第2回フィールドワーク 

 


平成22年4月24日(土)

町田駅・絹乃道碑(集合) 【鎌倉街道】⇒@菅原神社・井出の沢古戦場⇒A養運寺⇒B宏善寺⇒C七国山鎌倉井戸・鎌倉街道の碑⇒D七国山ファーマーズセンター(昼食)⇒E民権の森⇒F野津田神社⇒G華厳院⇒H小野路一里塚⇒I小野神社⇒J小野路宿⇒K一本杉公園〜バス〜多摩センター駅(解散) 約10q

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額縁: 概 要
 

 


一筆書きの道という新たなタイトルを冠した『府中への道』の第2回フィールドワークは小田急線町田駅近くの「絹之道碑」から鎌倉街道を北上して多摩市へと向かいます。

鎌倉幕府が置かれた鎌倉には各地から多くの武士が集まりました。そのための道は鎌倉道、鎌倉街道と呼ばれ関東各地にその名を見つけることができます。本町田から野津田を経由して古道の面影が残る小野路へと抜ける鎌倉街道はその先にある府中と鎌倉を結ぶ重要な道でした。幕末まで宿場として栄えていた小野路の宿の家並みがあり、現在も掘割が残っていて当時の賑わいを偲ぶことができます。

4月下旬だというのに朝はやや肌寒く(まさか翌週からいきなり夏の陽気になるとは・・・)、長袖に上着の格好で絹之道碑の前に集合しました。これまで町田を歩いたのは境川沿いが多く、今回のルートはほとんど初めての道となります。担当するのは2班です。


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朝9時半、小田急線の町田駅です。相模原市立博物館民俗調査会の前シリーズ「横浜への道」第8回FWと同じ絹乃道碑前に約30名のメンバーが集合しました。まず町田市役所前を通って針路北で菅原神社へと向かいます。市役所の手前で見つけたのは馬頭観音です。横浜へ向かう物流の拠点でもあった原町田には、荷駄を運ぶ多くの馬が行き交いました。馬を大切する感謝する気持ちから馬頭観音が建立されたのでしょう。

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ほぼまっすぐな道(鶴川街道)を2q弱進むと主要道にでます。ここは原町田ではなく本町田です。江戸時代以前の町田村の中心地だったのが本町田で、それに対して新しい地域が原町田でした。“鎌倉街道”の道路標示を見つけました。

その先が「菅原神社」です。ご祭神はもちろん菅原道真公で、町田三天神(当社・町田天満宮・南大谷天神社)で有名です。神社のホームページには『室町期の永享年間、近郷の大沢氏は天神像をこの井手の沢の山上に奉安いたしました。この天神像は大沢氏の先祖が鎌倉期の元応年間に京都北野天神へ詣でた折に得た像でした。時は下って江戸期初頭の寛永7年(1630)その子孫・大沢玄藩は新たに渡唐の天神像を刻ませてここに奉安いたし、この地を寄進して本町田の鎮守としたのが当社の縁起であります。』

上段右の写真は、神社のご神水で参道左手に湧水池があります。下段右の「井手()の澤」と刻された碑は昭和30年(1955)に建立されたもので、裏面に次のように説明が書かれています。『井手の澤は正安3年(1301)沙弥明空の編した鎌倉時代の歌謡集宴曲に初めてこの名が表われ、次いで建武2年(1355)7月22日足利直義北條時行の軍を防いだ古戦場として有名になった。往古より鎌倉道の要衝であったものと考えられるが、町田町土地薹帳には出の澤とあり清泉滾滾と湧き出て當時旅人の心を湿した所とも想像される。町田町(※町田市となったのは昭和33年)にとっては唯一の國史遺跡なので個の此度町並びに町教育委員會の後援と町有志の賛同とを得て茲に記念碑を建て永久に傳える事とした。』

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恩田川(源流付近です。)を渡って左に曲がると鎌倉古道です。すぐ右手に緑の美しいお寺が見えてきました。旧字名“宿”の「養運寺」は浄土宗のお寺で山号は鶏足山。文永年間(1264-74)の開山と伝わりますが詳らかではないとのことです。ご本尊の阿弥陀三尊像は町田市指定有形文化財で、お寺の過去帳によると永禄10年(1567)に浄土宗となったといい、この三尊像もその頃に製作された推測されています。石段を上る途中に地神塔があり、総門をくぐり上りきると眼下に町田の街が広がります。本堂は文政6年(1823)に建立されたもので、正面に白虎が描かれています。

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200m先にもう一つお寺がありました。旧字名“一色”の「宏善寺」は日蓮宗のお寺で山号は久住山。庭と参道がとても美しいお寺で山門、仁王門とくぐり本堂に達します。日蓮宗東京都南部宗務所ホームページによると暦応元年(1338)の創立で、開山は善立院日海上人。当初真言宗の坊として創立しましたが、宗祖日蓮上人が佐渡流罪の途次休息した文永8年(1271)より日蓮宗に改宗しました。鎌倉時代の戦乱で焼失、暦応元年再建。戦後本堂、客殿、庫裡、山門を建立しました。祖師像は改宗時からの古仏である。またかつて板曼荼羅本尊が祀られていたがいつの時代かに持ち去られ行方不明になったそうです。古くは身延山の末寺なるも時代の変遷により池上本門寺末となる。宝物館を新築し大坐人の一遍唱題の直筆もあります。

