平の日常

 

 「平」
 ふいに聞き覚えのある声に呼びかけられて、平は視線をその声の方に向けた。
 「こんなところで何やってんだ?」
 秀一が珍しいものでも見るような顔で、平に近づいてくる。秀一がそう言うのも無理はなかった。女性服しか扱っていなさそうなきらびやかな店の前に、いかにも平は不似合いだった。
 「女房の買い物のお供です」
 平は店の中に顔を向けた。店内には見た目にもはっきりとわかるほどお腹を大きくした、平の妻、由紀子がその大きなお腹をものともせず、何着もの洋服を試着している。
 「休日は奥さん孝行か。なかなかいい亭主をしてるじゃないか」
 秀一が店内を見ながらおもしろそうに笑って言った。
 「秀一さんもお買い物ですか?」
 秀一の手には既に大きな紙袋が提げられている。
 「ああ、スーツを買いにな」
 「言ってくだされば私の方でご用意させていただいたのに」
 「お前に買ってもらういわれはない」
 秀一の顔が途端に不機嫌なものに変わる。
 「私ではありませんが」
 「どっちでも同じだ」
 さらに秀一の不機嫌さが増した。そんな秀一に平は笑いをかみ殺す。出会った頃からは考えられないほど、秀一は感情を表に出すようになった。明らかにそれは辰巳の影響で、けれどそれを口に出して秀一の機嫌をさらに損ねるようなことは平はしなかった。
 「あそこにいるのがお前の奥さんか?」
 秀一の視線をたどって平が店内に目をやると、由紀子がレジで精算をしているところだった。
 「そうです」
 「確か、結婚するときにお腹に子供がいたんじゃなかったか?」
 平がいわゆる『できちゃった婚』だということは辰巳から聞かされているらしい。
 「よくご存じですね。あれは二人目です」
 「本当にいい亭主をしてるわけだ」
 感心した口調で由紀子を見ていた秀一が、小さく頭を下げた。由紀子が秀一に気づき、満面の笑みで近づいてくる。
 「秀一さん、すぐに避難された方が」
 「避難?」
 「うちのには、若頭もたまに手を焼いておられます」
 「それはなかなか」
 秀一は驚いて目を見開く。
 「でももう遅いようだな」
 由紀子が二人のすぐもう後ろまで来ていた。
 「高ちゃん」
 そう呼びかけて由紀子が平の腕に手を絡ませる。
 「高ちゃん?」
 聞き慣れない呼び名に秀一が首を傾げる。
 「すいません。名前が高広ですので」
 避難したかったのは平の方だった。
 「この人が噂の秀一さん?」
 秀一の目の前で、秀一にも聞こえる声で問いかける由紀子に、平は困った顔で笑い、秀一は吹き出した。
 「それはどんな噂なのか、是非聞きたいな。はじめまして、神崎秀一です」
 女子供には優しい秀一が笑顔で由紀子に挨拶する。
 「噂してんのは高ちゃんとちゃうから怒らんといてね」
 「わかってるよ。辰巳の馬鹿だろ?」
 「そう。その辺の話、聞きたない?」
 「うん?」
 「せっかく会えたんやもん。もっと話したいし、どっかでお茶しましょ」
 「俺は構わないが、平、いいのか?」
 秀一のその問いかけにはいろんな意味が含まれていることに、平は気づく。由紀子といるときでは普段見せない顔を平が見せてしまうだろうことに対する平への遠慮と、辰巳の用でもないのに会っていても大丈夫なのかという心配。ヤクザは嫌いだと言いながらも、ヤクザである自分にもそんな気遣いのできる秀一に、平は到底敵わない度量の深さを感じる。
 「お時間があるのでしたら付き合っていただけると助かります」
 平は深く頭を下げた。
 
