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田中正造と足尾鉱毒事件(詳細年表)
和暦西暦出      来      事
大化 1年645安蘇郡足尾郷となる
神護 2年766勝道上人(立木観音)が第1回男体山登頂を試みたが失敗に終わる
景雲 1年767・勝道上人(735〜817)、庚申山、渋川を行脚し修行する
・栃木県足尾の松木に勝道上人弟子が住みつく
延暦 9年790足尾郷が日光中禅寺領となる
大同 3年808日光経由で足尾への移住者、総鎮守の妙見社を遠下に建てる
正和 1年1312栃木県足尾に五姓(神山・星野・斎藤・倉沢・亀山)が、住みつく(1312〜1316年)
元弘 3年1333神山時盛、粕尾郷から足尾・唐風呂に移住説
文亀 2年1502神山時盛の子孫・吉種(足尾郷)ら佐野氏に臣従する
天文19年1550足尾銅山発見説(古河鉱業株式会社の発表)
永禄 1年1558足尾・赤沢の伝左衛門、日光善如寺に金子借用の証文(鋪取り拡げで)
天正 2年1574この頃から慶長9年(1609)まで佐野氏が足尾銅山を支配、足尾宿500戸
慶長15年1610足尾銅山、農民2人(治部・内蔵)により黒岩山で発見される
慶長16年1611・足尾銅山が幕府領に。足尾銅山の呼称に固定
・足尾の山師・大工が、大阪城攻めに動員される
寛永 1年1624日光普請のため足尾の大工らを動員。2か月間銅山を休山
寛永 4年1627足尾銅山が日光東照宮支配となり、21年間続く
寛永 5年1628足尾銅山で江戸城の銅瓦12万枚余、他に日光東照宮の銅瓦等を製造し納める
慶安 1年1648足尾銅山が公儀御用山(幕府直山)に変わる
慶安 2年1649足尾銅輸送路として、あかがね街道を開設。利根川畔から蔵前まで船便とする
寛文 7年1667足尾の民家焼失
延宝 3年1675大阪銅屋が足尾銅払下げを訴願、幕府5万貫を払下げる
延宝 4年1676・幕府領としての足尾銅山全盛期(1676〜1687)
・足尾山師による銅輸出を幕府承認、5カ1銅開始。足尾千軒の繁栄となる
元禄 1年1688幕府は足尾・5カ1銅を泉屋・大阪屋に委託、14年間の契約を締結
元禄14年17015カ1銅の泉屋・大阪屋との契約満了。足尾産銅量は下降に向う
元禄16年1703足尾で128万枚の銅瓦を製造
宝永 1年1704秋に足尾で大洪水。間歩と焼釜修理に幕府は3千両貸付
宝永 2年1705山師申請の産銅の一部を江戸町売りについて幕府承認(山師救済)
正徳 4年1714幕府は産銅増加のため山師に2千両余を貸付、産銅は全量銅瓦製造
享保 3年1718・04/--⇒足尾大火で宿全焼、幕府は8千両を10年賦で貸付
享保11年1726渡良瀬川大洪水、銅山大破。以後、豪雨と洪水が繰り返され山師困窮の途に
元文 1年1736江戸の銭座が廃止され、足尾銅の町売りの販路を失い大打撃
天保12年1741足尾山元で鋳銭製造許可される。6年間で鋳銭16万貫弱、『おあし」の語源
宝暦 1年1751この頃、足尾は山師43人、稼人533人、間歩総数1,484
宝暦 4年1754足尾郷14村の石高750石、年貢100両、他に薪15,000束を日光山に収める
天明 3年1783石崎某、銅山間歩を検分、幕府は出沢2か所の普請を命令、別に2千両貸付
寛政 2年1790
・08/--⇒洪水のため渡良瀬川堤70間破壊される。栃木・群馬両県に足尾銅山から流れた鉱毒による被害発生。
寛政 7年1795幕府は銅山用金2万両の利金で足尾銅山経営を図る
文化 2年1805幕府は足尾で胆礬製造と買上の特権を与える
文化12年1815山師1名となり、足尾銅山は幕府の御手山稼ぎとなる
文化14年1817幕府領の足尾銅山衰退し、ほとんど休山
