水溶性天然炭酸カルシウム鉱石の神秘・北海道二股温泉史
 目次
(1)二股温泉の歴史的概要
(2)二股温泉の特長
(3)二股温泉の交通
(4)二股温泉の成分
(5)二股温泉の石灰華
(6)二股温泉の医療
(7)二股温泉の温泉水と石灰華の利用
 
(1)二股温泉の歴史的概要
北海道の火山帯は横に走る千島火山帯と、縦に走る那須火山帯がありその接点に概ねぶつかる付近に二股温泉が位置している。この温泉はJR函館本線、長万部駅から北に一つ目の二股駅から国道五号線を横切り西の山側にある長万部岳(982メートル) 目がけて8km入った地点にあり、長万部川の上流二股川の流域の石灰華の段丘に建つ一軒宿の温泉である。昭和時代の温泉場の建物は広島の原爆ドーム型をしており、さながらUFO基地を思わせる様な近代的な形をしていたが、平成に入り老朽化が激しく危険なため取り壊したため今はない。

二股温泉は北海道の温泉の中では特異な存在で、その特異とする点は石灰華
(注:1)と、公認されたラジウム泉(ラドン)である。
とりわけ石灰華は数少ない一つであり、規模においてもわが国唯一の石灰華である。石灰華および温泉水については既に大正後期に東京帝大の脇水鉄五郎教授(理博)が放射能の測定を行い、又温泉科学についても北大・名大・道立衛生研究所などの研究論文が残っている。
温泉療養の面では昭和の初期に新潟医大の医学士による結核診療が行なわれ、当時不治の病と云われた結核の療養に一つの光明を与えた温泉である。

北海道の温泉発見の歴史は、原住民に近いアイヌの人々によって発見されるケースが多い。だがアイヌ人よりも早く発見したのは道内に棲息しているヒグマによる発見が早い。手負熊は療養の場として温泉を利用していた。二股温泉もこの例にたがわず手負熊を追う長万部部落のアイヌ人によって発見された。よってこの温泉は「熊の湯」と云われた頃もあった。アイヌの人々は病気や傷に効果があることから「神の湯」と崇めた温泉でもある。

明冶30年代に入り初代の温泉経営は秋田県出身の嵯峨重良によって開湯された。嵯峨重良は当時秋田県議会議長を務めた大物であったが、政治事件により投獄を逃れるため単身北海道に渡ってきた。札幌に行くつもりであったのが、辿りついたのが長万部村、ふと足をとめたのが一軒の居酒屋、恐る恐る中に入ると風情が自元のアイヌ人と思われる二人連れが焼酎を呑み乍らひそひそと話をしていた。重良は旅の疲れを酒に賤やしながら二人連れの話に耳をそば立て聞いていた。アイヌ人の話の中で二股と云う所から山奥の温泉で、何人もの同胞が病気や怪我がなおり霊験あらたかな温泉であることが判った。重良は興味をいだき、二人連れのアイヌ人に話をかけた。そして翌日二人連れの案内で温泉まで三時間余の道程を歩き温泉に辿りつき、非常に不思議な温泉である事を知った。

その後そのアイヌ人から二股温泉の権利を譲りうけ、北海道で一花咲かそうと考えた。その時の権利金(料)は焼酎鬢(一斗入)二本分
(注:2)であった。重良はその後道庁に申請を行い認可をうけて明治33年に「嵯峨温泉」と命名した。開湯当時は堀立小屋に毛の生えた様な粗末な温泉場であった。重良もかれこれ30年も過ぎ、喜の字を迎える年となった。当時として長命であった、が後を継ぐ者もおらず、一説にはボケ老人となり或日忽然と嵯峨温泉より姿を消した。山中でヒグマに喰われた説も残っている。

