真昼の月・第3話 (9)

 

 秀一の右側にいた男が、秀一に向かって拳を振り上げた。秀一は難なくそれをかわし、代わりに男の腹に拳を打ちつける。その男の口からではないところから呻き声が聞こえ、秀一がその声の方に目をやると、平が別の組員を床に蹴り倒していた。やはり平の腕は確かなようだった。これで平のことを気にかける必要はないことがわかった。秀一は背中に庇った美貴だけを気にかけながら、少しずつ出口に近づいていく。
 「えらい賑やかやな」
 突然、ドアが開いて、この場にそぐわない緊張感のない声が聞こえた。
 辰巳はおもしろそうに事務所内を眺めながら、部屋の中を歩いていく。
 秀一は突然現れた辰巳の真意がわからず、黙ったまま辰巳の出方を待った。
 「何の用や?」
 川西がようやく口を開いた。
 「おもしろいモンが手に入ったんでな」
 辰巳はスーツの上着の胸ポケットから封筒を取り出し、テーブルの上に投げた。
 「これが?」
 「まあ、中を見てみろ」
 辰巳に促されて、川西が封筒を開け、そして、顔色を変えた。川西が手にしているのは写真のようだったが、秀一の場所からはどんな写真なのかは確認できない。
 「よう撮れてるやろ。結構、手間が掛かったで。金もな」
 「お前が何でこんなもん」
 川西にとっては都合の悪い写真であることは間違いない。組員たちも川西の焦った態度から動きが取れずにいるようだった。
 「こっちはマスコミに流すより警察に渡した方がおもろそうやな」
 「何が目的や」
 「たいしたこととちゃう。ワシのイロへのプレゼントや」
 「お前のイロいうたら」
 辰巳のイロが男だというのは、関西のヤクザの間では有名な事実になっていた。川西だけでなく、その場にいた組員全員の目が美貴に注がれる。
 「そっちやない」
 辰巳は秀一に近づき、その肩を抱き寄せた。
 「金もモノもいらん言うてな。おとなしいしとったらええもんを、調査事務所なんぞ始めよった。機嫌とるのも大変や」
 「あれは何の写真だ?」
 辰巳がここまでばらしたのなら、秀一も黙っていることはない。肩を抱かれたまま、秀一は辰巳を見上げて尋ねた。
 「川西が議員のおっさんに賄賂を渡しとるとこがバッチリ写っとる」
 「そんなものがあるならどうして最初から渡さないんだ」
 「無茶言うな。届いたんはついさっきや」
 「議員は昨日入院したんじゃなかったか?」
 「そら、写真はその前に撮ってあったんやろ。お前と違て、他の奴は調査も報告も遅うてあかんな」
 辰巳がとぼけた様子で答える。
 「おい、内輪の話は帰ってからせえや」
 川西が苛立って声を荒げる。
 「辰巳、お前の目的は何や?」
 「言わんかったか、こいつの機嫌取りやってな」
 「ああ?」
 「どうしたいのかは、こいつに聞いてくれ」
 辰巳に『こいつ』呼ばわりされたことへの不快さはあるものの、秀一はそれを顔に出さず、
 「本当に俺の好きにしていいんだな?」
 「ああ、好きにせえ」
 辰巳は笑いながら頷く。
 秀一は川西に向き直った。
 「俺の要求はただ一つ」
 美貴の肩に手を置いて、
 「今後一切、お前達がこの子に関わらないようにすることだけだ」
 「そう約束すれば、この写真を公表したりせえへんのやろな」
 「お前達が約束を守っている限りはな」
 「ええやろ。その条件、飲もうやないか」
 「物わかりがよくて助かるな。他にも議員は山ほどいるんだ。狙うなら他を狙え」
 秀一は吐き捨てるようにそう言うと、表情を和らげてから美貴に視線を移した。
 「今度こそ本当に帰ろうか」
 突然の急展開に、美貴は言葉もなく秀一を見つめている。秀一はそんな美貴を安心させるように微笑みかけ、その背中を押して歩き出した。ドアの前では既に平がドアを開けて待っている。秀一は平に小さく頷いて見せ、ドアを通り抜けた。
 
