![]()
平成22年11月27日(土)
|
北八王子駅(集合)⇒@長安寺⇒A真覚寺・高宰神社⇒B広園寺⇒C信松院⇒D八王子市郷土資料館(昼食)⇒E金剛院⇒F念仏院⇒G法蓮寺⇒H本立寺⇒I観音寺⇒J富士森公園・浅間神社⇒K直入院⇒L萬福寺⇒片倉駅(解散) 約9q |

![]()
|
「一筆書きの道」は府中から甲州街道を西へ進み、前回から『桑都 八王子』に入りました。八王子市は多摩地域内で最も早い大正6年9月1日に市制を施行し、その後昭和16年〜39年にかけて周辺町村と合併して現在の市域となりました。また、古くから養蚕と織物が盛んだった八王子は桑都と美称されてきました。八王子市のホームページによると「八王子」という地名は全国に分布していて、牛頭天王と8人の王子(八王子)を祀る信仰の広がりの中で、八王子神社や八王子権現社が建立され、地域の信仰を集め始めるとともに、地名として定着していったようです。元八王子の八王子神社を中心とした地域が、いつ頃から「八王子」と呼ばれるようになったかは詳らかではないということですが、永禄12年(1569)5月8日付の北条氏康の書状が記録としては今のところ最初のものだとのことです。 今回のフィールドワークの特徴はお寺が多いということです。通過するお寺も含めると15カ寺となります。前回も気になりましたが八王子は本当にお寺が多いですね。八王子市仏教協会に加盟しているお寺は127カ寺もあるそうです。なぜ、こんなにお寺が多いのでしょうか。養蚕と織物によって早い時期から経済的に裕福であり、ヒト・モノ・カネが集まっていたからなのでしょう。それでは狭い範囲に集中しているのはなぜでしょうか。八王子宿は、甲州街道沿いにある横山宿・八日市宿など十五の宿場町の総称で、別名横山宿ともいわれました。八王子宿の建設を進めた大久保長安は、中心地に陣屋を置き、小仏峠に最も近接するところに千人同心屋敷を置いて軍事上の拠点にしました。そして南北の道路の出入口付近には寺町をはじめ多くの寺院を配置して、戦時に兵力を駐屯できるようにしたとのことです。そんな背景があったのですね。 国府のあった府中から八王子までの後半の行程を振り返ってみると、2回目の番外編では真夏の厳しい日差しの中、高幡不動尊と新撰組ゆかりの地を巡りました。第5回は国立市の谷保駅から甲州街道沿いを日本橋から10里のところに位置する日野宿へと歩き、現存する立派な本陣、社寺や石仏など見どころも多い楽しいコースでした。そして前月の第6回からは八王子に入り、中央線・八高線を挟んで北側、北八王子駅から西八王子駅まで歩いて、民俗的に興味深い子安神社やとうがらし地蔵、千人同心所縁の地を訪ねました。 第7回は中央線を挟んで八王子中心地の南側を歩き片倉へ向かいます。八王子市郷土資料館では「江戸時代に描かれた多摩の風景」という企画展を見学しボランティアの方からお話しをうかがうことができました。今回はお寺巡りのようなフィールドワークになってしまいましたが、見頃となった紅葉を楽しみながら八王子の歴史・民俗を堪能できたと思います。担当は我々3班です。 |
|
|
|
|
||
|
|
|
|
||
|
今日も天気に恵まれました(^u^)。朝9時10分、西八王子駅に集合し甲州街道のイチョウ並木を眺めながら西へ進みます。 「長安寺(ちょうあんじ)」は曹洞宗のお寺で山号は祥雲山、武相卯歳観世音菩薩霊場21番札所(聖観世音菩薩)です。創建年代は詳らかでありませんが、開山の陽山嶺暾(トン)和尚は正保2年(1645)3月示寂とあり、それ以前ということになります。 境内入口から本堂に向かう参道には、昭和のはじめ八王子市内を走っていた武蔵中央電気鉄道の敷石が使われています。武中電車の愛称で親しまれたが、昭和14年(1939)に廃止されました。よく見ると敷石には車輪で擦れた痕が残っています。 参道左手にある石仏は「徳本念仏塔」で、文化12年(1815)建立とあります。徳本上人は、宝暦8(1758)年に紀州に生まれ、江戸時代後期に伊豆や関東の各地に念仏を広めた僧です。徳本上人が近隣を訪れた際に、各村々の念仏講中がその特徴ある書体で書かれた六字名号を求め、それをもとに念仏塔が建立されました。南無阿弥陀仏の書体と、徳本名号の自署の下に丸に十字の花押が独特です。また、青面金剛の庚申塔は寛政7年(1630)の建立ですので石仏としてはとても古い時期のものです。この2基の石仏は相模原市ならたぶん文化財に指定されているでしょう。 |
