第12回フィールドワーク 

 


平成25年5月25日(土)

大磯駅(集合)⇒@七所詣り・道祖神社⇒A東光院⇒B大磯港・照ケ崎⇒C大磯町役場⇒D島崎藤村旧宅⇒E宇賀神社⇒F大磯町郷土資料館(昼食)・県立城山公園⇒G西長院⇒H宝積院⇒I六所神社⇒J蓮花院⇒二宮駅(解散) 徒歩約9.8q

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額縁: 概 要
 

 


心配した天気はとりあえずセーフ。曇り空はかえってありがたく歩きやすい陽気でした。個人的には転勤があり、3月、4月と欠席したため久しぶりの参加。しかも当番です。

大磯は、大化改新後の大宝令(702年)によれば、余綾(ヨルギ)郡伊蘇郷(大磯・西小磯・東小磯)と同余綾郷(国府本郷・国府新宿)、大住郡高来郷(高麗)の2郡3郷から成っていたことが知られています。そして、「大磯郷」の文字は正倉院御物の中の天平10年(738)の墨書銘が初見とのことです。

徳川家康が江戸に幕府を開くと、東海道の宿場として陸上交通の要所となり、その繁栄を見たが、明治維新により宿場としての機能を失い、衰退の道をたどりました。しかし、明治18年(1885)、軍医総監を歴任した松本順により、海水浴場として産声をあげ、次いで東海道線の延長に伴い大磯駅ができると、伊藤博文、山縣有朋はじめ政財界人が競って別荘を構えるようになると、一躍脚光を浴び、全国にその名を知られるようになりました。(出典:大磯町観光協会HP)

今日は、国の重要民俗文化財「左義長(サギチョウ)から。南下町(坂下・浜之町・大泊・子の神)、北下町(中宿・浅間・大北)と長者町の九カ所で行われる火祭りを左義長と呼びます。前回歩いた大磯宿の面影が残る街道沿いから海側の脇道に小祠が点在していますので、地元でいう七所詣り(ナナトコマイリ)をしたいと思いますが・・・どうでしょう。また、せっかく海の近くに来たので大磯港も一目見て国府の里方面へ。平安時代の末期からの余綾国府が存在したと推定されていて、大磯城山公園内の郷土資料館にて大磯宿や東海道について学びます。そして午後のメインは六所神社、神奈川県の無形民俗文化財「国府祭(コウノマチ)で有名ですね。午後の西長院と蓮花院ではお寺さまのご厚意で見学させていただきました。


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大磯駅に集合。今日の参加者は25名です。天気はまずまず。今回の当番は我が3班ですが体調不良で2名欠席・・残念。

前回、大磯駅前と宿場町は回ってしまったので、今回はちょっと視点を変え左義長に関連付けて@「七所詣り」をしながら、道祖神巡りからです。はじめは大北の7番「道祖神社」からです。ここをスタートして浅間町(浅間神社)、中宿、子の神、大泊(熊野神社)、浜之町、坂下と巡ります。石仏は向かって左が庚申塔で文化11年(1814)建立、右は社号塔で塞神社とあります。

道祖神をお祀りしている通りは宿場町ではなく漁師町といった風情です。通りには魚屋さんが並び、店頭では魚が干してあったり。海に向かって細い路地があり、思わず抜けてみたくなります。

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6番の浅間町、浅間神社です。そうでうね。7番⇒6番と逆に廻っていきます。浅間神社の鳥居をくぐると左側に庚申塔を祀る小祠があります。正面奥が浅間神社の社殿で、中にはご祭神の木花開耶姫命が描かれた絵が奉納されています。

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5番中宿は道祖神の御幣、4番子の神は双体道祖神が祀られています。西湘バイパスのすぐ脇で海は目の前です。

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3番大泊の熊野神社です。鳥居をくぐると境内左側に双体道祖神が祀られた小祠があります。「地主神」と刻された石仏は初めてかも?地神塔のようですね。下段の箒を持った石仏は地元の資料では疱瘡神となっています。箒を持っているので安産を祈願する箒神かなと思ったのですが。中央は左右が庚申塔、真中が地神塔、上部を失っているのは三猿がいますので庚申塔のようです。

