親鸞聖人の言葉
わたしは 阿弥陀仏 あみだぶつ は 絵にかいた像ではなく 心の闇を照らすー限りない光ーと感じるのです。
だから ありがたく嬉しく思われるのです。
だが、人は皆、人の姿を見て安心するものなのです。光というだけでは、人は親しみを覚えない。
それで、さまざまな仏を人に似せて彫り・絵に描くのである。
人々の熱い思いがこめられた像や絵などは、すでにただの形ではない。
目に見えない大きな光を、その姿・形であらわそうとしたものだからだ。
そして、物語が生まれるのだ。 その物語もまた、人がつくったものにちがいない。
人がつくった物語でも、人がそれを信じるとき、その物語は真実となる。 念仏ねんぶつ もそうなのだ。
信じて念仏すれば、念仏は真実の光となる。 わたしは、ずっとそう思ってきた。
心の闇やみ は、いったん晴れたようにみえても、すぐまた曇る。 空模様そらもよう と同じことだ。
念仏して晴れたかと思えば たちまち嵐 あらし になり、心はまた闇にとざされる。
だからそのとき、また念仏する。人の心は揺れ動くものだ。だから、繰り返し念仏を唱えるのだ。
いったん信心が定さだ まったら もう二度とゆるがない心の人は 一度の念仏でもよいであろう。
しかし われらは凡夫ぼんふ であるがゆえ、絶えず心はゆらぐのだ、迷うのだ、くじけるのだ。
念仏はそういう凡夫の心を そのつど立ち直らせてくれる光なのである。 私はそんなふうに考えてきた。
法然上人 ほうねんしょうにん は、絶えず念仏をなさっていた。 ある日 上人に、お尋ねしたことがある。
そのとき 法然上人は、こう仰った。
『自分は弱い、愚かな人間だから、心がつねに揺れ動く。 いったん信じてもすぐ迷う人間なのだよ。
だから、そのつど念仏が口をついてでてくるのだ。
おい・法然よどうしたのだ・と 阿弥陀さまのお声が聞こえてくるような気がするのだよ』と。
また、ある日 ー信じることができない人間は、念仏を唱えても無駄でしょうか?ーとお尋ねしたとき
師匠(法然上人)は こう仰った。
『念仏していれば 自然に信じる気持ちになってくるものだ、それが念仏の力だ』と。