||||
|
|
|
|
||
|
|
|
|
||
|
並木町の信号を左に曲がり散田町に入ります。新編武蔵国風土記稿に散田は、“山間にありて田地も所々に飛び散りたればこの名を得たり”とありますが本当でしょうか。万葉けやき通りから小高い丘を上ると大室神社の鳥居と小祠があり、その先に「真覚寺(しんかくじ)」があります。真言宗智山派のお寺で山号は常光山(じょうこうさん)、応永18年(1411)相模国津久井城主長山修理亮忠好公が開基となり、京都醍醐報恩院の大僧正隆源和上を中興開山として観音堂を創建しました。 現在の本堂は嘉永年間(1848-53)に建立されたものだそうです。天保年間(1830-43)に再建された鐘楼憧にある梵鐘は、鋳物師加藤重吉の万治3年(1660)の作で、千人同心志村又左衛門らの庚申講中によって奉納されました。また、境内に並ぶ石仏のうち中央は明治13年(1880)に建立された「馬頭尊」です。草書体で彫られているので馬の字が分かりにくいですね。 境内の池には多数のヒキガエルが産卵に訪れ、江戸時代から蛙(かわず)合戦として親しまれましたが、周囲の開発によりほとんどいなくなってしまいました。 |
||||
|
|
|
|
||
|
|
|
|
||
|
同じ敷地内にイチョウのご神木が美しい「高宰神社(たかさいじんじゃ)」があります。これから向かう山田の広園寺境内にあり、小蔵主(おくらぬし)明神と称したそうですが、慶安年間(1648-52)に真覚寺境内に移り、高宰神社となりました。現在の社殿は弘化4年(1847)に再建されたものと伝わっていて、本殿も彫刻が施されなかなか立派なものです。 下段の何ともユニークなお顔の石仏は「田の神」です。稲作の豊凶を見守り、あるいは、稲作の豊穣をもたらすと信じられてきた神さまで鹿児島県や宮崎県の南部に多いそうです。 南側の「万葉公園」を抜けてめじろ台の住宅地にでます。昭和30年(1955)に南多摩郡横山村が 八王子市に編入される際にその記念として建てた万葉集の歌碑「赤駒を山野に放(はか)し 捕りかにて 多摩の横山かしゆかやらむ」がその名の由来です。 |
||||
|
|
|
|
||
|
新編武蔵国風土記稿より |
|
|||
|
|
||||
|
|
|
|
||
|
|
|
|
||
|
山田小学校の裏手をまわり西笑院の前を通過。本日のメインともいえる名刹「広園寺(こうおんじ)」にやってきました。臨済宗南禅寺派のお寺で、山号は兜率山(とそつさん)、ご本尊は弥勒菩薩です。山号の兜率には弥勒菩薩が住するという意味があります。康応元年(1389)に峻翁令山(しゅんおうれいざん)和尚を開山として創建されました。元禄10年(1697)の大火で山門を除き焼失してしまいましたが、江戸時代中期以後に再建されました。総門・山門・仏殿が南北一直線に並び、その奥に本堂・庫裏・開山堂が東西に配置されるのは代表的な臨済宗寺院の様式とのこと。新編武蔵国風土記稿にも挿絵として広園寺が描かれています。庭園も含めた境内の一帯は、東京都指定史跡となっていて、本堂からの庭園の眺めは必見です。 イチョウの絨毯の上に建つ入母屋屋根の山門は古刹に相応しい堂々としたもので、その奥に仏殿があります。普段は中に入れませんが、ちょうど下見の日が都文化財ウィークであったことから見学することができました。(本堂、開山堂の写真も同様) |
||||
|
|
|
|
||
|
|
東京都文化財ウィークガイドより |
|
||
|
広園寺の感動醒めぬまま時間の都合もあり次に向かいます。途中、広園寺の旧境内地にあり49の塔頭寺院であった同證院、永明院(ようめいいん)を通過し、富士森公園の西側を北上して紅葉の美しい「信松院(しんしょういん)」にやってきました。 曹洞宗のお寺で山号は金龍山(きんりゅうさん)、武田信玄の四女(六女)、松姫開基のお寺です。松姫は永禄4年(1561)生まれ。7歳で織田信長の嫡男で当時11歳の信忠と婚約しましたが、元亀3年(1572)信玄が上洛を開始して徳川家康と三方ヶ原で開戦した際に、信長が家康に援軍を送ったことから信玄が婚約を破棄しました。その後、天正10年(1582)武田氏滅亡の際、松姫は姪たち数人と八王子に逃れ、曹洞宗心源院の随翁舜悦卜山禅師のもとで出家し、この地に庵を建て信松院(信玄の信、松姫の松?)としました。信松院と松姫は後々まで千人同心ら武田遺臣の精神的拠り所となりました。 下段中央の写真【木製軍船ひな型】は、朝鮮の役(文禄・慶長の役)に小早川隆景が使用した軍船のひな型で、松姫の兄、仁科信盛の子孫である資真(すけざね)から寄進されたもの。当時の船を知る貴重なものとのことです。 |
