世尊、
「次に、羅睺羅にも授記を授けましょう。 仏の称号は、蹈七宝華如来 とうしっぽうけにょらい と名づけます。
彼は、十の世界を粉にしたほどの無量億の仏に仕え、その仏の子として 慈しみと教化を受けるでしょう。
その国の美しさや仏の寿命やその他はすべて、阿難 あなん と同じであります。
羅睺羅は 私が太子の時に生まれた実の子ですが、彼は今、仏道を成じ仏ほとけ の子と成りました。
彼は、未来世においても、無量億の仏のもとでその仏の子となり、深く仏道を求め進むことでしょう。
又、とくに、羅睺羅の密行 みつぎょう は 仏のみが良く知っております。
私と羅睺羅は、深い宿世すくせ の縁で結ばれており、その功徳 くどく は 数えきれないほどです。
その過去世からの宿世の縁の功徳が、現世げんぜ で開化し、わたしの実子(長子)として、現われたのです。
彼は、過去世から仏法のなかに安住し、菩薩行を行じて無上の悟りを求めてきたのです。
羅睺羅の密行 みつぎょう とは、「半歩主義」はんぽしゅぎ の実行なのです。つまり
自分は悟っているがそれを表に出さず、凡夫のごとくの振る舞いや態度で 人を導いていくことです。
羅睺羅の密行は、唯一 我(仏)だけが知っているので、だから密行と言ったのです」。
世尊の言葉は、羅睺羅の心に深く響き涙を流し喜びました。 なんと情に溢れた親の教えなのでしょう…ボサツマン
ボサツマンの質問
「世尊にとって いちばん身近な存在である阿難や羅睺羅の授記は、なぜ遅かったのですか?
なぜ?世尊は、阿難や羅睺羅の二人の立派な弟子を、他の人より、早く授記しなかったのですか?」
世尊
「ボサツマンの質問に答えましょう。 阿難は、日常で一番近くにいる弟子で、羅睺羅は自分の実子です。
この二人は、私には一番身近な存在の人たちなのです。
個人的に一番身近な存在ということが、修行する身に、マイナスとして影響しやすいものなのです。
人間ならば少なからず、甘えやわがままが出るものなのです。
しかし、私は、自分の子や身近な弟子という理由で、特別扱いする気は毛頭 もうとう ありませんでした。
私は、修行へのマイナス点と大衆の理解度を考慮して、この二人の授記を少し遅めたのです。
普通人の考えでは、自分の実の子と他人が、仏教へ帰依するのには 当然、違いがあると思うでしょうが、
私(世尊)の心には、人間界に良くありがちな甘えの感情は、微塵の欠片 みじんのかけら もありません。
なぜなら、修行をする側の人間の立場では、その微妙な思いの違いが、修行に大きく関係してきます。
熱心に修行する大衆たちが、その微妙な違いの思いを感じることが無いように、私の配慮なのです。
熱心に修行する大衆たちの修行のマイナスにならないように、私(世尊)が自ら考えたことです。
このように、難しい立場の阿難と羅睺羅でしたが、立派に修行を重ねて、ついに高い徳を得ました。
ボサツマンよ、これで理解できましたね」。 はい、できました‥‥‥ボサツマン、
その時、二千人の学・無学の人々は全員が皆、柔軟にゅうなん な心を得て、
周囲に動かされない清浄の心を完成させ、一心に仏を見奉るのを、世尊は見究めておりました。
その時、世尊は、阿難に
「阿難よ、あなたは、この大勢の人たちの心をどう見ますか?」と、問いかけた。
「ハイ、この人たちは皆、柔軟にゅうなん な心をもっています」と、阿難が答えました。
世尊、学・無学の人々に授記する
「その通りです、阿難よ、よく見究めました。 柔軟にゅうなん な心をもつこの学・無学の二千人の人たちも
これから、無量の時を経て無量の諸仏に仕え学び、仏法を護持していくでしょう。
そして、彼らは皆、同じく、宝相如来 ほうそうにょらい という名の仏に成るでしょう」。
世尊から授記を授かった二千人の学・無学の一同は皆、大歓喜の声を揃えて偈げ を唱えました。
ー世尊慧燈明せそんえとうみょう 我聞授記音がもんじゅきおん 心歓喜充満しんかんぎじゅうまん 如甘露見勧にょかんろけんかん ー
この偈は、仏をあがめ奉り、仏に感謝する心で唱える有名な偈です。
意味:
世尊は、慧 え の光であられます。 世尊は救世の光 くぜのひかり であられます。
私たちは今、不死の霊薬である授記を賜り、喜びで心が満ちております。
ああ~良かった!、これで 阿難も羅睺羅も 学・無学の二千人たちも全員 授記されました。
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