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七所詣りの途中に寄ったのが「東光院」です。古儀真言宗のお寺で船附山薬王寺と号し、ご本尊は薬師如来です。お寺のホームページによると港町大磯に寄り添ってきた歴史があって、現在でも年に一度大磯漁港でのお魚供養を執り行っているそうです。開山等は詳らかではないとのことですが、中興開山は長盛(1628年寂滅)によりおこなわれたと記された文献があり、鎌倉後期から江戸にかけて創建された歴史のあるお寺です。

写真左は「焼死人供養塔」で天保7年(1836)、種子はアーンク(胎蔵界大日如来)、半七火事といわれ天保7年9月5日北下町百姓半七の家から出火し大磯宿の九割が焼失したそうです。また、右の地蔵菩薩は延宝2年(1674)に建立されたものです。

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2番浜之町は合掌型の双体道祖神が祀られています。

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7所詣りの最後は1番坂下です。普通の民家の前にあります。一番息子という行事のとき石に縄をつけ、子供たちが家々を巡り、家人に頼まれた願いを唱えながら玄関先で、ごろ石で地面を搗くのですが、そのごろ石がこれです。

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西湘バイパスの高架をくぐると「大磯港」です。右手に見える「照ケ崎」は昔、蛸之丞という漁師が海中から引き揚げたタコが、光輝く千手観音に姿を変えました。この光輝く千手観音を引き揚げた海岸を“照ヶ崎”と呼ぶようになったと言われています。

神奈川県の天然記念物(大磯町の鳥)に指定されているアオバトが飛来場所として有名です。アオバト体内のナトリウム濃度を確保するためにここで海水吸飲するとのこと。朝早めの時間なら出会えるそうです。アオバトの写真は大磯町のホームページに掲載されているものです。美しい鳥ですね。

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「大磯町役場」でトイレ休憩をとらせていただきました。さすが観光に力を入れている自治体です。休日もこのように利用可能です。東海道を横断して「島崎藤村旧宅」にやってきました。島崎藤村(18721943)。明治5年(1872)信州木曽の馬籠村(現・岐阜県中津川市)生まれ。ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。『落梅集』の一節にある『椰子の実』や『千曲川旅情の歌』は歌としても親しまれています。昭和16年に湯河原へ休養に訪れる途中、友人に誘われ左義長見物に立ち寄り大磯での生活を決意しましたそうです。担当の方が親切丁寧に説明してくださいました。

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しばらく東海道の松並木を眺めながら歩きます。元伊藤博文邸滄浪閣の向かいにある神社が「宇賀神社」です。創建年代等は詳らかではありませんが地元の方のお話では宇賀神さんは格式が高く、国府祭にくるお神輿はこの前を通れないので裏道を通ったとのこと。絵馬が飾られていますが、これは昔の漁の様子がわかるものとしてレプリカが郷土資料館にありました。それだけ価値があるのでしょう。ただし、下半分が見当たらないのですが・・・。

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国道1号線沿いに「西国三十三所順禮供養塔」があります。この塔は順禮の人々の供養とともに、真楽寺観音への道標の役割を担っていたとのことです。なお、真楽寺は吾妻鏡の記事に北条政子の安産祈願寺の一つになっていましたが、現在は廃絶しています。

「大磯町郷土資料館」は県立大磯城山公園の中にあります。学芸員の方にお願いして大磯宿と左義長について説明していただきました。宿場は南と北に分かれていて上りと下りで機能を分けているのかなと思いましたが、実際は月番とのことでした。

大磯町には170カ所に及ぶ遺跡があります。このうちの約4割は、横穴墓群と呼ばれる古代人の墓地であり、近年の所在調査と埋没している横穴墓を考慮すると1千基に近い数が想定されています。そして、展望台からの眺めはサイコーです。食後の腹ごなしにちょっと上り大磯の海を一望しました。

