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平成22年5月22日(土)
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多摩センター駅(集合)⇒@旧富澤家住宅⇒A落合白山神社⇒Bパルテノン多摩歴史ミュージアム(昼食)⇒C吉祥院⇒D愛宕神社⇒E稲荷塚古墳・恋路稲荷神社⇒F多摩市役所⇒G霞ノ関南木戸柵跡・熊野神社⇒H観音寺⇒I関戸古戦場跡・延命寺⇒J天守台・琴平社⇒K関戸九頭龍神社⇒聖蹟桜ヶ丘駅(解散) 約9.5q |

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前回、町田市から多摩市へ入りましたね。多摩市の母体となった多摩村は、明治22年4月1日の市町村制の施行と共に、関戸・連光寺・貝取(かいどり)・乞田(こった)・落合・和田・寺方(てらがた)・一ノ宮の8カ村と百草(もぐさ)村・落川村の2つの飛び地が合併して誕生しました。諸説ある「多摩」の語源で最も有力なのは、多摩川の上流の峠で山梨県丹波山地方から起こったという説です。上流の川の名である丹波(たば)川が生まれ、この川の名によって地域である郡名の多摩郡も称号するようになったといわれています。しかし、「多摩村」と称することに決定したかは定かではなく、記録等も残っていないそうです。旧村名などから決めると諸々の問題があるため、多摩川から命名したといわれています。平成の大合併で訳が分からない名の市が多く誕生しましたが、命名にはさまざまな苦労があるようです。その後、昭和39年4月1日に町制施行で多摩町になり、昭和46年11月1日の市制施行により多摩市となりました。(出展:多摩市ホームページ) 国府のあった府中に向かう前半の行程を振り返ると、第1回は無量光寺から当麻山道を北東に進んで境川。第2回は町田の絹乃道碑前から鎌倉街道(上の道)を北上して町田と多摩の境にある一本杉公園へ。そしてニュータウンの様子をバスの車窓から眺めながら多摩センター駅に到達しました。第3回は多摩センター駅がスタート地点です。企画力?の3班としては毎回、お寺の住職や立ち寄った施設の学芸員の方にお話をうかがう機会を設けてきましたが、今回の目玉は「パルテノン多摩歴史ミュージアム」です。企画展コーナーでは幸いなことに「多摩ニュータウンの開発と”石仏の移動”」が開催されています。石仏はニュータウン開発をどのように見つめてきたのか、多摩の石仏の特徴なども担当の学芸員からうかがいました。 今回歩く旧鎌倉街道には1213年に霞ノ関という関所が作られました。現在でも熊野神社の境内に南木戸の柵の跡が残っています。関所の入口近くには宿場ができ、関戸の宿として賑わったそうです。それから関戸いえば「関戸合戦」のことをご存じの方が多いと思います。『太平記』によると元弘3年(1333)5月8日、上野国新田荘の武将・新田義貞は、後醍醐天皇側からの命令を受け、鎌倉幕府を倒すための兵を挙げました。新田軍は上野国から武蔵国に入り、鎌倉街道上道に沿って兵を進めます。対する鎌倉幕府軍は、5月9日に鎌倉を出発します。両軍は、小手指原(入間市)、久米河(東村山市)にて衝突し、5月15日には武蔵国府のある府中に至ります。15・16日の2日間にわたって分倍河原(府中市)では激しい戦が繰り広げられました。多摩川を越えた関戸付近では敗走する幕府軍を追って、激しい掃討戦(関戸合戦)がおこなわれました。新田軍は17日まで関戸に留まり、その後、一気に鎌倉に向かいます。18日には鎌倉で戦端を開き、22日には北条氏一族が東勝寺にて自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。(出展:関戸合戦(パルテノン多摩歴史ミュージアム特別展)) 午前中はゆっくり、歩くのは午後に集中という設定です。簡単に素通りするのではなく、関戸合戦の伝承や東京都指定の史跡なども訪ね、楽しみながら多摩市を満喫しました。 |
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いつもより早い朝9時10分に多摩センター駅に集合した30名のメンバーはパルテノン方向へ歩きだします。まず訪れたのは多摩中央公園内にある「旧富澤家住宅」です。富澤家の家譜によれば、先祖は今川氏の家臣で、永禄3年(1560)今川義元が桶狭間の戦で亡ぼされた後、逃れてこの地に土着したとのこと。その後、子孫が代々連光寺村の名主を世襲しました。母屋は文化9年(1812)の屋根葺き替えの記録から、それ以前のもの。入母屋造りの母屋の間取りは客座敷と日常生活とを完全に分離させた広間型多間取(たまどり)です。オクノマは明治天皇行幸の際、「御小休所(ごしょうきゅうしょ)」として使用されたとあります。 |