天保 3年1832古河市兵衛、京都岡崎の造り酒屋の2男として出生。生家の事業不振のため11歳頃からでっち奉公や行商に出されていた
天保12年1841
・11/03⇒田中正造生誕 下野国安蘇郡小中村(現栃木県佐野市小中町)に名主富蔵の長男とLて生まれる。
弘化 1年1844御手山稼ぎを廃止する。足尾銅山は休眠状態となる
安政 4年1857・田中正造(17)、小中村六角家領の名主に公選される。
文久 3年1863・国中正造(23)、大澤カツと結婚。六角家の改革のため活躍。
明治 1年1868・足尾銅山、明治新政府に没収され民営化。真岡県が管轄する(その前は幕府領
・田中正造(28)、六角家改革事件により入獄11か月。
明治 2年1869・足尾銅山の管轄が日光県に移り、県営銅山となる。
・古河市兵衛、小野組別家に取立られ、関東・東北の仕事を任され鉱山業にも進出する。
明治 3年1870・田中正造(30)、江刺県花輪支庁(現秋田県)の役人となる。
明治 4年1871
・田中正造(31)、上役暗殺の疑いで投獄。獄中「西国立志伝」や政治経済の本を読む。入獄2年9か月。
明治 5年1872栃木県が足尾銅山の資金援助を政府に要請。鉱山寮技師長ゴットフリーが調査して民営移管を示唆、野田彦蔵に払下げる
明治 6年1873足尾銅山の経営者が副田欣一に替わる
明治 7年1874
・田中正造(34)、上役暗殺の疑いがはれ、小中村に帰り商売と勉学に励む。
・明治政府の政策変更で小野組瓦解。古河市兵衛は裸一貫で再起を図る。
明治 8年1875古河市兵衛、相馬家の支援を得て草倉銅山の経営を開始、成功を収める
明治10年1877・02/--⇒古河市兵衛、足尾銅山を買収し経営に乗り出す(相馬家と共有)
明治11年1878
・田中正造(38)、栃木県第4大区3小区区会議員に選ばれる。政治に一身を捧げることを誓う。
・足尾銅山・本口坑などで古河直轄の直営開鑿を決定。
・足尾村制が敷かれる。
明治13年1880
・田中正造(40)、補欠選挙で栃木県会議員に初当選。以後4回連続当選。有志と共に国会開設運動に尽くす。
・渋沢栄一が足尾銅山の経営に参加。
・足尾銅山の不振が続き4代坑長に古河市兵衛の甥・木村長兵衛を起用、背水の陣を敷く。鷹之巣坑開鑿を開始。
・古河は商標とし、鉱業専業を宣言する。
明治14年1881足尾銅山、鷹之巣直利発見。古河、好転に向う
明治15年1882・田中正造(42)、立憲改進党に入党。
・足尾銅山、子持沢に吹床5座完成。
明治16年1883
・足尾産銅量が発展、日本の首位になる。直利橋製錬分局、本山病院、東京・本所銅所を創設。足尾町内の道路大改修を開始する。
・足尾に直利橋を架設、社会基盤整備が急展開。
・足尾銅山、現在(1981)の製錬所近くに吹床6座。
明治17年1884
・田中正造(44)、栃木県令三島道庸の圧政に反対、加波山事件に関係したとされ入獄3か月。
・足尾銅山、本口坑で横間歩大直利(大鉱脈)が発見され飛躍的に増産。銅月産量が前年の年産を突破する。
明治18年1885・足尾銅山、横間歩西部開発のため小滝坑の取明け開始、新直利続々発見。
・1981年現在の製錬所位置に、足尾銅山本山製錬所。吹床48座新設。この年、銅産4,000トンに伸びる。
・栃木県足尾村、赤倉・高原木・仁田元・久蔵・間藤・松木の農作物に被害。6か村共同で知事へ請願の準備。赤倉龍蔵寺住職の差金で松木を除外して古河から示談金。
・09/--⇒足尾銅山、通洞開鑿開始、横間歩の主力洞鋪が出水で水没、安定した動力源を模索、同時に下部廃水路として有木坑を鑿岩機による開鑿を開始する。
明治19年1886・足尾銅山、小滝に吹床数座、終に32座へ。
・田中正造(46)、栃木県会議長となる。
・足尾銅山、小滝坑躍進で小滝分局を設置、交通路や施設電話開設など社会基盤の整備を開始。
