吉夏社(kikkasha)
【哲学・思想・精神分析】 |
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ラカンと政治的なもの
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ユートピアの幻想を越えて ●現代思想の中心人物で、もっとも影響力のある思想家の一人であるジャック・ラカンの理論を、その精神分析学内部での秘教的な取扱いや、いたずらな難解さから解放し、明晰かつ体系的な分析で広く社会理論としての有効性に踏み込んだ、最新研究の翻訳。 少壮精鋭の著者が、この難解で知られるラカンの精神分析を軽快に読み解きつつ、非政治的、さらには反動的であるとさえされていたその理論が、実際には明白な政治的意味を有すること、そして、それは「ラディカルな民主主義」を強力に推進するものであることを鮮やかに解明する。 (原著は一九九九年刊行) |
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著 者 |
ヤニス・スタヴラカキス Yannis Stavrakakis 一九七〇年、ギリシアに生まれる。パンテオン大学を卒業後、エセックス大学で博士号を取得。現在、ノッティンガム大学でリサーチ・フェローを務める。またエセックス大学ではエルネスト・ラクラウらとともに「イデオロギーとディスコース分析」などの演習を担当する。精神分析と政治学の関連性を主要なテーマとしているが、リスクの社会学、社会的構築主義、環境政治など関心領域は広い。エセックス大学時代から、ラクラウやシャンタル・ムフ、ジジェクらと深い交流がある。 主な著作 "Green Ideology: A Discursive Reading", Journal of Political Ideologies 2,3 (1997) edited, Nature, Society and Politics (Athens: Nisos, 1997, in Greek) co-authored, Nature, Society and Science in the Mad Cow Age: Uncertainty and Risk (Athens: Nefeli, 1999, in Greek) Lacan and the Political (London: Routledge, 1999) co-edited, Discourse Theory and Political Analysis (Manchester: Manchester University Press, 2000) co-edited, Lacan and Science (London: Karnac books, 2002) |
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目 次
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謝 辞 書誌的註記 序 章 ラカンと政治的なものについて論じる可能性をめぐる予備的問題 伝記的スケッチ 第一章 ラカン的主体:同一性の不可能性と同一化の中心性 プロレゴメナ 想像界における疎外 象徴界における疎外 同一性から同一化へ:想像的次元と象徴的次元 主体の政治学:何との同一化なのか? 第二章 ラカン的対象:社会の不可能性の弁証法 対象的なものも、また、欠如している 幻想と充足の約束 ラカンと現実性の社会的構築 現実性を探究する 現実性から現実界へ 第三章 政治的なものを包囲する:ラカン的政治理論に向かって 政治 対 政治的なもの 政治的現実性を探査する ラカン的政治理論におけるいくつかの難問 第四章 ユートピアの幻想を越えて:政治のアポリアと民主主義の挑戦 ユートピアかディストピアか ユートピアと希望:必然的な関係? 不可能性の政治は、政治の不可能性を含意するのだろうか? 再占拠の危険性 第五章 両義的民主主義と精神分析の倫理 現代民主主義の両義性:調和の政治を越えて ラカン的倫理:調和の倫理を越えて ラカン的倫理の二つの軸:症候の昇華と同一化 結論に代えて:精神分析、倫理、政治 原 註 訳者あとがき 文献リスト 索 引 |
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訳者あとがき