||||
|
|
|
|
||
|
信松院から東へ300メートル、市民会館の前に「八王子市郷土資料館」はあります。昭和38年頃、中央高速自動車道の建設にともない、市内宇津木町向原遺跡の発掘が行われ、多くの土器や石器が出土したのを契機に、八王子の歴史資料を収集・保存しようという市民運動が起き昭和42年開館しました。ちょうど『江戸時代に描かれた多摩の風景』という企画展が催されていて市民ボランティアの方に説明していただきました。「新編武蔵國風土記稿」の多摩郡・高麗郡・秩父郡の部は、千人頭原半左衛門胤敦を中心とした八王子の千人同心により地誌捜索が行われ、編纂されました。風土記稿の風景画は、多摩地区の名所・旧跡の多くが題材とされています。〔出典:パンフレット〕 資料館の周辺には多くの石仏が展示されています。天気が良いことから外で石仏を見ながら昼食をとりました。 |
||||
|
|
|
|
||
|
東京都文化財ウィークガイドより |
|
|||
|
午後は郷土資料館の裏手にある「金剛院(こんごういん)」からです。高野山真言宗のお寺で山号は慈高山(じこうさん)、ご本尊は不動明王です。案内板によると天正4年(1576)3月、僧真清によって開かれ、当時は明王院と号していました。現在地よりやや南にあった不動堂が前身だそうです。下見のときに都文化財の【紙本着色高野山図絵(しほんちゃくしょくこうやさんずえ)】を見学することができました。高野山全山を四季に分け鳥瞰した絵図の六曲屏風は興味深いものでした。 |
||||
|
|
|
|
||
|
道路を隔てて向かい側が「念仏院(ねんぶついん)」です。時宗のお寺で山号は時鐘山(じしょうざん)、昭和のはじめまで時を告げた「時の鐘」は、元禄12年(1699)7月に八日宿の名主、新野与五右エ門の発願により千人同心や近郷近在の村の人々によって寄進されたものです。梵鐘は銅製で高さ148p、口径79p。太平洋戦争の供出は逃れましたが空襲で鐘楼は焼失。昭和27年に再建されました。お隣は天満神社です。 |
||||
|
|
|
|
||
|
念仏院の東側に位置する「法蓮寺(ほうれんじ)」にきました。日蓮宗のお寺で山号は長祐山(ちょうゆうざん)、開山は天正元年(1573)とのことです。もともと滝山城下にありましたが、元八王子へ移転しその後現在地へと移ったとあります。ここには、【並木(源)以寧のお墓】があり、以寧は千人同心組頭で虎見良蔵といいいました。臥牛(がぎゅう)に乗った墓石には多くの書道の門弟の名が刻まれています。 |
||||
|
|
|
|
||
|
|
|
|
||
|
法蓮寺の東隣は「本立寺(ほんりゅうじ)」です。見ごとなイチョウですね。こちらも日蓮宗のお寺で、山号は長光山(ちょうこうざん)、永禄9年(1566)滝山城下に開山し、その後慶長元年(1596)現在地へ移転しました。本堂向かって左側にあるお堂には浄行菩薩が安置されています。悪い行いや、体の悪いところを浄めてくれるそうで【浄行さま】として親しまれています。病気や怪我などをしたところをタワシで洗い清め祈願し、願い事が成就したときには、お礼参りをして新しいタワシを奉納するそうです。 また、墓地には都文化財の【原胤敦のお墓】があります。『新編武蔵国風土記稿』の編纂に従事した原胤敦(延享4年(1747)〜文政10年(1827))は、千人頭で寛政12年(1800)に蝦夷地御用を命ぜられ、北海道の白糠(しろぬか)に着任しました。これが縁で昭和48年(1973)に八王子市と苫小牧市は姉妹都市になりました。 |
||||
|
|
|
|
||
|
|
|
|
||
|
