イタリア・ポンペイ遺跡

 平成14年11月26日(火)〜12月1日(日)の間、久しぶりの国外家族旅行でイタリア・ローマ及びポンペイ遺跡を観光した。何も調べずに行ったのが後悔の元になってしまった。ポンペイは歴史が古く、遺跡を歩くと古代建築物が至る所にあり見所満載なのである。

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ポンペイ遺跡への入口
<ポンペイ遺跡への入口>
 写真はポンペイ遺跡への入口で通路の手前に切符売り場がある。
 ポンペイの町は、西暦79年8月24日に噴火したヴェスヴィオ山の火山灰に埋没した。
 やがてその存在は忘れ去られ、発掘が開始されたのは1748年、ブルボン家のカルロ王の命令によってだ。
 灰の下から蘇ったポンペイのニュースは世界中を沸かせ、日本からも明治時代に岩倉具視外視察団が訪れている。

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公共施設跡
<公共施設跡>
 この写真は公共施設跡と思われる。
 イタリア統一後は、学術的な発掘が開始され、出土品はナポリの考古学博物館に収蔵されている。

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遺跡にのこる残柱
<ポンペイの住民と歴史>
 ポンペイは、古代イタリア民族のオスク人、当初はその交易相手であったエトルニア人やギリシャ人など、様々な人種が共存していたが、前5世紀末までには内陸部から進出したサムニウム人の支配下に入った。現存する街並みの原型はこの時代のものである。
 肥沃なカンパニアに進出するローマと衝突を繰り返したが、前3世紀末には地中海の主となったローマの傘下に入り、前80年にはローマに征服され、その植民地となっている。

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イタリアの小学生
<イタリアの小学生>
 イタリアの小学生が遠足で訪れていた。カメラを向けるとこの通り群がり寄ってきた。
 小学生くらいまでは、どこの国の子供も同じような行動をとるものである。

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ポンペイの道路
<ポンペイの道路>
 ポンペイの道路は、馬車道と歩道が分かれており、かなり幅広く造られている。
 紀元1世紀のこの時代にインフラ整備がされ都市化が進んでいたのには驚きである。

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裕福な家の入口
<裕福な家の入口>
 入口の床に敷き詰められた精緻なモザイク模様から、ポンペイ住民の中でも比較的裕福な家庭のものであろうと推察されている。

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馬車のワダチ跡
<馬車のワダチ跡>
 道路の中央には馬車のワダチ跡が敷石をすり減らし残されている。そして道路には一定の距離を置いて飛び石が置いてある。これは馬車のスピードを制限するために設けられたものと思われる。

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道路の水飲み場
<道路の水飲み場>
 道路の随所に設けられている水飲み場。牛馬だけでなく人も飲んでいたようである。蛇口の横に手をついた跡(写真右のくぼみ)が残っており、長年かかって削り取られたものだろう。
 この時代に水道設備が完備していたとは驚きである。

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円形劇場
<円形劇場>
 左の写真は、半円形の大劇場跡である。なんと5千席もあったらしい。その隣には小劇場もある。どのような劇が演じられていたのだろうか。
 パン屋や居酒屋、洗濯屋、共同浴場、水洗便所、そして売春宿もあったようだ!

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居酒屋跡
<居酒屋跡>
 写真を見ると厨房の調理場所と思うかもしれないが、これはカウンターで穴の中にはアルコールが入っており直接客を前に柄杓で汲んで渡していたらしい。
 当時は何の酒を売っていたのだろうか…。ワイン、葡萄酒のようなものだったのだろうな…。

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パン焼きカマド
<パン焼きカマド>
 これはパン屋のパン焼きカマドである。どのようなパンを焼いていたのだろうか?

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ポンペイのシンボル
<ポンペイのシンボル>
 ポンペイのPRパンフレットに必ずといってよいほど登場するのは、このアーチです。従って、シンボルと言っても良いでしょう。

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アポロ神殿跡
<アポロ神殿跡>
 アポロ神殿の高い基壇が前6世紀の創建を物語る。アポロはギリシャ神話の最高神で、ポンペイの守護神でもある。
 中央の台は生贄を神に捧げるための台で、左の白い円柱は日時計になっている。

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遺跡とポンペイ市街
<遺跡とポンペイ市街>
 ポンペイ遺跡にある残された石柱の奥を眺めると、現在のポンペイ市街を臨むことができる。
 ヴェスヴィオ火山は西暦79年の噴火以降数10回の噴火を繰り返している。432年の大噴火の他、1631年12月には79年以来最大の噴火をおこし約3,000人が死亡した。
 また1822年には噴煙を14km噴き上げている。最近の噴火は1944年3月22日のもので、サン・セバスティアーノ村を埋没させた。