北インド旅行報告

2006年2/22から3/11までユーラシア旅行社ツアーDI17インド物語17日間に参加しました。
何度も訪れることは無いので、出来るだけ沢山の見所をと選んだのがこのツアーでした。地図と訪れた町
参加は夫婦4組、男性のみ3名、女性のみ2名、計13名、添乗員は女性、男女同数の仲間でした。
インドは広く、道が悪く、列車などほとんどの交通機関は時間通りに動かないので、待ちと忍耐の連続でしたが、毎日世界遺産を訪ねる強行軍でした。悠久の昔からの伝統、ヒンドゥ教の物語やいろいろの彫刻を楽しみ、さまざまな宗教が混在する生と死、貧と富が混在する大地、インドを見て、面白い異文化経験でした。また町では沢山の人が混み合っており、平気で道や駅で寝ているひとや、観光客に無数の貧者の手が出され、10億の人口と高度な技術力を武器にグローバル市場の新しい主役を狙うインドならば、貧富の差をもっと減らす努力が必要かと思いました。また観光という面ではやはりこれだけの遺産をもっと活用して、保存と開発に力を要れ仕事を造り多くの人の働き場所が必要と感じました。



訪れた町とスナップ写真

デリー Delhi
成田発1215、AI307便直行で9時間でデリーに着きます。時差は3時間半。人口1250万人、インドの首都、 第3の都市。このデリーからインド発見の旅をスタートする。ラクシュミーナラヤン寺院、インド門、フマユーン廟、クトゥブ・ミナールの順に観光。
右図のインド門は1931年第1次大戦で戦没した9万人のインド兵を追悼する為に建てられ、柱にはその名前が刻まれている。
フマユーン廟(1993年登録世界文化遺産)は、ムガール帝国が最初に建造したペルシャ系イスラム様式の壮麗な暮廟。
クトゥブ・ミナール(1993年登録世界文化遺産)は中世北インドに侵入したイスラム教勢力が建立したモスクと尖塔などの遺跡。

インド門

ラクシュミーナラヤン寺院

フマユーン廟

クトゥブ・ミナール
アグラAgra デリーからヤムナー河沿いに約200km下ったところ。昔のムガル帝国の首都
タージ・マハール、アグラ城 、ファティプールシクリーの観光。

タージ・マハールTaj Mahal
(1983年登録世界文化遺産)
ムガール帝国王妃の白亜の霊廟。大理石に宝石、貴石を散りばめてあるイスラム建築の至宝。造営したのは、ムガール帝国最盛期の第五代皇帝シャー・ジャハーン。最愛の妃、ムムターズのため、帝国の財力を注ぎ込み各国から宝石、貴石を取り寄せ、22年の歳月を費やして築造。

正門

人力車で出入り口まで

西門でここから入場検問あり
アグラ城塞
Agra Fort

(1983年登録世界文化遺産)アグラ城は16世紀から19世紀にかけてインドを支配した、ムガール帝国の栄光と強大な権力の象徴とも言える城塞。息子に皇帝の座を追われたシャー・ジャハーンが城の塔内に幽閉された所としても有名です。

アグラ城入り口

アグラ城からタージマハルを望む

内廷
ファテプールシクリFatehpurSikri
ファテプールシクリが、アグラから少しはずれたところにあります。アグラに飽きた皇帝アクバルは、ファテプールシクリに遷都しましたが、水不足のため数年で立ち去らざるをえませんでした。
ジャイプールJaipur

100年前、ジャイプールの町はここを訪れた王子を歓迎して、町中をピンクに染めました。それ以来この町は、その色のままになっています。ラジャスタン地方の入り口であり、ラージプートの地、騎士道と武道の伝統が息づく地、英雄と美女の伝説の地です。シティーパレス、ジャンタルマレタル天文台Jantar Mantar観光。
右図: 風の宮殿は写真ストップのみ。どのガイドブックにも出ている有名な建物ですが後ろ側には何も無いそうです。

風の宮殿Hawa Mahal
シティーパレスCity Palace
ムガール様式とラジャスタン風の建築様式が融合してできたシティ・パレスは、現在では博物館となっており、ジャイプールの王朝を物語る品々が展示されている。世界で最も大きいと思われる銀製の瓶があります。これは、王子が英国を旅行したとき、聖なるガンジス河の水を運ぶ目的に使われました。現在も王様が住んでいます。この地区は全部この王様、スワイ王71歳の持ち物です。

