クンダリーニ・ヨーガ 有酸素系フィットネスレベル 外呼吸 有形 0 特にヨーガ的な内観を行なわない
一般ヨーガ・レベル 養気 1 肺(全体と肺胞)の拡大と収縮を内観
2 呼吸筋等のインナーマッスルの内観
本来のヨーガ・レベル 練気 内呼吸 3 太陽神経叢の内観(血液と神経)
4 各チャクラ(肉体レベル)の内観
本来のクンダリーニ・ヨーガ
レベル
行気 5 中枢神経の内観
6 内分泌バランスの統制と内観
無形 7 虚観
8 空観
高度なタントラ・レベル
ウパニシャッドの瞑想
9 無との合一
10 無との融合
クンダリーニ・ヨーガの階梯

クンダリーニ・ヨーガには1000種類を超える膨大な数の技法がある。
しかしそれが故に、あたかも技法のコレクターのようになってしまい、長年懸命に努力しても単なる肉体トレーニングの
域を脱しないようなケースが少なくない。
例えば、ヨーガを始めた方でも、ストレッチや有酸素運動と何が違うのか疑問をもたれた方もいることだろう。
もし後述する有酸素系フィットネスレベルでヨーガに取り組むのならば、その疑問は左程的を外れてはいないと思う。
どんなに火の呼吸を練習しても、内観を伴わなければ、それは筋力や心肺機能を鍛える程度の効果しかないからだ。
ヨーガには多くの呼吸法やメディテーション、エクササイズがある。
しかしそれらは本来、内観を容易にするための補助的な技術に過ぎない。
ヨーガのもつ真の価値を求めるのならば、どのようなやり方でなければならないのか。
ここではそれについて検討したいと思う。
極論を言えば、もし内観に秀でている方ならば、半跏趺座で静かに腹式呼吸するだけでヨーガを極めることが
できるだろう。勿論この場合、外見的にはただ座ってゆったりと呼吸しているようにしか見えないが、実際には本稿で
説明するような複雑なプロセスを以って内観を行なうことになる。
枝葉を追うのではなく、その原理を真摯に探求することこそ道を極めるための近道なのだ。

「有酸素系フィットネスレベル」
ポーズや呼吸法などの体の運動だけを練習している段階。
ヨーガ的な内観を伴わないので、ストレッチや有酸素運動などで得られる効果と大差ない。
<外呼吸と内呼吸について>
口や鼻等から肺を通して血液に空気を取り込むのを外呼吸といい、血液によって運ばれた酸素が体細胞に
消費されるのを内呼吸という。一般に、呼吸法とはこの外呼吸の手段をいい、その外呼吸には大きく分けて、
腹式と胸式の二種類がある。また経路の区分けとして、口呼吸と鼻呼吸の二通りがある。
内呼吸とは医学的には細胞組織におけるガス交換のことで、組織呼吸・細胞呼吸ともいう。
外呼吸によって体内に取り込まれた酸素は血液によって運ばれ組織の細胞に与えられる。
各組織で発生した二酸化炭素は,酸素と入れ替わり血液の中に入り肺まで運ばれる。
このように全身の組織では細胞と血液の間で組織液を通してガス交換が行われているわけだ。
つまり呼吸とは鼻や口で吸ったり吐いたりする事を指すだけでなく、全身レベルでのガス交換を意味する。 
この作用は組織細胞と血液との間の酸素・二酸化炭素の濃度差(ガス分圧差)によって起こる。
呼吸法を行なう場合、先ず呼吸本来の意味とその仕組みについてその原理を熟知しなければならない。

「一般ヨーガレベル」
ポーズや呼吸法などを練習しながら、全身の血流、肺と肺胞、呼吸筋などを内観する。
それによって呼吸に対する理解が深まり、心身の安定にも役立つことだろう。
@ 肺(全体と肺胞)の拡大と収縮を内観
まずはじめに呼吸に合わせて拡大と収縮を繰り返す肺とそれに連動する胸郭の動きを内観する。
それがよくわかるようになったら、次に肺胞レベルの内観に進む。
<胸郭の構造と肺胞について>
A 呼吸筋等のインナーマッスルの内観
腹式呼吸などの際に横隔膜をはじめ呼吸に必要なインナーマッスルがどのように運動するかを内観する。
<呼吸筋とインナーマッスルの連携について>