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社会の閉鎖が不可能であること――「社会は存在しない」――の倫理的承認の延長上に見出せるのは、スタヴラカキスによれば、社会的欠如それ自体を制度化しようとするラクラウやムフによって切り開かれようとしている「ラディカルな民主主義」の構想である。ラディカルな民主主義は、対立や分裂が決して克服されないことを承認する。というより、純粋な民主主義が不可能であること、民主主義がつねに「来るべきもの」(デリダ)であることを、その積極的な存立条件としているのである。しかし、ここで注意しておかねばならないのは、ラディカルな民主主義の構想が、完全な「同一性の論理」を打ち立てようとする「全体主義」を排するだけでないということである。それは、どのような統一性も全体主義の同義語として拒絶し、純粋な「差異性の論理」に拠ろうとする「個別主義」からも等しく距離を置くものであり、それら二者の間に慎重に位置づけられようとしている。「民主主義の発明の重要性は、その二重の運動において、それが、参照点――社会制度にとってのクッションの綴じ目――を供給し、なおかつ、社会を参照点に適合する実定的内容に還元することがない」ということにあるからである。 訳者・有賀誠(防衛大学校助教授) |
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書評・紹介
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『図書新聞』2003年7月12日号(書評) 《「政治」とラカンの関係をめぐる立場は折りあわない》 ラカンの思想が正しく有効に機能するための条件は、ラカンの思想が現実には力を「もたない」ことだ、と考える人は多いだろう。そして、そうした考えは、けっしてラカンを忌避することを意味するわけではないのだ。享楽の不可能性を説いたラカン理論が、現実社会におけるラディカルな民主主義といかに親和的(ホモロガス)であろうと、それらがあくまでお互いに無縁なものにとどまるからこそ、ラカン理論は教条的調和の実践へ回収されることのない根源的異質性を保ちつづけるのではないか。もし著者の立場に立つならば、つまりラカンがそれほど正しいのならば、ラカンの存在を現実社会におけるひとつの穴としてその限界を問い直すことでこそ、われわれが求める民主主義の争異のトポスに立つことができるのではないか。 【赤間啓之氏評】 『recoreco』2003年5・6月号「世界秩序を読み解くための10冊」(書評) 必要な政治は、人々を安定した超越的権力の下に調和させることではなく、欠如の現実性を開口すること、例えば、投票システムから逸脱する政治運動を試みることによって、単一の調和から自由である可能性を確保することにある。超越的な権力の欠陥を侵略し、多様な差異の政治を生み出すことこそ、根源的な民主主義の戦略に他ならない。主体構成の詐術から主体を解放することが目指されている。 【橋本努氏評】 『出版ニュース』2003年4月下旬号(紹介) 本書は、ラカンと政治的なものの可能性について論じたもので、ここではまず、ラカン理論の出発点としてラカン的主体とは何かを解明し、ラカン的対象の措定を経て、政治的現実性に関するラカン的読解やラカンの構想を分析する。こうした前提条件をふまえた上で、現代の政治理論や実践にとって重要な領域として、ユートピア的政治がもたらす危機や、来るべき民主主義の内実に引きつけ、ラカン理論が政治的「解放」をもたらす触媒の一つであることをアプローチする。 bk1 書評 《ラカン理論が民主政治を刷新する。少壮学者の力作論考》 ‥‥少なくともラカン本人は現実の政治に積極的に参加するような人物ではなかったが、彼の精神分析は現実政治の倫理的基盤の再定礎に貢献し得る重要なヒントをもたらすのだということを、本書は教えている。本論にあたる全五章のうち、最初の三章「ラカン的主体」「ラカン的対象」「政治的なものを包囲する」では、ラカンの精神分析理論や概念装置が政治理論や政治分析にどれほど有用であるかが検証される。後半の二章「ユートピアの幻想を越えて」「両義的民主主義と精神分析の倫理」ではより具体的に、ラカン理論が政治的理想主義の腐敗に抗し、新たな政治的触媒として民主主義の窮地を解放する役割を果たすポテンシャルを有していることが論証される。ラクラウやムフによるラディカル・デモクラシーの構想の発展的継承がここでは見られる。ラカン理論は、政治における「すべての壮大な幻想に関するわれわれの考え方を変えようとする闘いの最前線に位置している」わけである。本書は、ジジェク、バトラー、ラクラウによる討論の書『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』(青土社、2002年)での錯綜した議論に、一定の論理的道筋を与える効果を有するものと思われる。日本ではスタヴラカキスはほとんどまだ無名に等しいが、本書の力作ぶりは、ラカン読解における新たな基本書とみなされるに充分な仕事であるといっていい。 【小林浩氏評】 |
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リンク |
Routledge |