博物館

銀製の瓶

黄色の部分が居城
アンベール城Amber Palace
ジャイプールからほんの11キロ離れたところに、6世紀もの長きにわたって首都であり続けたアンベールの丘城があります。宮廷や庭園が何段にもなって丘の上に作り上げられています。鏡の間シェーシュ・マハルはこの種の広間の中では最高傑作といえるでしょう。小さな鏡が無数に飾り付けられているので、たった一本のロウソクの炎も何千本にも反射して輝くのです。

象のタクシー

象のタクシー準備中

鏡の間
アーバネリーAbhaneri
ジャイプルからアグラに向かって95キロの原野にある階段井戸。未だ史跡として確定していないためか観光客が少ない。精巧な建築にただ驚くばかり。
コルカタKolkata
インド第2の都市。西ベンガル州の州都。およそ300年前、ロバート・クライブがフーグリー河のほとりに上陸したときからコルカタの歴史は始まる。しばらくは1911年までは植民地インドの首都であった。
カーリー寺院Kali Temple。生贄のヤギや羊の死体があり凄惨。
マザーテレサのマザーハウス、ジャイナ教の寺院、インド博物館の順に観光。
地下鉄もあり、駅は2階から入るようになっている。

インド博物館

ジャイナ教寺院

テレサの墓

カーリ寺院の入り口
ブダガヤBuddha Gaya
尼蓮禅河ニーレンジャー河を経て、スジャータ村Sena Villageへ。釈尊の修行地。ストゥパと菩提樹がある。前正覚山が遠くに見える。
ブッダガヤの大菩提寺
マハーボディー寺院Mahabodhi ビハール州(2002年登録世界文化遺産)
釈尊が菩提樹下で禅定を修さられ、成道された地で、仏教における最も重要な聖地。その菩提樹と台座(金剛宝座)を祠るのが大菩提(マハボディ)寺です。前3世紀のアショカ王の頃に最初の祠堂が建てられ、現在の形になったのはほぼ4世紀以降のことです。
沢山の仏教巡礼者が菩提樹の周りで瞑想を続けています。近くに各国の寺がある。

マハーボディー寺院

本堂裏の菩提樹

本尊


マハーボディー寺院の正面
バナーラスBanaras(Varanasi)
シヴァ神を祀るヒンドゥー教徒の世界の中心です。この付近ではガンガは南から北に流れる。その左岸が階段状の沐浴場で、多くの寺院や宿舎が連なる。
早朝からガートへ沢山の人が集まっています。ダシャーシュヴァメーダがーとの付近からボートに乗船、沢山のガートを見ながら、上流に向かう。日の出を見たかったがあいにくの雨。下流に戻りマニカルニカガート(火葬場がある)で下船。あと路地をとおりゴールデンテンプルヴィシュナワート寺院Vishwanath Temple外から観光。
ヒンズーベナレス大学BHU内のヴィシュワナート寺院、ドウルガ寺院Durga Mandir、バラドーマ寺院Bharat Mata Mandir(マザーインディアとも言われインドの地図が神体)を見学。


南側から下流を見る

暗いですが日の出前のガート

バラドーマ寺院Bharat Mata Mandir

ヴィシュワナート寺院
サルナートSarnath鹿野苑
仏教徒が訪れる聖地の1つ。 バラーナスから北に11キロで2000年前に仏陀が始めて説法を説いた村。ムルガンダクティー寺院1936年建立、スリランカ政府の寄贈による釈尊の金の仏像、壁には日本人、野生司香雪の描いた釈尊の一生がある。
サルナート考古学博物館Archaeological Museum、ダメクステュバDhamekh Stupaなどを観光。

サルナート中央聖堂

千の仏陀

釈尊の一生壁画

ダメクステュバDhamekh Stupa
カジュラホKhajuraho
かつてチャンデラの王たちの首都であったカジュラホは、現在荘厳な寺院で知られています。西暦950年から1050年の間にチャンデラ王朝によって建てられた寺院は、インド・アーリア建築の美しい見本であり、精巧に細工が施された彫刻が特徴です。シバ神、ビシュヌ神とジャイナ教のティールタンカラが祀られた寺院は、中世インドの芸術と建築の展示場となっています。現在、本来の85のうち22の寺院が残っており、カジュラホの寺院は世界遺産を表明しています。カジュラホの寺院は西部、東部及び南部の、三つの地理グループに分けられています。