二股温泉は、明治30年代より現在まで約88年間、八代に亘り経営されてきたが、一代の平均年は平均11年で経営難もあり経営者が目まぐるしく変った。八代に亘る経営者の中で特筆すべき経営者は、初代、二代、三代目の方々であろう。初代は生れいずる悩みで苦労した。二代目の樋口善太郎は石灰華をPRし、薬品の製造に、三代目の藤村篤治は、温泉療法を主に結核の温泉治療に盡力し世界の温泉場を夢見た人である。(参照第1表二股温泉の歴代の経営者)

平成12年に八代目清水目良一(札幌)から、所有者が新たに変わり温泉旅館も増改築されたため現在は昔の面影がない。以降は付き合いがなく正確な事はわかりません。
  第1表 二股温泉の歴代の経営者
(注)経営期間は資料なきため不明の部分あり。
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(2)二股温泉の特長
明治時代に開湯して以来、今日に至る二股温泉の特長を総括的に話すと次のとおりである。

①石灰華
世界における石灰華の顕著な例は、アメリカ合衆国のイエローストン
(注:3)である。わが国の石灰華ドームの最たるものは二股温泉にある。この石灰華ドームは北海道の天然記念物に指定された。
②ラジウム泉
道内にはラジウム泉は数少ない。二股温泉はラドン
(注:4)を含む温泉として公認された代表的温泉である。
③結核療養温泉
結核は不治の病とされた時代があった、その頃新潟医大の医学士が診療にあたり、結核湯治者が快方に向った例が多く確認された。
④神泉
二股温泉の原泉(鉱泉)は霊顕あらたかな神の(神泉)として昭和 7年頃京都に本部をもつ、有名宗教団体がこの原泉を神が授けた神泉として信者が使用したと伝えられている。
⑤ラジオ温泉
二股温泉は「ラジオ温泉」と云われた時代があった。それは当時街でも珍らしい鉱石(検波)ラジオのレシーバーを各室に備え、文化的温泉として名を高めた。
⑥数多い湯治客
山峡のいで湯に昭和の初期に宿泊者100名に及ぶ湯治客、泊り切れない客は屋外に天幕を張り150名の宿泊者もおり、当時道内の代表的登別温泉と比較され、国民新聞社の全国温泉番付に名を連らねた。
⑦温泉薬品
二代目樋口善太郎は、石灰華の薬品化に意欲を燃やし11種類に及ぶ医療薬品を製造し、当時植民地であった台湾、朝鮮にまで販路を拡げ昭和11年以降は満洲まで販売した。
⑧象、花子の療養
昭和43年、旭川動物園飼育の象の花 子が温泉療養を行った処でもある。戦時中には軍馬の療養にも使われた。
 
(注:1)温泉水中に過剰に含まれるカルシウム分が地上に湧出した時に沈澱物となり地上に堆積され石の層になる。
(注:2)当時白米一升当り17銭。焼酎1.8㍑当り27銭。
(注:3)イエローストンはアメリカ・ワイオミング州北西部にある最も古い国立公園(1873年)で世界最大の規模をもち、最大の石灰華や間欠泉は世界一。但し石灰華の質は二股とは若干異っている。
(注:4)放射能を含む温泉水の中には、ラジウム系、トリウム系、アクチニウム系の放射性元素を含む、そのうちどこでも多く発見されるのはラジウム系でラジウム系の中でもラジウムの子にあたるラジウムエマチオン、即ちラドンを含むものが多い。ラドンの半減期は3.84日である。ラドンは温水より冷泉に溶け易い。ラドンは皮膚からも吸収されるが、気管を通り肺から吸収される。
 
(3)二股温泉の交通
二股は長万部町より国道五号線に沿い北に8.6kmの地点にある。且つて松浦武四郎(注:5)がこの地を通過した折に「ここの人家一軒あり、傍に稲荷の小社あり、川あり、この川はオシヤマンベ川の本流なり、右をチライ川、左をオシヤマンべ川と云う」と書き記している。又二股は安政4年(1857年)幕吏荒井小一郎が農民を入植させた土地である。昭和15年に双葉と改名され林業と酪農を主とした所である。
鉄道は明治34年に函館─小樽間が工事に着手し、36年には二股駅が俊工し同年11月に森─熱郛(黒松内)が開通の運びとなった。

