足尾鉱毒被害状況
銅山緑映(足尾)店網富夫画伯
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 田中正造が明治32(1899)年3月6日に提出した「第13議会足尾銅山鉱毒事変再質問書」の中で述べている調査結果によれば、最も被害が激しかった安蘇郡植野村字沼畑(現栃木県佐野市)という戸数45、人口320余人の村で、明治30(1897)年の出生者5人に対し死亡者9人(うち2歳以下のものが5人)、翌年は出生者6人に対し死亡者19人(うち2歳以下のものが15人)という状況である。
 その割合を見ると、人口100人に対し出生者は被害激甚地げきじんちで1.85人、隣接の無害地3.44人、日本全国3.08人。死亡者は被害激甚地で5.875人、隣接の無害地1.92人、日本全国2.20人で、しかも死亡者は胎児たいじや乳幼児に集中的に現れており、その示す数値は日本全国平均と比較しても著しい差が見られる。