Succubus Quest 短編 老司書の短い夢

Side Thafi

- Blanc et Noir -

-------------------------------------------------------------------------

私は闇の中にいた。

暗く、深い、闇の中に。

いつからこうなったのかしら?

そんなこと、もう忘れてしまうぐらい。

私はずっと、闇の中。

でも、悠久とも思えるほどの永い時を経ても、変わらないものがある。

世界で誰よりも愛していた、私の唯一の恋人への思慕。

遥か昔、青く幼い少年だった頃の彼の顔を思い出す。

今でも私の記憶にはハッキリと彼の顔が残っていて、鮮明に描き出される。



―――私から、別れたのに…何故、忘れられないのかしら…



描き出された顔は、私の愛しい恋人。

アイゼクト・ヴィルノイズの満面の笑顔だった。




-------------------------------------------------------------------------

ここのところ、私の眠りには不思議なもやがかかっているようだった。
今までは、澄み切った湖底のように揺らぎなく静寂で、私の意識は
虚空へと完全に埋没し、溶け込んでいたというのに…

その原因は、ハッキリとは分からない。
でも、この感触はとても懐かしい…そう、私が生まれた時のような懐かしさだ。

(もしかして、この感じ…夢魔が夜の国からこの世に現れようとしているのかしら)

私は直感でそう思った。
何故なら…私も、れっきとした夢魔だからだ。

(嫌な感じだわ…私自身も夢魔だけど…この眠りを妨げて欲しくない)

夢魔。それは本来、人を誘惑し、かどわかす悪魔。
夢の中で人と交わり、人を堕落させる、夜の国の住人。

そんな夢魔である私が何故、夜の国でも人間の世界でもない
時空の狭間とも言える、こんな闇の中で静かに眠っているのか。

それは我ながら、とてもとても、幼い理由だった。

(アイゼクト…会いたい…会いたい…会いたい…会いたい…会いたい…
 でも…私から彼を突き放したのに…
 今更彼に会うなんて…私にはできない…)

私が彼を突き放したのは、もう何十年前の事だろうか?

私は、靄のかかった頭で、しかし今でも昨日の事のように思い出せる
アイゼクトとの甘いひと時を思い出し始めた。

-------------------------------------------------------------------------

ある晴れた日の事。
私はいつものように、私に会いに来てくれるアイゼクトを、
王立図書館から離れた場所、城下町の隅の方で待っていた。

暫くすると、時を告げる鐘の音が響き渡り、人々の憩いの声でざわめきはじめる。
すると、いつものように彼が私のところへと駆けつけてくれた。
息を切らしながら、目を輝かせ、会いたかった、と言ってくれる。
私もよ、アイゼクト。私はいつもの挨拶を交わす。

「アイゼクト、今日はどこへ連れて行ってくれるのかしら?」

「僕のとっておきの場所さ。きっと、サフィも気に入ってくれると思う」

アイゼクトは待ち切れないと言わんばかりの顔で私の手を引いて、
その場所へといざなってくれる。

グルッペンから遠く離れ、東へと向かう。
ラウムと呼ばれる町が見えるが、その途中で北へ進路を変えるアイゼクト。

「あら、町の方ではないのね?」

「うん。誰にも秘密だよ」

草をかき分け、獣道をひた進むアイゼクト。
あらあら、そんなにムチャしたら綺麗なお肌に傷がつくわよ?
そんな風にくすくす笑う私に照れた笑顔を向けながらも
アイゼクトは『秘密の場所』を一刻も早く私に見せたいのか、
少しも歩みを止める事はなかった。
そして、四半刻ほど歩いただろうか。