二股温泉は二股駅前の国道を北に1.3km進み二股橋を左折し山側に入る、長万部岳を目標に二股川沿いの林道を七・五粁進み、Y字点で左に500メートル、坂を昇った高台にある。現在車では15分程度で温泉に着く。昔は道なき道を徒歩で二股川沿いを、時には川の中をそのまま歩く事もあったと云う。大正の末から昭和にかけて乗物は道産子の駄馬が使われた。当時駄馬は山駕籠と云い、荷物の少い客は馬の乗鞍に一人乗り、馬子が手綱を引く。荷物が多い時には鞍を中心に鞍の両側に箱を付け、片方に人、片方に荷物を乗せ、人と荷物のバランスをとり馬に揺られ乍ら二時間の山道を昇り温泉宿に着く。
九十九折の道を手綱を引く馬子も苦労したと思うが、又慣れない客も大変で、重病人などは尚大変であったと思われる。

二股駅前には昭和の初めに「温泉案内所」が開設された。今迄個人的に客の搬送を行った馬主も、馬主同志が結束して組合をつくることにした。その名は「二股温泉駄馬組合」である。
この組合の運営は温泉宿と直接関係なく、湯治客の便宜と自分達の生活の糧のため組織された。この組合員は又自主的に、適時道路の修繕も積極的に行った。

昭和初期の駄馬運賃は片道一円三十銭であった。現在は温泉宿の車が二股駅と温泉間を往復する便があり、客の依頼で長万部駅まで行くこともある。二股と温泉間の道路は昭和21年に整備され、同28年には村道から町道に昇格した。昔は冬期間は雪のため休業であったが現在冬期間は除雪車が入る。道道はほとんど舗装されている。
 
(注:5)探険家松浦武四郎が安政五年幕府の命により蝦夷地の調査を行 った時函館から室蘭方面に行く途中、今の黒松内に足を延ばした折に二股を通過した。
 
(4)二股温泉の成分
二股温泉の近くには公認の温泉が二箇所あり、南西に長万部温泉、南に美利加温泉がある。二股温泉から直線で結ぶと15kmの地点の長万部温泉は食塩泉。10km離れた地点にある美利加温泉は単純泉である。近いから泉質も同じかと思うが、そこが温泉の不思議さである。

二股温泉の場合は主成分が炭酸カルシウムであり、二股の地層に石灰石又は石灰石系の岩層があるものと推定されるが、二股の場合は美利加温泉の様に地層には判っきりした石灰系はあらわれていない。二股温泉の成分表を第2表に示す。他二箇所の温泉と比較すると成分に差があることが判る。陽イオンでは、カルシウム分が一段と二股が高く次いでナトリウム、カリウムイオンが高い。陰イオンでは塩素・重炭酸イオンが二股温泉が高い。

二股温泉の成分、分析は二代目の樋口善太郎が東京帝大、脇水鉄五郎教授(理博)に依頼したのが最初と思われる。後述する石灰華の放射能測定について測定値は残っているが温泉水の成分表は見当らない。

戦後は二股温泉の成分、分析はいろいろな角度からの試験が行なわれたのでその都度分析が行なわれた、その代表的な試験は、昭和29年に「二股温泉のミネラルの成分に就いて」清水、本間(道立衛生試験所)が分析を行っている。

二股温泉は自然湧出であり湧出口は概ね十箇所と云われているが、脇水(東京帝大)が探索した湧出口は第2図に示される五箇所である。二股は温泉の外に鉱泉も湧出しており、これは炭酸泉である。昭和54年に、北山・佐藤・井上(道立衛生研究所)が二股温泉のラドンについて公式の測定を行った(第3表参照)その結果によれば、温泉および鉱泉(炭酸泉)は共にラドンを含み、特に鉱泉(炭酸泉)はラドン濃度の規準値5.5マッヘ/㎏をはるかに超えた数値であることが確認された。泉温は温泉で40度(C)以上、鉱泉(炭酸泉)は20度(C)となっている。
 
