,3時間づつ見学するパターンで、 幸いにも天候に恵まれ、世界遺産の町々をゆっくりと回ることが出来ました。参加者は夫婦7組、姉妹1組、女性4名、84歳男性の合計21名。
下に訪れた街をGOOGLE EARTHの地図で示します。
ドイツには7つの街道がある。ドイツ観光局がプロモートしている観光ルートだが現地の人は殆ど知らない。
街道があるわけでなく、また町が道に沿ってあるわけでなく、町と街をグループ分けするだけのものだけだが、それで整理をするガイドブックが多い。今回の訪れた街を街道別に記せば以下の通り。
エリカ街道 ハンブルグ、シュベリン、ツェレ、リューベック
メルヘン街道 ブレーメン、ハーメルン、ゴスラー、
ゲーテ街道 アイゼナハ、エアフルト、ワイマール、ライプティッヒ、マイセン、ドレスデン

他にロマンティック街道、アルペン街道、古城街道、ファンタスティック街道が南部に設定されているが、これらはドイツ観光のゴールデンルート。今回は訪問しない。小生は個人的には1969年まだベルリンの壁があった頃、ベルリンを、1999年には個人旅行でライン川、ロマンティック街道、ミュンヘンなど南西部ドイツを訪れている。


訪れた町とスナップ写真
シュベリーン Schwerin
人口10万人、旧東独圏である。 ハンブルクから111km、鉄道ICで約1時間30分。7つの湖を持つハンザの古都。北のノイシュバンシュタイン城と言われるシュベリーン城を観光。島に建つ城が現在の姿になったのは19世紀中ごろでネオルネサンスにいろいろな様式が混ざり、独特の美しさを保っている。メクレンブルグ大公の王座の間やギャラリーを見学。

シュベリーン城全景
 
続く広間
 
図書室
 
代々の城主
 
城庭園
 
湖から見る
 
庭園
  
リューベックLübeck
人口21万人、ハンブルグから40分。「ハンザ同盟の女王」と呼ばれた古都。 バルト海南西部のリューベック湾に面する港湾都市である。造船産業などでも繁栄した。第二次世界大戦中は空襲を受け、戦後の冷戦期には西ドイツであったが、東西ドイツ国境のそばにあった。
バッハも通っていたマリエン教会、市庁舎、旧市街を観光。2本の優美な塔を持つ市城門で1464-78年に建造された石組みの堅固な門。ホルステン門内部は歴史博物館になっている。

町の模型
 
ホルステン門
 
旧市街側
 
トラヴェ河
 
市庁舎
 
マルクト広場
 
聖母マリア教会
 
マリエン教会
 
戦災時に破壊された鐘
 
教会内の天文時計
  
ハンブルク Hamburg
人口180万、ベルリンに次ぐ第2の大都会。町の創立は8世紀ごろでハンザ都市として繁栄した。北海からエルベ河を約100㎞遡ったところにあるヨロッパ有数の港町。
ハンブルク港、聖ミヒャエル教会、荘厳な市庁舎などを徒歩にて観光、あとバスでアルスター湖を一回りする。 
 
市庁舎
 
議事堂
 
ネオルネッサンス様式

アルスター湖
 
ハンブルグ港
 
ハンブルグ港桟橋
 
ハンブルグ港正門
 
旧エルベトンネル
 
聖ミヒャエル教会
 
教会内部
  
ブレーメンBremen
人口54万人、ベルリンから30分。65㎞北海から遡ってヴェザー川添いのメルヘン街道拠点の町である。市庁舎、ローラント像、マルクト広場、ベットヒャー通りや手工芸職人の住居が並ぶシュノーア地区を散策。
ペットヒヤー通りは、コーヒー商人ロゼリウスが中世の街並みを再現しようと造った100mの小路が一番人気の通りで、グロッケンシュピーゲルはロゼリウスの家の屋根に鐘が備えられ毎正時には音楽が流れる。


ブレーメンの音楽隊

聖ペトリ大聖堂

ブレーメンの穴

市庁舎
   ブレーメンの穴(Bremer Loch)はドイツで最初にできた地中にある募金箱で、ブレーメンの援助団体が設置したもので、大きさは直径50センチ、深さは90センチ。そのマンホールの蓋のようなところにコインの投入口があって、そしてコインを入れると、『ブレーメンの音楽隊』の「皆さん」の鳴き声が聞こえてくる。

