第6回フィールドワーク 

 


平成22年10月23日(土)

北八王子駅(集合)⇒@高倉稲荷社⇒A日枝神社⇒B永福稲荷神社⇒C妙薬寺⇒D大義寺⇒E八幡八雲神社⇒八王子駅周辺(昼食)⇒F福傳寺・子安神社⇒G市守神社⇒H極楽寺⇒I禅東院⇒J産千代稲荷神社⇒K追分道標⇒L興岳寺⇒M多賀神社⇒N宗格院⇒西八王子駅(解散) 約11q

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前回は日野がゴールでしたが、日野から八王子間は工場が多く見どころも少ないということで、北八王子駅からのスタートとなりました。甲州街道沿いを歩き八王子の宿場町を今月と来月にかけて巡ります。今回はJR中央線・八高線の北側で、2班が担当します。

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八王子宿は八王子15宿、八王子横山15宿とも呼ばれ、横山宿・八日市宿が本宿でした。この八王子の町づくりは、徳川家康の関東入国に伴って八王子に入った大久保長安が行いました。小仏峠に近い場所に千人同心屋敷を置き軍事上の拠点とし、甲州街道の東西の入口は鍵型として防備を固めました。(出典:街道を歩く「甲州街道」)


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八王子駅から八高線に乗ってひと駅、北八王子駅で下車しました。八高線に乗ったのは本当に久しぶりです。朝9時30分に駅前をスタートし、日野方向へ戻るように進むと立派な火の見櫓が見えてきました。「高倉稲荷神社」は由緒によると享保3年(1718)の創立で、天保3年(1832)に再建して朝日稲荷神社と称した時代もあったそうです。鳥居は東京オリンピックが開催された昭和39年建立、おそらく日本中が熱狂した記念すべき年でありそういう機運があったのかも知れませんね。下段中央の写真は自然石に「大山阿夫利神社」と刻まれています。どういう関係でここにあるのかはわかりませんが、阿夫利神社に改称されたのは明治の神仏分離令以降ですので、建立されたのは明治時代だと思います。

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甲州街道沿いを西へ約1.5qほど歩くと右手に鳥居と社叢林が見えてきました。赤い手すりのついた長く急な石段を上っていくと「日枝神社」の境内にでます。宮司さんのお話によるとご祭神は大山咋神。創建年代は詳らかではありませんが、徳川三代将軍家光公の時代に大和田村の産土神としての御朱印を賜ったと伝えられています。また、司馬遼太郎の名作『燃えよ剣』には、ここで新撰組の土方や沖田が血気盛んに大暴れしたということが描かれているそうです。

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日枝神社近くの東光寺にも寄る予定でしたが、ちょうど法事の最中ということで遠慮しました。お寺の辻のところに3基の石仏が並んでいて、右から「高幡山不動」「三猿と青面金剛の庚申塔」「三界万霊塔」です。庚申塔は享保5年(1720)に建立されたもので側面には青面金剛の文字も刻まれていてパターンとしては珍しいものです。

脇に逸れて旧道を進むと道標2本と石仏6基が並んでいました。道標は摩耗が激しく読み取り困難で石仏も馬頭観音と地蔵が1基ずつでその他は判別できませんでした。その先に「富士見橋」という橋があります。橋の欄干から察するにかなり古い橋のようです。昔はここからきれいに富士山が見えたのですね。

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浅川に架かろ「大和田橋」を渡ると旧八王子宿に入ります。手前の赤い鉄橋は水道橋で向こう側が大和田橋です。この橋には昭和20年8月の空襲の痕跡を長く後世に伝えるため、焼夷弾の弾痕が保存されています。

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浅川の向こう岸に見える建物は八王子ホテルニューグランドです。向かって右の古い建物は19世紀建造の英国・バロフォードのチャペルを移築したものだそうです。堤防の道を左に下ってしばらくすると石碑があります。この石碑は「新町竹の鼻の一里塚跡」で、甲州道中八王子宿の東の入口に位置し、ここが江戸から十二里となります。明治30年(1897)の八王子大火で焼かれるまでは、大榎が涼しい木陰を作り、往時をしのばせていたようですが、現在は付近で鍵の手に曲がる道筋が昔の面影をわずかに残していますと案内板にありました。

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八王子市HPより

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一里塚の隣は「永福稲荷神社」といいます。八王子新町の鎮守で古くはこの辺り一帯は竹の鼻と呼ばれていたことから、竹の鼻稲荷ともいわれていました。宝暦6年(1756)に力士の八光山権五郎が再建し落成と同日に相撲を奉納したとあります。手水舎の屋根が土俵の屋根のようになっているもの納得ですね。毎年9月の第1土曜日に行われる「しょうがまつり」は八王子八十八景のひとつで、しょうがを売る露店が並びます。なぜ「しょうが」なのでしょうか。健康に良いということなのでしょう。

