真昼の月・第3話 (3)

 

 カオリと別れて秀一が部屋に戻ると、壁の時計の針がちょうど午後5時を指すところだった。さっきもらってきた名刺に書かれている、津野の会社に連絡を取るのは明日にした方がいいだろう。
 秀一は一張羅のスーツが皺にならないようにすぐに脱いで、ジーンズとシャツに着替える。それから、心おきなくソファーに体を投げ出した。二人がけソファーの片方の肘掛けに頭を乗せ、反対側に足を乗せて横になる。
 初日の調査にしては上出来だった。ただ、カオリに手がかりは掴んだとは言ったものの、津野が渡した本当の名刺の会社には、津野はもういないだろうと秀一は思っていた。理由はない、刑事時代の名残のカンだった。
 会社に電話を掛けても津野がいなかった場合の対策を秀一が考え始めたとき、ドアがノックされた。秀一は勢いをつけて体を起こし、ドアに向かう。
 「なんだ、お前か」
 ドアの外にいたのは賢治だった。
 「今日は報告っす」
 心なしか得意げな顔をした賢治に、
 「報告? まあ、とにかく入れ」
 秀一はドアを大きく開けて、賢治を中に入れる。
 「で、何の報告だ?」
 「店を決めてきました」
 「もうか? ずいぶんと早いな」
 「早く決めんとここに顔出されへんと思ったんで、コネとかツテとか総動員しましたよ」
 「そんな急に決まるなんて、ちゃんとしたとこなんだろうな?」
 「大丈夫ですって。なんやったら、すぐ近くなんで今度、店に来てください」
 自信満々な様子の賢治に、秀一はようやく安心して笑う。
 「ならいいんだ。今度は続けろよ」
 「はい」
 「お前は返事だけはいいからな」
 秀一はそう言ってから、ふと思いついた。
 「そうだ。今から、俺の髪を切ってくれないか?」
 「今からっすか?」
 「ああ。考えてみれば、大阪に来てから一度も髪を切ってなかった」
 おかげで伸びすぎた前髪をうるさく手で掻き上げるのが、大阪に来てからの秀一の癖になっていた。秀一は今もその癖で髪を掻き上げる。
 「なんで急に?」
 「これじゃ、真面目な公務員には見えないだろ」
 「見えなあかん理由でもあるんですか?」
 「明日、久しぶりに昔の職業に戻ろうかと思ってな」
 「昔の職業って、刑事にですか?」
 「ああ」
 津野の勤める会社に行き、津野に会わせろ、連絡先を教えろと言っても、まともな会社なら取り合わないだろう。だが、それが警察となれば話は早い。しかも、警察手帳を見せるだけで簡単に警察だと思ってくれる。本来なら、テレビドラマとは違い、手帳を開いて顔写真を見せながら警察官であることを証明しなければならない。ドラマの影響なのだろう、それを知らない民間人は多い。秀一はそれを利用するつもりだった。黒い手帳ならそれらしいものを用意するのは難しくない。
 「だから、それらしく見えるようにもっと短髪にしたい」
 「でも、いいんすか、勝手に切っても」
 「何を言ってるんだ?」
 「いや、あの、辰巳さんに怒られたりとか」
 「お前、俺を怒らせたいのか」
 秀一は眉間に皺を寄せて、賢治を睨み付ける。辰巳との関係を知られているとは思っていたが、どう解釈すればこの発想になるのか、秀一には理解できなかった。
 「すいません。そういうつもりやないんですけど」
 賢治が焦って弁解する。
 「それで、切ってくれるのか? 嫌なら今からどこか店を探しに」
 「切ります」
 秀一に最後まで言わせず、賢治が勢いよく答えた。
 「じゃあ、頼もう」
 「はい」
 賢治は満面の笑みで返事して、
 「そしたら、俺、家までハサミ取りに行ってきます」
 「時間掛かるだろ。大丈夫か?」
 賢治のマンションまで、秀一の部屋からなら往復すると1時間近くは掛かるだろう。
 「俺は大丈夫です。秀一さんの方が大丈夫っすか?」
 さっきの言葉があったせいか、暗に辰巳が来訪する可能性を匂わされているような気がした。
 「アレが来たら追い返すから気にするな」
 「じゃ、行ってきます」
 賢治が部屋を飛び出していく。
 秀一は携帯を手に取ると、メモリーに入っている平の番号を呼び出した。
 「はい、平です」
 すぐにいつもの落ち着いた声が聞こえてきた。
 「俺だ。今、大丈夫か?」
 「ええ、大丈夫です。どうかされましたか?」
 「頼みがある」
 「なんでしょう?」
 「よくできた警察手帳を用意してもらえないか?」
 電話の向こうで平が息を飲むのが分かった。
 「用意するのは簡単ですが」
 「お前の言いたいことは分かってる。使えば犯罪だって言いたいんだろ?」
 「秀一さんのことですから、分かってらっしゃるとは思いましたが」
 「要はばれなきゃいいんだ」
 ばれない自信はあった。過去、聞き込みに出掛け、その後に署に身元照会されたことは一度もなかった。自分が犯人として疑われない限り、警察の絡む他人の不幸は噂のネタになるだけで終わる。
 「わかりました。用意でき次第、お届けします」
 「悪いな。自分で作るより、平に頼んだ方がそれらしいものができるだろうと思ってな」
 「それは褒め言葉として受け取ってよろしいんですか?」
 「ああ。ヤクザでさえなければ、お前の能力は高く評価してる」
 「ありがとうございます」
 微かに笑いを含んだ声で平が言った。
 
