第4回フィールドワークnotta-kun.jpgさ〜のって号に乗って

平成21年12月13日(日)仙波会沢線(大釜〜葛の里壱番館)

佐野駅バス(基幹線)〜市営バス車庫前バス(仙波会沢線)〜大釜バス停(下車)⇒有綱大明神⇒今宮神社⇒来迎寺⇒親抱きの松⇒立木地蔵尊⇒金蔵院⇒最勝院・天満宮⇒明光寺⇒箱石神社⇒願成寺⇒富士浅間神社⇒善増寺⇒鹿島神社⇒葛の里壱番館バス停(乗車)バス(基幹線)〜佐野駅 【徒歩距離約17.5q

フレームが表示されない場合はここをクリックしてください。

20091216-sano1-4-000.jpg

額縁: 概 要
 


s-icon057

「さ〜のって号に乗って」第4回「仙波会沢線」です。仙波会沢線も秋山線と同じ新生「佐野市」となる前の葛生(くずう)町を走っています。旧仙波村の「大釜」に向かうルートと旧会沢村の「会沢小室」に向かうルートに分かれます。今回は「大釜」に向かうルートで、明治22年(1889)の町村制施行後の「常盤村」のうち豊代村、仙波村、そして「葛生町(第一次)」を歩きます。

常盤地区には年の暮れになると「耳うどん」を作って正月期間中に食べるという風習があります。耳の形に似ているため耳うどんの名前がつきました。常盤ではこれを年末にゆでて冷水に浸しておき、手をかけずに正月の来客に振る舞ったそうで、普通のうどんでは長時間水に浸して置けないため、この形が考案されたとか。また耳うどんは悪い神様の耳を意味し、その耳を食べてしまうことで家の話を悪い神様に聞かれることがないから、一年間悪いことが起こらない(庚申信仰と似た感覚ですね。)、近所の悪いうわさが耳に入らないためお付き合いが円満になるなどの伝承もあります。佐野駅近くにある「野村屋本店」さんで食べることができます。もちもちとした食感がたまりません。

今回は民俗散歩に加えて鉱都葛生の発展を支え血管の役割を果たしてきた鉄道(線路跡)も辿ります。葛生町の古い地図を見ると各鉱山と葛生駅をつなぐため、無数の鉄道が敷設されていたことがわかります。仙波の羽鶴からは日鉄鉱業社線(下図参照)があり、この軌道跡を歩きながら往時の繁栄の様子を偲びました。また、仙波には多くの民話が残っており、「親抱きの松」「立木地蔵尊」「鉢の木物語」ゆかりの場所を訪ねます。

20091216-sano1-4-000-2.jpg

出典:葛生町誌

さ〜のって号C

今回乗車した仙波会沢線の車両はバスというよりも大きめのワンボックカーです。利用者が少ないのか全線デマンド運行で出発の30分前までに営業所に連絡する必要があります。路線内好きな場所乗降できますので、運行時間帯であればタクシー感覚で利用することができます。親切な運転手さんでアットホームな雰囲気です。


 

額縁: 写真集 

 


20091216-sano1-4-003.jpg

20091216-sano1-4-007.jpg

20091216-sano1-4-009.jpg

今回は乗り継ぎの関係で佐野駅から葛生駅までは東武佐野線で行き、駅近くの「市営バス車庫前」から朝10時発の「仙波会沢線」に乗りました。約25分で終点の「大釜」に到着です。朝のうちはどんよりとした天気で、その天気と風景がいやにマッチしていて何とコメントしてよいのやら・・・。

佐野編さ〜のって号に乗っての第4回目は、駒形石灰工業大釜工場の採掘場からはじまります。

20091216-sano1-4-010.jpg

20091216-sano1-4-015.jpg

20091216-sano1-4-017.jpg

20091216-sano1-4-023.jpg

20091216-sano1-4-022.jpg

20091216-sano1-4-019.jpg

古い滑り台がポツンとある小さな神社は鳥居の扁額には「有綱大明神」とあります。前回の秋山線で「常盤御前」について触れましたが、その続きです。くずうの民話によると頼朝に追われ奥州へ逃れた義経を追って、常盤御前は有綱という家来を連れて奥州へ向かいました。大釜から出流山を通る険しい山道で、大切な白馬が崖から転落してしまい進めなくなり、常盤御前は大釜にとどまり暮らすことになりました。義経に逢うことなく大釜で亡くなり、地元の人々は常盤御前の五輪塔を建立したり、有綱と白馬のために有綱大明神を創建したとのことです。この小さな神社には心温まるお話が残っていました。