(5)二股温泉の石灰華
アメリカのイエローストンの石灰華は量や規模において世界第一級の石灰華である。わが国では岩手県の夏油温泉の天狗岩(石灰華ドーム)も知られてはいるが規模においては二股温泉の石灰華はわが国では最大のものである。

アイヌの人々から神の湯と崇められた二股温泉と湧出した温泉が沈澱して層をつくる石灰華は、その異状と不思議さにおいて、何人と云えども知る事ができずに至った。この不思議さに着目し解明の糸口をつくった人は樋口善太郎である。樋口は、石灰華の医療商品化を考え、当初石灰華を「樋口石」と命名した。そして前述の脇水(東京帝大)に調査を依頼した。脇水は早速調査を行い先ず石灰華の分折と、堆積量について調査を行った。石灰華の埋積量について次の様に述ベている。

「石灰華の分布の主な区域はカシュリナイ(湯の沢)の左側にある。元同川の水蝕で巾218メートルの渓谷を埋め、長さは谷に沿って545メートル余に及び北に延びている。温泉小屋はこの沈澱区のほぼ中央に在る。その西に高さ9メートル、長さ145メートルの大堤があって約南北に走り、小屋の東北にも高さ3.6メートルから5.4メートルの土堤があって、東西に近い方向に走っている。北と西をこの両土堤によって囲れた方形の地域の地形は一般に平坦だが、南の方カシュリナイの岸に向って次第に低くなり南端はドーム状の半円形テレス(段丘)となって、カンュリナイ河畔に終っている。

この方形平地の東端は60メートルの断崖となり、石灰華は断崖の下218メートルも東北に延長継続している。既記の大小両上堤と西及び北を繞れる山地との間は殆ど「く」の字になり曲った一帯の平地となっており、この平地の部分も又全部石灰華である。石灰華はこの平地よりも尚西南に向ってカシュリナィの両端側に狭く延長約163メートル石灰が分布する面積は約3万坪で層の厚さを平均188メートルと見積れば全容積は30万立方坪となる」と述べている。膨大な量の石灰華の堆積である。恐らく何百年、何千年の間に蓄積されたものと思われる。

昭和40年6月に石灰華が道の天然記念物に指定された頃、この年国際地震学会がわが国で開催され、学会員が二股温泉と石灰華を見学した年の秋に紅葉が美しい頃であった。石灰華のドームを見た後石灰華ドームの上で不思議な現象を目撃した。それは温泉水の流れの上に紅葉の落葉が落ちると忽ちにして紅い葉が白くなる、手にとって見ると葉は硬く石灰の天婦羅に似たものができる。これはかなり後で判った事では炭酸カルシウム等の沈澱物が温泉水の冷却に従い付着する事であった。これについては既に昭和27年に二股温泉水の変化について太泰・北野(北大)が研究を行った。

A 温泉水の日時変化。
B 温泉水が流れている間に起る変 化。
C 温泉水を静置させておく間に起る変化。

についてテストを行い、更に固形物に変る炭酸カルシウムが固形化する時系列変化およびその過程について北野(名大)が昭和28年~29年に亘り研究を行った。

沈澱物は温泉の湧出成分、量、温度などにより種々な結晶となるが概ね六種類に分けられる。各沈澱物の主成分は炭酸カルシウムであるが、分析では酸化カルシウムとして53~55%の範囲で差がない、鉄分の含有量の増加によって白色から淡黄色や茶系の色に変る、鉄分の増加によって沈澱物が硬さを増すと同時に沈澱物の量に支配的因子として働いている。