―――『その場所』は見えた。

「ほら、ここだよ!」

「わぁ…!」

私は、らしくもなく目を輝かせた。

「どう?この花畑、僕が育てたんだよ」

「すごいわ、アイゼクト…大変だったでしょう?」

「ああいや、実は全部じゃないんだけどね。
 最初から結構、花はいっぱい咲いてたんだ。
 それをちょっとばかり、増やしてあげただけさ」

アイゼクトは照れて謙遜してはいたが、それだって並々ならぬ
手間と愛情が必要になるはずだ。一人で花を育てるなんて
男の子にとっては慣れないことのはずなのに。

「嬉しいわ、アイゼクト…
 最高のプレゼントよ」

私は素直な気持ちを彼に伝えた。
アイゼクトはその言葉に顔を赤らめ、嬉しそうに微笑んだ。

私たちはそのまま花畑で寄り添い、いつものように
『楽しい絵空事』を語り合う。

ありもしない空想の世界、そこで繰り広げられる冒険の数々。
不幸な星の元に生まれたお姫様と、それを救う英雄の話。

世界はこんなにも平和で、こんなにも幸せに満ち溢れている。
けれど、その全てはお姫様一人の不幸の上に成り立っている。
とても悲しく脆い平和。

けれど英雄は、世界全てを敵に回してでも
お姫様との幸せを掴むために奔走する。
捻じ曲げられたお姫様の運命を、変えるのだ。

最後に、英雄とお姫様は世界の敵になり、それでも幸せだと言ってのける。
二人の行く末を知る者は誰もいない。
もしかしたら、お姫様と英雄は…最初からいなかったのかも知れない。
すべては夢で、絵空事。

