DD54 far memories
1969-1972
70.1.25 丹波口
69.12.11 二条
69.12.14 梅小路区
あの頃の京都の少年達は、
みんなシゴナナが大好きで、
新鋭のDD54が初期故障で運用を外れ、
山陰線の客レがC57牽引に戻ったり、
生野峠の補機がつかなかったりすると、
「このまま廃車になったらええやん」と
悪態をつきながら、歓声をあげていた。
でも、みんな心のどこかで、
「DD54って、ほかのDLやELと違って、
えらい格好ええなあ」と思っていた。

30年の時が経ち、ネガを何度もまさぐり、
「なんで、これだけしか撮ってないねん」
と、遠い日の少年に、ため息と一緒に
ひとりごちるのも、なかなか悪くない。
京都駅山陰ホームで発車を待つ。この頃、初期故障が続出し、「蒸変運用」も一時的に行われた。夕陽の反射が眩しい。
70.1.11
京都市内を行くDD54を、ハーフサイズカメラで捉えたショット。左の東海道本線と並走する京都目前のあたりは意外と変わっていないが、右の花園付近はすっかり変貌している。
70.3.27(左) 69.10.5(右)
梅小路にも、必ず何輌かのDD54が駐留していた。左はトップナンバー、さすがにちゃんとシャッターを押している。
69.12.14(左) 70.3.14(右)
71.4.6 保津峡
71.4.25 保津峡−馬堀
山陰京都口といえばここ。
保津峡の旧線を行くDD54牽引の貨物列車。
無火回送のD51は、後藤工場からの出場か、あるいは関西線方面への転属だろうか。
71.4.3 馬堀−保津峡
71.4.18 馬堀−保津峡
馬堀を出て、渓谷へ分け入る前の築堤も、「LIGHT PACIFIC 70」でブレイクした有名ポイント。朝のC57客レを待つ間、リハーサルでシャッターを押したのが、この2枚。ああ、でもこれだけしかない…。
いま思い出してみると、
あの頃の列車は、みんな長かった。
長編成の旧客にDD54がよく似合う。
でも、14系ハザ6Bなんかも、
よく似合っただろうな。
ジョイフルトレインもどうだろう。
「サロンカーなにわ」、「ユウユウサロン
岡山」、いいかもしれない!
71.10.31 亀岡−並河
71.5.31 丹波口−京都
71.7.25 丹波口−京都
万博輸送で登場した12系を使用した海水浴臨「はしだてビーチ」は、C57との共通運用だった、「あ〜あ」といいながら撮った1枚だ。
播但線生野峠の補機仕業も忘れられない。ただ、当時、この補機が付かないときを狙って訪問しており、ネガの散逸もあって、DD54のカットはきわめて少ない。

72.2.20 生野
1974年春。
梅小路から豊岡、さらに浜田へ
移ったC575が役目を終えたとき、
すでに、山陰線の優等列車は、
DD54からDD51の牽引に変わっていた。その後、東舞鶴の構内で
何輌も繋がれて廃車を待つDD54の写真を雑誌で見かけたのは、
いつの頃だったのだろうか…。

こうして、残った写真は少ないが、
DD54は、いつも遠い日の記憶のレールを、美しく駆けてゆく。
71.3.31 田儀−小田
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