・05/--⇒日本初の民間電話が足尾銅山に誕生、銅山と宇都宮・日光・東京を結ぶ。
明治20年1887・足尾本山に火力発電所創設。
・04/--⇒足尾銅山、松木地区で野火大火、松木川沿岸の住宅及び製錬工場全焼。40座を始め製錬分局を再建。
明治21年1888
・古河とジャーデンマジソン商会との銅売買契約成立、足尾銅山の増産急ピッチに。
・足尾銅山、古河の占有に。(相馬家との共有より独立)
・栃木県足尾村・松木で桑樹、煙害(亜硫酸ガス)により全滅。唐風呂でも被害増。
明治22年1889
・足尾銅山、日本最初の電気精錬法採用、機械選鉱を開始、東京・本所銅所で電気精銅を開始。
・足尾町制施行。
・栃木県足尾・松木で足尾銅山の煙害により養蚕廃止。現金収入の道途絶。農作被害も激増。
明治23年1890・足尾銅山、米国式溶鉱炉8座新設。
・田中正造(50)、第1回衆議院議員選挙に当選、以後6回連続当選。この間改進党(のち進歩党、憲政党、憲政本党)議員として全国各地で演説。
・足尾に日本最初の間藤水力発電所を建設。古河橋が完成。細尾峠に索道完成し馬車路と連結して日光駅とを結び、貨物輸送の大改革なる。
明治24年1891・足尾銅山の産銅量が全国一に。町内幹線の馬車鉄道完成。
・田中正造、第2回帝国議会で足尾銅山鉱毒被害につき初質問。鉱業停止を要求。
明治25年1892
・足尾銅山周辺山林の驚くべき荒廃ぶり、濫伐、亜硫酸ガス、野火による裸地化、栃木県の山林巡回日誌」に記録される。
・唐風呂地区で、足尾銅山による銅山派住民を使った鉱害反対運動への切崩し激化。
・足利地方の足尾銅山鉱毒被害地帯で、古河と一部被害民との間に示談契約始まる。
明治26年1893
・足尾銅山、ベッセマー式製錬法採用、製錬の近代化完成。この年、銅産年間5,200トンに。
・足尾銅山の官林伐採、過伐が露呈し禁止となる。この年までに6,760町歩を伐採。無立木化地域は官林のほとんど全てに。
・唐風呂地区の足尾銅山煙害被害農民28人、銅山に対し煙毒損害賠償の和解請求。
・足尾銅山、唐風呂地区の反対派被害民の孤立をねらい示談を退け、和解にもってゆく(第1回示談契約締結)。和解願いを出させた後、加害行為を否定して和解を拒絶。
・06/30⇒足尾銅山、粉鉱採集器を設置。3年間その試験期間とする。
明治28年1895
・足尾・松木地区で農産物が、明治14年頃の半分に減収。31人が古河へ示談交渉。足枷条約を結ぶ。
・足尾・唐風呂地区民33人の被害民、古河市兵衛を被告とする損害賠償請求訴訟を東京地裁に提訴。東京地裁、唐風呂地区民の鉱害訴訟を棄却。
・03/--⇒足尾銅山・古河市兵衛、松木民の示談交渉に対し、申出を半分に値切って地価の3倍半の金額を支払う。同時に今後一切鉱害で請求・陳情をしないとの条項を含む永久示談契約書を取交す。
明治29年1896・足尾銅山、通洞完成する。
・03/25⇒田中正造、第9議会において前年古河と鉱毒被害民の間で取交された永久示談の不当性を追求。
・7月〜9月にかけて渡良瀬川、三度にわたり大洪水。1府5県に足尾銅山鉱毒被害。
・08/--⇒田中正造(56)、渡良瀬川大洪水。鉱毒水が広がり被害民大会開かれる。被害民と共に足尾銅山鉱業停止運動を開始。議会で鉱毒事件について、繰り返し政府に質問。
・10/05⇒田中正造、有志と雲龍寺に群馬・栃木両県鉱毒事務所を設置。
・12/24⇒明治政府、第一次鉱毒予防工事命令を足尾銅山に出す。
明治30年1897
・足尾銅山・小滝精錬所廃止。本山に脱硫塔を設置。全製錬を本山に集中、中央製錬所となる。坑内電車運行開始。
・足尾町の有力者、鉱業非停止団体を結成して上京。停止要求の渡良瀬流域農民との対決をめざすもの。古河市兵衛が説得して解散さすが、交換条件に工事への無料奉仕参加を要請。