…そんな、子供の作り話。

私はそれを『Fate Falsification』と名付けた。

「フェイト・フォルシフィケイション?」

「ええ。運命を変える話にぴったりのタイトルだと思わない?」

「ふぅん。確かにぴったりだけど…
 Falsification(改竄)なんて、皮肉な言葉を使うあたりが君らしいね」

「ふふっ、それは褒め言葉として受け取っておくわ」

私たちはいつものように、笑いあう。
幸せだ。
こんな幸せな時がいつまでも続けば良いのに―――

私がそう思っていると、アイゼクトがふと、真剣な顔になった。

「サフィ。
 あのさ、聞いてほしい事があるんだ。
 …僕、サフィと…」

彼の、次に紡がれる言葉を私は制止する。

「アイゼクト。
 あなたが言いたい事、当ててみせましょうか?」

「え?」

彼は戸惑ったように赤くなり、焦り出す。

「あなたは私と…鬼ごっこがしたい!
 どう?当たり?」

アイゼクトはその言葉に面食らい、
しばし呆然とした。
そして直後にプッ、と吹き出し…

「あははっ、違うよサフィ。ハズレだ」

「あらあら、違ったのね」

私にはぐらかされたと感じたのか、アイゼクトは少し焦れったそうに
再び真剣な顔を作り、言おうとする。

「えっとね、サフィ。僕がサフィとしたいのは、そんな事じゃなくて」

だが私は再び制止する。

「分かってるわ、アイゼクト」

そして私は、黙って彼の唇を塞ぐ。

「んむっ…!?」

ちゅ…ちゅく…

そのまま私は舌を彼の口の中に侵入させ、艶めかしく這わせる。
彼の心臓の鼓動の高鳴りが、私の口から全身に伝わってきそうなほど
ドクドクと大きな音を立てていた。

れる…ちゅっ…

長く濃厚なディープ・キス。
私たちは今までずっとフレンチ・キスしかしたことがなかった。
決して、嫌なわけじゃないけれど…
どこか、避けていた部分はあった。

きっと、私が自分の本性を抑えきれないからだ。
彼の理想的な私は、淫らな私なんかじゃない。
そう感じていたからこそ、私はずっと自分を抑えていた。

でも、彼が望むなら私は…

ちゅっ…ちゅっ…ちゅぶっ…

淫猥な、それでいて甘いキスの音が私たちの耳に響く。
そして私はゆっくりと、焦らすように彼から唇を離した。

ちゅぽん…

アイゼクトと私の唇の間に薄く透明な糸が引き、
ややもすると儚く消えた。

「サ…サフィ…」

頬を紅潮させ、うっとりとした表情で私を見つめるアイゼクト。
私も胸がドキドキしている。

「アイゼクト…すきよ…」

私は再び、彼とキスしようとするが…

「サフィ…違うよ…僕は君と…」

そう、彼が言った時。彼の手が私の服にかかった時。
私の中の何かが、彼の手を止めた。

「まって、アイゼクト…」

彼は私の服を脱がせようとしていた。
私は、それを拒否した。
アイゼクトはがっかりしたような、懇願するような瞳で私を見つめた。

「駄目…なのかい?サフィ」

「いいえ…あなたに愛される事は…
 とても、嬉しいし…私は…
 愛して欲しい…けど…」

「けど…?」

「…ごめんなさい、上手く言えないけれど…
 まだ、心の整理がつかないの…」

私自身の、素直な気持ちだった。
私の中の夢魔の本性。本能。
男を求め、快楽を求める、淫乱な私。

それを…この無垢なアイゼクトに知られたくなかった。

「そう…ごめんね、サフィ。
 僕、先を急ぎすぎてたみたいだ」

アイゼクトは私の逡巡を『男の先走り』だと勘違いしたようだ。

「あ、違うのよアイゼクト」

私はそう繕うが、アイゼクトは優しく微笑む。

「ううん、気を遣わなくていいよ。
 僕…いつまでも待ってるからさ。
 サフィがその気になったら、言ってね」

「アイゼクト…っ」

私は涙が出そうなほど嬉しくなり、思わずアイゼクトを抱きしめた。

「ちょ、ちょっとサフィ…苦しいよ」

全力で彼を抱擁する。
このまま一つになりたい気持ちを全力で制止しながら。

「好きよ…世界のだれより、あなたが一番好き」

「うん…僕もだ、サフィ」

互いに抱きしめあい、それでも交わることなく、
私たちは愛を確かめるように言葉を交わしていた…

-------------------------------------------------------------------------

(ああ…アイゼクト…)

私は甘い想い出に身をよじらせ、闇の中に溶け込んでいた意識が
徐々にハッキリと形を持っていくのを感じ取っていた。

(駄目…もう、抑えきれない…
 こんなに会いたい気持ちが昂るなんて…
 これはきっと…)

夢魔が、近くにいる。
それも、並みの夢魔じゃない。

夜の国と現実の境目、『虚実の隙間』アンテルヴァルと称されるこの空間に
侵入する事が出来る程の力の持ち主…少なくとも、エルダーサキュバス級の夢魔。

(やめて…もう私をそっとしておいて…
 私は、このまま闇に溶けて消えていくの…
 アイゼクトを、彼を堕落させたくない…)

私はまた、想い出を振り払うように意識を闇に沈めようとする。
だが、遥か記憶の彼方にある彼との別れ…
私の頭は更に記憶の糸を辿って、その場面を紡ぎ出していた。

-------------------------------------------------------------------------

「…どうして!?
 なんで突然、この国グルッペンから離れるなんて…」

アイゼクトが青天の霹靂でも見たかのように、私に詰め寄る。

「ごめんなさい、アイゼクト。
 でも、こうしてはいられないわ。
 …分かるでしょう?」

「そんな…僕たち、まだ何も…」

「でも私たち、想い出はいっぱい出来たわ。
 …楽しかったわ、ありがとう…」

「サフィ!」

(ごめんなさい、アイゼクト…本当に、ごめんなさい)

私はやっとの事で溢れる涙を抑え、いつもの冷静な私を演じ切った。
彼から離れ、私は消えた。
文字通り、消えたのだ。

彼の意識する事の出来ない空間に身を隠し、
彼の手の届かない場所へと。

アイゼクトのその後の顔は見たくなかった。
別れが辛くなるだけなのが、分かり切っていたからだ。
でも想像はついた。

きっと、涙で泣き腫らしてぐしゃぐしゃになっているんだろう。
今の私と同じように。

(アイゼクト…貴方は私に溺れてはだめ。
 私は所詮、夢魔…貴方の願望、理想が形を為して生まれただけの
 儚い、そして淫らな悪魔…)

(貴方には未来がある。輝ける人生がある。
 私と一緒にいては駄目。その全てを、台無しにしてしまう)

(分かってくれるわよね?貴方なら、きっと。
 今は辛いかもしれないけど、きっといつか理解してくれるわよね?)