カンダーリヤマハデーバー寺院

マスカラを引く女



ミトナ像
オルチャOrcha
オルチャの遺跡は1606年にジャハンギールという人がここを訪れたときに造られた宮殿で250年間、ブンデラ朝の首都として栄えた。今はこの隣の建物が「ホテル・シーシュ・マハル」として実際に営業中。
ベトワー川沿いのジャンシーからカジュラホに向かって16キロにある。観光客はあまり訪れていない秘境である。昼食をとったAmar Mahalは中庭のきれいな ホテルでした。


ベトワ河から見る全景

中央内苑

サンチー
Sanchiの仏教建造物群
マッディヤ・プラデーシュ州(1989年登録世界文化遺産)
美しい田園風景に囲まれた小高い丘の上に有名な三つのストゥーパがあります。大塔(第一ストゥーパ)は、アショカ王の創建。前1世紀に建てられた四方の塔門(トラーナ)は、全面が精細な彫刻で飾られています。

東門

全景
ビーンベトカのロック・シェルター群
マッディヤ・プラデーシュ州(2003年登録世界文化遺産)
古代から中世まで続く岩窟住居跡です。壁には壁画が描かれ、天然の赤と白の撮りようが使われていたため、その色は驚くほどきれいに保たれています。およそ1万2000年くらい前のものとされています。
左:入り口付近
右:見えにくいが羊の群れが描かれています。

アウランガーバードAurangabad
ムンバイの東約300kmの古い市場町でインド国内航空の便があるので、アジャンタやエローラへの観光基地です。この町にも、オーランガバード石窟寺院、ビービーカマクバラBibi-ka-Maqbara、ドーラバード城Daulatabadなどの見所があります。
右の図のビービーカマクバラBibi-ka-Maqbara、は小型のタージマハルです。

アジャンタ石窟群Ajanta
デカン高原西北部(1983年登録世界文化遺産)
古代インド第一級の仏教遺産です。デカン高原西北部、サフヤドリ連丘の谷間を馬蹄形に大きく湾曲して流れるワゴーラ川の外側沿いに、幅約600mわたって断崖を穿って建造されたインド最古の仏教石窟群です。アジャンタ石窟群は、未完成窟を含めて29 窟。
中でも、6世紀作の第一窟の壁画、蓮華手菩薩、金剛手菩薩は、優美で気品にあふれ完成度が高くアジャンタ石窟群を代表するものとされています。

全景

第一窟の壁画

入り口付近

連絡バス
エローラEllora
エローラ石窟群デカン高原北部(1983,年登録世界文化遺産)
古代インドに栄えた三つの宗教が、巨大岩盤に綿々と掘り続けた最大規模の石窟寺院です。ひとつの岩から掘り出された彫造物としては、世界最大の寺院堂塔。600年代から1000年代にかけ、それぞれ100年以上にも及ぶ長い歳月を費やして造られました。石窟群は、34窟。仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の石窟寺院があります。


エローラ入り口

カイラーサナータ寺院Kailasanath

カイラーサナータ寺院Kailasanath
ムンバイMumbai
インドの西の玄関口で現在最大の都市。大きな国際空港と港が完備しています。ムンバイのゴシック建築はインド門、ムンバイ高等裁判所、旧官庁、大学校舎およびビクトリア・ターミナル駅などに見られます。
右は海から見たタージマハルホテルとインド門。このホテルは財閥のターターが建てた。
ドビー・ガートは広大な洗濯場。 ドビーは洗濯屋の意。 ドビー・カースト(洗濯を職業としているカースト。カーストには身分制度、と職業の両方の意味があるようです。)の人々は、ディワリ当日も休まずに黙々と洗濯をしています。 洗濯は、流しにたたきつける、という方法で。 数え切れないほどの洗濯物が風にたなびいていました。