・03/02⇒足尾銅山鉱毒被害民、第1回大挙押出し。(〜3.5)
・03/20⇒谷千城・津田仙・栗原彦三郎、鉱毒被害地視察。
・03/23⇒農商務大臣榎本武揚、鉱毒被害地視察。
・03/23⇒足尾銅山鉱毒被害民、第2回大挙押出し。(〜3.30)
・03/23⇒内閣に足尾銅山鉱毒事件調査委員会設置。
・05/12⇒明治政府(東京鉱山監督署長)、足尾銅山に対し第二回目の鉱毒予防工事命令。
・05/27⇒明治政府(東京鉱山監督署長)、足尾銅山に対し第三回目の鉱毒予防工事命令。東京鉱山監督署長南挺三の目こぼしで期日内に達成。南挺三、のち古河に入社し重役に。
明治31年1898
・足尾銅山、脱硫塔設置で本山に製錬が集中し松本地区への亜硫酸ガス襲撃はより濃密に。松木地区民、現金収入の道も無く、食物も無く、ガスで身体は壊され、乳児のための母乳も出ず、悲惨の極へ向う。(1898〜1899)
・04/30⇒大蔵省、足尾銅山鉱毒被害民に対して、地租条例による普通荒地免租処分を通達。該当者は公民権喪失。
・09/06⇒渡良瀬川大洪水。
・09/26⇒足尾銅山鉱毒被害民、第3回大挙押出し。
・09/28⇒田中正造、東京府下南足立郡淵江村保木間において、9.26日の第3回大挙押出し鉱毒被害民に対し、総代50名を残して帰村するよう説得。
明治32年1899・田中正造(59)、議員歳費値上げ案反対演説をし、歳費を辞退。
・12/12⇒鉱毒議会結成。
明治33年1900・田中正造、私立共和裁縫教習所設立。
・足尾・松木村民、鉱毒被害救済会の示唆で人命救助嘆願書を作成し、内閣、各大臣、島田三郎、田中正造、栃木県会などを歴訪。栃木県会、これを受けて松木の実態調査を行う。この先、免租申請を出すが、これは却下される。
・足尾銅山鉱毒被害救済会、松木地内の水桶取払訴訟をおこす。棄却される。次に松木村民の願いを入れて、損害賠償金(他地区へ移転のための費用を含め)を銅山に請求する仲介を開始。
・02/13⇒未明、鉱毒被害民請願(第4回大挙押出し)のため大挙上京途中、利根川畔で警官隊と衝突。(川俣事件)
・02/15⇒田中正造(60)、第14回議会において足尾鉱毒被害民の請願運動弾圧(川俣事件)につき衆議院で質問を行い政府を追及。憲政本党脱退を宣言。
・07/09⇒川俣事件、前橋地方裁判所の予審終結、51名起訴される。
・11/28⇒田中正造、川俣事件第15回公判で、検事論告に憤慨して欠伸をし、官吏侮辱罪に問われる。
・12/22⇒前橋地方裁判所、川俣事件に判決被告51名中、有罪29名、無罪22名、検事・被告双方より控訴。
明治34年1901・渡良瀬発電所及び通洞発電所竣工。
・安蘇郡佐野町に足尾銅山鉱毒被害救済会設置。松木村民代表、田中正造の助言を得るため同会を訪れ、山田友次郎に会う、山田、救援を約す。
・10/--⇒足尾銅山と松木村民の間に土地売買の金授受。村民、鉱毒救済会へ感謝状。この後、ほとんど全員が他地へ移転し、松木は廃墟となる。
・10/13⇒川俣事件控訴審での、判事・検事・弁護士らによる被害地臨検。
・10/23⇒田中正造、衆議院議員を辞職。
・11/29⇒神田基督教青年会館において鉱毒地救済婦人会発会式。(会長・潮田千勢子)
・11/30⇒古河市兵衛の妻タメ、入水自殺。
・12/10⇒田中正造(61)、足尾鉱毒被害救済のため明治天皇に直訴。
・12/20⇒本郷中央会堂で、木下尚江・田中正造ら、足尾鉱毒地救助演説会を開催。来場の東大生河上肇が感動し、外套・羽織などをカンパ。
・12/27⇒数寄屋橋教会の田村直臣牧師ら、学生の足尾鉱毒地視察を計画、東京の学生700人が、大挙鉱毒被災地を視察。
明治35年1902・内務省、秘密裏に栃木県谷中村、埼玉県利島・川辺両村の遊水池計画推進。