 
 賢治が息を切らせて戻ってきたのは、部屋を出て行ってから1時間経とうかとする頃だった。
 「そんなに慌てなくてもよかったのに」
 秀一は苦笑しながら賢治を迎えた。
 「いや、でもせっかくカットさせてもらえるのに」
 「せっかく? 俺の方が頼んでるんだがな」
 「そうでしたっけ?」
 賢治が悪びれずに笑う。
 「どこでします?」
 「お前のやりやすい場所でいいぞ」
 「ほな、あの椅子、借りますね」
 賢治はキッチンカウンターの椅子を指さして言った。そして、ソファーの横の比較的スペースの空いている場所に、持参した大判のビニールシートを敷き、カウンターから椅子をを2つ持ってくる。
 「こっち座ってください」
 「なるほどな。こうすれば切った髪も掃除しやすいってわけだ」
 秀一は感心したように言って、その椅子に座った。賢治がもう一つの椅子にカットに必要な道具を並べていく。
 「美容師ってのは、家にもこれだけの道具を揃えてるもんなのか?」
 「わりとそうとちゃいますか。俺はほら、ひとみのカットをしてたのもあるんで。ちょっと濡らします」
 賢治は慣れた様子で、会話しながらカットの準備を進めていく。
 「短くするんでしたよね?」
 「ああ、さっぱりさせてくれ。形はプロに任せる」
 「うっわ、まじっすか。緊張してきた」
 賢治のハサミが秀一の髪に入った。そのハサミの音が秀一の耳に心地よく響く。秀一は目を閉じて、その音を聞いていた。
 「そういえば、あの子は今どうしてるんだ?」
 「今、新地の店で働いてるらしいっすよ」
 「懲りない子だな」
 秀一は呆れて笑った。ひとみはキャバクラで働いていたときに辰巳と出会い、付き合い始め、それがきっかけでヤクザに狙われることになった。それでも、まだ懲りずに同じような店で働いているらしい。
 「そういうたくましいとこが好きやったんですけど」
 「なんだ、過去形か?」
 「俺には合うてへんかなあと思って」
 「気づくのが遅くないか」
 「それはまあ、そうなんすけど、それより、自分がもっと男らしならんとあかんなあと思ったんすよ。秀一さんみたいに」
 「俺みたいに?」
 「カッコええですもん。超憧れますよ」
 賢治の言葉に、秀一はため息を吐いた。今までの賢治の態度から、おそらくそういった感情で自分を見ているのだろうということは予想できた。けれど、秀一は自分自身が他人から憧れの対象になるだけの男だとは思ってはいない。賢治の気持ちは秀一にとっては、迷惑で重荷でしかなかった。
 「お前はまず、もっと人を見る目を養え」
 「どういう意味っすか?」
 秀一は答えずに、それきり口を噤んだ。
 部屋の中には賢治の使うハサミの音と、ビニールシートに秀一の髪が落ちる音だけが響く。
 10分ほどで、賢治がハサミを置いた。
 「カット終わったんで、ドライヤー使って仕上げします」
 律儀にいちいち秀一に断ってから、賢治は作業を続ける。
 秀一はようやく目を開けた。周りに鏡がないために、秀一には今の状況が分からなかったが、それでも頭や首周りの感覚でずいぶんとすっきりしたことは分かった。
 「できました」
 賢治がドライヤーを止めた。
 「ありがとう」
 「お礼を言う前に、ちゃんと確認してくださいよ。この部屋、鏡ないんすか?」
 「風呂場にしかないな」
 「ほな、見てきてください」
 賢治にしては珍しく押しの強い口調で言い切った。余程、仕上がりに自信があるのだろう。
 「わかったよ」
 秀一は首に巻かれていたケープを外し、立ち上がってバスルームに向かう。
 秀一が鏡を見ることはほとんどない。鏡を見るためだけにバスルームに入ることなど皆無に等しかった。
 秀一は久しぶりに鏡に映る自分の顔をまじまじと見つめた。賢治の腕は、前の店でようやくカットができるようになったばかりだと言っていたわりには、なかなかのものだった。秀一のリクエスト通り短くはなっているものの、野暮ったくもならず、短くなったことでかえって秀一の顔立ちの良さを際だたせている。
 秀一はすぐに賢治のところに戻ると、賢治は既に後片づけをすませていた。
 「お前、腕は良かったんだな」
 秀一の言葉に賢治は嬉しそうに笑う。
 「真面目な警察官に見えるか?」
 「真面目そうには見えますけど、そんなかっこいい刑事はいてへんでしょ」
 「一言多いぞ」
 「すいません」
 「まあいい。今日はありがとう。助かったよ」
 「こんくらい、いつでも言ってください。飛んできますから」
 「飛んでは来なくていい」
 本当に飛んできそうな賢治に、秀一は釘を刺した。
 