 
 川西組の事務所を出て、送るという平の申し出を断り、秀一は美貴と2人、タクシーで秀一の部屋に戻った。
 「さてと、お父さんに連絡させてもらうけど、いいかな?」
 「父と会ったんですか?」
 「いや。お父さんの友達に頼まれたんだ」
 秀一は携帯で向坂の番号を呼び出した。1回目の呼び出し音が鳴り終わるより早く、向坂の声が聞こえてくる。
 「神崎か、何かあったんか?」
 「息子さんは今、私の部屋にいます」
 「ていうことは」
 「解決しました。例の件も、大丈夫だと思います」
 「お前に頼んで正解やった。すぐ迎えに行く。20分、いや、10分で行く」
 話しながらも歩き出していそうな向坂の姿が思い浮かんで、秀一は口元を緩めた。
 「そんなに焦らなくても、もう逃げたりしませんよ」
 「そうか。ほな、そんなに焦らんと15分にしとこか」
 向坂はそう言って電話を切った。
 「本当にせっかちな所は相変わらずだな」
 秀一は電話を見ながらまた笑ってしまう。
 「さてと、君にも説明をしておかないとな」
 秀一は向坂に頼まれた話をかいつまんで美貴に説明した。
 「父に迷惑を掛けるつもりやなかったのに、結局、こんなことになって」
 「君が悪いんじゃない」
 「でも、あたしが普通やったらこんなことにはならへんかったでしょ」
 「普通か、それがどれだけ大事なんだろうな」
 「えっ?」
 「君は確かに世間から見れば普通だとは言われないかもしれない。だが、君のように親のことを思いやることができる方が大事だと俺は思う。君のお父さんも俺と同じ事を思っていたから、君を助けてほしいと言ったんだろう」
 美貴の目が涙で潤む。
 「本当にありがとうございました。そんなにあたしを思ってくれてる父に迷惑を掛けずにすんで、本当によかった」
 「そう思うなら、これからは居場所くらいは知らせておくんだな」
 「そうします」
 美貴は素直に頷いた。
 「それと、迎えが来る前に聞いておくことがあるんだ。もうおおよそのことは知ったと思うが、まだ津野に会いたいか?」
 秀一の問いかけに美貴は首を横に振った。
 「もうわかったから」
 「そうだな。あんな男に会っても意味がない」
 「見つけたんですね」
 「ああ」
 「何か言うてましたか?」
 「いや、ほとんど話す暇はなかった」
 「そう、ですか」
 美貴の表情に落胆の色が見えた。少しでも自分のことを気には掛けてくれてなかったか、そんな微かな希望を持っていたのだろう。
 「まだ好きなのか?」
 「わかりません。今思ったら、好きやって思いこんでただけなんかもしれません。初めて、こんなあたしでも好きやって言ってもらえて、それが嬉しくて、そやからもっと好きになってもらおうと好かれそうなことばっかりしてた。自分が好きになることを忘れてたような気がします」
 美貴の言葉が、秀一の中の疑問を一つ解き明かしてくれた。今まで人に聞かれても答えられずにいたことの答えが、一つだけわかった。
 「そう言えるってことは、少しはあの男のことを吹っ切れたってことなのかな」
 「かもしれません」
 美貴は小さく笑う。
 「一つ聞いてもいいですか?」
 「ああ」
 「秀一さんはあの人と付き合ってるんですか?」
 美貴の言う『あの人』は、辰巳以外には考えられない。
 「辰巳のことか?」
 「秀一さんみたいに男らしい人が、男の人とって、考えもしてなくて」
 「好きで付き合ってるわけじゃないさ」
 「じゃあ、どうして?」
 「別に嫌いでもないから別れないってところかな」
 「秀一さん?」
 「冗談だよ。どうして付き合ってるのか、ちゃんとした理由なんてないんだ。でも、別れない理由なら一つだけ言えることがある」
 「嫌いやないから?」
 「だから、それは冗談だって」
 秀一は笑いながら言葉を続けた。
 「あいつといると、ひどく楽なんだ。さっき美貴さんが言っただろう? 好かれたくて好かれそうなことばかりしてたって。あいつにはそんなことを一切しなくていい。全く俺は自分を装わなくていいんだ」
 どうして美貴にこんな話をする気になったのか、答えを教えてくれた美貴への秀一なりの誠意だった。
 「さ、俺の話はもういいだろう。もうすぐ向坂さんも迎えに来る頃だ。俺から説明した方がいいか? それとも自分で?」
 「自分でちゃんと父に話します。あたしが自分で蒔いた種やから」
 「そうだな、その方がいい」
 秀一の言葉に、美貴は褒められた子供のように嬉しそうに頷いた。
 