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公園の東側にある「落合白山神社」です。案内板によると神社の創建年代は詳かではありませんが、ご神体の木造の神像七躯(ななく)は、遠く平安時代(1180)に遡る作と評されています。江戸時代の初期、元和4年(1618)霜月十日と記録された棟札には落合村を支配していた八王子代官小宮山八兵衛助為が大旦那となって東福寺別当僧圓龍に村人が助力して加賀・白山大権現の神霊を勧請した次第が明らかにされています。 木造の両部鳥居の先に本殿・拝殿が一体構造となった権現造りの社殿と背景の高層ビルが調和していて、美しい空間が演出されていますね。神社所蔵の三匹獅子舞用具は多摩市の有形民俗文化財に指定されています。 「土公神(どこうじん)」と刻された石仏は、安政5年(1858)に造立されたもので、地神や地霊の性格が強い石仏です。 |
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「パルテノン多摩の歴史ミュージアム」では『開発を見つめた石仏たち』という企画展を見学しました。また、歴史ミュージアムの学芸員の方に別室で多摩の石仏について説明していただきました。路傍にたたずむ石仏は開発が進む中で余儀なく移動させられたもの。また、開発後もその場に残ったものがあります。生き続ける民俗・歴史資料としてこれからも残ってもらいたいですね。 多摩の石仏と関戸の情報をしっかり仕入れて歩きの本番、午後の部がスタートします。 |
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12時20分にパルテノン多摩を出発。サンリオの脇を通り最初にやってきたのが「吉祥院(きちじょういん)」です。真言宗智山派のお寺で創建は古く鎌倉時代初めとのこと。正平7年(1352)新田義貞の鎌倉攻めのとき、次男の義興が吉祥院に桜を奉納したそうで、東京都の天然記念物に指定されました。当時の桜は現存しませんが、桜の季節は後継の桜が見事に境内を飾ります。 さっそく歴史ミュージアムで仕入れた情報をもとに石仏観察です。参道右手に並んでいる11基の石仏の中央にあるのが徳本念仏供養塔で文政7年(1824)のもの。南無阿弥陀仏の書体と、徳本名号の自署の下に丸に十字の花押は独特です。(旧相模原市域では13基が市の登録文化財に指定されています。)一番右の地蔵菩薩は道しるべとして八王子市松木にあったものがニュータウン開発でここに移転したそうです。 山門左手の六地蔵(2組)は唐木田の個人墓地にありましたが、これもニュータウン開発で屋敷墓を置くことができなくなりここに移ってきました。首なしということでなかなか移転先が決まらなかったということです。 境内左手奥には貞享4年(1687)の地蔵の浮彫像と寛政8年(1796)の立派な宝篋印塔もあります。 |
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日差しを避けながら乞田川沿いの桜並木を歩き、ふれあい広場から愛宕方面に坂を上って行きます。「愛宕神社」のご祭神は迦具土之命(カグツチノミコト)で、天文年間(1532-54)頃から存在すると言われていますが、多摩ニュータウンの開発に伴い、和田にあった愛宕山から昭和45年(1970)に現在地に遷されました。昔から今日に至るまで7月24日(現在は近い日曜日)の本祭りの前夜に夏の悪疫祓いのお焚きあげの神事が行われています。戦前に一度祭りを見送ったところ村内に伝染病が蔓延したため、以後は欠かさず行われていて多摩市内でも特徴的な祭礼とのことです。新編武蔵国風土記稿には多摩地域において愛宕社など愛宕を冠したものが53例確認できるそうです。西多摩に分布が集中していて、これは山地が多くを占め、焼畑や炭焼きを生業(なりわい)にして生活をしていました。火から恩恵を受けている仕事であり、一方で火は火事を起こすという恐ろしい面があることから、火に対する恩恵と畏怖の気持ちがこの地域に愛宕信仰を広めた要因であると考えられています。 |