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午後は「西長院」からです。“中丸の身代り地蔵さん”として親しまれてきました。行基の作と伝えられ、かつては切通しの岩窟中(現・大磯城山公園内)にありましたが、昭和のはじめの国道改修にあたり現在地へ移転しました。大磯町の指定重要文化財です。本堂の天井は色とりどり・・・家紋が並びます。

このお地蔵様を後鳥羽天皇の時代に、梶原平景時の家臣、悪太郎義景という人が深く信仰していました。鶴岡八幡宮に参拝する源頼朝之の行列に襲い掛かる集団があり、悪太郎義景は敵方と間違えられ畠山重忠に討たれてしまいましたが、地蔵尊を深く信仰していた悪太郎には傷一つつきませんでした。その代わり地蔵尊の身体から血潮が流れ出し、あたかも刀剣の傷を受けたような痕がついていました。また、明応年間(14921501)には岡崎四郎の娘が地蔵を深く信仰し、夜更けになるまで参拝しているのを悪い若者たちが怪しみ、娘の首を討ち落とすという事件が発生しましたが、娘はキャッと一声叫んだだけで身体に異常はなく、そのまま家に帰りました。驚いた村の人々が地蔵尊を訪れると、なんとそこには地蔵尊の首が落ちていました。人々はこのような霊験のある地蔵を「身代り地蔵」と称し、1689年にお堂を立て安置しました。現に身代り地蔵尊の身体には刀傷の痕、頭部には接合の痕が残っています。不思議な話ですね。しかしこういう伝承が民俗としては楽しみでもあるのです。

南無阿弥陀仏と刻された六字名号塔は「唯念念仏供養塔」です。年代不詳。唯念上人とは、寛政元年(1789)肥後国八代の藩士滝沢家に生まれ、14才の時に江戸に出、17才で下総国(千葉県)徳願寺弁瑞(べんずい)上人の弟子となり、22才師に従って北海道大臼山善光寺に入り、後には諸国を遍歴しながら山蘢り苦行を続けました。

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大磯町では道祖神を多く見かけます。この双体道祖神も合掌型でした。

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六所神社の一の鳥居までやってきました。その前に参道途中にある「宝積院」に寄りました。真言宗のお寺で天平13年(741)僧行基により創建されたと伝えられています。梵鐘は総高129センチの銅造で寛永8年(1631)の銘をもつ町内最古のものだそうです。江戸時代の作例としては一般的ですが、陰刻された銘文の中に、国府の政庁である国衙(コクガ)に勤務する役人の「在張()の文字がみられることが注目されます。よくご覧下さい。また、宝積院のカヤの木は大磯町で見られるカヤとしては最大級のもので、樹齢は300年以上とのこと。大磯町の文化財に指定されています。

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「六所神社」のご祭神は櫛稲田姫命。大化改新後、相模国の総社として現在地に遷座したとあります。その時より一之宮寒川神社寒川、二之宮川勾神社二宮、三之宮比々多神社伊勢原、四之宮前鳥神社(平)、平塚八幡宮平塚の分霊を合わせ祀り、相模国総社六所神社と称されるようになりました。

下段3枚の写真は「国府祭(コウノマチ)の様子です。下見の翌日、メンバーの一人が行ってきたときの写真です。国府祭は、神奈川県の無形民俗文化財に指定されていて、国司が相模国の天下泰平と五穀豊穣を神々に祈願したものといわれています。神揃山では、相模国の成立にあたり論争の模様を儀式化した神事である座問答が行われます。

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最後に訪問したのは二宮との町境の手前にある「蓮花院」です。寺伝によりますと、開山は法印朝慶と伝わり、平安時代後期朝命を奉じて相模国司とともに来任したそうです本尊聖観世音菩薩は像高35.5cmの立像恵心僧都の作とのこと。ご本尊の右側に像高31cm金泥彩色の広目天、左側には多聞天の立像が安置され三尊様式となっています。

お寺さまのご厚意でご住職のお話しを拝聴することができ、とても充実した1日になりました。

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主な資料の出典

大磯歴史と味の散歩路(大磯町観光協会)、おおいその歴史・町史11別冊ダイジェスト版(大磯町)、大磯町石造物調査報告書(大磯町)、大磯町ホームページ、イソタビドットコム(大磯町産業観光課)、各施設のパンフレット・案内板ほか