気になったのは本殿の脇に置いてあった手引きの車です。形と大きさから察するに棺桶を乗せて運んだものでしょうか?境内には庚申塔など数基の石仏がありましたが、傷みが激しく年代等は読み取れませんでした。

20091216-sano1-4-036.jpg

20091216-sano1-4-041.jpg

20091216-sano1-4-043.jpg

仙波川に沿って歩いていくと3つの広場があり、ここ「せせらぎ広場」はホタルの生息地になっています。ホタルの季節が来たら見に行きたいと思います。途中に手打ちそばの幟が立っていますね。仙波地区はそばの産地、普通の民家を改造して手打ちそばを提供しています。おそらくこの道の周囲もそばの白い花が満開に咲き誇るのでしょう。石積みの上に建立された灯籠には雷電宮”と刻まれています。栃木県は全国的にも雷の多発地帯、雷をライサマと呼んで恐れ敬い、さらには神格化してその災害を避けるとともに、信仰の対象として豊作を願うという雷神信仰が盛んです。

20091216-sano1-4-056.jpg

20091216-sano1-4-057.jpg

20091216-sano1-4-061.jpg

20091216-sano1-4-065.jpg

20091216-sano1-4-067.jpg

20091216-sano1-4-076.jpg

仙波そばを味わえる「高齢者センター」近くにあるのが「今宮神社」です。ご祭神は天津児屋根命(アマツコヤネノミコト)で天慶3年(940)藤原秀郷公が平将門征討のとき、藤原氏の祖神に祈誓のため勧請したとあります。木製の八幡鳥居には新しい注連縄が飾られ正月はもうすぐですね。入母屋造の拝殿の奥に鎮座する流造の本殿には昔は覆いの屋根がなかったのでしょう。朱塗りの色はすっかり抜け落ちてしまいましたが立派なものです。

20091216-sano1-4-078.jpg

20091216-sano1-4-081.jpg

20091216-sano1-4-091.jpg

20091216-sano1-4-082.jpg

20091216-sano1-4-083.jpg

20091216-sano1-4-087.jpg

「蓮華山来迎寺」は今宮神社のすぐ近くにある真言宗智山派のお寺で元禄元年(1688)に栄澄大徳により建立されたとあります。境内入口には地蔵のほか5基+αの石仏が並んでいます。写真の十九夜塔は天保15年(1844)のもの、お隣の地蔵は建立年代は不詳ですが、お顔(^_^)の表情が何とも言えませんね。経験から察するにこういうお顔のお地蔵さんは意外と古い年代のものが多いのです。

20091216-sano1-4-101.jpg

20091216-sano1-4-102.jpg

20091216-sano1-4-103.jpg

20091216-sano1-4-000-3.jpg

20091216-sano1-4-105.jpg

20091216-sano1-4-112.jpg

冒頭で鉱都葛生の発展を支え血管の役割を果たしてきた鉄道について触れましたが、ここからは鉱都と鉄道が絡んできます。また、「民話のふるさと葛生」についても紹介したいと思います。出流山満願寺に向かう県道近くにはかつて鉄道が走っていました。日鉄鉱業社線で地図に赤丸を付した場所が写真の分岐点です。今はダンプカーが引っ切り無しに行き交っていますが・・・。

分岐点から500mほど上った右手杉木立の中に立て看板があります。近づいてみると「親抱きの松」と書かれています。戦国時代、奥羽へ戦さにでかけ、帰らぬ父を捜して巡礼姿で旅に出た母子は、この地で力尽き雪に埋もれて亡くなりました。村人がしっかり抱き合った母子をそのまま埋めて供養したそうです。そこから生えた松の幹が大小2本に分かれ、母子が抱き合っている姿に見えたのでこの名が付いたということです。高さ27mの松は昭和9年に落雷を受け枯れてしまいました。

20091216-sano1-4-116.jpg

20091216-sano1-4-126.jpg

20091216-sano1-4-121.jpg

20091216-sano1-4-120.jpg

20091216-sano1-4-123.jpg

20091216-sano1-4-000-4-2.jpg

20091216-sano1-4-130.jpg

20091216-sano1-4-135.jpg

20091216-sano1-4-140.jpg

羽鶴峠の坂を上り切って栃木市側に下りかけたところに地蔵堂があります。佐野市の指定有形文化財の「立木地蔵尊」です。伝承によると弘法大師と弟子の真海が諸国を巡って教えを広めるため当地にいらした際、土地の人が“親子杉”と呼んでいる根本から二股に分かれた杉の大きな方にお地蔵さんを刻みました。村人たちはこの地蔵を深く信仰し幸福と旅人の安全を祈りました。ところがある年、山火事が起こりお地蔵さんも焼けそうになったため、杉の木を切り倒し地蔵を切り離して安全な場所に移したそうです。その後、村人は杉の前にお堂を建て、お地蔵さまを安置しました。立木に彫ったお地蔵さんから「立木地蔵」と呼ばれるようになったということです。お堂に脇には六地蔵のほか数体の石仏が並んでいます。

