次の記事は、平成14年2月1日(31日発行)夕刊フジの13面、「エンターテインメント・ウオーズ」に掲載されたものです。

佐野ラーメン店を組織化

 きっかけは1985年 

 佐野ほど町おこしとして成功したご当地ラーメンはないと言われている。
 ご当地ラーメンの走りとして知られている札幌や福岡の場合、町の規模が大きく、観光を含めてラーメンの産業としての位置付けはさほど高くない。当然、町ぐるみ、行政ぐるみでラーメンを表に立てて町おこしをしようとする機運にはなりづらいし、現になっていない。民間あるいは業界任せだし、その業界もばらばらで、まとまって何かをやるという雰囲気ではない。

 佐野市の町おこしの起爆剤 

 しかし人工10万に満たない佐野くらいの街であれば、ラーメンでも十分町おこしの起爆剤になりうるし、現在、状況がかなり変わってきてはいるものの、もっともティピカルな成功事例であると言っていい。
 喜多方もそういっていいだろうが、喜多方の場合、先駆者であった分、紆余曲折がある。対して佐野は喜多方をケーススタディーし、成功への最短距離を走り抜けた。そういう意味である。

 隣接の足利市の「そばマップ」に刺激されラーメン店を組織作り 

 佐野の場合も、ラーメンで町おこしをという機運が生まれたきっかけはごく些細なことからであった。話は1985年にさかのぼる。
 当時、竹下内閣の下で「故郷創生」がうたわれたりしており、全国各地で町おこしがブームになっていた。そうしたなかで、佐野市役所の商工観光課の係長だった浅井進(現・佐野市社会福祉協議会事業第二課長)は、佐野でも何かやれないかと模索していた。たまたまそんな折り、隣接する足利市で観光用の「そばマップ」というのができ、それが佐野にまで入り込んでいた。

 市役所の係長が、オラが町でも…と運動 

 「佐野には100軒をこえるラーメン店があり、近辺のゴルフ場へ首都圏からやってくる人たちの間ではうまいという評判だと聞いていた。市役所の周りにも美味しい店がけっこうある。足利が蕎麦でくるなら、佐野はラーメン・マップを作ってみたらどうだろうか」と浅井はそんなことを考え、たまたま10月25日、ある催し物で会った旧知の「海賊ラーメン」という店の店主に話してみた。

 「海賊ラーメン」の店主は大乗気になった。彼はラーメン店の店主達を説得する一方、市の支援を求めて走り回った。
 浅井も彼に協力して上司を説得に当たるが、「これまで一つの団体にそうした形で補助金を出したケースはない」ということで、なかなかOKが出ない。市の予算がつかないなら、それならということで商工会議所に話を持っていったが全くの門前払い。
 しかしラーメン店のほうの熱意が急激に高まり、一部の店主達は夜討ち朝駆け、当時の市長をはじめとして市幹部を陰に陽に揺り動かし、ついに受け皿として「ラーメン会」という組織をつくるなら、マップ作成の予算をつけようというところまで漕ぎつけた。ほぼ1年後の1986年暮れ頃のことだった。
=敬称略

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