・足尾銅山、ライナー式鑿岩機を試用し主力機に選定。小滝発電所竣工、足尾館が建つ。
・01/--⇒埼玉県利島・川辺両村に遊水地化反対運動起こる。
・03/17⇒内閣に鉱毒調査委員会設置。
・06/16⇒田中正造(62)、1900/11/28の欠伸事件に有罪確定。巣鴨監獄に服役41日。獄中で聖書を読む。
・09/28⇒関東・東北地方に降雨量315ミリの暴風雨、足尾銅山の山崩れ、簀子橋壊滅、本山も被害甚大。
・10/--⇒埼玉県、利根川火打沼の決壊堤防を放置し、川辺・利島両村の買収を計画。
・10/16⇒埼玉県川辺・利島両村民は、決壊堤防を自力修復して納税・兵役の義務拒絶を宣言。
・12/25⇒川俣事件再審理公判、宮城控訴院にて控訴棄却・控訴不受理により消滅。
明治36年1903・足尾銅山、金田座が建つ。
・永岡鶴蔵、夕張から東京を経て足尾銅山に入り、翌年から坑夫の組織化を図る。
・01/--⇒栃木県議会、遊水地化のための谷中村買収案否決。
・03/18⇒前年決壊の堤防を谷中村民が自力復旧工事始める。
・04/05⇒元足尾銅山経営者・古河市兵衛、死去。
・06/03⇒政府、鉱毒調査委員会の調査報告書を発表、谷中村瀦水池案浮上。
明治37年1904
・02/08⇒日露戦争の勃発(〜1905)日本はロシアに国交断絶を通告すると同時に旅順・仁川を攻撃し、戦端を開く。
・03/--⇒栃木県は谷中村堤防の形式的復旧に着手、実際は堤防破壊。
・07/13⇒渡良瀬川洪水、谷中村浸水。
・07/30⇒田中正造(64)、谷中村問題に専念のため、以後、同村川鍋岩五郎方に寄留する。
・12/10⇒災害復旧費名の谷中村買収案、栃木県会(秘密会)通過。
明治38年1905・家業と分離して古河鉱業会社を設立。古河潤吉病没。大谷水系の細尾発電所竣工。
・03/24⇒原敬、古河鉱業副社長に就任。
・08/19⇒谷中村民が自力で完成させた急水留工事が出水のため崩壊。
・11/--⇒買収に受諾した村民の第1回集団移住。この月、谷中村買収に関する県議の汚職が栃木県会で問題となる。(贈収賄調査委員長に荻野万太郎)
明治39年1906・田中正造(66)、新紀元社の例会その他で谷中村事件を訴える。
・足尾銅山日光製銅所、操業開始。
・玉村勇助、索道機械の特許を取得して古河を退社、玉村工務店を創立。
・足尾銅山で南助松の応援を得て永岡鶴蔵らの組織再編し、大日本労働至誠会の運動が活発化。
・足尾銅山、岩鼻火薬製造所の国産ダイナマイトの試験を行い成功し使用を開始する。
・01/07⇒西園寺公望-56才(〜明治41.7.14;第1次西園寺内閣;歴代総理大臣)在職日数920日、嘉永2.10.23〜昭和15.11.24(91才)、京都府、内務大臣=原敬。
・03/04⇒谷中村民が急水留の破堤個所修築に着手。
・04/15⇒谷中村村会が再召集し廃村の諮問案を否決。
・04/30⇒栃木県吏ら、谷中村民の手による破堤個所工事を破壊する。
・06/08⇒田中正造、栃木県知事・白仁武より、予戒令を受ける。
・07/01⇒谷中村村長職務管掌鈴木豊三、村会決議を無視して同村を藤岡町に合併。
・07/03⇒田中正造、栃木警察署に拘引、官吏侮辱罪で起訴。
明治40年1907・足尾警察署が独立する。
・02/04⇒足尾銅山暴動事件(〜2.7)、軍隊出動で鎮圧、大日本労働至誠会は壊滅。
・06/12⇒谷中村残留民に対して、強制退去命令。
・06/13⇒田中正造に、無罪判決。(7/3関連)
・06/29⇒谷中村残留16戸の強制破壊開始〜7/5、村民は谷中周辺や栃木県内各地に、遠くは北海道へと移住した。
・07/--⇒田中正造(67)、谷中村残留民仮小屋強制破壊後、谷中村復活運動に活躍。
・07/29⇒谷中堤内地権者、東京救済会の勧告に従い、土地収用補償金額裁決不服訴訟を提起。