 
 美貴が向坂に連れられて出て行ったのと入れ替わりにカオリが入ってきた。
 「秀一さん、いろいろありがとうね」
 「俺はお礼を言われるほどのことはしてないよ」
 「だって、津野くんを見つけ出して、美貴を助けてくれたやない」
 「俺の力だけじゃないからな」
 「剛史のこと?」
 「ああ」
 「それかって、秀一さんやなかったら剛史を動かすことができへんのやから、結局は秀一さんのおかげやわ」
 「カオリさんには敵わないな。それで、カオリさんは今こっちに帰ってきたのか?」
 「ううん。さっきまで剛史の事務所におったの」
 「ああ、そうだったな」
 神戸までカオリを迎えに行ったのは、辰巳の組の組員だった。
 「津野くんと話したわ」
 「カオリさんの知ってる男と同じだった?」
 「随分、情けなくなっちゃってたけどね」
 カオリは苦笑いを浮かべた。
 「全部聞いた、美貴を騙してたことも、なんで突然いなくなったのかも」
 「俺はあまり時間がなかったから、いなくなった理由を聞いてないんだが、なんだって?」
 「本気で美貴のことを好きになりそうやったからって」
 「それのどこが悪いんだ? 美貴さんはあいつのことが好きだったんだろう? だったら本当のことを話してやり直すこともできたんじゃないのか」
 「確かに美貴は、津野くんのことを好きやったわ。でも、それは津野くんが美貴に好かれるために、美貴が喜ぶだろう気に入るだろうってことばかりしてたから。津野くん、言うてたわ。借金抱えてヤクザに脅されて、挙げ句、人を騙したりする男に惚れたりしないだろうって」
 同じようなことを美貴の口からも聞かされたばかりだった。2人とも自分を装い続けて3ヶ月も付き合っていたことになる。秀一には考えられないことだった。
 「あいつにもそれを考えられるだけの知恵は残ってたってわけか」
 「美貴にはつらい事件やったけど、こっちの世界で行きてくんがそんなに楽やないってことが分かるいい経験になったかもね」
 「カオリさんもいろいろあったみたいだな」
 「それなりにはね」
 笑うカオリはそんな苦労の陰を欠片も見せなかった。
 「あ、そうそう、やっぱりまた来てるわよ」
 「来てる?」
 「賢治が下でウロウロしてたけど、どうする?」
 「呼んで来てもらっていいかな?」
 「仕方ないわね。あんな子でも元気がないとおもしろないから」
 「ついでにもう一つ、平に電話して津野をもう帰していいと伝えてほしい」
 「了解。そっちは元々あたしの用やったんやもんね」
 カオリが賢治を呼ぶために部屋を出て行った。そして、すぐに階段を駆け上がって賢治が二日ぶりに顔を出した。
 「すいませんでした」
 賢治は秀一の顔を見るなり頭を下げた。
 「どうしてお前が謝るんだ?」
 「見るつもりやなかったんですけど」
 「それはそうだろう。それにあれはこんなとこでしていた俺が悪い」
 「いや、でも、それに」
 「それになんだ?」
 「あれからずっと頭から離れへんで、それで」
 賢治の顔が見る見る真っ赤に染まっていく。
 「まさか俺をおかずにしたとか、そういうことか?」