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都営和田団地を抜けて百草に入ると辻に石仏が並んでいました。左から明和6年(1769)の庚申塔・庚申塔・文政10年(1827)の光明真言供養塔・念仏供養塔・地蔵の5基です。角の立派なお屋敷の先に「稲荷塚古墳」があります。7世紀前半に造られた古墳で、7世紀の古墳としては都内最大級です。特徴は、全国でも十数例しか確認されていない数少ない八角形の古墳であること。八角形墳は7世紀中頃以降の天皇陵に採用された古墳の形態と考えられていましたが、近年、群馬県や山梨県等の東日本でも、畿内より古い、7世紀前半頃の八角形墳が確認されています。墳墓の上に建つのは「恋路稲荷神社」です。江戸時代、稲荷塚古墳の東側に資福院という寺院があり、明治初年に神仏分離令などの廃仏毀釈によって神社が建てられたそうです。屋根の棟の部分には使いの狐が4体飾られています。 |
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乞田の交差点から旧鎌倉街道に入りました。この建物が人口14万8千人を支える多摩市役所です。「古市場」の標示には、この付近は小田原北条氏時代に、関戸郷の中心として市が開かれていたとあります。市は3と9のつく日行われる六斎市でした。ここからが関戸合戦の史跡探訪となります。 市役所の裏手、急坂のため馬の沓がよく切れたそうで、新田軍がこの坂を上るときも切れたため「沓切坂」と呼ばれるようになったとか。坂の途中には年代不詳の三猿と青面金剛の庚申塔が立てられています。像容がしっかりした美しい庚申塔ですね。 |
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まず「霞ノ関南木戸柵跡」です。鎌倉時代の建暦3年(1213)に鎌倉街道に設けられた関の柵跡とされています。現在の関戸の地名は、関の戸から付けられたもので、関は「霞ノ関」と称されていました。南北朝の終りごろには軍事柵としての役割を終え、鶴岡八幡宮や後北条氏の関所(関銭徴収)を経て天正18年(1590)の豊臣秀吉による北条氏滅亡により廃止されたと考えられます。 昭和30年代に熊野神社参道際の土居を発掘したところ、丸柱の痕跡が45p間隔で16カ所が確認され、現道を挟んだ乞田川方向の延長上からも発見されました。この柱列は、この熊野神社が字「霞ノ関」のはずれにあたることや地形的位置関係から霞ノ関の南側の木戸柵と考えられます。北側の柵列は、現在は暗渠になっている関戸川に沿った現観音寺の南側に設けられたと考えられています。〔東京都教育庁資料〕 同じ場所に「熊野神社」は旧関戸村の鎮守でご祭神は泉事解男命(ミヅコトワケオノミコト)、意富加牟都美命(オオカムヅミノミコト)、速玉之男命(ハヤタマノオノミコト)。熊野神社の本殿の創建年代は、残された棟札により判明します。熊野神社には天明6年(1786)、元治元年(1864)、明治25年(1892)の棟札と天明6年の寄付者の名を記した木札が残されています。天明6年の棟札には「御宮建立願主 名主 相澤源左衛門休郭」の名があり、相沢五流が願主であったことがわかります。また、この木札には50名近くもの寄付者の名前があり、天明の飢饉の最中であることから、これが本殿造営の契機になった可能性も考えられています。 ここでも興味深い民俗資料と石仏の発見がありました。参道入口右手にある地蔵菩薩の台座の上に「木製の手形と足形」が置かれています。学芸員の方から氏子さんに聞いていただきました。氏子さんの話では10年くらい前に覆殿を修復した際、屋根裏?から出てきたものだそうで、氏子さんにも由来はわからないとのこと。形状から、足が悪い人がそれをなでたりするようになっているとのことでした。中央の庚申塔は寛保3年(1743)のもので三猿がとてもかわいい表情をしています。右の庚申塔は寛政8年(1798) のもので篆書体で三猿が文字『参匹狷』と彫られています。このタイプははじめてみました。感激です。 |