「本来のヨーガレベル」
前者に加えて、特殊な意識(チャクラなどへの内観)の使い方が伴う段階。
練習中のみならずリラックスの間も指定された内観をしっかりと行なうようにする。
形と呼吸は各チャクラ等を活性化させるための誘発剤として位置付けて行なうとよい。
<第一階層のチャクラについて、内分泌腺・神経叢・臓器等の説明>
<練気とは何か>
練気とは、気を特定のポイントに集中させ、その周辺域を個別の目的に従って練成する技法をいう。
ヨーガの殆どのエクササイズはこの練気を伴うと考えていい。またヒーリングメディテーションなども
この範疇に入るだろう。
B 太陽神経叢の内観(血液と神経)
臓器や骨格、筋肉などの内観をある程度習熟したら、次は太陽神経叢の内観に移る。
これは腹部の血液と神経の動きに集中し、繊細に観察することでマスターする。
C 各チャクラ(肉体レベル)の内観
太陽神経叢の内観ができたら、そこで生み出された丹田の熱塊を用いて、それを各チャクラ(1〜3番)で増幅するように
下から順に内観をかけてゆく。この際には各種の高度なバンドゥつまりボディロックが必要になる。
行気の練習にもなるので正確にかつ念入りに行なうといいだろう。(できれば良師に師事する事をお薦めする)
火の呼吸はクンダリーニ・ヨーガの代表的な呼吸法だが、このレベルまできたら次の段階に進むために徐々に
火の呼吸を卒業しなければならない。
ヨーガは深奥に近づくほどシンプルで穏やかな技法になってゆく。火の呼吸もなくなり徐々に汗もかかなくなるので
何となく物足りなく感じる方もいるだろうが、本質に迫るにつれより繊細にそして絶妙なバランスを要求される。
クンダリーニ・ヨーガをやる以上、徐々に量よりも質の向上を心掛けて欲しい。
勿論最初の1〜2年は相当な努力が要求されるだろう。ここで紹介するメニューも簡単ではないと思う。
だが、次の段階に進むには別の鍵が必要なのだ。