ここには石仏2基と芭蕉の句碑があります。「三猿と青面金剛の庚申塔」の側面には蓮の花のレリーフがありました。先ほどの東光寺前の庚申塔や先月行った国立の南養寺の庚申塔も同じタイプでした。この周辺の特徴かも知れませんね。下段中央の写真は享保8年(1723)に建立された「梵字の庚申塔」で、大変珍しいものだそうです。一番上に刻された梵字がウン(青面金剛)だと思います。そして右の「芭蕉句碑」は八王子横山宿の榎本家に生まれた女流俳人、松原庵星布(あんせいふ)が建てたもので「蝶の飛ばかり野中の日かげかな」とあります。しかし、庵星布が寛政11年(1799)に建てた碑は明治30年の八王子大火で失われ、昭和24年(1949)に再建されたものだそうです。

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八王子駅からまっすぐ北に伸びる桑並木通りを横切り元横山町の「妙薬寺」にやってきました。真言宗系のお寺で山号は医王山聖天院。開創は文和4年(1355)で徳川将軍家から御朱印を拝領していたとのこと。入口の葵の御紋も頷けますね。色彩の美しい本堂で、向拝龍、獅子木鼻もグットです。境内には永禄3年(1560)に建立された宝篋印塔があります。これは「横山党」の供養塔とのことです。

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八王子警察署の裏手にある「大義寺」です。真言宗智山派のお寺で山号は龍華山、創建当初は大元寺と称したそうですが足利義稙と関係があったことから大義寺に改称したと伝えられています。墓地には東京都旧跡に指定されている「松原庵星布の墓」があります。地蔵立像の隣は「焼死者合葬之墓」で、明治30年(1897)4月22日の八王子大火の犠牲者の供養碑です。

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「八幡八雲神社」は神社のHPによると八幡神社の創立は延長2年(924)で、国司の武蔵盛隆泰が石清水八幡宮をまつり、国土安全を祈願したのが起源とのこと。その後、隆泰の子である小野義孝が父の遺志を継いで八幡宮を再建しました。ここに永住することとなり小野氏を横山氏と改め、開拓を進めて横山村をつくったということです。一方、八雲神社は延喜16年(916)に大伴妙行が、深沢山(元八王子城山の古い名称)の頂上に奉斎し、天正年間、北条氏照が城を築いてから氏神として崇敬しました。そして天正18年(1590)6月に落城した時、城兵はご神体を奉戴し、川口村黒沢の地に密かに逃れ、北条残党の氏神として崇敬してきたということです。また、この地は「横山党根拠地」として東京都旧跡に指定されています。横山党は平安時代から鎌倉時代にかけての武蔵国の武士団で、中心的存在である横山氏は孝泰・義孝の時代に多摩丘陵の北、多摩川南流域の小野牧の一部を開墾して定住し、それを経済基盤として発展しました。横山氏は「和田義盛の乱」に加担したことから衰退しましたが、その後横山庄を支配した大江広元が横山義孝の御霊を鎮めるため建立したのが「横山神社」です。

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昼食をとるため八王子駅に向かう途中、「米荘別館」という昭和の面影をそのまま残す旅館の前を通りました。イベントで賑わう商店街を抜けると八王子駅前です。仲むつまじい現代版の道祖神です。道祖神は今でも建立されている石仏です。

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時間の都合で「福傳寺」は素通りとなりました。真言宗智山派のお寺で山院号は「安榮山明王院」。開山時期は詳らかではありませんが、天文年間(1532-54)以前とのことです。

お隣が「子安神社」です。七五三の参拝で賑わっていました。主祭神は木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)で、奈良時代の天平宝字3年(759)橘右京少輔なる者が皇后御安産祈願のために創建されたと伝えられています。安産祈願の「底抜け柄杓」と安産御礼の「底あり柄杓」が並んでいますね。古来より、底抜け柄杓で水を汲むとすぐに漏れることにより安産祈願の人は底抜け柄杓を納めるとあります。一方、安産だった人はお七夜までに命名し、元の身体に戻ることを願い新柄杓を納めたが、今日では初宮参りの時に納められているそうです。安産祈願にはこのように柄杓以外にも底抜けの巾着を用いるところもあります。

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「市守神社」にやってきました。八王子市の指定史跡で案内板によると天正18年(1590)の八王子城落城後、八王子の町は現在地に移され、横山宿では4の日、八日市宿では8の日に市が開かれ賑わいました。そこで市の取引の平穏無事を守り、人々に幸せを与える守護神として「倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)」を祀り創建され、横山市守字稲荷と呼ばれました。現在でも毎年2月の初午の日には「市守祭」と呼ばれる例祭が行われています。また、江戸時代中期になって「天日鷲命(アメノヒワシノミコト)」を合祀したことから、毎年11月の酉の日には商売繁盛を祈願する「酉の市」で賑わうそうです。次の極楽寺に向かう途中で最近では珍しくなった銭湯(福の湯)を見かけました。