ローラント像10m

シュノア地区

ロゼリウスの家の鐘

ペットヒヤー通り

ファザードが美しいロゼリウスの家

市庁舎正門
  ブレーメンの音楽隊 グリム童話の物語の一編である
かつて働き者だったロバは年を取ってしまい、仕事が出来なくなってしまったので、飼い主から虐待されるようになった。これはかなわんと脱走し、ブレーメンに行って音楽隊に入ろうと考える。その旅の途中で同じような境遇のイヌ、ネコ、ニワトリに次々に出会い、彼らはロバの提案に賛成し、ブレーメンへと向かったが道のりは遠く、日も暮れてしまったので動物たちは森の中で休憩をする事にした。すると、灯がともる家に気づいたので、その家に近づいてみると、中では泥棒たちがごちそうを食べながら金貨を分けている。泥棒を追い出すために窓の所でロバの上にイヌが乗り、イヌの上にネコが乗り、ネコの上にニワトリが乗り、一斉に大声で鳴いたのである。動物たちはその家がすっかり気に入り、音楽を奏でながら仲よく暮らした。ブレーメンの音楽隊とあるが、動物たちは実際にはブレーメンには行っていない。
  

ツェレ Celle
人口7万人。ハンブルグから約1時間。アラー川とその支流に囲まれた300m四方の旧市街。500件以上の木組みの家が軒を連ねている。ルネッサンスとバロックのふたつの様式が見られるツェレ城を見学して、旧市街を歩き町で一番美しい木組みの家ホッペナーハウスを観光。ツエレ城は大公のために17世紀に建てられたもので、右がルネッサンス、左がバロック様式になっている。

ツエレ城

ツエレ美術館

ホッペナーハウス

ツエレ美術館
     
  
ハーメルンHameln
人口6万人、旧市街は直径500mほどの楕円形。ヴェザー川の河畔には中世の製粉所が残っている。ねずみ捕り男の伝説。こんなささえなことでも町おこしに利用している。伝説とロマンの町。
「ハーメルンの笛吹き男」で知られるこの町ではねずみ捕り男の家、子供達が連れ去られた舞楽禁制通り、ファサードが美しいライトハウス、結婚式の家を観光。結婚式の家には子供たちが付いてゆく仕掛け時計がある。

町の模型

マルクト教会と結婚式の家

結婚式の家の仕掛け時計

ヴェザールネッサンス
 
笛吹き男
 
オスター通り
 
ネズミとり男の家
ハーメルンの笛吹き男(Rattenfänger von Hameln)
グリム兄弟を含む複数の作者によって記録された民間伝承である。1284年、ハーメルンに「鼠捕り」を名乗る色とりどりの布で作った衣装をまとった男がやって来て、報酬と引き換えに街を荒らしまわるネズミの駆除を持ち掛けた。ハーメルンの人々は男に退治の報酬を約束した。すると男は笛を取り、笛の音でネズミの群れを惹き付けると、ヴェーザー川におびき寄せ、ネズミを残さず溺死させた。ネズミ退治が成功したにもかかわらず、ハーメルンの人々は約束を破り、笛吹き男への報酬を出し渋った。
怒った笛吹き男はハーメルンの街を後にしたが、6月26日の朝に再び戻って来た。住民が教会にいる間に、笛吹き男は再び笛を吹き鳴らし、ハーメルンの子供達を街から連れ去った。130人の少年少女が笛吹き男の後に続き、洞窟の中に誘い入れられた。そして、洞窟は内側から封印され、笛吹き男も洞窟に入った子供達も二度と戻って来なかった。
ゴスラーGoslar
人口4万人、968年から銀、銅、鉛などが採掘されたランメルスベルク鉱山に伴って発展してきた町。1050年ハインリッヒ3世が城を建て一時ドイツ、ヨロッパの中心であった。皇帝居城、マルクト広場、市庁舎を徒歩で観光。1500年頃鉱山はもっとも繁栄し、灰色のスレート葺きの木組みの家が素晴らしい。マルクト広場の噴水には帝国の鷲が止まっている。市庁舎の向かいの建物にはグロッケンシュピールがあり、採掘シーンの人形が現れる。元鉱山をこれほど愛し、観光の中心に据えていることに驚き。鉱害などなかったのか。