 
 平が偽の警察手帳を届けに来たのは、翌日の朝早くだった。
 「昨日のうちには用意できていたんですが、時間が遅かったものですから」
 「悪かったな、無理を言って」
 「とんでもないです。たまには何か言っていただかないと役に立ってないのかと言われますので」
 「また、辰巳の馬鹿か?」
 「私が若頭の側にいるときは、秀一さんの手伝いをしていないということになりますから」
 真面目な顔で当然のように言う平に、秀一はずっと気になっていた疑問をぶつける。
 「お前、あいつの補佐を辞めたいと思ったことはないのか?」
 辰巳の補佐など、秀一ならとても一日も持たないだろう。けれど、平はその質問自体が不思議だと言わんばかりの顔で、
 「一度もありませんが、それが何か?」
 「何でもない。それより」
 「はい、これでよろしいですか?」
 平は秀一に黒い手帳を差し出した。
 「お前、これをどこで手に入れた?」
 秀一の手の中には、かつて自分が常に所持していたものと、ほぼ同じ手帳があった。違うのは表紙に書かれた文字が、警視庁が大阪府警になっていることだけだった。
 「具体的にはお教えできませんが、警察関係のものが収集家の間で出回っているのは、秀一さんもお聞きになったことがありませんか?」
 「制服なら聞いたことはあるが、手帳までか?」
 「はい。中もどうぞ」
 平にそう言われて、秀一は中を開いた。そこには、掛けたことのない眼鏡を掛けた秀一の写真が貼られていた。
 「中を見せる必要までないかとは思いますが、念のために、そこは細工しておきました」
 「この眼鏡はなんだ? それに俺の写真はどこで手に入れた?」
 「眼鏡は、これも念のためです。この手帳をお使いになるときは、秀一さんも眼鏡を掛けられた方がいいでしょう。秀一さんのお顔は人の記憶に残ります。それと、写真の方は、申し訳ありません。以前、秀一さんについて調べさせて頂いたときに手に入れたものです」
 「それは辰巳に初めて会ったときだな?」
 「そうです」
 初めて辰巳のこの部屋で会ったときは、名前も知らない同士だった。それが次に顔を合わせたときには、辰巳は秀一が元刑事であることを調べていた。その調査をしたのが平だった。
 「辰巳の考えてることは理解できないが、唯一、分かるのはお前を補佐にしたことだな」
 「若頭を少しでも理解していただけて嬉しいです」
 「そういう意味で言ったんじゃない。分かってるんだろ?」
 含み笑いの平を秀一は睨み付けた。

 



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