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浅川に向かって北に進むと「極楽寺」があります。浄土宗のお寺で山院号は「寶樹山正受院」といいます。永正元年(1504)鎮誉即也上人により滝山に開創されましたが、北条氏照が城を元八王子に移した際、当寺も城下の梶原谷に移りましたが天正18年(1590)の落城の際に焼かれたしまいました。翌年代官大久保長安の助力もあって八王子の町作りに先がけて現在の地に再建され、将軍家からご朱印10石を賜りました。現在の本堂は享保13年(1728)の重建で、その後の戦災からも難を逃れ、山門・本堂・鐘楼等が整った古刹です。下段左の写真は「長田作左衛門供養塔」です。北条氏の元家臣で大久保長安の指揮下で八王子宿の町割りを担当しました。そして下段中央の写真は「塩野適斎墓」です。塩野適斎は千人同心の一人で、享和年間に蝦夷地の経営にあたり、後に、幕府の命で原胤敦らと「新編武蔵国風土記稿」の編纂にあたりました。

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甲州街道沿いに戻るため南に進むととうがらし地蔵縁日の赤い幟が見えてきました。「禅東院」は山号を神龍山といい、応永7年(1400)真言宗の海厳和尚の開創といわれ、その後の慶長年間(1596-1614)に曹洞宗となりましたが、現在は禅宗系単立寺院です。「とうがらし地蔵」の縁起には、寛文11年(1671)8月24日建立。当時「本宿」は藪の内とよばれ、周辺の農家で唐辛子が多く作られいたそうです。江戸時代、飢饉の際、内藤新宿の「八つ房」という問屋に卸し、この地の人々が大変助かったという記録が残っています。人々はここで育ったとうがらしをお地蔵様にかけ、いつしか親しみを込めて唐辛子地蔵と呼ぶようになったそうです。そこで私も参拝記念にとうがらしを購入しました。とうがらし地蔵は調べてみると都内にもいくつかあるようです。相模原市には緑区(津久井町)三井にある峰の薬師にありました。

甲州街道(国道20号)に出ると歩道に「甲州道中八日市宿跡」の石碑が立っていました。この辺が中心地だったのでしょう。

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街道筋には趣きのある建物と多く巡り会えます。中央の石蔵造りの建物は加島屋さんという荒物(雑貨)屋さん。もちろん現役のお店で、明治20年(1888)に建築されたとのことです。

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中央線の線路近くまできました。「産千代(ウブチヨ)稲荷神社」です。慶長年間に大久保長安の陣屋内土手に鬼門除けの守護神として稲荷社が創立されたそうです。入口鳥居脇には陣屋跡の案内板と石碑が建てられています。注連縄に特徴があり、中央部が極端に太くなっています。

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甲州街道、追分町の歩道橋下に「追分道標」があります。案内板によると文化8年(1811)江戸の足袋職人が高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に江戸から高尾山までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の三カ所に建てた道標の一つということです。昭和20年の八王子空襲で4つに折れて一部が行方不明になってしまいましたが平成15年に復元されたとのことです。

「八王子千人同心屋敷跡の碑」も同じ場所にあり、ここから地名も千人町に変わります。千人同心の成立、組織と公務、蝦夷地開拓のことなど詳細な説明書きがあります。

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萌え看板で名高い了法寺の前を通り、千人町の「興岳寺」にきました。曹洞宗のお寺で創建は文禄元年(1592)で開基は千人同心の石坂弥次右衛門(義礼)とのこと。右の写真は八王子市史跡に指定されている義礼のお墓です。慶應4年(1868)3月、日光勤番に赴いていた義礼は日光に迫ってきた新政府軍に謀り、交戦せずに日光を明け渡しましたが、本人は責任を負って自刃しました。その後、日光東照宮をはじめとする世界遺産の日光を命と引き換えに守った功績が称えられ、香炉には「日光市」という銘が刻まれています。

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「多賀神社」は由緒書きによると天慶元年(938)源経基が滋賀県の多賀大社から分祀し勧請したと伝えられ、全国の多賀神社としては関東最大の規模を誇っています。

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最後に寄ったのが「宗格院」です。曹洞宗のお寺で山号は良价山。武田家臣の山本土佐忠玄の子价州良天が文禄2年(1593)に開創しました。本堂の裏手にある石積みは大久保長安が浅川の治水のために築いた「石見土手」の一部が残っています。

天気に恵まれた良い一日でした。いよいよ次回は私たちが当番!頑張らなければ。

Kazお散歩日記 府中への道

主な資料の出典

八王子の歴史と文化(八王子市郷土資料館)、東京都の歴史散歩(山川出版)、八王子市文化財ガイドブック(八王子市教育委員会)、八王子市史(八王子市)

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