町の模型

ツアーベルゼ1573年の木組みの館

ジーメンスハウス

皇帝居城
 
灰色のスレートの家
 
木組み家屋
 
カイザーヴォルトホテル
 
マルクト広場
 
グロッケンシュピーゲル
 
噴水と帝国の鷲
  
ハンミュンデンHann-Münden
人口2.4万人。フルダ川とヴェラ川の合流点にある木組み家屋が574戸ある絵のように美しい街。昔この町で鉄ひげ博士Eisenbartという医者が住んでおり新しい治療法などを生み出した。この像が残っているが今はドラッグストア。この程度のものでも観光資源に変える逞しさに感心する。正直言ってわざわざ見に来るほどのことはないと思うが。木骨組みの家々が立ち並ぶ街並みを散策。歴史的な都市防衛施設の門 ロートゥンデが町の限界。建造は1502年にエーリヒ1世が開始し、エーリヒ2世時代の1579年に完成した。現在この建物の中には両世界大戦での戦没者記念碑がある。
 
市庁舎
 
木組みの町並み
 
市庁舎正門
 
中央玄関の装飾
 
ランゲ通り79番地
 
鉄ひげ博士の像

ロートゥンデ 
  
アイゼナハEisenach
人口4.2万人、フランクフルトから1時間。若い時代にルターやバッハが過ごした町。中世ドイツのロマンを求めて多くの人が訪れる。
バッハの家では古楽器の演奏を鑑賞、あと徒歩で、マルクト広場、木組みのルターの家などを観光。バッハは1685年この地で生まれた。自動車の町として有名でオペルの大きな工場がある。

バッハの像

バッハの家記念館

ルターの家

マルクト広場と市庁舎
ヴァルトブルグ城Wartburg
アイゼナハ近郊、チューリンゲンの森の北西部の岩山に築かれた堅固な城壁と大きな塔が目立つ世界遺産ヴァルトブルク城を見学。1067年伯爵ルートヴィッヒデアシュプリンガが建てた古き古城。ガイドツアーはガイドの持つテープで日本語の説明がある。騎士の間、食事の間などは簡素だが、エリザベートの間、歌合戦の間は美しい。ルターが10ヶ月で新約聖書を訳し論文を仕上げた部屋がある。質素。

ヴァルトブルグ城

エリザベートの間

ルターが聖書を訳した部屋

渡り廊下
この地ゆかりの巨匠の年代は年齢順に
マルティン・ルター(Martin Luther)1483/11/10 - 1546/2/18
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach) 1685/3/21- 1750/7/28
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe) 1749/8/28 - 1832/3/22
ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(Johann Christoph Friedrich von Schille)、1759/11/10 - 1805/5/9
バッハは子だくさんで、最初の奥さん、マリア・バルバラの間に、7人。マリア・バルバラが急死して、わずか半年後に再婚したアンナ・マグダレーナとの間に、13人。計20名。成人したのは9人だけ。そのうち5人の男子が、音楽家というから、素晴らしい。
  
エアフルト Erfurt
人口20万人、1200年の歴史ある塔の国。フランクフルトとドレスデンの中間で、 東西交易の中心地として栄えたゲーテとナポレオンは1808年この町で出会っている。大聖堂とセヴェリ教会、ネオゴシック様式の市庁舎、橋の上に商人の家が並ぶクレーマー橋、華麗な建物が並ぶフィッシュマルクト広場などを徒歩で観光。

大聖堂

セヴェリ教会

市庁舎

外から見たクレーマー橋

左側の道がクレーマー橋

フィッシュマルクト
  
ワイマールWeimar
人口6.5万人、ベルリンから2時間。ドイツクラシック文化が花開いた街。ゲーテ街道のハイライト。ゲーテやシラーのゆかりの地。
ゲーテは26-82歳この町で過ごしている。1919年ワイマール憲法が制定され、最初の共和国が誕生した。、
ゲーテハウス、金文字の時計を持つ市庁舎、マルクト広場などを散策。

ゲーテの像

マルクト広場

ゲーテとシラーの像が建つ国民劇場

市庁舎

クラーナハの家

ゲーテの家

フランツ・リスト音楽大学の前の広場
  
ライプチヒ ライプチヒLeipzigl
人口53万、ベルリンから約1時間。文学と音楽の町。町の名前はソルブ語の菩提樹に由来する。ハイデルベルグ、ケルンに次いで3番目に古い大学が1409年創立され、ゲーテ、ニーチェ、森鴎外が学んだ。新聞が創刊され、レクラム文庫など出版が盛んであった。
ベルリンの壁崩壊への第一歩となった集会が行われたニコライ教会や、バッハがオルガニスト兼指揮者を努めた聖トーマス教会、大時計が美しい旧市庁舎などを観光。

