田中正造(大正元年撮影)
 田中正造は、天保12(1841)年11月3日に栃木県佐野市小中町こなかちょう(旧旗川村はたがわむら)で、旗本六角家の名主である富蔵とみぞう、サキ夫妻の長男として生まれた。名主になった正造は、不正をはたらく領主と対立するなどの苦難を乗り越え、明治10年代には自由民権運動家として、また栃木県議会の指導者となっていった。
 明治23年の第1回総選挙で衆議院議員に当選し、そのころ農作物や魚に大きな被害を与えていた足尾銅山あしおどうざんの鉱毒問題を繰り返し国会でとりあげ、渡良瀬川沿いの人々を救うため努力した。しかし国の政策に改善が見られず、ついに明治34(1901)年12月10日、天皇に直訴じきそした。
 その後、鉱毒事件は社会問題にまで広まったが解決せず正造は悲痛なおもいで谷中村やなかむらに住み、治水の名のもとに滅亡に追い込まれようとした谷中村を救おうと、農民とともに村の貯水池化に反対し再建に取り組んだが、大正2(1913)年9月4日に71歳10か月で世を去った。
真の文明は 山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さざるべし

【kawakiyoのコメント】
 田中正造を理解するには、正造が生きて活動していた時代背景を理解しないと、彼の偉大さが伝わってこない。時代背景を説明するとなると、どうしても長文になるので、キーワードとして次の文を掲載します。
この時代、日本は長い江戸幕府による封建制を脱却し、殖産興国を旗じるしとして世界の列強という国々に肩を並べようとしていた。
列強と肩を並べるには、当時世界的に流行した領土拡大と他国を植民地化するという政策を国策として推し進める必要があった。
この当時、銅は絹とともに外貨を稼ぐための最大の商品価値を有していた。そのため国は、これら増産のために大口生産者に相当な肩入れをした。
足尾銅山は、この当時国内において40~50%の銅生産率で、国内第1位を誇っていた。
手っ取り早く言うと「銅と絹を売って、軍艦と兵隊を手に入れ、アジアの隣国へ侵略し、領土拡大を画策した。」のである。
こうした政治背景の中で、正造は「足尾銅山の操業をやめさせろ!」「戦争は犯罪である。世界の軍備を全廃するよう日本から進言すべきだ!」と明治政府に迫る。
正造の行動でのクライマックスの一つは「天皇への直訴」であるが、直訴に関する当時の最高刑は「死刑」であり、正造は真に命を賭けて行動したのである。
 これらの時代背景を理解しながら、このホームページを読んで下さると、正造という人の偉大さと、現代にも通用する人物であることが分かると思います。また、現代にも通用すればこそ正造の精神を、この後も受け継いでいく必要があるのではないでしょうか。