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平成22年12月18日(土)
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片倉駅(集合)⇒@慈眼寺⇒A白山神社(釜貫谷戸)⇒B大六天宮⇒C白山神社⇒D永昌院⇒E神柚木公園(昼食)⇒F愛宕神社⇒G永林寺⇒由木中央小バス停 バス 南大沢駅(解散) 徒歩約8q |

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府中への道(一筆書きの道)の第8回は片倉駅からどう相模原に戻るのかが注目されました。普通なら鑓水峠のいわゆる絹の道を抜けて橋本方面に向かうのですが、民俗調査会のほとんどのメンバーは経験済みということで、当番の4班は誰もが歩いて行ったことがない南大沢方面へのコースを考えました。 八王子市には立派なお寺が数多く存在します。前回の目玉は広園寺でしたが、今回の永林寺も見ごたえのあるすばらしいお寺でした。 当初の計画では今回で終了する予定でしたが、もう少し続くようです。お楽しみに。 |
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今日の集合時間は朝9時にJR片倉駅でした。それほど寒さは厳しくなく本年を締めくくる民俗調査会としては願ってもない好天に恵まれました。朝一番に訪れたのは「慈眼寺(じげんじ)」です。曹洞宗の古刹で山号は白華山、武相観音霊場(卯年観音)第42番札所になっています。八王子市史によると開山は永林寺3世岳應義堅和尚とのこと。曹洞宗のお寺らしくひっそりと落ち着いた佇まいで、静寂という表現が当てはまります。三年半振りにきましたがこの静けさがとても心地よく感じます。入口の仁王門、本堂に続く参道の敷石はかつて都内の路面電車に使われていたものとのこと。前回の長安寺と同じですね。 慈眼寺の先にある小祠は「釜貫谷戸の白山神社」です。白山神社は、江戸時代から釜貫谷戸にあり、釜貫谷戸は水飲み場も茶屋もない農村で、急な登り道は生糸商人にとって過酷だったと伝えられています。近隣の住宅が整備された際に多くの石仏とともにここに遷りました。裏手の山は現在、「片倉かまぬき公園」となっています。 |
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日本文化大学の脇を南に進むと右手に「大六天宮(だいろくてんぐう)」があります。神仏習合の時代に第六天魔王を祀る神社として創建されましたが、明治の神仏分離の際、多くの第六天神社がその社名から神世七代(かみよななよ)の第6代の面足命・惶根命(オモダル・アヤカシコネ)に祭神を変更しました。右が男神のオモダル、左が女神のアヤカシコネとのことです。 |
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片倉から北野方面に向かう直線道路を進みマツモトキヨシの先を右に折れます。北野台の住宅地の中にある公園の先に「白山神社まちの広場」があり、山王神社などの小祠が建立されています。そのまま、進むと白山神社の境内にでます。どうやら裏側から入ってしまったようです。「白山神社」は旧中山村の村社でご祭神は伊奘册命です。神社の案内板によると創建年代は詳らかではありませんが、平安時代に比叡山、西塔の僧武蔵坊弁慶の血縁であった弁智が法華経を奉納した関東七社の1社であると伝えられています。天正18年(1590)6月の豊臣と北条の戦で焼失しましたが、慶弔18年(1613)願主、木曽村(町田市)覚円坊の僧頼長権大僧都と大旦那伊藤九郎左衛門により再建され、以来明治維新まで中山村の常宝院が別当となりました。文政9年(1826)春、社殿裏の塚から法華経10巻が発見され、その経巻の奥書に大歳甲戌、仁平4年(1154)9月時許於武蔵国西郡船木田御庄内長隆寺西谷書字了勧進僧弁智血縁者僧忠尊とあり、村人の伝承が裏付けられたばかりでなく考古学資料として評価されています。
なお、その長隆寺の礎石が境内にあります(写真下段中央)。境内から長い石段を下りますが前方には南大沢の街が広がっています。 |
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石段を下り東に進むと左手に「永昌院(えいしょういん)」があります。曹洞宗のお寺で山号は飯盛山(はんせいざん)、天正10年(1572)に慈眼寺と同じく永林寺3世岳應義堅和尚によって創建されました。昭和46年に建立された本堂の天井画は色鮮やかで美しく訪れる参拝者の目を楽しませてくれます。現在のご住職は第41世とのことで、ご住職と奥様のご厚意により観音堂の前でお茶とお菓子をいただきました。 |