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作成資料より

大磯町

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大磯の「大」を三つ組み合わせ、それぞれ「飛躍」、「発展」、「勤労」、「友愛」を意味づけ、町の発展を抽象化したもので昭和39815日に制定されました。

大磯町は明治22年4月(1889)の町村制の施行で、大磯駅、高麗村、東小磯村、西小磯村を併せて大磯町を編成。昭和29年12月(1954)に町村合併促進法により国府町(旧国府町は平安朝のころ相模国府が置かれていました)と合併し、現大磯町の第一歩を踏み出しました。以来、自然を保護し、天与の景観を守りつつ、 自然と調和した民主的なまちづくりに向けて発展しつつあります。また、平成26年12月(2014)には合併60周年を迎えます。

神奈川県の中央南部(東経13918分、北緯3518分)に位置しています。南は相模湾、北は高麗山や鷹取山をはじめとした大磯地塊の丘陵地帯で、北と東は平塚市、西は二宮町と境を接しています。東西約7.6キロメートル、南北約4.1キロメートルのやや東西に長い形をしており、面積は17.23平方キロメートルで、市街地は国道1号沿いの平坦部に形成されています。まちの65%を丘陵部が占め、気候は海岸沿いに流れる暖流の影響で温暖です。

木=クロマツ、花=サザンカ、鳥=かもめとアオバト 〔大磯町HP〕

「大磯の魅力」

大磯町は、相模湾や高麗山、鷹取山などの豊かな自然が暮らしの場に近接しており、また、長い時間をかけて郷土が培ってきた伝統や文化が大切に受け継がれることによって、自然的、歴史的、文化的に魅力のある町として発展してきました。

明治18年(1885)には、初代・陸軍軍医総監を務めた松本順が、西洋医学における先端医療のひとつとして、「海水浴」を推奨し、照ヶ崎海岸に海水浴場が開設されました。当時の海水浴は潮流で身体に刺激を与え、海辺の清涼な空気を吸うことでした。したがって泳ぐということではなく、岩の所々に差してある鉄棒につかまり、海水につかっているだけで、塩湯治(シオトウジ)ということばが適切でした。(郷土資料館に展示されていますので確認してください。)海水浴場には、浴客の更衣と休憩のため茶屋が設けられました。各茶屋には水泳達者な若者を置き、子供、婦人のお守役としました。これを「黒ん坊」とか「じいや」といい、海水浴客と区分するため赤いふんどしを着けていました。明治末から大正初期にかけては、男女混浴禁止で柵を設けて浴場を区分しました。

また、明治20年(1887)には、大磯駅が開業しました。当初は平塚から国府津までの間に駅は必要ない、という計画でしたが、松本順が当時の初代・内閣総理大臣・伊藤博文に相談し、大磯駅が誕生。その後、明治30年(1897)には、伊藤博文が温暖な大磯の気候が気に入り、居を移しました。大磯駅開業によって海水浴客は増え続け、政財界の重鎮たちの別荘が数多く建築され、保養地としての大磯の名が全国に広まりました。 〔大磯町HP、おおいその歴史〕

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画像:イソタビドットコム(大磯町)より

「大磯の邸園文化」

湘南発祥の地「大磯」は、明治期の避暑地として栄えた別荘文化の佇まいが残る、まさに『湘南の奥座敷』です。初代・内閣総理大臣である伊藤博文をはじめ、歴代総理大臣8人(伊藤博文、大隈重信、加藤高明、西園寺公望、寺内正毅、原敬、山縣有朋、吉田茂)が邸宅を構えるなど、多くの政財界の重鎮がこぞって居を構えました。

吉田茂は、養父・吉田健三が購入した邸宅で幼少期より過ごし、首相在任中には週末を、退任後には隠棲しました。退任後も政治への影響力は絶大で、多くの政治家が吉田のもとに通い、「大磯詣」と称されたほどです。

