授記品第6 ・じゅきぼん・
世尊、
「今、弟子の摩訶迦葉は、仏の教えをしっかり理解できました。よって、彼にも、授記・じゅき・ を与えましょう。
彼は、菩薩行を多く実践して、仏の教えを人に説いて世の中の為に役立ちたいと、心に決めたのです。
彼は今後益々、多くの仏にお仕えして学び、仏の教え(宇宙の真理)を世の衆生に説き広めることでしょう。
そしてやがて、彼は必ず、仏ほとけ になるでしょう。
仏号ぶつごう は光明如来こうみょうにょらい 国の名は光徳こうとく 時代の名は大荘厳だいしょうごん と名づけます。
この光明如来の寿命は12万年です、その滅後20万年間は、この教えが正しく伝わる時代であります。
次の20万年は、形式上ではあるが、この光明如来の教えが残る期間でありましょう。
私(世尊)は今、弟子の摩訶迦葉まかかしょう に、授記じゅき (成仏の保証)を授けました。
だが授記の前に、確認事項が二つあるのです。
1、仏のすべての教えは、1切衆生を平等に仏の境地に入らせる、ことに帰着きちゃく していること。
2、仏が最初から 滅相めっそう を説かないのは、衆生の心欲しんよく をよく見分けてから法を説くということ。
この二つを、弟子の迦葉がしっかりと理解していることを確認したうえで、私は授記を授けたのでした。
私は以前から、弟子の摩訶迦葉の著しい成長ぶりを、見極めておりました。 「授記の弟子の順番」
ですから私は、「薬艸諭品第5」の冒頭で、彼のことを
ー善哉善哉ぜんざいぜんざい 迦葉かしょう 善く如来にょらい の真実の功徳くどく を説くーと、褒め称えたのでした。
以前からすでに彼は、すっかり仏の教えを悟り、その信仰の深さも・志しも固まっていたのでした」。
摩訶迦葉は授記されましたが、四人の声聞 しょうもん 仲間のうち
未だ、授記されていない、目連もくれん 須菩提しゅぼだい 迦旃延かせんねん の三人は心の中で
ー大王明世尊だいおうみょうせそん 常に世間を安んぜんと欲す、願わくば我等に記を賜えーと、必死で願いました。
意味: 世尊は、いつも世の中の人々を安らかにしてやろうとお考えになって おられます。
私たちも仏の境界きょうがい を得て、世の中の人々を安らかにすることが 最大の望みでございます。
どうぞ、お前たちも仏になれるぞと、授記を与えくださいませ。 「常不軽菩薩」・衆生の仏性を拝む・
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仏の呼び名: 如来にょらい 応供おうぐ 正偏知しょうへんち 明行足みょうぎょうそく 善逝ぜんせい 世間解せけんげ
無上士むじょうじ 調御丈夫じょうごじょうぶ 天人師てんにんし 世尊などの名で呼ばれる。 「仏の十号」
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世尊、つづけて
「成仏の保証である「授記」じゅき には、三つの大切な意味があります。
1、あなたは仏である、という意味ではありません。仏になれるという予言よげん を述べたのです。
つまり、これから益々、修行を深く続けていく……という条件付きで仏になれる、と説いたのです。
衆生は皆ー1切衆生悉有仏性 いっさいしゅじょうしつうぶっしょう ーなのです。 だから、誰でも成仏できるのです。
最初からーあなたは仏なのだよーと言ったのでは、衆生は大きな誤解をもってしまいます。
衆生たちが、簡単に考えてしまうと、勘違いが生まれます。 私は、これを懸念しているのです。
衆生は皆ー1切衆生悉有仏性だから・即・皆仏に成るーと、凡夫は安易に受け取ってしまいがちです。
凡夫は、自分はこのままで仏なんだから、この迷いだらけの自分でこれからもいいのだ、
という間違った受け取り方や、自分は何にもしないでも、もうすでに仏なのだというような、
思いあがった高慢な取り方になってしまうのです。
授記とは、あくまでも ー衆生は皆仏になれるー と言う予言なのです。
そこには、衆生の勘違いを避ける深い目的があるのです。 ここは非常に大事です。
つまり、
授記はー入学証書ーなのです。 仏道ぶつどう を学ぶ学校に入学しましたという意味です。
その仏の学校には、登校時間も下校時間もありません。 又、在籍期間や学年もありません。
勿論、学校の校舎も教室もありません。授業時間は特に決まりが無く、毎日の生活が授業時間です。
その授業時間も、衆生が自発的に修行を行う時間なのです。
衆生が送る毎日の人生が仏の学校なのです。仏の学校の校風は、全く自由なので気楽ともいえます。
