随他意説法と随自意説法

  経典のほとんどが 衆生の代表者としての菩薩が 世尊に 衆生の聞きたいことを 請うところから 始まっています。
  つまり 仏と対告たいこく して 最初に 菩薩が登場して 世尊に質問して教えを願っているのです。
  それから 仏(世尊)が 衆生のレベルに合わせた 教えを説くという順序になっています。
  このように ほとんどのお経は 真理の教えを聞きたい衆生がいるから、世尊が説法をするのです。

  聞きたい衆生の意思が先にあって、仏が説く説法を 随他意説法ずいたいせっぽう といいます。
  この説法は 衆生の質問の限定された制約のなかで 仏は 聞く衆生の立場や賢愚けんぐ を考慮して説法するのです。
  だから 世尊は
  教えを説く前に 必ず瞑想して衆生の機根を見極めて どう話せば衆生が理解できるかを考えているのです。
  教えを説くシナリオを決めてから 世尊は説法を始めるのです。
  対機説法たいきせっぽう による 応病与薬おうびょうよやく の仏の説法は 三つのパターンに分類される。
    1 因縁説 過去世からの仏と仏弟子の因縁を説く。 
    2 譬 説  衆生が理解しやすい譬え話を説く。   3 法 説 法を根拠に説く。

  又 随他意説法と反対に 随自意説法ずいじいせっぽう があります。
  衆生を本位とする随他意説法では 仏は 説法の内容を工夫くふう して説かねばなりません。
  だが これと反対に 仏が自分の意のまま 存分に説法する形式が 随自意説法です。
  つまり 聞き手(衆生)の思惑や質問など関係なく 仏が一方的に 教えを説法するのです。
  この随自意説法は 仏の言いたい放題の説法形式です。 誤解してはなりません 人間の言いたい放題とは異なります。
  仏が言いたい放題に教えを説くときは すべて 仏の本音ほんね 真実のことです。
  人間ならば 言いたい放題=好き勝手に喋る話だが 仏の言いたい放題の話は 真実の全開なのです。
  この随自意説法には 譬えや方便は まったくありません。 最初から最後まで すべて真理の説法なのです。
  
  この随自意説法の代表的な経典が 「阿弥陀経」あみだきょうです。
  教えを請う者も無し 質問者も無し でも 仏(阿弥陀如来)が自分からすすんで 教えを説いているのです。
  阿弥陀経を 仏教学者は 「無問自説むもんじせつ の経典」とよび 真実が自然に顕われた経典と高く評価している。

  無問自説むもんじせつ で始まるこの法篋印陀羅尼経も 随自意説法といえるでしょう。
  お経のなかみは 豊財園の中に 朽ちた古い塔を発見した世尊は 塔に向かい走りだしました。
  すると その塔が大光明化し 大きな声が聞こえてきました。
  この後 この神変を見ていた金剛手菩薩 ほか大衆たちが 世尊に質問しています。
  しかし 世尊は 大衆に解りやすく説くのではなく イキナリ ずば〜と 真理を開示したのでした。
  この法篋印陀羅尼経は 真実が自然の流れとなって説かれ開示されている 随自意説法の経典です。
  金剛手菩薩ほか大衆たちは 素直な心で真理の開示を受けたので功徳 利益を得ることができました。
  金剛手菩薩 こんごうしゅぼさつ ー 全身が金剛/ダイヤモンドの不動明王