古い石灰華の層を調べる事により年一度、秋に落ちる落葉が石灰華の年輪をつくり沈澱の生長の過程が伺うことができる。年に堆積層が1メートルに達することもあるが少い年は20cmの時もあると云う。雪が結晶をつくる場合空中を浮遊する塵が雪の核となるように石灰華の場合は藻が沈澱物の核(BⅡ型)が介在する場合がある。

石灰華の放射能測定は大正年間(大正8年)脇水(東京帝大)がシンチロススコープと計電器を使い放射能の確認を行い、更に内務省東京衛生試験所でシュミット氏計電器を用い循環法に従い検定を行った結果、ラジウムエマナチオンの量は(100億分の1キュリー単位)19.90であった。これはマツへ単位では5.47になる。
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石灰華の放射能測定は大正年間(大正8年)脇水(東京帝大)がシンチロススコープと計電器を使い放射能の確認を行い、更に内務省東京衛生試験所でシュミット氏計電器を用い循環法に従い検定を行った結果、ラジウムエマナチオンの量は(100億分の1キュリー単位)19.90であった。これはマツへ単位では5.47になる。
 
(6)二股温泉の温泉療法
温泉の分類は一度に化学成分による分類が適用されている。
その仕分けは単純泉にはじまり、放射能泉まで約11種類に分けられ、温泉成分の多いものが、温泉名となっている。二股温泉は「ナトリウム・カルシウム塩化物泉(中性低張性高温泉)」でこれに弱放射能性が加っている。一般的には神経痛やリウマチに効果がある事はもとより、鉄分を含むので怪我や傷の回復は申すまでもない事であるが二股温泉の最大の特長である炭酸カルシウムが高いので結核療法に着目されたものと思われる。

わが国の結核は明治の後期より増え続け、大正7年には死亡率は1000人対2.53人で最高となった。アメリカの6倍も高い。今想えば現在のガン以上の病気で不治の病とされた。結核は種々種類はあるが圧倒的に肺結核が多い。

結核療法の三原則は、①新鮮な空気、②安静、③栄養、が最大の療法であるが現在もこの三原則は貫らぬかれている。三代目の藤村篤治は私財を投じ温泉場の改善に務め、長期湯治者のため便宜をはかる手立をした。温泉や鉱泉(炭酸泉)に含まれる放射能に目を向けた、病弱に悩む人々の救済と、天から受けた霊泉を世界的に宣伝して、人類の幸福を目標に、国立温泉場の完成を夢に画いていた、湯治客の療養に腐心し、その現れとして客室付近に診療室をつくり、実弟にあたる新潟医大卒の藤村東夫医学士
(注:6)を医大研究室より招請して湯治客の診療にあたらせた、昭和6年の頃である。特に医家より見放された呼吸器系疾患の湯治客に診療を続け重症者も病勢の進行が止り快方に向った例が少なからずと聴いている。

その外高血圧症、肛門疾患、神経痛、胃腸疾患、皮膚病、婦人科疾患、喘息など。入浴療法と鉱泉(炭酸泉)の飲料療法の併用により、病状によって入浴時間と回数と鉱泉の飲む量を検討し調整を行って、湯治客の実験例を報告書にまとめ報告している。
特に呼吸器疾患については薬のない時代であったので、死病から脱出するため藁をも掴む思いで道内以外の地からも療 養に来た湯治客もいた。
 
(注:6)医学士藤村東夫は温泉入浴にあたり「入浴者心得」のパンフをつくり入浴者に説明した。又鉱泉(炭酸泉)の内服にあたり「温泉原液内服の心得」をつくり説明にあたった。更に「療養中の心得」なるものをつくり実行させた。
 
(7)二股温泉の原泉(鉱泉)と石灰華の活用
戦後新興宗教が派生し、その中で鉱泉やミネラルウォーターが神から授かった神水(又は神泉)として使うケースがある。至近な例では、相川神霊教院(虻田郡豊浦町字新山梨)の井戸から湧出する名水や、天照教会(室蘭市柏木町)の神泉は豊浦町海岸から湧出する鉱泉(鉄分を含む)は火傷などに効く事から信者の方々が神泉として使用している。

