観普賢菩薩行法経 (12)
 世尊
 「衆生たちよ 衆生が懺悔せねばならぬ内心の心を 説き明かしましょう。
  眼根の罪
を懺悔
心の根本が改まった境地を 眼根初境界げんこん しょきょうがいといいます。

  では 眼根初境界を求める衆生のために
 眼根の罪の懺悔法を 説きましょう。
 
自分は 目の前の現象に捉われて 自分の心が喜ぶことだけを貪りつづけ 執着し 迷いの海をさまよっていました。
   智慧不足の自分に 気づかず 長い間 不完全な見方や考え方をもって 生きてきました。
  現象だけを見て 表面の恩愛おんあい
とりこ になってしまい 真実を見ようとはしない 愚かな自分でした。
   日々 目の前に湧き起こる現象に振り回されて
三界を彷徨
ほこう しておりました。
  煩悩に追い回されて心が疲れ 六道の中をグルグルと廻り 実相 まったく見えていないアサハカナ自分でした。
   目の前しか見ない
原因
によって生じる 実相に対する盲目の結果 循環しているだけでありました。
   今までは 迷いの世界にドップリと浸かっていた 智慧不足な自分でした。
  しかし 今 ありがたいことに 真理の大乗経典
だいじょうきょうてん に出会い 学ぶことができました
  自分は 大乗経典から 仏の生命は永遠であると同時に 衆生の命も永遠であること 学びました。
  お陰で 今 自分は この真実を理解し 新しい人生へ向けて 再出発することができました。
  自分は長い間 眼根不善げんこんふぜん ーものの見方が誤っていた
ことを反省いたしております。
  眼根の罪を犯していた 過去の自分は 自分が理解した真実が本物の真実なのかどうか 考えたことが ありませんでした。
  こんな低い自分ですが 今ここで 心の底から響いてくる声に忠実に従い
釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ 及び 一切の諸仏に対し
  
眼根の所有の罪咎げんこんのしょうのざいそ −今ままでものの見かたが間違っていたことを 心から懺悔いたします。
眼根の罪げんこんのつみ を背負う衆生は 上記の内面の心をすべて仏に説き明かし懺悔すると良いのです。
 
つまり
十方の仏を礼拝し 釈迦牟尼仏とその教えに向かい 次の言葉を 全身全霊で三唱するのです。
 
諸仏や菩薩は 慧眼えげん をもって 衆生の仏性を平等に見てくださいます
 
その慧眼から流れ出る 教えの清水せいすい
 わたしの心の穢れ汚れ 洗い去ってください
 
今まで 迷いの海に彷徨っていた自分は ものごとの見かたを誤り
重い罪を重ねてまいりました。
  その罪が心を覆おお っていたので 心が汚れてしまい 諸法の実相を見ることが できませんでした。
  仏の大慈悲をもって 私をお救いください。 普賢菩薩は 教えの船で一切の衆生を 悟りの彼岸ひがん へ渡らせてくれます。
  どうぞ 私は過去の誤ちを懺悔しますので お力をお貸しくださいと。
 これが 眼根の罪の懺悔法です。
  そして
大乗の教えを思い返して もう忘れないことを心に誓うのです。
  このようにして
諸仏の御名
みな を唱え 感謝の心をもって眼根の罪げんこんのつみ を懺悔さんげ すれば
  いつでも
どこでもどんな時でも 仏と共にある自分を 深く自覚できるのです。
  さらに修行を積み
その自覚がさらに深まると その衆生は永久に 悪道に堕ちることはありません。
  眼根の罪を懺悔した衆生は
仏の説く大乗の教えを
心身の動きに反映して 実行できるので
  常に 一切衆生を救う心を持ちつづけ 娑婆世界の衆生救済に努力することができるのです。


 すっかり 眼根の罪を懺悔し終えた衆生は
陀羅尼門だらにもん ー悪を止の力を得た衆生です。
 
陀羅尼門を得た衆生は 陀羅尼菩薩だらにぼさつ の仲間入りを果たしたのです。
  もう この衆生は
正念
しょうねん を得ていて 仏の心を理解している衆生なのです。
  正念の意味の逆である
邪念
じゃねん とは 自分のためばかりを考える心のことです。
 
衆生よ
この陀羅尼菩薩境地を得ても
満足してはなりません。まだ 懺悔はつづくのです」。  (13)へ