佐野が生んだ偉人  その行動と思想

足尾鉱毒事件の直訴状全文

謹 奏
   田 中 正 造 (印)
 草莽そうもう微臣びしん田中正造、誠恐せいきょう誠惶せいこう頓首とんしゅ頓首、つつしみテ奏ス。ふしおもんみルニ、臣田間でんかん匹夫ひっぷあえのりエ法ヲ犯シテ鳳駕ほうがニ近前スル其罪そのつみまことニ万死ニあたレリ。しかあまんジテこれ所以ゆえんノモノハまことニ国家生民のためはかリテ一片ノ耿耿こうこうついニ忍ブあたハザルモノ有レバナリ。伏テ望ムラクハ、陛下深仁深慈、臣ガ至愚ヲ憐レミテ少シク乙夜いつやノ覧ヲ垂レたまハンコトヲ。

 ふしおもんみルニ、東京ノ北四十里よんじゅうりニシテ足尾銅山アリ。近年鉱業上ノ器械きかい洋式ノ発達スルニ従ヒテその流毒益々ますます多ク其採鉱製銅ノ際ニ生ズル所ノ毒水どくすい毒屑どくせつト之レヲ澗谷かんこくヲ埋メ渓流ニそそギ、渡良瀬川ニ奔下シテ沿岸其害ヲこうむラザルナシ。加フルニ比年ひねん山林ヲ濫伐らんばつ煙毒えんどく水源ヲ赤土せきどセルガ故ニ、河身激変シテ洪水又水量ノ高マルコト数尺、毒流四方ニ氾濫はんらんシ、毒渣どくさノ浸潤スルノところ茨城・栃木・群馬・埼玉四県及其下流ノ地数万町歩ニ達シ、魚族斃死へいしシ、田園荒廃シ、数十万ノ人民ノチ産ヲ失ヒルアリ、営養ヲ失ヒルアリ、あるいハ業ニ離レ飢テ食ナクやみやくナキアリ。老幼ハ溝壑こうがくニ転ジ、壮者ハさりテ他国ニ流離りゅうりセリ。如此かくのごとくニシテ二十年前ノ肥田ひでく沃土よくどハ今ヤ化シテ黄茅こうぼう白葦はくい田間惨憺まんもくさんたんノ荒野トレルアリ。

 臣夙つとニ鉱毒ノ禍害かがい滔滔とうとう底止ていしスル所ナキト民人ノ痛苦其極ニ達セルトヲ見テ、憂悶ゆうもん手足ヲクニ処ナシ。さきニ選レテ衆議院議員ト為ルヤ、第二期議会ノ時初メテ状ヲ具シテ政府ニただ ス所アリ。爾後しかるのち議会ニおいテ大声疾呼しっこ拯救じょうきゅうノ策ヲ求ムルここニ十年、しか モ政府ノ当局ハ常ニ言ヲ左右ニたくシテ之ガ適当ノ措置ヲ施スコトナシ。しかシテ地方牧民ノ職ニ在ルモノまたてんトシテかえりミルナシ。はなはだシキハすなわチ人民ノ窮苦きゅうくヘズシテ群起ぐんきシテ其保護ヲ請願スルヤ、有司ゆうし警吏けいりヲ派シテ之ヲ圧抑あつよくしい兇徒きょうとト称シテ獄ニ投ズルニ至ル。しかシテ其極そのきょくすでニ国庫ノ歳入数十万円ヲ減ジ又まさニ幾億千万円ニ達セントス。現ニ人民公民ノ権ヲ失フモノ算ナクシテ、町村ノ自治全ク頽廃たいはいセラレ、貧苦疾病及ビ毒ニあたリテ死スルモノまた年々多キヲ加フ。

 ふしおもんみミルニ、陛下不世出ノ資ヲもっテ列聖ノ余烈ヲギ、とく四海ニあふレ、八紘はっこうブ。億兆昇平ヲ謳歌おうかセザルナシ。而モ輦轂れんこくもとへだたはなはダ遠カラズシテ、数十万無告ノ窮民むなシク雨露ノ恩ヲこいねがフテ昊天こうてんニ号泣スルヲ見ル。嗚呼ああレ聖代ノ汚点ニあらズトハンヤ。而シテ其責ヤ実ニ政府当局ノ怠慢曠職こうしょくニシテ、上ハ陛下ノ聡明ヲ壅蔽ようへいたまわリ、下ハ家国民生ヲ以テ念ト為サザルニ在ラズンバアラズ。嗚呼ああ四県ノ地また陛下ノ一家いっけニアラズヤ。四県の民また陛下ノ赤子せきしニアラズヤ。政府当局ガ陛下ノ地ト人トヲ如此かくのごとキノ悲境ニおちいラシメテかえりミルナキモノ、是レ臣ノ黙止もくしスルコトあたハザル所ナリ。

 ふしおもんみルニ、政府当局ヲシテク其責ヲつくサシメ、もっテ陛下ノ赤子ヲシテ日月じつげつノ恩ニ光被セシムルノみち他ナシ。渡良瀬河ノ水源ヲ清ムル其一ナリ。河身ヲ修築シテ其天然ノ旧ニ復スル其二ナリ。激甚ノ毒土ヲ除去スル其三ナリ。沿岸無量ノ天産ヲ復活スル其四ナリ。多数町村ノ頽廃セルモノヲ恢復かいふくスル其五ナリ。加毒ノ鉱業ヲ止メ毒水毒屑ノ流出ヲ根絶スル其六ナリ。如此かくのごとくニシテ数十万生霊せいれい死命しめいヲ救ヒ、居住相続ノもとヘヲ回復シ、其人口ノ減耗げんこう防遏ぼうあつシ、ツ我日本帝国憲法及ビ法律ヲ正当ニ実行シテ各その権利ヲ保持セシメ、更ニ将来国家ノ基礎タル無量ノ勢力及ビ富財ノ損失ヲ断絶スルヲ得ベケンナリ。しかラズシテ長ク毒水ノ横流ニ任セバ、臣ハ恐ル、其禍ノ及ブ所 サニ測ルべかラザルモノアランコトヲ。

 臣年六十一、而シテ老病日ニ迫ル。おもフニ余命いくばクモナシ。ただ万一ノ報効ヲ期シテ、あえテ一身ヲ以テ利害ヲ計ラズ。故ニ斧鉞ふえつちゅうおかシテ以テぶんス、情せつニ事急ニシテ涕泣ていきゅう言フ所ヲ知ラズ。伏テ望ムラクハ、聖明矜察きょうさつヲ垂レ給ハンコトヲ。臣痛絶呼号こごうノ至リニフルナシ。

  明治三十四年十二月
   草莽ノ微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首 (印)