マルクト広場

トーマス教会に立つバッハの像

トーマス教会

バッハの墓

マルクト広場

ニコライ教会

ニコライ教会内部
 
ファウストとメフィストフェレス
 
メドーラパッサージュ
 
ルネサンス様式の旧市庁舎
  
ドレスデンドレスデンDresden
人口52万人。エルベ川のほとりの塔が多い風格伴う古都で、16世紀以降はザクセン王国の首都であった。ベルリンから約2時間、プラハへの国境の町。第2次大戦の空襲でバロック様式の町は一夜にして瓦礫の山になり、東西統一後再建作業が行われ、芸術と文化の都が蘇った。
ラファエロの「システィーナのマドンナ」やレンブラントの「自画像」が必見のツヴィンガー宮殿内絵画館、ブリュールのテラス、君主の行列、フラウエン教会、ゼンパーオペラなどを徒歩で観光。フラウエン教会は再建されたが黒点になっている部分が前にあったものを復元した。

ドレスデン城

ゼンパーオペラハウス

フラウエン教会

ブリュールのテラス
君主の行列   長さ101m。1123年ら1904年までのザクセン君主や芸術家93名がマイセン磁器のタイルに描かれている。  戦災を奇跡的に免れた。


マイセンMeißen
人口3万人、ドレスデンから30分、エルベ川に面している。青い剣の都。
1710年から磁器製作を行っている。欧州一小さい鉱山で採掘される原料、厳しい管理のもと1万色の美しい顔料を作り出している。
ガイドツアーにより陶器工房見学。マイセンの磁器でできたパイプオルガンのコンサートを鑑賞。ブティック、アウトレットもあるが、素晴らしい名品があるがとても高く一寸したお土産は無理。

陶器工房入り口
 
工場見学
 
マイセンの作品
 
磁器のパイプオルガン
ベルリンベルリンBerlin
小生はベルリンを3回訪れている。1963年まだ東西にベルリンが別れており、西ベルリンは西ドイツの飛び地で行くにはテーゲル空港に飛ぶ方法であった。壁が幅の広い鉄条網で仕切られた緩衝地帯の丘という感じで、チャーリーポイントから東ベルリンに入り、戦没者慰霊碑だけを観光できた。1999年個人旅行でドイツ西部を回った時にベルリンから入り西ドイツを回った。この時は郊外のポツダムも一日かけて観光した。
1945年無条件降伏、1961年ベルリンの壁建設、1990年東西ドイツ統一、1999年連邦議会ベルリンに移転、ユーロ導入と着実に復興に努力して、今はユーロの中核であるドイツを見て、感慨一入である。
 今回のツアーの仕様ではベルリンでの最終日は、半日団体での観光、昼食後は自由時間であった。世界的に名高いペルガモン博物館、激動の時代を物語るベルリンの壁跡、、ブランデンブルク門、ティーアガルデン、カイザーヴィルヘルム教会の後、土産物屋さんに立ち寄る。ガイドブックにあるフェイラーの手拭いがたくさん置いてあった。今までの各地で聞いても現地の人には知られていないブランドであったが、ここベルリンで日本人相手の店には沢山あった。
ブランデンブルグ門
 
壁の一部
 
テイーアガルテン方向
 
お土産やさん
  ペルガモン博物館 (Pergamonmuseum)
トルコのベルガマで発掘された「ゼウスの大祭壇」(紀元前180年-160年頃)、エーゲ海の古代都市ミレトゥスにあった「ミレトゥスの市場門」、バビロニアの「イシュタール門」(紀元前560年頃)など、巨大な遺跡がそのまま再建されている。スケールの大きさに圧倒される。再訪だが、日本語イヤホンガイドなど整備されており、見やすくなった。