「本来のクンダリーニ・ヨーガ・レベル」
エネルギーの循環や制御が主題となる段階。
このレベルになったらクンダリーニ・ヨーガを熟知した指導者の注意深い経過観察が必要になるので独習は困難だ。
直接指導が受けられないならば、第3段階の「本来のヨーガレベル」までとした方がいいだろう。
<行気とは何か>
行気とは、体内の気を意識の力や体内操作によって特定のポイントに誘導する技術を言う。
小周天などがこれに属するが、実際にはヨーガの殆どのクリヤはこの行気を伴うと考えていい。
サットナムメディテーションなどがこれに属する。
D 中枢神経の内観 
人間の神経系には3種類ある。中枢神経系は脳と脊髄をいい、頭部と体幹に位置している。
この中枢神経系と連結する末梢神経系は全身に分布し、また脊髄に沿って脊髄神経を枝分かれしている。
脊髄神経が複雑に絡み合ったポイントを神経叢といい、ヨーガ理論上の各チャクラの位置に対応している。
自律神経系は心拍、呼吸、分泌など生命活動のベースとなる機能を管理している。
これは更に交感神経と副交感神経に大別される。
ここでは、その中枢神経系を微細に内観する。脊髄呼吸とでも言おうか、まさに脊髄を一つの呼吸経路として
用いる感覚で練習をはじめるといい。レベルCで各チャクラの内観を練習したが、この段階では
中枢神経系にスシュムナー(主要なナーディ)を想定し、クンダリーニのエネルギーを活性化させる。
先のCでは、熱エネルギーを使ってチャクラを刺激したが、ここでは神経系の働きをメインに据える。
脊髄が太くなってゆく感覚を明確に得ると共に、各チャクラの充実感を確認できたら次の段階に進んでよい。
E 内分泌バランスの統制とチャクラの内観
一般にチャクラを説明する際に、臓器・部位、神経叢、内分泌などをグルーピングして各チャクラに配する
ことが多いが、Eでは内分泌をテーマとして内観する。ここでは特に4〜7番のチャクラに対する練習がメインとなる。
脳と肉体のリンケージがブロードバンド化することが必要であり、6〜7番のチャクラを以って、1〜5番を
如何に制御するかがここでの課題となる。これがある程度達成されれば、あれこれと体を動かして
行なうメニューは必要なくなる。
F 虚観
G 空観
このレベルでは、もはや呼吸は一切意識しない。チベットのティロパが弟子のナロパに説いた「マハムドラーの詩」の
中に「中空の竹」という表現が出てくる。「心を空しくして何ものも思わざれ、中空の竹のごとく汝の体をくつろがせ」
とあるが、前段の「空」と次の「中空の竹」は言わば表裏の関係にある。この中空の竹とはまさに「虚」を意味する。
「空、虚、無」が同じ意味だという人がいるとすれば、残念ながらその方はそれらのどれひとつ体験できていないと
告白するに等しい。なぜならこの3つは全く別の体験だからだ。
先ず、空と虚について言うならば、虚は器に対する観照を伴い、空は肉体感覚の消失をその要件の一つとする。
この両者は言うなれば視座の違いだけなのだから、その一方だけを体験するということはないと言っていい。
空と虚は、そのどちらを先に体験するかは人それぞれだと思う。元々表裏の関係なのだから後先は関係ない。
この詩の最後の段でティロパは次の様に言っている。(本稿でのこの詩の引用は全て「存在の詩」めるくまーる社より)
「はじめヨーギは、おのが心の滝のごとく転落するを感じ、中ほどにてはガンガーのごと、そはゆるやかにやさしく流れ、
ついに、そは大いなる海なり、息子と母の光が一つに溶け合うところ」
私は経典や聖者の詩篇は、旅行のガイドブックのようなものだと思っている。
暗記するほどハワイのガイドブックを読み込んでも、ハワイに行ったことにはならない。
本人にとってはあくまで想像の世界に過ぎないのだから、なにひとつ現地での体験もないし、感動もないだろう。
しいて言えば、後日行った時のために事前の予備知識を持つ程度の意味はあるだろうが、ヨーガや宗教の世界では
往々にしてガイドブックを読んだだけで行った(到達した)つもりになる人が少なくない。
私は、経典や聖者の詩篇は、自分の体験やそこから得た理解・発見を後日確認するためのものだと考えている。
たとえばハワイのガイドブックを手に現地観光するように、あるいは帰国後に思い出を辿る様にページをめくる。
それなられば「なるほど」と頷きながら読むことができるし、あるいはその場で気づかなかったところにも目が向くことだろう。
そのようなプロセスで経典等を読むと、その言葉の意味も行間の思いもはっきりと受け止めることが出来る。
私は自分の体験を通してこの「マハムドラーの詩」を読み返したとき、先ずはじめに「とても良く書けている」と思った。
「中空の竹」といい、その言葉の選び方が実に適切だし、最後の段のまとめ方も素晴らしいと思う。
蛇足ながら最後の段について言えば、「中空の竹」が完成すると、そこを凄まじいばかりの光の洪水が通過する。
その激しさを「滝」と表現するのも見事だが、次の「ガンガー」もまた実に言い得て妙だ。
そして最後は無と合一し、融合する。この一連の流れはまさにタントラの世界であり、ヨーガの極致だといっていい。

「高度なタントラ・レベル、ウパニシャッドの瞑想」
H 無との合一
I 無との融合
クンダリーニ・ヨーガは確かに高度な技法体系を持っているが、「無との合一・融合」を体得するには十分ではない。
なぜならば、その境涯は本来高度なタントラやウパニシャッドの領域だからだ。
ここでは中でも最も高度な「シャクティパッド」によって合一を果たすことになる。
具体的な話をすると、無との合一には、方法として2種類ある。
それは虚に受け入れる受動的な場合と、空を到達させる能動的な場合である。
シャクティパッドは前者のケースで必要なものだが、本来は自力で後者を達成して初めて合格だといえる。
実際のところ、良師に恵まれれば、無との合一はさして難しいことではない。
サハスラーラ・チャクラを入り口として、勇気を持ってその眩いばかりの光の世界に踏み入ればよいのだから。
しかし融合となると全く次元が違う。
幸いにして、とりあえず99%くらいまでは体験できたと思うが、まだ満足ゆくレベルではないため、ここでこの話題を
終わりにしたい。