 「すいませんでした」
 賢治がもう一度深く頭を下げた。秀一はその姿に思わず吹きだした。
 「お前も相当物好きだな」
 「怒らないんですか?」
 「実害はない」
 秀一は笑ったまま答える。
 「お前が憧れてるって言ったのはそっちの意味だったのか」
 賢治が秀一に憧れると言ったのは、男としてという意味以上に、恋愛感情の意味合いの方が深かったことに、秀一はやっと気づいた。
 「そっちって?」
 「いや。俺のしたことは逆効果だったなと思っただけだ」
 「言うてることがよく分からへんのですけど」
 「分からなくていいさ。それより、辰巳には知られないようにしろよ」
 「分かってます。俺かて命は惜しいですから」
 真面目な顔で答えた賢治に、秀一は驚いて笑いを止めた。
 「お前も案外馬鹿じゃなかったんだな」
 「秀一さん、俺のこと、ごっつ馬鹿にしてます?」
 「褒めたつもりなんだがな」
 「それやったらいいです」
 賢治は素直に褒められたことを喜んで笑う。
 「また来てもいいですか?」
 「ああ、好きにしろ」
 「はい、好きにします。明日もまた来ます」
 「わかったわかった」
 呆れて笑う秀一に、賢治はまた深く頭を下げて部屋を出て行った。
 一人になった部屋で、秀一は携帯を手にソファーに座り直した。そして、ほとんど掛けたことのない番号を画面に呼び出す。
 画面に映るのは『辰巳』という文字と10桁の番号。
 結局、今回もまた辰巳に助けられた。辰巳は秀一が何をしようとしているのか、全て分かっているかのように先回りして秀一を助けてくれる。そして、秀一もどうすれば辰巳が動くのか、自分のことのように分かってしまう。
 「感化されたかな」
 秀一は一人呟いた。辰巳のいないときにまで辰巳のことを考えている。今日一日、好きだの何だのと、そんな話を聞かされ続けたせいだろう。
 辰巳を好きなのかと聞かれれば、違うと即答できる。けれど、嫌いかと聞かれても首を横には振れない。
 嫌いでもないから別れない。
 冗談で美貴に言ったこの言葉が、今の秀一の気持ちを一番正確に表しているのかもしれない。
 「確かに大した進歩だよ」
 ヤクザを毛嫌いしていた頃からなら考えられないことだった。
 秀一は手の中の携帯を見つめる。ボタンを一つ押すだけで、聞き慣れた声が聞こえてくるはずだ。秀一は迷わずにそのボタンを押した。
 「なんや?」
 すぐに聞こえてきた声に、秀一は笑みを漏らす。
 「お前、今どこにいる?」
 「マンションに戻ってきたとこや」
 「今から俺のところに来ないか?」
 「ああ?」
 「俺がそっちに行ってもいいんだけどな」
 「どういう風の吹き回しや。今日の礼のつもりか?」
 「ただ気が向いただけだ。嫌ならいいぞ」
 「ワシが嫌や言うはずないと思てるやろ」
 「違うのか?」
 「大正解や。すぐ行く。風呂でも入って待っとけ」
 きっと電話の向こうで辰巳は呆れたように笑っているのだろう。その顔が秀一にはすぐに思い浮かんだ。


end.

 



当サイトで使用されている画像及び文書は個人でお楽しみください。
転載、配布、改変はお断りいたします。