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柚木街道を横断し、南大沢駅の北西に位置する「上柚木公園」でお昼の休憩をとりました。この公園は豊かな自然環境を残し、陸上競技場や野球場などがある総合公園です。暖かい日差しの下、芝生の丘でのんびり1時間弱を過ごしました。 午後のスタートは「愛宕神社」から。上柚木公園の陸上競技場から下ったところにあります。愛宕神社は全国に多くありますが古くから火伏せ・防火に霊験のある神社として知られています。元は現在地より南東の愛宕小学校の場所にありましたが、多摩ニュータウンの開発により、昭和61年に現在地に遷座しました。大栗川に架かる〆切橋を渡って柚木街道に戻ります。大栗川は鑓水から東北東に流れ、我々が当番で案内した関戸の先で浅川に合流します。 柚木街道を歩いて25分。立派な赤い門が見えてきました「永林寺」です。 |
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案内板によると総門は宝暦元年(1758)に再建されたもので、朱塗りの門と壁の五条線が許されていて「柚木の赤門」と呼ばれています。 |
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総門の次は三門です。寛文9年(1669)に再建され三門上には十六羅漢木像を、正面両側には仁王像を安置しています。三門とは空門(一切を空と観ずる)無相門(迷いの煩悩を離れ悟りを得る)無願門(真実を悟り願求するところがない)三解脱門のことだそうです。この三解脱を得て本堂に向かうための大切な門だと案内板にありました。 |
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気持ちを引き締めて三門を抜けるとその先にもう一つ門がありました。中雀門(ちゅうじゃくもん)です。中雀とは南に向かって中庭に建てられている門でここを抜けるといよいよ本堂(法堂)です。延享2年(1745)に大改修されたもので、向拝は本堂中央より左寄りに建築されています。これはこの地方の禅宗の特色だそうです。 「永林寺」は曹洞宗のお寺で山号は金峰山です。案内板によると大石源左衛門尉定久公の居館(由木城)であったものを、定久公が城主として滝山城に移った際、叔父である一種長純大和尚にここを譲り、天文元年(1532)に永鱗寺として創建。その後八王子城主北条氏照公の助成を受けて天文15年(1546)により七堂伽藍の完備された大寺院となりました。天正15年(1587)に後陽成天皇より勅願寺の綸旨を受け護国禅寺となり、天正19年(1591)に徳川家康公が当寺を巡拝された際、朱印十石、公卿格式拾万石を授けられました。その時に寺名が永鱗寺から永林寺に変わりました。北条氏の鱗を外して徳川氏に気を使ったのでしょうか。 このような変遷から永林寺は大石家の“丸に三つ星”、北条家の“三つ鱗”、天皇家の“菊・五三の桐”、徳川家の“三つ葉葵”など五つの紋を有しています。 |
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本堂脇にある小祠には舟に乗ったお地蔵さまが安置されています。「岩船地蔵」です。福田アジオ氏の著書「歴史探索の手法〜岩船地蔵を追って(ちくま新書)」によると、江戸の中期の享保4年(1719)に下野国の岩舟を出発点にしてお地蔵さんが村から村へと送られ、お地蔵さんが通った各地の村に「岩船地蔵」建立されました。関東西部の流行は恐らく利根川の西側の地域を南下し、武蔵野台地から多摩丘陵へと村送りされ、南側の相武の地へ入り、境川沿いに大和、藤沢、そして厚木へと広がったようです。 関東地方の岩船地蔵はこの写真のようにお地蔵さんが船の進む方向に向いて立っています。ところが別ルートで村送りされてきた山梨県内で多数見られる岩船地蔵は、船の上で横向きに立っているそうです。 このあと「由木城址」を見学し、最後は「三重塔」です。昭和55年(1980)に建立されたもので高さは20メートルあり、文政6年(1823)に造られた聖観世音菩薩をご本尊としています。武相観音霊場41番札所、卯年観音ですのでもうすぐご開帳ですね。 時刻はまだ15時になっていませんが、陽が高いうちにということで冷え込む前に切り上げました。近くのバス停から南大沢駅に行き、橋本駅で解散しました。次回は2月の予定です。 |
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Kazのお散歩日記♪ 府中への道 |
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主な資料の出典 |
ハイキングマップ「絹の道歴史探索コース」(八王子東南部環境市民の会) 八王子市史(八王子市)、新編武蔵国風土記稿 |
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