明治41年1908前年2/4に起きた足尾暴動の判決で南助松、永岡鶴蔵ら幹部10名の無罪確定
明治42年1909
・田中正造(69)、「破憲破道に関する質問書」を書き、友人島田三郎議員らの名前で衆議院に出す。
・09/--⇒渡良瀬川改修案、関係4県の県議会通過。
明治43年1910・田中正造(70)、関東大洪水、政府の治水政策を正すため関東各地の河川を実地に調べる。
・足尾銅山、坑内立坑でエレベーター式人員昇降を開始。
・足尾銅山、精錬新工場完成、粉鉱精錬用の製団機完成しネック解決。
・05/25⇒大逆事件の検挙開始。(6/1幸徳秋水逮捕、翌年死刑執行)
明治44年1911・足尾銅山、坑内手元照明用にカーバイトを使用したカンテラを採用。
・04/--⇒下都賀郡民210人、北海道常呂郡鐺沸村サロマベツ原野(現佐呂間町栃木)に第1次移住する。【谷中村村民16戸137人を含む】
明治45年1912足尾鉄道開通。坑内に大型コンプレッサーを設置、鑿岩機使用に加速化
大正 2年1913・現場係員養成の足尾銅山実業学校創設。(栃木県立足尾高校の前身)
・08/02⇒田中正造(73)、河川調査から谷中村への帰途、病に倒れ庭田家に身を寄せる。
・09/04⇒田中正造(73)、没す。
大正 3年1914足尾銅山、小型国産鑿岩機の足尾式完成。製錬の脱硫搭廃止。鉄道開通により細尾索道廃止。坑内鉱車を鉄製に転換。切羽専用の鍋鉱車使用開始
大正 4年1915足尾銅山、浮遊選鉱法の操業開始。製錬排煙処理に電気集塵機を採用、煙灰除去に効果
大正 5年1916足尾銅山、工作課の鑿岩機工場完成し、量産体制に入る
大正 6年1917・足尾銅山、通洞坑で出会300尺河鹿を発見。巨大な塊状鉱床の発見と開発へ進む。
・02/25⇒最後まで旧谷中村に残っていた島田宗三ら16戸が渡良瀬川改修工事に伴う埋立地に移住。同村の田中正造墓前で決別式を行う。
大正 7年1918・古河鉱業株式会社、設立される。
・足尾銅山、エンドレス巻を開始、粗鉱運搬の効率化成る。
大正 8年1919
・足尾銅山に相次いで労働組合結成。最大の大日本鉱山労働同盟会の争議起こる。後半に大量の馘首と飯場の圧迫で争議が激化、飯場制度撤廃で対立したが警察の調停で決着する。以後、飯場制度から漸次世話役制度に移行する。
大正 9年1920
・古河商事の雑穀取引の欠損2,500万余円となり、後処理のため古河財閥大ピンチ。古河商事解体や合理化進行
・鉱山関係3労組が統合。大日本鉱夫総連合会に結集、足尾連合会はその中で最大組織
・足尾銅山、小滝選鉱場を廃止し通洞選鉱場に統合、下部開発を中止し水没、河鹿に採鉱を集中、採鉱機械化が進む
大正10年1921・足尾鉱業事務所を足利市に売却、現地渡し55,000円、市庁舎に
・大日本鉱夫総連合会足尾連合会の争議が敗北。労働総同盟大会の論点になる
・足尾銅山、本山選鉱場を廃止し、通洞に1本化完成。通洞選鉱場から製錬への精鉱運搬が鉄道貨車扱いに転換
・01/--⇒谷中村跡付近で葦刈り事件
・04/07⇒足尾銅山の労組が団結権の承認や最低賃金1日80銭など8項目を要求、会社側は337人の解雇で応じたため、家族代表が鉱山主・古河男爵の妻に訴えるため上京
大正12年1923・足尾銅山、精錬で蒼船工場操業開始、煙灰からの副製品回収開始
・足尾銅山、吉村副社長、足尾鉱業所長を兼任して赴任。労使関係正常化に挺身する
大正13年1924・足尾銅山体育会を創立、体育振興を図る
・足尾銅山、河鹿採掘に方枠充填法を採用、充填材は選鉱廃滓を再利用。索道運搬で有越ポストへ投入、坑内にベルトコンベアも使用する
大正14年1925
・足尾連合会主体で足尾公民党結成、町議選挙に快勝、以後栃木県下の無産政党運動に石山寅吉らが活躍