インド門Gateway of India

プリンスオブウエルス博物館

プリンスオブウエルス博物館中央ホール

ドビーガート

クロフォード市場

CSTチャトラパティシヴァージターミナス

エレファンタ
石窟群Elephanta Island
ムンバイ(1987年登録世界文化遺産)
ムンバイ湾に浮かぶ緑の小島、エレファンタ島に残された古代ヒンドゥー教寺院遺跡です。この石窟寺院が彫られたのは、5世紀中頃から8世紀の中頃と思われます。石窟は全部で7窟。残念ながら一時ここの支配者でヒンドゥー教を嫌ったポルトガル人たちに破壊されてしまった窟もあります。完成度が高く保存状態が比較的良いのは第一窟。さまざまな表情のシバァ神やその説話などの浮き彫りが見られます。これらはみな美的水準が高く、古代ヒンドゥー教石窟彫刻の傑作の一つに挙げられています。


入り口右のシバ神像

入り口

坂を上るかご

エレファンタ島の桟橋列車
雑メモ
左:駅にある散水栓。何に使うのかと思っていたら、線路に垂れ流された糞尿を水で掃除する。ホームに向かって放水するので注意が必要。

右:ポーターはスーツケースを頭に載せて運ぶ。1つずつでなく、人によっては2、3個重ねて持ち、階段を平気で運搬する。これは驚き。


その他参考事項

■一番のカルチャーショックは、時間の概念が違うことです。鉄道や国内線航空機にも乗りましたが、時間がむちゃくちゃで、遅れは当たり前、それも半端ではない。悠久のインドらしく3時間遅れは当たり前。何時来るか判らない列車をどこで待てばよいのか、個人旅行ならとても神経を使うことになると思う。今回はツアーなのでお任せ。
インドには全部で28州ありある程度の自治権が州知事に与えられています。車が州を越えるとき税金を取られる。その支払いが時間がかかり多くの車が停滞する。

■ また駅で駅前広場や構内で沢山寝ている。乞食も多い。ふっと後ろから肩や、腰に人気がするので振り向くと、子供の埃だらけの手が何かくれと待っている。物売りも多いがそのほうは元気。やはり赤ん坊や少年の乞食だけはしなくて良い環境づくりが必要と感じる。今回の旅ではカーストを実感する出来事に出会わなかったが、ヒンドゥー教において人はいずれかのジャーティー(いわゆるカースト制)に属することになり、それに基づき社会が成立している。ジャーティーは内婚集団であり、ジャーティー内での結婚が原則だ。ドビーガートなどに観光客を案内する気持ちがわからない。
彼らインド人で解決すべき問題であろうが、心が痛む。やはり 可哀想になって思わず小銭を出したいと思うし、日本語でいろいろ言ってくるのに、「黙っていろ、絶対にやってはいけません」と現地ガイドの声が飛ぶが、すこしでも親善を試みたい我々は迷う。「やれば物乞いが群がってしまう。収拾がつかなくなりますよ」。

■今回の地方へは10月から3月がベストストシーズンと言われています。温度は日本の夏位で、夏服で十分でした。ホテルなどではクラーが効きすぎで、寒いぐらいです。一寸クーラーを止めてその分でお菓子を買いを乞食の子供に分配するなどしてはと思います。食事はほとんどホテルでバイキングなので少しずつとって試しながら食べました。辛いものもありますが、大体は我々の口に合うように用意されていたので、困りませんでした。但しカット野菜やフルーツは食べないようにという勧告もあり止めておきました。ナンが以外に美味しく、バターをつけたり、またおかゆ、卵焼きがあったりして不自由はあまりしませんでした。水は例によって水道は駄目で、ペットボトルを口すすぎにも使いました。 おなかは下痢と便秘を交互に繰り返しましたが、予め病院で薬をもらっていったので、ひどいことにはなりませんでした。

■言語は英語とヒンディー語。各州ではその地方の言語が別にあります。例えばコルカタではベンガル語。文字はヒンディー語と同じように見えますが、単語は違います。ヒンディー語の挨拶はオハヨウも、さよならも[ナマステ]でよいようです。不思議なことに[ありがとう]は[ダンヤワード]ですが普通には使用しないようです。thankyouのほうが使用されています。Noはナヒーン、[もう結構]はバスなので、物売りには[なひーん、バスバス]といえば判ってくれますがなお付きまとわれるかもしれません。

