世尊、つづける
「自分は悟っているのだ、お前は悟っていない、だから俺の話を聞け、などと、上目線の態度をとっては
話を聞く側の衆生に反発心が起きるだけで、誰も、話を聞こうとはしません。
人は皆同じく、仏性ぶっしょう をもっているのだから、人間は平等なのだというー根本の真理ーの上に立って、
自分が出来る限りのことを行って、その人の仏性を磨きだしてあげたい、という慈悲の心をもって、
仏法へのお導きを しなければなりません。
この点、富楼那 ふるな は、在家仏教者の手本には最適な人物といえるでしょう。
みなさん、富楼那は過去世においても 仏の教えの説法人の中でも 第1人者でありました。
また、現在もそうであるし、未来においても過去の世と同じ行動をし、周りから同じ評価を受けるでしょう。
こうして、富楼那は菩薩としての道を歩み、さらに修行を重ねつづけていって、やがて
無量阿僧祇 むりょうあそうぎ という長い年月を経たのちに、仏の悟りを得るでしょう。
今、富楼那 ふるな にも授記じゅき (成仏の保証)を 授けましょう。
富楼那の授記
富楼那ふるな の仏号ぶつごう は、法明如来 ほうみょうにょらい と名づけます。
そして、ガンジス河の砂の数ほどの多くの世界を、ひとつの仏国土として治めて、
その国の王として、美しい平和な理想国を、つくりあげることでしょう。
その国では、人間界と天上界がすぐ近くにあって、頻繁に交際が行われ、皆が仏の教えに帰依しています。
人間界と天上界との交際が活発になることは、人間界がー極楽浄土ーに近づいた現われなのです。
法明如来 ほうみょうにょらい の仏国土では、男女の区別はまったくありません。
人は皆、肉体の欲望・快楽的な欲望は まったく起きないので求めません、心は自由自在のままです。
その仏国土の衆生は皆、仏の道を実行する志しは固く、皆、高い智慧を具えているのです。
その心は、おのずから相すがた に表われていて、身は金色 こんじき に輝いているのです。
又、その仏国土の衆生は誰しも、法喜食 ほうきじき と、禅悦食 ぜんねつじき の二つしか食べません。
法喜食とは、仏の正法 しょうぼう を聞く喜びが食事なのです。
禅悦食とは、仏の正法を深く味わい、実行する決心が定まる深い喜びが食事なのです」。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
ボサツマン、
二つの食べ物しか食べません、ということは、肉体を具えていないような状態のことでしょうか?
極楽浄土とは、そのような世界なのでしょうか? また法を聞く喜びや法を実行する喜びが
食べ物という意味は、生き甲斐ある生活とは、法を聞き・法を実行することなのでしょうね。
オイラ まだ極楽浄土へ行ったことないから わからないけど、というより まだ行きたくないし
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
世尊、つづける
「その法明如来の仏国土には、優れた菩薩 ぼさつ 声聞 しょうもん の衆が 無数におります。
その菩薩や声聞衆は、さまざまな功徳を具えていて、数多くの善行事ぜんこうごと が成就する国土です。
先ほど、富楼那ふるな の成仏じょうぶつ の名は、法明如来と名づけました。
その如来が治める時代を 「宝明 ほうみょう 」 その国を 「善浄 ぜんじょう 」と、名づけましょう。
その如来の寿命はたいへん長く、また如来の滅後も 教えは長くそこにとどまり、
人びとは、法明如来を讃えて、七宝の塔 しっぽうのとう を、国中に立てるでありましょう」。
富楼那の授記が終了した時、煩悩が消滅した境地を得ているその法座の千二百人の衆生は、
富楼那の授記を、まのあたりに見て大感激して喜び、世尊に向かい、自分たちにも授記を願いました。
仏(世尊)は、その心の中をお見通しになっていましたので、
この千二百人の衆生にも記捌きべつ (授記)することを、弟子の摩訶迦葉を通じて伝えました。
その直後、世尊は、憍陳如きょうじんにょ をはじめ、多くの阿羅漢あらかん たちに、成仏の保証(授記)を与え、
これから多くの諸仏を供養していくと、皆共に、普明如来ふみょうにょらい という仏に成ると言いました。
ボサツマンも、この授記の場面を緊張しながら、しっかり見ていました。 素晴らし光景でした。
数おおくの阿羅漢たちも、成仏の保証が与えられました。 この法座の全員がおめでとう!おめでとう!と
ボサツマンも、皆と共に、喜び叫んでおりました。 うん?そんな訳ないって、まあまあ、喜びごとだから、許して‥‥。
この様子を世尊は、次のページで、二行の偈を述べています。
つづく