(もしその時、まだ私の事を覚えていたら…
 私…貴方ともう一度だけ…)

(いえ…もう、考えるのはやめましょう…)

私は涙でぐしゃぐしゃになった顔を両手で覆い、
夜の国へ戻った。

そして、夜の国に伝わる禁断の儀式を始めたのだった。
『虚実の隙間』アンテルヴァルへと自らの身を封印する…
私は自らの存在を消し去り、闇で眠り続けようと決めた。

それが、彼を捨てた私への罰。
私の許されざる罪を償う、唯一の方法だと思った。

夢魔でありながら人に恋し、叶わぬ恋を夢見て。
結果、全てを失った私に相応しい魂の牢獄。

私は死ぬことも、転生することもなく、永遠に孤独に生きる。
それが私の運命なのだ。

私は意識を虚空へと溶け込ませる儀式を行いながら、自らの愚行を悔い改めていた。

(さようなら、夜の国…私の故郷)

(さようなら、アイゼクト…私の恋人)

(さようなら、私の愛した世界の全て)

私は、全ての存在に別れを告げて『虚実の隙間』アンテルヴァルへと身を隠した…



-------------------------------------------------------------------------

(何故なの…?何故私の記憶を掘り起こすの?
 あなた、一体誰?まさか、アイゼクト?
 いえ、そんなわけないわよね…人間がこの空間に来れるわけがないわ)

(夢魔なのね?これほど強い力を持った夢魔に会うなんて
 私が夜の国に居た頃にも滅多になかったわ…)

(ねえ、あなた…お願いだから私をそっとしておいて…)

私は必死に懇願する。
何者かが私の記憶を読み、私に対して働きかけている事が明白だった。
その夢魔らしき何者かは無遠慮に私の意識中に入り込んでくる。

「あらあら、こんなに素敵な心と体をしているのに…
 勿体ないわねぇ。アタシがちょっとばかり、揺り起してあげようかしら?」

つつー…っ

何者かの指が、私の背中をなぞる。

ひゃっ!?
私はびくんと体を跳ねさせた。

(ぁ、ああっ…何をするの?)

夢魔らしき何者かはうっすらと笑うと、私の体を優しく抱擁してきた。
その感触がとても柔らかく心地よく、私は思わず身を預けてしまった。
その瞬間、私は自らの肉体が完全に具現するのを感じ取った。

肉体が重みを感じるなんて、何十年ぶりのことで
快楽に心躍る自分を、とても抑えきれなかった。

「うふふ…楽しみましょう」

(んっ…駄目、そんな事したら…)

くちゅ…ちゅっ…

夢魔の唇が私の唇を奪う。
濃密なキス。気持ちいい。

そのまま夢魔は手際よく私の服を脱がせ、生まれたままの姿にする。
虚空の中、私は濃密な肉の交わりを全身で感じ取っていた。
私は久しぶりに感じ取れる夢魔としての自分の本性を剥き出しにし、
抗えぬ甘い快楽に溺れていた…

そして、私は彼女の手練手管に…あっという間に、絶頂に達せられてしまうのだった。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ…」