来た道を戻り、金蔵院に向かう途中で軌道跡を見つけることができました。ここに線路があり、機関車が鉱物を運んでいたのですね。図書館で入手した地図は昭和40年代のものですから、その頃はまだ走っていたのでしょう。

20091216-sano1-4-143.jpg

20091216-sano1-4-147.jpg

20091216-sano1-4-163.jpg

20091216-sano1-4-165.jpg

20091216-sano1-4-159.jpg

20091216-sano1-4-151.jpg

20091216-sano1-4-171.jpg

20091216-sano1-4-166.jpg

20091216-sano1-4-175.jpg

“アド山城跡1.8K”の看板の先を右に入ると「清瀧山金蔵院聖法寺」です。宝篋印塔、不動明王、大日如来、十九夜塔など多くの石仏に出迎えられて山門をくぐります。金蔵院は真言宗智山派のお寺で、案内板によると明応3年(1494)弘基上人の開山、ご本尊は不動明王で、唐沢城主佐野家累代の祈願所でした。下段中央は「大権現堂」で、寺の護持安泰を念じていて近くの権現池(ひょうたん池)の水はいつの世も枯れることなく、干ばつのとき池の水をいただきながら雨乞いをしたという伝承があります。

下段右は「ぽっくり観音」です。長く病魔に臥し苦しみ辛い悲しみから救われることを念じて建てられたそうです。

20091216-sano1-4-188.jpg

20091216-sano1-4-192.jpg

20091216-sano1-4-198.jpg

20091216-sano1-4-194.jpg

20091216-sano1-4-200.jpg

20091216-sano1-4-201.jpg

県道に戻って常盤中学校の前を通り秋山川を渡ります。「清瀧山最勝院」は真言宗智山派のお寺で慶長3年(1598)に開山しました。斜面にあるお堂には瑠璃光如来が安置されています。瑠璃光如とは薬師如来のことです。隣の神社は「天満宮」で長禄2年(1458)に北野天満宮を勧請したそうです。現在の社殿はご神木の欅を伐採して昭和45年(1970)に建てられました。

20091216-sano1-4-204.jpg

20091216-sano1-4-205.jpg

20091216-sano1-4-208.jpg

近くにもう一つお寺があります。「吉祥山明光寺」は臨済宗建長寺派のお寺で、境内には薬師堂があります。お寺に向かう参道にある子育観音は文化元年(1804)に建立されたものです。

20091216-sano1-4-178.jpg

20091216-sano1-4-182.jpg

20091216-sano1-4-184.jpg

再び秋山川に架かる橋を渡って仙波の交差点から常盤小学校の裏手にやってきました。ここにある青面金剛と三猿の庚申塔は延宝元年(1673)ですのでかなり古いものです。裏山の斜面が軌道跡でここから軌道跡の上を歩いて旧仙波村から旧豊代村に入ります。

20091216-sano1-4-213.jpg

20091216-sano1-4-216.jpg

20091216-sano1-4-218.jpg

「箱石神社」は天慶2年(939)に藤原秀郷によって創立され、その後天正元年(1573)佐野宗綱が修繕を加えています。明治終りの神社合祀政策で白山、八滝、保呂羽、厳島の4社が合祀されています。ご神木のイチョウの葉が黄金色に散りばめられていて、いい感じですね。

20091216-sano1-4-229.jpg

20091216-sano1-4-223.jpg

20091216-sano1-4-225.jpg

石沢(こくさわ)前バス停近くに蔵のある豪邸があり、道標が立てられています。「右 ほろは道 左 はつる道」ですかね?違っているかも。道を挟んで小祠があり地蔵と十九夜塔が並んでいます。十九夜塔は寛延2年(1749)に建立されたもので、白っぽくなっていますが、如意輪観音の彫がしっかりしていて見ごたえがあります。