吉田茂邸は2009年3月に火災で全焼。町が県と本格的に再建事業に乗り出し2015年度の完成を目指しています。総工事費は約6億円とのことです。〔大磯町HP、日経新聞記事〕

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画像:大磯町HPより

「大磯の史跡・文化財」

大磯町には数多くの遺跡があり、発掘調査などによって多くの資料が出土しています。古代には相模国の中心地として国府が置かれ、『曽我物語』で知られる曽我十郎と大磯の遊女虎との伝説を偲ぶ史跡も少なくありません。

東海道の宿場として大いに賑わった江戸時代、海水浴場の開設に伴って東京近郊のリゾートとして各界の要人たちの別荘が建ち並んだ明治時代など、時代ごとに花開いた特徴的な文化の面影が随所に遺されています。

また、国の重要無形民俗文化財に指定されている小正月行事の「左義長」をはじめ、相模国の有力神社が集まる「国府祭」、豊漁を願う「御船祭」、子どもたちによって受け継がれてきた「西小磯の七夕行事」など、四季を通じて行われているさまざまな民俗行事は、人々が守り育んできた文化や暮らしぶりを伝えています。〔大磯町HP〕

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画像:イソタビドットコム(大磯町)より

 

「左義長」と「七所詣り」

大磯の左義長はセエノカミサン(道祖神)の火祭りで、セエトバレエ、ドンドヤキなどとも呼ばれています。由来は、昔この辺りで目一つ小僧と呼ばれる厄神が、村人のおこないを帳面に書いてまわっていたところ、夜が明けてしまい慌てて帳面をセエノカミサンに預け、そのまま帰ってしまい、帳面を預かったセエノカミサンは困り果て、自分の家とともに帳面を燃やしてしまいました。これがセエトバレエ(左義長)の始まりと言われています。

左義長の名は、平安時代の宮中行事。毬杖(ギッチョウ)3本を結ぶことから「三毬杖(さぎちょう)」と呼ばれたものという説があります。大磯では明治時代後期に大磯に居を構えた初代内閣総理大臣伊藤博文の側近によって使われ始めたという伝承があります。昭和53年に「大磯の左義長」として、神奈川県無形民俗文化財に指定されたために、左義長の名称が一般に普及したと思われます。平成9年には、国の重要無形民俗文化財に指定されました。(余談ですが左ギッチョの語源とも・・)

町内によって12月8日に一番息子という行事が行われます。
石に縄をつけ、子供たちが家々を巡り、「○○さんにいいお嫁さんが来ますように、いちばーんむすこ」などと家人に頼まれた願いを唱えながら玄関先で、ごろ石で地面を搗きます。また、この日は目一つ小僧という厄神が来て、村人の1年間の行いを帳面につけて回る日でもあります。

お祭り前の数日間、地元の人たちはセエノカミサンにお参りして歩きます。特に七ヶ所に詣ることを七所詣りといいます。今日では七ヶ所から一つ増えて「七所詣って八所 ( ヤアトコ ) せ」などとはやす事もあります。あげられた賽銭は子供たちの小遣いとなり最年長の子が分配します。また町内によって子供たちが歌い踊りながら家々を訪問して商売繁盛を願うオカリコという行事も行われます。

祭り当日、町内各所のおんべ竹やお仮屋などを片付け、集められたお飾りや縁起物を浜辺に運んで9つの大きな円錐型のサイトが作られ、日が暮れると9つのサイトに火が入れられます。セエノカミサンの宮元や宮世話人が、その年の恵方に火をつけます。この火で団子を焼いて食べると風邪をひかない、燃やした書き初めが高く舞い上がると腕が上がる、松の燃えさしを持ち帰って屋根に載せておくと火災除けのまじないになるともいいます。そして、セエトの火が燃え盛る頃、若い衆が裸になってソリ状の台に載せたセエノカミサンの仮宮を壊して海に引き入れ、さらに浜方と陸(おか)方に分かれて綱を引き合う、ヤンナゴッコという珍しい行事も行われます。 

〔イソタビドットコム(大磯町)ほか〕

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