「うふふふ…ごちそうさま♥」

「あ、あなた一体何者なの…?」

こんな空間に侵入し、更には肉体すらも失いかけていた私を
実体化させ、おまけにこんな…

「こんばんは」

あれだけ体を貪った後に挨拶とは、ふざけた夢魔だ。

「…こんばんは」

だが、生真面目な私はつられて挨拶する。
時間の概念が失われた空間で「こんばんは」、というのも滑稽な話だが。
まあ、夜の国の流儀なのだろう。少なくとも、現在の。

「それで、あなたは誰…?私に何か、用があるの…?」

私は少し落ち着きを取り戻し、夢魔に対面して問いかけた。

しかし、改めて見ると…なんという淫らな姿の夢魔だろう。
まさしく、夢魔と言えばこのような姿をしている…といった風貌。
それでいて、普通の夢魔にはとても出せないような
淫靡で、かつ圧倒的なフェロモン。気後れするほどの美しさ。
究極の、或いは至高の夢魔とはこういった存在の事を言うのだろう…

私が軽く呆けている様子を見て、夢魔は面白そうに尋ねてきた。
私の質問にも答えずに、だ。

「ふふっ、見とれているの?」

「み…見とれているわけじゃないわ…
 こんな空間に夢魔が現れるなんて…驚いているだけよ…」

私はその夢魔のからかうような口調に翻弄されてしまう。
雰囲気に呑まれている、そんな感じだ。
夢魔はゆっくりと口を開くと、さえずるように自己紹介する。

「アタシはエスト。エスト・モルンよ」

「エスト…聞かない名前ね」

私は夜の国から離れて長かったため、エストの名前は初めて聞いた。
それに、夜の国だって広い。
私が知っている夢魔なんて、ごくごく一部なのだ。

「ふふ。アタシもあなたみたいに素敵な夢魔が
 こぉんな無粋な場所で眠ってるなんて思いもしなかったわ」

「…あなた、何でこんな所アンテルヴァルに来たの?」

不思議だった。
『虚実の隙間』アンテルヴァルは、そもそも自分の存在意義を失った夢魔の終の住処のようなもの。
死ぬためではなく、永遠に自分を縛りつけるという魂の牢獄である。
だが、見たところ…どう見ても自分を律するような夢魔には見えない。

「うふふ、最近は人間界に面白い事が多くてねぇ。
 ちょくちょく夜の国と人間界を行き来してたのよ」

「…まさか、その際に私の存在を感知したとでも言うの?
 外界と完全に遮断された、この空間にいる私の存在を」

「そんなところかしらね」

エストと名乗った夢魔は、軽く言ってのけた。
この圧倒的な魔力と存在感を前にすると、それも納得という気はするが…
好きこのんでここへ来る夢魔にはやはり見えないため、どこか腑に落ちなかった。