20091216-sano1-4-232.jpg

20091216-sano1-4-237.jpg

20091216-sano1-4-238.jpg

葛生町(第一次)に入りました。現在の地名は鉢木町です。おそらくこの地名は有名な「鉢の木物語」から付けられたのでしょう。「梅秀山願成寺」は臨済宗建長寺派のお寺で、宝亀年間(770-780)の創立といわれています。

鉢の木物語は皆さんご存じの話でしょう。建長5年(1253)の大雪の晩、佐野源左衛門常世の家に宿を求めて僧侶が訪ねてきました。常世夫婦は貧しいながらも親切にその僧侶を親切にもてなし、暖をとらせるため梅、松、桜の鉢植えを折って火にくべたそうです。僧侶に名を尋ねられ、「自分は鎌倉武士の子であり、鎌倉に何かあれば馳せ参じて命を捨てる覚悟がある」と話しました。

その年の秋のこと、鎌倉に一大事が起きたと知った常世は、やせ馬に乗り鎌倉に駆けつけました。するとお館ではあのときの僧侶が待っていました。執権・北条時頼だったのです。常世は時頼にほめられ、下野の三十六ケ郷と、薪となった梅・松・桜の鉢植えの木にちなんで、上州井田庄、越中井庄、加賀田庄の3つを与えられ、また、6万3千石の大名にとりたてられ小田原城を賜りました。ここ願成寺には常世のお墓があり、今も大切に供養されています。

20091216-sano1-4-240.jpg

20091216-sano1-4-239.jpg

20091216-sano1-4-241.jpg

お寺の近くには石仏が数基並んでいます。「観音、延命地蔵、安産地蔵」の文字塔ですね。チョッと欲張りのような気がしますが・・・。隣はすっかりお馴染となった如意輪観音の十九夜塔です。建立者は“当所女人講”とあり、十九夜信仰が女性のものであることがうかがえます。

20091216-sano1-4-246.jpg

20091216-sano1-4-244.jpg

20091216-sano1-4-248.jpg

国道293号線に出て左に上っていくと「嘉多山公園」があります。石灰の採掘跡地につくられた公園で春は桜の名所です。保存されている蒸気機関車は東武鉄道で昭和41年(1966)まで使用され、鉱都葛生の町を走っていたものです。丘に上がると石灰の看板、工場、採掘場が見えます。

20091216-sano1-4-250.jpg

20091216-sano1-4-252.jpg

20091216-sano1-4-254.jpg

20091216-sano1-4-256.jpg

20091216-sano1-4-258.jpg

20091216-sano1-4-259.jpg

公園の脇にあるのが「浅間神社」です。拝殿・弊殿・本殿が一体となった立派な社殿に目を奪われます。中でも本殿の彫刻は繊細で美しいものです。ご祭神はもちろん木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメノミコト)で弘長2年(1262)の創建とあります。本殿近くには合祀された小祠が並んでいて、片隅に金精大明神が祀られていました。木製の男根の奥に石製の男根です。豊穣や生産に結びつくことから商売繁盛にも霊験ありということで信仰されたのでしょう。

20091216-sano1-4-263.jpg

20091216-sano1-4-264.jpg

20091216-sano1-4-266.jpg

公園からまっすぐ葛生の中心地に向かう道は「原人ロード」と名付けられています。水と石と緑の調和を求めて設計されているそうです。途中、直線の空地を横切ります。ここも日鉄鉱業社線の跡地で東武線と合流して葛生駅につながっていました。

だいぶ陽が傾いてきましたね。時刻は夕方4時を回り、天気は回復しましたが寒いです。

20091216-sano1-4-270.jpg

20091216-sano1-4-272.jpg

20091216-sano1-4-273.jpg

最後はやや駆け足です。青藍泰斗高等学校の隣にある「冨田山善増寺」です。曹洞宗のお寺で山門脇の仁王像が出迎えてくれます。大永年間(1521-28)梶原善増の創建で、現在の建造物は文化元年(1804)に再建したとのこと。青藍泰斗高の前身である葛生学館はここ善増寺の庫裏だったそうです。不思議なのはこの石造ですね、足はあるのですが・・・どういう意味があるのでしょうか。

20091216-sano1-4-275.jpg

20091216-sano1-4-277.jpg

20091216-sano1-4-286.jpg

最後は「鹿島神社」です。ご祭神は武甕槌命(タケミカヅチノミコト)で、武家の神さまとして有名ですね。佐野家代々の守護神として深く崇敬されました。ゴールは葛の里壱番館、16時40分発の基幹線に乗って佐野駅まで戻りました。次回は仙波会沢線です。

Kazお散歩日記 佐野編「さ〜のって号に乗って


s-icon057