■インドでは、入場料金などが「インド人価格」と「外国人価格」の2本立てで設定されています。 例えば、インド人10ルピー 、外国人300ルピーなど、ものすごい差で、またカメラ持ち込み料を大抵の観光地では必要です。また宗教上の理由で寺院などでは靴を預かり裸足で参拝する。牛は神様の乗り物。靴は持ってはいることも禁止。 1ルピー約3円ですが両替は空港、ホテルどこでも日本円から出来ました。
ビールは200−250ルビーで高い。レストランで食事のときに払う価格と比較してルームサービスやバーで直接購入したほうが安いという珍現象であった。

■世界遺産や歴史的な彫刻、建物はほとんどヒンドゥー教に由来するもので、その歴史や神話が語られます。
ヒンドゥーの神は化身も含め驚くほど沢山ですが、プラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの3大神が基本で、究極的にはこれも一体化します。三神一体(トリムティー) ヴィシュヌの妻は、ラクシュミー、シヴァの配偶神はパールヴァティーでその子がガーネーシャです。インドの人々に人気が高いのはシヴァ、ガネーシャです。ヒンドゥー教とイスラーム教が長い間闘争中ですが今のところ共存。仏教、ジャイナ教はヒンドゥー教から分化したもの。現在のインドでは8割がヒンディー教、次に多いのがイスラム教で約15パーセント。バードはイスラムの町、ブールはヒンドゥー教の町です。ヒンディー教とイスラム教がうまく共存しています。 ほとんどの彫刻や壁画はこれら神々の物語により造られています。

■道路は左側通行だが、車、牛、馬車、リキシャみな勝手に走っている。問題は牛。ここの国では牛は神様の乗り物。ハリジャンなんかよりも階級が上で保護されている。我々から見ると、何かアンバランスで不思議だ。また乾季なので埃まみれになります。道は立体交差工事で改良中ですが町を通過するには牛、人力車、バス、がむちゃくちゃ勝手に走るので街に来ると大停滞する。田舎に行けば舗装が壊れてがたがた。近い将来には道路網が出来ることを期待します。

■インドのトイレでは紙を使わない。水で左手で洗う。また公衆トイレが少ない。どこでも誰もが立小便。また列車のトイレは昔の日本と同じで、垂れ流し。停車中は禁止されていますが、平気で使うので、駅はトイレ。散水用の設備で流しているが、ホームに向かって水撒きされるので汚いこと大変である。

■サービス業に女性まだほとんど居ない。インド航空のスチュワーデスと航空職員に居ただけ。ホテルやレストランには女性はあまり見かけなかった。

■帰国日の航空便は大変でした。[予定]3/10ムンバイ発1520 AI306 3/11(土)午前8時成田着
実際はなんとムンバイ発2200約6時間半の遅れ。家に着いたのは23時(インド時間1930)でした。ホテルを出てから28時間の旅でした。インドはヨーロッパよりも遠いと改めて認識しました。
またこのAI306便は直行ではなくボンベイを出てから、デリー、バンコックに寄航します。その度に我々直行以外の人はほとんどが入れ替わり満席です。また2時間の駐機中に掃除や確認が来ますが、我々は自分の座席に留まることを要請され、大変窮屈な思いをします。ムンバイーデリ間は国内線並みの扱いで座席指定の無い沢山のインド人が乗ってきて一杯になります。デリーでは沢山のタイ人が、乗ってきて空席なしです。バンコックではこれらの人が降りたあと沢山の日本人が乗ってきてまた一杯になります。やはり寄航の無い飛行機で帰るほうが楽です。インド航空は6時間遅れた飛行機にも空席が無くなるほどの人が待って乗るほどの混雑で十分利益が上がっていると推定されます。

■我々の知っている街の名前、は英語名の日本語読みだが今現地では独立後の正式名称が使用されている。このホームページも正式名称を使いました。地図と訪れた町は別紙

■ネット上に多くの旅行記やガイドがあります。参考書も多くありますが今回の旅行の参考としては、下記。
インド旅案内 ちくま新書 118 福永 正明著/出版:筑摩書房
迷宮のインド紀行 (新潮選書) 武沢 秀一著
インド神話入門(トンボの本)長谷川明著新潮社
図説インド歴史散歩(ふくろうの本)小西正捷・岩瀬一郎著河出書房新社
地球の歩き方プラスワン407[見て読んで旅するインド]
地球の歩き方D28[インド]