野猿街道を渡って南下すると右手に「観音寺(かんのんじ)」が見えてきます。真言宗智山派のお寺で山号は南清山(なんせいざん)。ご本尊は十一面観世音菩薩で、寛正元年(1460)示寂した頼仙法印の開山と伝わっています。千人頭中村左京の屋敷門を移築した山門をくぐると立派な本堂があります。この本堂は天正11年(1583)の建立されたもので、屋根の両端に2つの擬宝珠を持つ作りは関東地方では唯一だそうです。 下段左の写真は5体のお地蔵さんと並んでいたのでこれを含めて六地蔵かなと思いましたが、よく見ると三猿があり庚申塔ですね。地蔵に見えたのは阿弥陀さまのようです。中央の写真は木食観正の碑です。遊行僧である木食観正は、宝暦4年(1754)に淡路国に生まれ、文政元年(1818)頃から関東地方で布教活動を行っています。ちょうど徳本上人が念仏の布教活動を行った後ですね。木食観正は加持祈祷の行をもって、雨乞い、火伏せ、病気平癒、大漁祈願などの、庶民の現世利益の要求に応えるもので、各地に信者によって建立された木食観正の碑が残っています。 |
||||
|
|
|
|
||
|
|
|
|
||
|
坂道を上りバレーボールで有名な八王子実践高校の前を西へ進み「富士森公園」にやってきました。ちょうどこの周辺を1周したことになります。明治29年(1896)の開園で市内最古の公園です。当時は富士山を一望できたのでしょう。落ち葉の絨毯の上を進んで行くと「浅間神社」があります。富士信仰に基づいて富士山を神格化した浅間大神または浅間神を記紀神話に現れる木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)と見てこれを祀る神社です。社殿裏手の円錐台形の小山は大久保長安が築いたといわれる富士塚で、石祠に木花咲耶姫命が安置されています。なお、この社殿の建立には大正天皇が崩御されたときの仮殿の資材が使われているとのことです。 |
||||
|
|
|
|
||
|
|
|
|
||
|
京王線の山田駅方向に進むと霊園があり、その中に「直入院(じきにゅういん)」があります。浄土宗系の単位寺院で山号は報土山(ほうどさん)です。ここに並ぶ五体の石仏は【石造五智如来立像】と呼ばれるもので、案内板によると五智如来はもともと小門町にあった蓮生院の住職によって建立されましたが、昭和20年(1945)の戦災により蓮生院が焼失し、廃寺となったため、元横山町にあった帰西寺に移されました。しかし、その帰西寺も昭和29年(1949)の区画整理にともない直入院と合併したため、現在地に移されました。まだ蓮生院にあったころ、ここで開催される縁日で、トウモロコシの露店が並び賑わったため「とうもろこし地蔵」とも呼ばれていました。釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来は延宝8年(1680)に、阿閦(あしゅく)如来、宝生如来は元禄4年(1691)に建てられました。左から宝生如来、阿閦(あしゅく)如来、大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来の順に並んでいます。印相(いんぞう)と持物(じもつ)で見分けがつきます。例えば写真下段中央は大日如来ですが、忍者のような印相は智拳印といい大日如来の特徴といえるものです。 |
||||
|
|
|
|
||
|
|
|
|
||
|
|
墓地の中を南下していくと本日最後の「萬福寺(まんぷくじ)」の境内にでます。真言宗智山派のお寺で山号は摩尼山(まにさん)。天福年間(1233-34)の創建で、正応5年(1292)八月に入寂された清海僧正が開山されました。大正10年(1921)に先々住、中興第一世孝泉和上の代に寺領地を市営霊園及び多摩少年院の敷地に提供し、現在地に移りました。境内には庚申塔、光明真言供養塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。写真下段左は【塩なめ地蔵】と呼ばれるお地蔵さんですが、その名の由来等はわかりませんでした。 時刻は15時30分。今回も無事に当番班として責任を果たすことができました。ここから片倉駅まで約30分歩き、駅近くの「養老の瀧」で慰労を兼ねて打上げをしました。みんな笑顔でビールを飲むことができ幸せです。 次回(12月18日)は4班が当番。片倉駅から大沢方面に向かいます。 |
|||
|
Kazのお散歩日記♪ 府中への道 |
||||
|
主な資料の出典 |
八王子の歴史と文化(八王子市郷土資料館)、八王子市文化財ガイドブック(八王子市教育委員会)、八王子市史(八王子市)、新編武蔵国風土記稿 |
|||