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「観音寺」です。多摩市で唯一の真言宗豊山派のお寺で、創建は、建久3年(1192)後鳥羽天皇の御代、唐僧が聖観世音菩薩を草庵に安置したのがはじまりとのこと。『関戸の観音さま』と呼ばれ地元の方に親しまれています。観音寺では毎月16日に関戸地区に住む人々が集まって、観音経の読誦(どくじゅ)が行われています。発端は昭和30年代、関戸で働き盛りの男性が相次いで亡くなることがあり、関戸合戦の供養が足りなかったのではないかということではじまったそうです。 本堂裏手に江戸末期の著名な画家相沢五流親子のお墓があります。20基ほどの墓石はちょうど修復を終え並べられたばかり。担当した石屋さん、そして若いご住職に墓前で説明をしていただきました。前列右から了栄・五流・伴主さんのお墓だそうです。 ここでサプライズがありました。年に一度の「施餓鬼会」の法要にあわせて熊野曼荼羅絵解きを行うということで、和歌山県熊野から届いたばかりの「熊野観心十界曼荼羅」の立派な掛軸を見せていただきました。感謝感激です。なお、5月30日に我班の女性陣が熊野曼陀羅の絵解きに参加し、長野県から小林玲子さんという絵解きの専門家が来て下さり、その語り調子は、地獄の恐ろしさや、人の心の哀しみを良く表現されていたということでした。 お寺の前の道を挟んだところに珍しい「六観音」があります。天明元年(1781)に相澤了栄さんが造立されたものです。 |
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旧鎌倉街道沿いを進んで行くと「関戸古戦場跡」の標示がありました。お地蔵さんの裏手に太平記で討死が伝えられている横溝八郎の墓とされる古塚があります。そして細い路地の先が「延命寺」です。もともと無本寺(本山のないお寺)で延命地蔵が祀られていましたが、元禄15年(1702)に腑国上人(1650-1721)が退隠の地としてこの寺を選び、延命寺と呼ばれるようになりました。この時に時宗となりました。府中への道のスタート地点は時宗の“当麻道場”無量光寺でした。当面目指すのは府中にあるの“国府道場”長福寺です。延命寺も同じ時宗のお寺ですので導かれたような気がします。 時刻はここで16時近くとなりましたが、もうひと踏ん張りして新田義貞が陣を据えた天守台へと向かいます。午後だけでかなり歩きましたので最後の上りはきついものがあります。でも上からの眺めは格別ですよ。 |
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天守台の近くにある「琴平社」です。文政の中頃、関戸の紺屋、井上林蔵という者が四国の本宮より御神体を持ち帰り、この地に宮社を建立したと多摩町誌にあります。ここはちょっとした名所で、映画「耳をすませば」の主人公の雫が告白を受けた神社のモデルだそうです。GWの下見の時には多くの若い女性やカップルが訪れていました。映画に描かれている街並みなどは聖蹟桜ヶ丘駅周辺をモチーフとしています。 いろは坂を下り、駅はもう目の前ですが最後に「九頭龍神社」に寄りました。九頭龍伝承・伝説は、神社が建立されることとなった事跡や奇瑞事象として日本各地に残っています。この神社にも中世のある大洪水の折に、川上から九つの頭を持つ龍のようなものが流れ着き、それをご神体として祀ったのがはじまりと伝えられています。洪水に悩まされる土地柄ですが、この境内だけは水没を免れたそうで、それ以来、大水を鎮める神さまとして信仰されています。 最後の写真は久しぶりのマンホールシリーズです。多摩川と遡上してくる鮭がデザインされています。 |
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時刻は午後4時半を回りました。午後だけでアップダウンのある道を7q近く歩いたので疲れましたね。それから当番班としての責任とプレッシャーがありましたので・・・。駅近くの養老の瀧で慰労を兼ねて打上げをしました。頑張ったあとのビールは本当においしいですね。 次回(6月26日)は4班が当番。聖蹟桜ヶ丘駅から府中に入ります。 |
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Kazのお散歩日記♪ 府中への道 |
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主な資料の出典 |
「関戸合戦」パルテノン多摩歴史ミュージアム 「火祭り愛宕神社」パルテノン多摩歴史ミュージアム 「多摩市史〜民俗編」多摩市 |
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