如来寿量品 (27) 最終章
経文: 『如医善方便 為治狂子故 実在而言死 無能説虚妄 我亦為世父 救諸苦患者…』 ★33「ここの経文」
「医の善よ き方便をもって 狂子おうじ を治なお すが為の故ゆえ に 実に在あ れども 而しか も死すというに
能よ く虚妄こもう を説くものなきが如く 我も亦また 此れ世の父 諸々の苦患くげん を救う者なり
凡夫ぼんふ の顚倒てんどう せるを以って 実に在あ れども 而しか も 滅すと言う」
世尊
「良医の譬えろういのたとえ では 本心を失った子供たちを治すために 医師の父が方便を使いました。
実際は死んでいないのに 死んだと告げさせたことを 偽りと咎とが めるものは 誰もおりません。
これと同じように 仏が滅度をするというのも けっして虚妄こもう ではありません。
仏の本願とは 衆生を苦しみから救済きゅうさい することです。
私は 世の衆生の諸々の苦しみや悩みを救う救世の父である。
私は実際に 常に衆生の側そば に居るのですが 凡夫の心が顚倒てんどう しているので
衆生の救済目的で方便を用い 一時姿を消すと告げるのです」
世尊 一時姿を消す ということは また いつか 世尊に会えるのですよね……ボサツマン
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経文: 『以常見我故 而生憍恣心 放逸箸五欲 於悪道中 我常知衆生 行道不行道…』 ★34「ここの経文」
「常に 我を見るを以っての故に 而しか も憍恣きょうし の心を生じ 放逸ほういつ にして
五欲ごよく に箸じゃく し 悪道あくどう の中に堕お ちなん。
我 常に 衆生の道を行じ 道を行ぜざるを知って 度すべき所に随したが い 衆生に種種の法を説く。
常に 自ら 是こ の念を作な す。 何を以ってか 衆生をして無上道むじょうどう に入らしめ
何を以ってか 速 仏身ぶっしん を 成就じょうじゅ することを 得せしめんと」
世尊
「衆生が常に仏に会えるならば 憍恣きょうし (我儘わがまま な心)で 放逸ほういつ (自由放題の振る舞い)になります。
放逸は五欲に執着した心だから 修羅道しゅらどう 地獄道じごくどう の苦や悩みなど
つまり 諸々の悪道の苦患あくどうのくげん の現象が その衆生の人生に 現われてくるのである。
五欲とは 眼・耳・鼻・舌・身の欲望です。 「般若心経/十八界」:「在家五戒の教え」
仏は 衆生のすべてを 知りつくしております。
ある衆生は善く仏の道を行じており 又 ある衆生は行じていない ことのすべてを知っています。
だから 衆生の心掛けや 修行の程度に応じて最も適切な方法で 法を説くことができるのです。
しかも 仏の慈悲の本心じひのほんしん は どんな衆生に対しても 公平で平等な心をもっています。
衆生をどうしたら 仏の道に導き入れることができるだろうか?
仏と同じ境地まで早く達するには どうしたら良いだろうか? これらを 仏は常に念じています。
仏の慈悲の本心は 衆生が無上道に入り 仏身ぶっしん を成就することです。
”仏は常に衆生と共にいる” という根本の教えを この如来寿量品では 説いているのです」。
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