・古河虎之助社長が出席して足尾銅山全山大園遊会を開催。労使協調を推進する
大正15年1926足尾銅山、馬車鉄道を廃止してガソリン軌道車に転換、有越河鹿群の下部開発進行で斜坑運搬を開始
昭和 3年1928古河と足尾連合会との協議で労働運動者の足尾退去決定
昭和 4年1929足尾銅山、通洞抗西部探鉱で低品位鉱染鉱床発見(連慶寺河鹿群)
昭和 5年1930足尾銅山、坑内採鉱は全て粗鋼堀に全面転換、機械採掘主体に
昭和 6年1931古河鉱業、下半期に赤字決算に転落。賃金切下げなどを実行
昭和 9年1934足尾銅山、鉱脈採掘にシュリンケージ法全面採用
昭和10年1935足尾銅山、貧鉱大量処理の選鉱新工場完成し操業開始
昭和12年193704/--⇒北海道移住した旧谷中村民、帰郷請願書を栃木県知事に提出
昭和14年1939足尾銅山鉱業報国会及び力行会結成
昭和15年1940足尾銅山、戦時体制強化で国内労働力不足の補充として朝鮮人労働者を使用。主として坑内労働に。ニッケル製錬を開始
昭和16年1941太平洋戦争はじまる。足尾銅山鉱業報国会に他の諸団体を統合
昭和17年1942足尾銅山から機械部門の足尾製作所が独立
昭和19年1944中国人が強制連行され、坑内に就労
昭和20年1945・銅山の存続、生活権確保を掲げて「足尾銅山労働組合同盟会」結成
・08/--⇒日本が連合国に無条件降伏。足尾銅山で中国人、朝鮮人の争議起こる
昭和21年1946食糧危機突破町民大会でヨロケ撲滅を決議。坑外夫の坑内応援、次いで精錬炭確保のため坑内夫の炭坑応援始まる
昭和22年194709/14⇒キャサリン台風、全国の死者2,247人。(栃木県は、死者325人、行方不明者80人、負傷者550人)うち足利市では渡良瀬川と袋川が決壊し、濁流が市内の9割を遅い使者と行方不明者を合わせ319人、流失・全半壊家屋が700余戸という大災害になった
昭和23年1948足尾銅山、重液選鉱法に成功、選鉱の完全機械化の道が開かれる
昭和24年1949・鉱山保安法交付、10月より銅の価格差補給金打切り
・キティ台風で足尾銅山・通洞抗口前堤防が決壊、鑿焼工場全滅、赤沢橋流失
昭和25年1950・足尾高校が栃木県立高校に
・朝鮮戦争勃発で非鉄鉱山好況に、足尾銅山再建整備計画が発表され、手選鉱女工廃止、合計500名の人員整理を希望退職で、労組承認
昭和26年1951・足尾銅山、河鹿周辺部の硫化鉱採掘開始、再建計画の産銅量をはるかに突破する
・足尾の「人身売買事件」「金ヘン盗難事件」が新聞で大きく報道される
昭和27年1952足尾銅山の春闘で計12日間の波状スト、ピケットラインによる職員就業拒否も行う
昭和29年1954・足尾銅山、この頃、鑿岩機のエヤーレッグハンマー普及し、鑿岩作業がワンマン化
・足尾銅山・小滝の厚生施設撤収、坑内排水の自動化、浄水鉄索廃止と149名の人員整理などの合理化案発表、小滝の人員は本山・通洞に移転
・足尾銅山、浄水の象徴ドレッジャーの廃止(のち完全撤去)
昭和31年1956
・02/--⇒足尾銅山、自溶精錬所竣工し操業開始。排煙から硫酸製造も開始。製錬所が鉱業所から独立して足尾精錬所が発足。
昭和33年1958・05/--⇒足尾銅山の源五郎沢堆積場が決壊、水田6,000haに鉱毒被害
・08/--⇒群馬県の3市3郡による渡良瀬川鉱毒根絶期成同盟会結成(会長・恩田正一)
昭和35年1960
・簀子橋ダム完成、電車とダンプトラックによる選鉱廃滓の堆積始まる。これに伴い選鉱の鉄索が全面廃止
・02/--⇒足尾小学校の木造校舎が全焼
昭和37年1962貿易自由化に伴う銅価格の低落阻止に足尾町危機突破町民大会を開催
昭和38年1963足尾銅山の年産銅量6,113トンで戦後最高記録。砂畑橋が竣工