「…それで…さっきも言ったけど、何の用なの?」

私は警戒を強めて、さっきの質問をぶつける。
すると…

「あなたが欲しいのよ」

エストは笑顔でそんな事を言った。

「…私、あなたのものになる気はないわ」

私は毅然としてそう言った。
私の体はアイゼクトのもの。
それ以外の誰にも、捧げる気はない。
触れる事は許しても、心は許さない。

「うふふ、可愛いわね…まあ、言い方を変えましょうか。
 あなたの力が、欲しいのよ」

「私の力?」

キョトンとして私は言った。

「そう…あなたも相当な魔力を持っているみたいだからね」

「…そうかしら。自分でそんな風に思ったことはないわ」

実際、私は自分の魔力をアイゼクトの誘惑に使った事は一切ない。
だから、全くそんな実感はない。

「自覚がないのね。でもアタシには分かるわ…
 ふふふ、その力…存分に揮ってみたくはない?
 否、使いたいでしょう?」

「…勝手な事、言わないで!
 貴女に私の何が分かるのよ」

どうやら、このエストという夢魔は
かなり強引な性格をしているようだ。
自分のペースで話を進めるエストを私はやおら警戒し、
キッと睨みつける。

「うふふっ、そんなコワい顔しないでよ。
 さっきみたいに可愛い喘ぎ声、出してたとは思えないわねぇ」

彼女の言葉にいちいち神経を逆撫でされる私。
駄目だ、これはきっと彼女の手口だ。
乗せられ、翻弄されてはいけない。

「…私は誰にも力を貸さない。
 神だろうと、悪魔だろうと。
 貴女が私の力を得て、それでどうしたいのかは知らないけれど、
 私は貴女とこれ以上関わる気はないわ」

私はエストにきっぱりと、冷たく言い放つ。

「あらあら、嫌われちゃったみたいね?」

だがエストは余裕の笑みを全く崩すことなく、
私にさらなる誘惑を仕掛けてくる。

「じゃあ、取引と行きましょう」

「…取引ですって?」

これ以上耳を貸さない、と言った端から返答してしまう。
しまった、と思った時にはもう遅かった。

「そう、取引。
 アタシがあなたの願いを叶えてあげる」

エストは古臭いながらも、確実かつ悪魔らしい取引を持ちかける。

「その代わり、アタシを愉しませて欲しいのよ」

…先程と言っている事が違う。
私の「力」が必要だという話ではなかったのか?
不審な表情をする私に、エストは続ける。

「…そのために、あなたの力が要るの。
 言ってる意味、分かるかしら?」

私は理解しかねる、という表情を以て返答する。
言葉に出さない。ほんの少しだけ揺れ動く気持ちも、顔には出さない。

「そう、分からないなら別にそれはそれでいいわ。
 あなた自身とは何の関係もないことだから…」

エストは要領を得ない事を呟く。
まあ、彼女の個人的な事情なんてどうでもいい。
私はあくまで冷たい表情を崩さないように努める。

だが、次の一言で私の表情は一変した。

「それで、アイゼクトと言ったかしら?
 あなたの、愛しい恋人の名前」

ぎくり。
私は表情を強張らせ、あからさまに動揺する。
やはり、この夢魔…エストは私の記憶を読み取っていたのだ。

私のアイゼクトへの思慕も…別れた理由も…全て。

「…貴女には関係のない事よ」

私は動揺を隠せず、思わず切り返してしまう。
軽く言葉の端が震えているのが自分でも分かった。

するとエストは勝ち誇ったようにニヤリと笑う。

「あら?そうかしら?」

そしてエストはたっぷりと間を置いて、続けた。

「アタシの力があれば、あなたの積年の想い…
 遂げられるかも知れないのだけど」

「…!?」

その誘惑は、私の理性を飛ばすのに十分なほどに
魅力的だった。だが私は最後の理性を総動員し、
彼女の提案に逆らってみる。

「余計なお世話よ…貴女に私の気持ちなんて
 分かるわけ…ない。
 今更アイゼクトと会うなんて…無理よ」

だがエストはまるで動じない。
むしろ、私の反応を見て更に機嫌を良くしたようだ。

「ふふふ…言葉とは裏腹に、気持ちはもう
 『彼に会いたいから、協力して』って
 言ってしまってるように見えるけどね?」

エストのその言葉に私は心臓を鷲掴みにされたような気分になる。
その隙をエストは見逃さない。

「楽になっちゃいなさいよ。好きなんでしょう?
 あなたの、これほどの魔力と魅力…
 彼を落とすために使わない手はないでしょう?」

ぐらぐらと揺れ動く私の気持ちを見透かすように、
エストは笑みを絶やさずに私の瞳を真っ直ぐに見詰めてくる。