ゼウスの大祭壇

イシュタール門

バビロニア行列通り
  
ポツダム広場
その昔1920年代にはベルリンはヨーロッパの情報発信基地だった。特にポツダム広場はその中心であった。1961年に都市の中を貫く境界線に沿ってベルリンの壁が構築され、ポツダム広場は二つに分断された。壁の周囲は無人地帯となり廃墟となった。東西統一後、ソニー、ベンツに開発の主体が決められ、再開発が行われた。1999年に訪れた時には、ソニービルなどが工事中で建物は殆どなかったが今はこの東西ベルリンの接点は見事に立派な繁華街になりました。
自由行動でポツダム広場の絵画館Gemäldegalerie に行きました。沢山の名画があります。文化フォーラムの中核をなす設備です。ブリューゲルの諺、フェルメールの真珠の首飾りのおんな、などがあります。
 
絵画館入り口
 
ソニーセンタ
 
ソニーセンタ中央

ポツダム広場
 
レゴのキリン
 
中央駅
 
動物園水族館側入口

その他参考事項


■どの町も、マルクト広場、市庁舎、それに何か一つの物語か歴史を持ちこれらを中心に保存が行われており、その努力は素晴らしいものがあります。一方それらの保存に力を入れるので、近代的な開発は殆ど行われていません。何処も中世の町に沢山の人が歩いている感覚です。大抵の町にはトラムがあり、これがうまく町と融合しています。自由時間があればもっと楽しめるのではないかと思いました。

■JTBの旅物語は沢山の設定日がありまた、それほどJTBを利用している訳ではないのに前回の旅行と同じ添乗員でびっくりしました。今回の様なまだ少し寒いかと断りがあったので心配しましたが、殆どが晴れで問題なく予定通りの観光ができました。

■外貨はユーロの5ユーロ札を用意してゆきました。公衆トイレは殆どが50セントぐらい。面白いことに博物館の入場ゲートのようにコインを入れないと入れない仕組みになっており、お釣りも出ます。さすがドイツという感じです。

■カメラは禁止ではなく、有料だが、フラッシュは禁止だけど撮影可のところが多い。 カメラのフラッシュの設定や、ISO感度の調整をしておけば、殆ど撮影が出来ます。

■アンペルマン アンペルマンとは旧東ドイツの信号機で使われていた人のマークで、小さな男の子がモチーフとなっている。 西ドイツとの統合に伴って、西ドイツと同じ大人のマークを使った信号機が使われる予定だった。
しかし、かわいらしいデザインに親しんでいた市民が「アンペルマンを救え」という運動を起こした。 アンペルマンのマークは現在も使われている。 アンペルマンのマークは、ステッカーやマグカップにも使われており、旧東ドイツ各地のお土産として喜ばれている。

■土産物のフェイラーFEILERの手拭いだが、成田空港や日本で売っているものを現地ならば、もっと安くなお現地らしい柄があるのではないかということでお土産や、スーパーなど行く先々で覗いてみましたがどの町にも売っていません。また現地ガイドやインフォーメーションで尋ねても誰も知りませんでした。ネットの調査ではドイツとチェコの国境に接する小さな町Hohenberg にFEILERの工場があり、で製造していることは分りましたが、相当な田舎で行くことが出来ません。
諦めていたら、ベルリンの日本人向けのお土産屋さんに堆く積み上げてありました。

■たまたまシーズンがホワイトアスパラガスの美味しい季節と聞いていたので、何処かで会えるかと期待をしていましたが、ベルリンまで料理には出ませんでした。ホテルのルームサービスメニューをぼんやり見ていたら季節限定でホワイトアスパラガスのお皿があるではありませんか。早速注文して味わいました。美味でした。

■いつも感じることですが、ツアーの時の飛行機の座席の配置は気に入らない事ばかりです。ルフトハンザで行くと銘打っているのでせめてもう少し快適に過ごせるよう、席のリクエストが出来ないものかと思います。中の席で夫婦二人を前後に配置され長旅のトイレは大変でした。最近航空会社の力関係や再編などで共同運航の組み合わせが変化しつつあり、ヨーロッパ線ではハブ空港での乗り継ぎに時間がかかり、乗り継ぎの空港は混んでいます。サテライト間の移動も長く旅行者にとっては不要な仕事と時間が無駄になる傾向です。

■参考
地球の歩き方A14ドイツ
実業之日本社 わがまま歩き 14 ドイツ
図説 ドイツの歴史 (ふくろうの本) 石田 勇治 (著)
ゲーテ街道を行く [とんぼの]本 小塩節/著 津田孝二/著 新潮社