この授記という入学証書には、素晴らしい特典がついています。
仏の学校で修行に励んでいくと ー必ず仏に成れるー という保証が特典でついています。
仏の学校の卒業式は、仏に成った時が卒業式です。 仏の学校を卒業したら、もう学校へは戻れません。
衆生の世界では、いろいろな学校・専門学校がありますが、仏の学校は一つなのです。
卒業式の時、仏がーおめでとう、仏の悟りを得たあなたは、もう仏に成りましたーと、祝辞を述べてくれます。
仏の学校の卒業式は、適時に開催されているのですが、残念ながら卒業証書はありません。
私が一番最初に授記を授けた弟子は、舎利弗しゃりほつ でした、「譬諭品第3」を参照してください。
その時、その法座ほうざ の大衆全員が、大歓喜の歓声を上げました。
自分たちも授記の可能性への希望が湧いてきたから、大衆全員は、大歓喜の歓声を上げたのでした。
先輩格の舎利弗が、仏の学校へ入学(授記)したのだから、次は自分たちの番が来ると、思ったのです。
自分たちも、仏の学校へ入学(授記)できる可能性が出てきたことを確信したので、
大衆たちは大歓喜の歓声を上げたのでした。
2、授記は卒業ではなく入学ですから、ここで気を緩めたり自己満足のぬか喜びで終わってはなりません。
自分だけが救われたい、自分だけが仏の境地を得たいという我が の心は、捨てなければなりません。
自分が仏に成って、世の中の人々を幸福にしたいという目標を、心にしっかり植えつけることです。
衆生が仏に成ること、つまり、仏が衆生に授記する真の目的は、この世にー浄土を創るーことです。
この真の目的をしっかりと理解した弟子たちは、必死になって修行して、成仏の保証を願うのです。
成仏の先には、他人を幸福にするという究極のテーマが 厳然としてあるのです。
すべての衆生が仏に成る目的は、他人を幸福にできる自由自在な力を得るためなのです。
このことを、けっして忘れてはなりません。
3、仏の弟子たちが、授記を必死で願うのは、なぜでしょう。
なぜ、仏弟子や衆生は、お前はたしかに仏になれる、という授記が欲しいのでしょうか?
仏に成るということは、修行を積み真理の法を悟ったならば、それはもう、仏に成ったということなのです。
なぜ ーお前に授記を授けるーと名指しで直々に、声をかけて欲しいのか、疑問に思う人も多いでしょう。
う〜ん!オイラも、疑問に思っていました‥‥‥ボサツマン
ボサツマンよ、よく聞くのですよ。教えは学問では無いのです。
学問は、知性で理解するだけで良いのですが、仏の教えは頭の理解だけで終えてはいけません。
どういうことかと言うと、仏の教えとは感動なのです。
衆生が仏の教えを聞き感動すると、信しん の心が生じます。 感動は信の心と直結しているのです。
そして、衆生の信の心は、ー世のため人のために役に立ちたいーという心の底気持ちを活性させるのです。
つまり、仏の教えの感動が信を生み、その信の心が衆生の善行を生みだしていくのです。
真の信仰は、仏の教えを理解した頭と心の感動が、世に尽くす行動(善行)へと発展していくのです。
仏の教えから生まれた感動は力を湧き起こします。
感激・感動の心は、魂と魂の触れ合いから生じるのです。 理屈や理論からは生まれません。
仏の大慈悲の魂に触れて、仏の言葉が衆生の心に沁みて、心が熱く燃え感激が生まれます。
迹仏しゃくぶつ の私(世尊)や諸仏の説法は、本仏ほんぶつ のー宇宙の真理ーの説法だから、
衆生の心に感動を与え信を生み出すのです。
宇宙の真理が言葉となって発せられ、大きな力が衆生に漲みなぎ るのだから、仏の教えは偉大なのです。
仏弟子たちが皆、仏から直々の言葉の授記を熱望する理由とは、こういうことなのです。
衆生は皆、仏(本仏)の子ですので、赤ちゃんのように無心で甘えてよいのです。
教えを説く仏(本仏)の大慈悲の懐ふところ に、無心で飛び込んでいくと、感動・感激が生まれます。
その感激する心が、仏法を深く理解する力となり、自分を救い世の人々を救う力となるのです」。
ボサツマン 久遠実成くおんじつじょう の本仏について
「現代の私たちは、本尊を礼拝したり・お経を唱えたりしますが、偶像を拝んでいるのではありません。
つまり、本尊を礼拝することはー久遠実成の本仏の心ーに、礼拝しているのです。
私たちは、本仏の心を親として師として仰ぎ慕って、拝んでいるのです。
久遠実成の本仏とはー宇宙の真理・宇宙の大生命ーなのです。 それは世尊(釈尊)の心なのです」。
つづく