「いや…いやなの!アイゼクトが私を拒絶したら…
 私がアイゼクトの人生を粉々にしてしまったら…」

私は、たまらずに感情を吐き出した。
何十年も闇の中で溜まっていた、思いの丈を。
このエストという夢魔に、全て曝け出してしまった。

「私、それこそ…この空間で独りぼっちでいる事より、
 ずっとずっと悲しくて…耐えられない」

私は泣きそうになりながらもグッと涙を抑え、悲痛な思いを口にした。
するとエストは…こともなげに私に言った。

「あら、あなたの愛しい彼は
 もう既に齢八十程の、お爺ちゃんになっているのよ?」

私は愕然とした。
私が『虚実の隙間』アンテルヴァルに自らを封じて、もうそんな年月が経っていたのか。
エストが何故そんな事を知っているのかはともかく、驚いた。

「それなのに、人生がどうこうなんて…
 ふふっ、もう気にする事ないと思うわよ?
 むしろ、冥土の土産にイイ思いさせてあげたほうが良いんじゃない?」

「だ、だけど…!アイゼクトは…」

彼はそんな事を望む人じゃない、大体、きっと私の事なんか
忘れてるに違いない…私はそう言いかけた。

「それに、あんな歳になってまで、あなたの事を想い続けているのよ?」

私は、更に驚いた。
アイゼクトはきっと、もう私の事など青い想い出として
忘却の彼方だと…そう思っていた。
いや、願っていたからだ。

「それなのに、あなたはず〜っとこんな無粋な場所でおねんねだなんて…
 彼、可哀想だと思わない?」

「そんな…私は、彼のためを思って別れたのに…
 彼の無意識がそう願ったのよ…堕落したくない…って…」

私は自分の中の最後の牙城を以てエストに抗おうとするが、
全てを見透かしたエストを前にしては、もはや無駄なことだった。

「それは、あなた自身が嫌われたくないが為の口実でしょう?」

エストは私の心を的確にえぐってきた。
ズキリと胸が痛んだ。
そんな私の心中を知ってか知らずか、エストは容赦なく続ける。

「厭らしい自分、淫乱な自分。夢魔である事に対する拒絶。
 ただ、それだけの事でしょう?」

「彼の理想の彼女を演じていたあなたにとっては…
 そんな自分を晒すのは、耐えがたい事だったのかもしれないけど」

「結局のところ、自分を守りたかっただけなのよね?」

エストの正鵠を射た言葉が深く私の胸に突き刺さる。

「…っ!」

私は、図星を突かれて絶句する。
まさに、その通りだった。
私はアイゼクトの未来を案じるなどという言い訳を盾に、彼と別れた。

勿論、それも嘘の気持ちではない。
彼の人生を考えれば、私のような夢魔にのめり込み
堕落してしまう事は…彼にとって本意ではない。
私は彼の無意識の心を読み取って、そう動いた。

しかし、私自身の気持ちは違ったのだ。

彼と、愛し合いたい。
どんな形であれ、どんな結末であれ…

ただ、愛し合いたい。

どう思われてもいい。

好きなのだ、アイゼクトが。

「私…私、アイゼクトの気持ちを考えてなかったの…?」

私は頬を伝う涙を隠す事も出来ず、ただただ自問する。

「そうね、今もあなたは自分の事ばかり」

エストは私の誰にともつかない自問に、残酷な真実で以て答えた。
だが…その直後、彼女は私に救いの手を差し伸べる。

「けど、それでいいのよ。
 女なんて、誰しも自分勝手なものよ。
 後は、ほんの少し…ほんの少しだけ、自分の気持ちに素直になればいいの」

エストの先程とはうって変わって優しげな眼差しに、
私は凍てついた心が溶かされていくような気持ちになった。
そして我を失い、たどたどしく言葉を紡ぐ私。

「そんな…私…アイゼクトにこんな自分を知られたら…」

そんな私に最後の追い打ちをかけるエスト。

「あら、あなたもなかなか強情ね。
 忘れたのかしら、花畑で彼があなたとしたい、って言った事」

「で、でも…それは…きっと私がこんな…夢魔だって知らないからで…
 本当の私を知ってしまったら…」

「じゃあ、もう一つ教えてあげましょうか?」

「?」

「彼、あなたと交わる夢を快く受け入れたわよ」

「え…っ!?」

「少しだけ見せてあげたのよ。彼に、あなたと交わる夢をね。
 私があなたの記憶から抽出した映像と、あなたの体の感触を
 上手く使って…ね」

「そ、それでアイゼクトは…?」

私はたまらず、彼の反応を訊く。

「ふふっ…とっても嬉しそうだったわよ?」

その一言に、私の頭は幸せでいっぱいになった。
ああ、アイゼクトが…こんな私でも…愛してくれる…?