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恩田川沿いを進むと町田市青少年施設ひなた村があり、その先が国土交通大臣の「手づくり郷土賞」を受賞した「なかよし散歩道」です。なかよし散歩道は、「治水」と「親水」の2層構造で、下部には大雨に備えた「雨水排除施設」、上部には雨水や湧水を利用した「せせらぎ水路と遊歩道」となっています。今井谷戸の交差点からやや細いに道に入ると古道の雰囲気を味わうことができます。木枠の井戸は町田市指定史跡の通称「鎌倉井戸」です。新田義貞が鎌倉攻めの軍を進める途中、ここに井戸を掘り、この水を軍馬に与えたという伝承があります。隣にあるのは「七国(ななくに)山鎌倉街道の碑」でここから相模・甲斐・伊豆・駿河・信濃・上野・下野が見渡せたとのことです。

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木立の中を抜けると一気に黄色一面の世界に変わりました。「七国山ファーマーズセンター」は菜の花畑の中にあります。ここでお昼の休憩をとりながら次回登板の我班は簡単に下見の打合せをしました。午後はふるさと農具館に寄ったあと町田ダリア園の周囲に沿って細い道に入って行きます。ここはコナラ、クヌギ等を主体とする雑木林が緑地保全地域に指定されていて鬱そうとしています。しばらく歩くと「民権の森」の看板が見えてきました。町田や三多摩の自由民権運動の最高指導者石坂昌孝の屋敷がこの森の近くにあったそうです。北村透谷と石坂の長女美那子と出会ったゆかりの地でもあるということで、民権の森と名付けられたあります。奥に建立されているお墓には石坂昌孝が永眠しています。

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民権の森を抜けたところに「野津田神社」があります。町田市史によると創の年代は詳らかでないものの、元禄13年(1700)の祭礼の時、湯花神事(笹の葉などで湯を周りに振りかける神事)が行われたことが「野津田村年代記」にあって、享保2年(1717)には五社明神と称していたとあります。明治21年(1888)には御霊神社、明治42年(1909)の神社合祀で野津田神社と社名の変更をしました。拝殿は大正15年(1926)改築のものですが、弊殿と覆殿は最近建替えられたようです。拝殿前の1対の灯籠は縁起の良い亀の上に乗っています。“信州高遠石工 伊藤十兵衛”と刻されていますが、江戸時代、高遠では優秀な石工を輩出しており、江戸周辺を中心に石工が出稼ぎにきていました。下段右は「廻国巡礼供養塔」ですが、正面に秩父・西国・板東、側面に月山・湯殿山・羽黒山とありますので、奉納した石坂家の人々は行動範囲が広かったようです。

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鶴見川に架かる橋を渡って左へ曲ったところに高野山真言宗の「幸山華厳院」があります。変わった形の“光明真言供養塔”を見つけました。丸い石の円周に沿って真言が刻まれています。神奈中バスの野津田車庫前を右に折れたところでみんな立ち止まってしまいました。石仏好きの多いメンバーが取り囲んでいるのは「一石六地蔵の庚申塔」です。これはたぶんはじめてみたかもしれません。

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野津田公園には「小野路一里塚内」があります。江戸時代の初期元和3年(1617)3月、駿河国の久能山から徳川家康の遺骨を日光東照宮へ移すため、街道の整備と一里塚が築かれました。相模原市内は新戸、麻溝台、町田に入り木曽、そしてここ小野路とつながります。伝承によると御尊柩を乗せた輿が向坂を下ったときに壊れ、一行が難渋して鍛冶屋を呼んで修理したとのこと。このときの小野路村の労苦に対して、幕府は以後助郷を免除したと案内板にあります。近くに幕末の小野路村絵図が掲げられていて、中央部分をアップで見ると小野路宿が描かれていました。

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小野路宿の入口に鎮座するのが「小野神社」です。町田に多い地神塔がここにもありました。天保14年(1843)に建立されたものです。小野神社の由来によると小野篁の7代の孫小野孝泰が武蔵の国司として天禄年間(970-72)頃赴任し、小野路のこの地に小野篁の霊を祀ったことに由来すると書かれていました。木製の神明鳥居をくぐり石段を上ると社殿があります。目を引いたのが向拝龍と木鼻獅子です。美しい彫りものだと思います。

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昔の面影を残す小野路宿の家並みです。何年か前に訪れたときはもっと趣きがあったのですが・・。自動車が通るので危ないため足早に通り過ぎました。右に折れて上っていくと町田市から多摩市へと入ります。その手前で双体道祖神を見つけました。像容がはっきりしていますね。寛延3年(1750)に建立されたものです。そのまま坂を上っていくと本日のゴールである「一本杉公園」が見えてきます。ここには「旧有山家住宅」と「旧加藤家住宅」が移設されています。写真は旧加藤家住宅で、入母屋造り、茅葺、平入りの農家住宅です。興味深かったのは入り口の柱に貼られた“大口真神”で真神は飛鳥の真神原の老狼が神格化したもの。厄除け、特に火難や盗難から守る力が強いそうです。また、かまどには荒神さまが祀られていました。ご存じ火と竈の神さまとして信仰されていて、かまどに祀られることが多いようです。

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時刻は午後3時半を回りました。約10q歩きましたのでここから多摩センターまで歩く気力がありません。皆さん予定通りここからはバスに乗って帰りました。今日のコースははじめて歩いた部分が多く、さまざまな発見があり楽しかったと思います。

次回(5月22日)は我々3班が当番。予定では多摩センター駅をスタートして関戸合戦の史跡などを訪ねながら聖蹟桜ヶ丘駅まで歩きます。

Kazお散歩日記 府中への道

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