如来寿量品 (7)
経文: 『俱白仏言 世尊 是諸世界 無量無辺 非算数所知 亦非心力所及‥』 ★6「ここの経文」
「弥勒菩薩を筆頭に、菩薩・衆生たちは共に 仏に 白もう し言もう さく
世尊 是の諸々の世界は無量無辺にして 算数さんじゅ の知る所に非あら ず 又 心力の及ぶに非あら ず。
一切の声聞しょうもん 辟支仏びゃくしぶつ の無漏智むろち を以って 思惟しゆい しても
その限数げんじゅ を 知ることを能あた わじ。 (その数を知ることは できない)
我等 阿惟越至地あゆいおつち に住すれども 是の事の中に於おいては 亦 達せざる所なり。
世尊 是かく 如き諸々の世界は 無量無辺なり‥‥」。
解釈 「辟支仏/縁覚」:「無漏の心」
「弥勒菩薩たちは 口を揃えて 仏(釈迦牟尼仏)にお答え申しあげました。
世尊 世尊の仰る世界は 無量無辺むりょうむへん でございます。 数字で計算することは無理なことです。
また 我々が心で およそこの位だろうと考えることさえも とうてい出来得ません。
声聞しょうもん や辟支仏びゃくしぶつ の具する無漏智の智慧を もってしても到底無理なことです。
声聞や辟支仏でさえ 限りない境界きょうがい までは 知り得ないことです。
また 声聞や辟支仏よりも さらに深い修行を積み 不退転ふたいてん の境地を得た菩薩衆でさえも
限りない世界のことまでは とても考え及ぶことはできません。
これは 人間界の有限の世界とは別の 無量無辺の世界の話でございます。
確かに 私たち菩薩衆は 声聞や辟支仏(縁覚)の境地よりも 一段と高い境地まで 達しております。
又 修行を深く積み重ねており 世の中の人々を救う心も大きく広く強く 智慧も深まっています。
さらに 私たち菩薩衆は 阿惟越至あゆいおっち (不退転の境地)にも 達しています。
周囲の事情のどんなに変化にも 心が動いたり・後戻りすることは けっしてございません。
私たち菩薩衆は こういう高い境地に達してはいますが しかしまだ 修行半なか ばの身でございます。
自分という心に思いが残っているうちは まだまだ 修行不足であると 反省もしております。
無私の境地
菩薩の境地を得た衆生でも 自分が人を救おう 自分が世の中を良くするんだという 自分に執着した
ー我の心ー があるうちは まだまだ 自由自在な境地に達しては おりません。
したがって 菩薩衆の心の及ぶ範囲は 有限な世界までのことなのです。
ー無私の境地むしのきょうち を得た仏ーだけが 無量無辺な無限世界のことについて 解かり得るのです。
ー仏の無私の境地を得るには 一切の天地万物と自分が一緒に成ることー と世尊 に教わりました。
一切の天地万物と自分が一緒である という意味は
自分と比べる他は存在しないと同時に 他と比較する自分を 認識することもないと 教わりました。
天地一切のものと一体の境地とは、天地一切が自分の心の中にある状態であるとまで 理解できました。
今 私たち菩薩衆の理解度は 高くなってきております。これもすべて 世尊の教えによるものです。
世尊 ありがとうございました。私の話は以上です」。
オイラには 非常に難しい話でしたが 天地一切と自分が一体になる という言葉は感動しました ‥‥‥ボサツマン
世尊は 弥勒菩薩の話しに納得の表情を浮かべ 語りはじめた。
「弥勒菩薩よ 嬉しいかな!嬉しいかな!
無量無辺の無量とは 量はか ることができない つまり 無辺は限りが無いという意味です。
無量無辺の世界は 仏だけが知ることができる世界なのです。
声聞や辟支仏(縁覚えんかく)は 仏の道を聞いたり 自分で考えて修行したりして
迷いから すっかり離れた境地を得た衆生ですが まだまだ 自分だけの狭い世界しか知りません。
これらの衆生は 自分の心の迷いを吹き飛ばすことだけで 満足している衆生たちなのです。
当然 その狭い世界にいる彼らの智慧には 限度があるのです」。 つづく