「そ、そんな…私が夢魔でも…いいの?
 私…正直に…素直になっても良いの…?」

私が籠絡する寸前、エストはとどめの一言を放った。

「そうすれば、きっと彼は振り向いてくれるわよ」

それが、エストが私を陥落させた最後の言葉だった。

-------------------------------------------------------------------------

「まったく…誰が考えた?このような。馬鹿馬鹿しい」

王立図書館司書長、アイゼクト・ヴィルノイズは憤慨していた。
夢魔などという馬鹿げた存在に。
また、そんな物の研究をさせられた影響なのか、容易く
淫夢を見た自分に対する恥じらい。

しかも、その相手は…

(…くだらぬ!幼き想い出…ありもしない想い出…
 都合の良い、幸せな夢を作り出すとは…)

アイゼクトは、サフィとの甘く心地よい交わりを夢想したことに、
強い苛立ちを覚えていた。
その気持ちを夢魔への否定に変え、呟く。

「いるはずがない、このような…」

その、刹那。

「素敵…
 でも残念ね、現にいるのよ、おじいちゃん」

アイゼクトの頭に、夢魔エストの誘惑が響き渡った。

-------------------------------------------------------------------------

「仕込みは終わったわ。
 後は、あなた次第ね」

エストは『虚実の隙間』アンテルヴァルへと戻ってきた。
私に全ての準備が整った事を報せるために。

アイゼクトに私と交わる夢を見せた事、
夢魔の存在が現実のものである事、
そして、私の居る場所へと辿り着くための道標…

それら全てを、エストは周到に用意した。

「お疲れ様、エスト。
 この代価は…」

「ええ、あなたの魔力を私に分けてくれる事で取引成立ね。
 ふふ…イキのいい男を沢山相手にするには、夜の国と人間界が
 ようやく結ばれたばかりの現状では…ほんの少し足りなかったのよね」

エストは色々と言っていたが、私はなんとなく言い訳がましく感じた。
そして、今までのお返しとばかりに率直な質問をぶつけてみる。

「…貴女、本当はただ私とアイゼクトの逢引を見て
 愉しみたいだけなんじゃないの?」

「くすっ、どうかしらね?」

エストははぐらかすように微笑む。

―――ああ、駄目だ。

このエストという夢魔は…私なんかより一枚も二枚も上手だ。
今回は私の想いを遂げるための前座として
その役割を全うしてくれるようだけれど…

ハッキリ言って、敵わない。

アイゼクトへの想い以外に、彼女に勝てる要素はない。
私はそんな風に思いながら、自嘲気味に微笑み返した。

「そう…、まあ、いいわ。私にとってはどうでもいい事だものね。
 …貴女には感謝するわ。
 これでアイゼクトと…本当に、愛し合えるのかも知れないんだから」

「お礼は彼と添い遂げた時にで良いわよ、サフィ」

エストはそんな風に言ったものの、少しだけ嬉しそうに
はにかむのだった。

「そうね…頑張るわ」

私は気を入れ直し、『虚実の隙間』アンテルヴァルから脱出する儀式を始めた。

(アイゼクト…
 もし、貴方が私を拒絶したとしても…)

(私は、もう迷わないわ)

(ただ、私の夢魔としての本性、気持ち…
 あなたへのとてもとても利己的な愛…)

(それら全てを、あなたにぶつけるわ)

(覚悟していてね、アイゼクト)

そして私は雑念を振り払い、集中する。
『虚実の隙間』アンテルヴァルからアイゼクトの夢へ。

―――彼の夢とひとつに、彼と夢でひとつに…

そう、強く強く願うのだった。

monzaさんからの頂き物です

-Fin-