 
 平はおそらくこれから秀一と由紀子の間で交わされるだろう会話を想像して、御堂筋沿いにあるホテルのラウンジに二人を連れてきた。ここなら隣の席との距離もあり、平と秀一のような年代の男がいても目立つことはない。
 一番奥のテーブルに平と由紀子が並んで座り、その向かいに秀一が座る。ウエイトレスに注文をすませると、早速、由紀子が口を開いた。
 「想像してたんと全然違う」
 「想像って、ああ、噂からか。どんな奴だと思ってた?」
 「もっとね、女みたいな人かと思った。辰巳がとびっきりのべっぴんを捕まえたとか言うんやもん」
 由紀子の言葉に秀一の顔が険しくなったのが、向かいの席に座った平にはよく分かった。けれど、今更由紀子を止めることもできない。
 「美人と違て、すっごい男前って言わなあかんわ。辰巳にはもったいない」
 「それ、辰巳に言ってくれる?」
 「うん、会ったら言うとく。そやけど、辰巳の気持ちもわかるわ。もし高ちゃんの前に知り合うてたら、あたしも絶対にモノにしようとしたと思う」
 驚いた顔で平を見る秀一に、平は苦笑することでしか返せない。知り合った頃、16歳とは思えない押しの強さで押し切られ、気づいたときにはすっかり由紀子にはまっていた。生真面目とよく言われた自分には、由紀子や辰巳のような押しの強い人間が合うのかもしれないと、最近思うようになった。
 「そんなことより、いちばん聞きたかったことがあるの」
 そこまで言って由紀子はテーブルに身を乗り出し、声を落とした。
 「辰巳ってホンマにセックス上手?」
 そこに狙ったようなタイミングで、頼んだコーヒーと紅茶が運ばれて来た。由紀子は体を起こし、秀一は表情を固めたまま由紀子を見ていた。
 ウエイトレスが去ると、気を取り直した秀一が由紀子に答える。
 「たぶん上手いんじゃないか。他の男と比べたことはないから断言できないが」
 「あ、そっか、そうやね」
 「あいつが自分でそんなことを言ってるのか?」
 「もうね、テクニック自慢させたら止まらへんから」
 「馬鹿だ馬鹿だと思ってたが、本当に馬鹿だな」
 呆れたように秀一が呟く。
 「そやから、そんなに自慢するんやったら1回あたしとやろうって言うたんやけど、あ、高ちゃんと知り合う前の話やから、そしたら何て言うたと思う? あたしじゃ勃たへんて言うんよ。どう思う?」
 「どう思うって言われても」
 「高ちゃんはあたしで勃つのに、ねえ?」
 これにはさすがに平も秀一を正視できず顔を逸らすと、追いかけるように秀一の笑い声が聞こえた。
 「お前、いい奥さんもらったな」
 「勘弁してください」
 笑い続ける秀一に、
 「秀一さんも今日は買い物?」
 由紀子が全く平の様子も気にかけずに尋ねた。
 「ああ」
 秀一は頷いてから思い出したように、
 「これは大阪独特のものなのかな」
 「何が?」
 「大阪に来てから初めて試着をしなきゃいけないような服を買ったんだが、試着をしてる途中でいきなりドアを開けられて驚いたよ」
 平は素早く秀一の持っている紙袋に視線を飛ばした。袋に印刷された店の名前は心斎橋筋にある全国展開しているショップのものだった。
 「うっそー、そんなんされたことないよ」
 「じゃあ、男同士だっていうんで遠慮がなかっただけか」
 「あ、でもあたしだったら開けるかも。堂々と覗けるもん」
 悪びれずに笑う由紀子に、秀一も笑い返す。
 「俺の着替えなんか覗いても楽しくないだろ」
 「楽しいよ。辰巳かって楽しんでない?」
 「あいつは悪趣味なだけだ」
 「今まではあたしもそう思てたけど、今はええ趣味してるなあって思うわ。辰巳もようやく人を見る目が出来たきたんやね」
 わかったような顔で頷く由紀子を見ながら、秀一が、
 「おい、平」
 「何でしょう」
 「この子と辰巳はどういう関係なんだ?」
 「兄弟のような、というのが一番近いんじゃないでしょうか。家内が子供の頃、4年ほど若頭は家内の家で生活していたそうなので」
 「それで、この言いたい放題か」
 秀一は納得したように頷く。
 「若頭にここまで言えるのは、家内の他には秀一さんだけですよ」
 「なんだ、じゃ、俺と君とは同士ってわけか」
 そう言って笑った秀一の顔に、由紀子が引き込まれていくのが、隣の平にはよくわかった。辰巳が言ったという、秀一が本気になれば堕ちない奴はいないという言葉が嘘ではないとわかる瞬間だった。これまでにも何度となく同じような場面に出くわした。秀一は本気を出すまでもなく、無自覚で人を惹きつける。恋愛感情にはならなくとも、好意や信頼を相手から寄せられる。平自身もそうだった。
 「辰巳にイヤなことされたら言うてね。あたしが仕返ししたげるから」
 「それは頼もしいな。嫌なことなら常にされているが、我慢できなくなったら君に頼もう」
 「任せて」
 「母は強しだな。平、お前も頭が上がらないだろう」
 楽しげな秀一の声に、今度も平は苦笑しか返せなかった。
  