前述の神泉はごく最近の例であるが、今から45年前にさかのぼった頃も神泉が使われた事があった。それは本部が京都府亀岡にある大本教(二代目教祖 、出口王仁三郎)
(注:7)で、二股温泉の原泉を霊顕あらたかな神泉として信者が使用した経緯がある。原泉は二股温泉で瓶詰めにして貨車で送られた。その外については後述する。

一方石灰華は二代目樋口が脇水(東京帝大)の推せんによりラジオシンターと改名し登録出願により正式に承認うけたことは前述した通りである。時は大正15年10月の事である。樋口はその後東京牛込(牛込区京町五丁目)に「ラジオシンター堂」と云う会社をつくり二股温泉から送られた石灰華を工場で粉末調整して、散・丸薬、軟膏薬、坐薬、温浴剤、罨法薬、石鹸、薬用打粉、薬用歯磨粉など、すべてに石灰華を配合し薬用品として販売をはじめ更にこれに新薬(新製品)を加え、肛門用・膣用スポース、呼吸器専門吸入用ブルバーを新製品として販売した。これらの製品はラジオ堂で製造したので薬品名の頭にラジオ〇〇〇と名を付けた。

鉱泉は「ラジオ原液」として二股温泉でビール瓶(600g)に詰められ販送された。当時の販売価格は薬の少ない時代であった為もあり割合高い価格で販売され、販路は国内だけでなく台湾・朝鮮まで売られた、昭和11年の2.26事件を契機として戦争時代に突入し、引続き満州建国もあり、ラジオ堂の製品は満州まで販路が拡大された。この薬品の販売はいつ頃まで続いたか、詳しい事は判らない。

戦後は食料難時代を迎え、食料の増産と質的向上を目ざして研究が進められた。石灰華は炭酸石灰であることから、味噌にカルシウム強化をはかる目的から味噌をつくる大豆に石灰華粉を添加しての試験が行なわれた。又仔兎、仔緬羊の飼料に石灰華粉を添加の試験も行なわれ体重増加の効果をあげた。現在二股温泉の経営者は八代目にあたるが、本社は札幌の水の素㈱(社長・清水目良一)が経営にあたっている。数年前から石灰華を精製し天然温浴剤として、「二股温泉湯の華」を販売している。
 
(注:7)大本教は教祖出口ナオ二代教祖出口王仁三郎。明治二五年に開教、習合神道系の当時の新興宗教で、昭和10年不敬罪(治安維持法違反で検挙)で二度目の弾圧をうける。王仁三郎は屈することなく、獄中で平和論をとなえた。生長の家や世界救世教は大本教を本家としている。
 
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参考文献
(1)脇水鉄五郎(東京帝大)、「北海道二股温泉の放射性石灰華」、地学雑誌第34年第397号。
(2)清水猛、本間正一、「二股温泉ミネラルの成分に就いて」、(第一回北海道薬学大会で発表)昭和29年8月。
(3)北山正治、佐藤洋子、井上勝弘(北海道立衛生研究所)、「二股温泉の湯、鉱泉水のラドン濃度」北衛研報第30集。
太奏康光、北野康(北大)、「二股温泉水の変化・その一」日本化学雑誌第73巻第9号、昭和27年9月。
太奏康光、北野康(北大)、「二股温泉水の変化・その二」温泉の科学研究第17報 、昭和27年3月。
太奏康光、北野康(北大)、「二股温泉水の変化・その三」、温泉の科学研究第18報、昭和28年4月。
(4)北野康(名大)、「温泉に産出する炭酸カルシウムの形・その一」、日本化学雑誌第74巻第5号、昭和28年5月。
北野康(名大)、「温泉に産出する炭酸カルシウムの形・その二」、日本化学雑誌第74巻第10号、昭和28年10月。
 (北海道の温泉史より)

 
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