昭和39年1964足尾町、小滝広場に「小滝の里」記念碑が元子滝在住有志の手で建つ
昭和41年196603/--⇒足尾銅山の月産銅量55トンで戦後月産最高を記録
昭和42年1967・足尾・銀山平に国民宿舎かじか荘がオープンする
・02/21⇒水質審議会、渡良瀬川の流水基準を答申(明治23年以来の足尾銅山鉱毒に新対策)
昭和43年196803/--⇒経済企画庁、渡良瀬川の流水の水質基準を銅0.06ppmと決定
昭和44年1969・足尾公民館が旧足尾高女跡に竣工。赤沢と松原に大火発生
・05/21⇒通産省がカドミウム汚染で、足尾銅山下流の渡良瀬川26か所を検査
昭和46年197102/--⇒群馬県毛里田地区産出米からカドミウムを検出
昭和47年1972
・03/--⇒群馬県毛里田同盟会(第3代会長・板橋明治)、政府の中央公害審査会(のちに公害等調整委員会に改組)に損害賠償を求める調停を申請
・04/--⇒足尾鉱業所、足尾製錬所及び配管工場が統合し、足尾事業所発足
・11/--⇒古河鉱業(株)、足尾銅山採鉱部門の閉鎖を発表
・12/--⇒足尾銅山閉山対策町民大会を開催し、銅山閉山阻止の対策を協議
・12/18⇒古河鉱業が、足尾銅山の1973年2月末閉山を足尾銅山労働組合に正式提案
昭和48年1973・足尾・銀山平に「中国人殉難烈士慰霊塔」が建つ
・02/28⇒足尾銅山の採掘中止(閉山)、400余年の歴史に幕を閉じた。ただし、製錬事業は拡大の方針
・10/--⇒日足トンネルを着工
昭和49年197405/11⇒足尾鉱山鉱毒事件で、古河鉱業が群馬県毛里田同盟会に補償金15億5,000万円を支払う旨の農産物減収補償調停案成立(百年公害に初の和解)
(毛里田地区の鉱毒事件年表があります)
昭和51年197608/12⇒日足トンネル完成。日光市細尾町と足尾町地蔵滝口を結ぶ日足トンネルが工事開始から2年10か月ぶりに完成、日光市と足尾町がひとつの生活圏として結ばれた
昭和52年1977・足尾銅山坑内から引湯して足尾温泉開業(国民宿舎かじか荘等)
・足尾町民センターに古河の「足尾銅山記念室」開設
昭和53年1978日足トンネルが開通し、日光〜足尾の交通が大幅に改善
昭和55年1980・砂畑に足尾双愛病院が開設
・国鉄民営化にともなう足尾線存続町民総決起大会を開く
・04/23⇒閉山した足尾銅山の通洞坑内を使った「足尾銅山観光」がオープン
昭和56年1981足尾バイパスが開通
昭和58年1983足尾銅山観光に鋳銭座オープン(通洞抗口前)
昭和60年1985足尾に栃木県営発電所が起動開始
昭和61年1986足尾町で、「小滝の里記念碑」を再建
昭和62年1987足尾線の第3セクターによる存続が決定。赤沢と赤倉で大火
平成 1年1989・国鉄民営化移行で足尾線の貨物輸送が廃止。製錬所は事実上操業停止
・わたらせ渓谷鉄道が営業開始
平成 2年1990・古河を含むボナンザ総合開発株式会社が創立、足尾の総合開発を目指す(のち休眠)
・01/--⇒ふるさと創生事業決まる。田中正造翁の像制作等(佐野市)
・03/--⇒田中正造邸宅の保存修理工事始まる(佐野市)
平成 3年1991・足尾銅山坑内観光の入場者が400万人を突破
・11/--⇒田中正造翁生誕150年記念講演会(佐野市)
平成 4年1992砂畑社宅跡に足尾さく岩機(株)竣工、操業開始
平成 5年1993わたらせ川協会設立、足尾に資料館建設を目指す
平成 8年1996・足尾ダム周辺に、あかがね親水公園が完成
・原小学校が廃校、足尾の小学校は足尾・本山の2校になる
・「足尾に緑を育てる会」発足。大畑沢緑の砂防ゾーンで植樹始まる
平成 9年1997生野と足尾の明治を描く立松和平の小説「恩寵の谷」出版記念会を開催(足尾町)
平成10年1998産業考古学会全国大会を足尾地区で開催