 
 その日の夕方、平は奈良にあるゴルフ場まで辰巳を迎えに行った。大抵の場合、平はどんな場所でも辰巳に付き従うが、今日は黒田組との和解のゴルフだった。組長と若頭同士の4人だけでという取り決めのために、平は送り迎えだけをすることになっていた。
 玄関前に車が横付けされるのを待つ他の3人を尻目に、辰巳は自ら歩いて車に近づいてくる。
 「お疲れ様です」
 辰巳が乗り込むために後部座席のドアを開けながら平は言った。
 「ああ、疲れた。接待ゴルフは疲れるな」
 一度も接待などしたことのない口調と態度で、辰巳が車に乗り込む。平はドアを閉めて、急いで運転席に戻り自分も車に乗り込んだ。
 「今日のスコアはいかがでしたか?」
 平は車を走らせながらバックミラーの中の辰巳に話しかける。
 「いつもどおりや」
 辰巳のゴルフは決してうまいと言えるものではなかった。組長の趣味に付き合わされて一通りを覚えたに過ぎない。だから普段から練習をするわけもなく、故にスコアが悪くても全く気にすることもなかった。
 「今日の昼、秀一さんに偶然お会いしました」
 「珍しい。あいつが外を出回ってたんか」
 「スーツを買いにと仰ってました」
 「ワシに言うたら生地から選ばせたんのに」
 「それは嫌がられるんじゃないでしょうか」
 「アホか。それがええんやないか」
 人の悪い顔で辰巳が笑っている。
 「スーツを買ういうことは、本気で事務所をしていく気になったっちゅうことやな」
 「よろしいんですか? また危険な目に遭うわないとも限りませんが」
 「そういうときこそ、あいつはおもろい」
 辰巳が悪趣味なのはこういうところだろう。平は秀一の言葉を思い出した。
 「それで由紀子は?」
 「家内が何か?」
 「今日は一緒に買い物や言うてたからな、秀一に会うたんやろ? どや、あいつも秀一のファンになったんと違うか?」
 「仰るとおりです」
 「ファンクラブでも出来そうな勢いやな」
 「そうですね。会長ももう決まってますし」
 「言うようになったやないか。由紀子の影響か?」
 辰巳が声を上げて笑う。
 「それよりも少し気になることが」
 「何や?」
 平は秀一に聞かされた試着室での一件を辰巳に話した。
 「目障りやな」
 話を聞き終えた辰巳が、一言吐き捨てるように言った。
 「そう仰るだろうと思いましたので、その店員を博多支店に飛ばさせるように手配しておきました」
 「相変わらず仕事が速い」
 バックミラーの中で辰巳が満足そうに頷いている。
 「そういや大木のガキな、全治2ヶ月やそうや。沢木が何か言いたそうにワシの顔を見とったけどな、しゃあないわな、どこの誰かもわからん奴に当て逃げされたもんわ」
 もちろん、そうなるように指示をしたのは辰巳で、手配したのは平だった。
 「これからも秀一にちょっかいかける奴がおったら、ワシの指示を待たんでもええ。お前の判断で取り除け」
 「承知しました」
 頷いた平がバックミラーで辰巳を見ると、辰巳は大きなあくびの真っ最中だった。ゴルフのときでもないと起きないような時間に起きた辰巳が寝不足なのは明らかだった。
 「今から寝る」
 そう言って辰巳は目を閉じる。
 「着いたら起こせ。行き先は言わんでもわかっとんな?」
 「はい」
 車をスタートさせたときから目指す場所は決まっていた。平はミナミの秀一の部屋へと車を走らせ続けた。

end.

 



当サイトで使用されている画像及び文書は個人でお楽しみください。
転載、配布、改変はお断りいたします。