アウシュヴィッツ生き残り作家の死と生

――ホロコースト[1]の心傷の克服

                        本多峰子

 

わたしは幸いを望んだのに、災いが来た。

光を待っていたのに、闇が来た。

わたしの胸は沸き返り

   静まろうとしない。

苦しみの日々が私に襲いかかっている。

光を見ることなく、嘆きつつ歩き

人々の中に立ち、救いを求めて叫ぶ。……

 

私がむなしいものと共に歩き

この足が欺きの道を急いだことは、決してない。

もしあるというなら

正義を秤として量ってもらいたい。

 

どうか、私の言うことを聞いてください・・・

全能者よ、答えてください          (旧約聖書「ヨブ記」30-31, 35)

 

 人は、今まで思ってもいなかった不幸に見舞われて、それが自分の手ではいかにしても解決できず、逃げることもできないとき、どうするだろうか。老いや病気や天災による死を前にして、人間は、人生のはかなさを感じ人生の意味を問い直すかもしれない。事故や災害で財産や健康を奪われて、今までとまるで異なる生活を強いられることもあるかもしれない。世の中の無常や生老病死は万人に課された苦難であり、人生や人間の本質をわれわれに問い直させる。われわれは、人間としていかにこの短い一回きりの人生を生きればよいのだろうかと、われわれは考える。それらは、人間であることの本質にかかわる問いである。けれども、人間としての本質自体を奪われるようなことがおこったら、われわれはどうしたらよいのか。人間らしく生きることさえむずかしいような状況に追い込まれたら、どうしたらよいのだろうか。

ユダヤ人問題は、私が論じるには大きすぎ、私の資力をはるかに超えている。それゆえユダヤ人問題を語るのは、本論の目的ではない。本論ではただ、生き残って作家になったいく人かの人たちがどのように苦難から立ち直ったか、立ち直れなかったかを、考えてみたい。現在の日本のだれひとりとして経験していないホロコーストの苦しみを経てきた人々が、その後どのように生きていったか、どのような発言をしているかは、われわれに、苦難に面した人間の生き方をその最も激しい極限状況で考えさせる。部外者である限り決して真には語りえないし、語るべきでもない問題を語ろうとすることと、部外者としても看過すべきではない問題を垣間見てしまったこととのジレンマを感じながら、私は本論を書くことにした。現代における苦難と救いの問題を考えるとき、だれもが一度は考えてみなければならない問題の一つだと感じたからでもある。これを自分とは無関係な他人の不幸としてではなく、自分の問題として、自分の力ではどうしようもない苦境に陥ったとき、非人間的な扱いを受けたときどうすることができるかを考え、それとともに、他人を非人間的に扱うということの深刻さはいかなるものなのかを認識することも、本考の目的である。

*          *          *。

  第二次世界大戦中、ナチスはヒトラーの指導のもとに600万人にのぼるユダヤ人を虐殺した。それも、ただ殺すのではなく、犠牲者の人間としての尊厳をことごとく奪ったあとで完全に抹殺することが、彼らの目論見であった。彼らはいかなる時に人間が人間としての尊厳を失い、ついには人間として生きることさえもできなくなってしまうかを熟知して、犠牲者をそのような状態に追い込んだ。

 ヒトラーはアーリア民族のなかにユダヤ人が混じり住むことを嫌い、ことにその血が交わることを嫌った。そしてその『最終解決』として、すべてのユダヤ人を殺害しようとしたのである。けれどもこのいわゆる『最終解決』の決断は、突然表れたのでも最初から明らかにされたわけでもない。西洋におけるユダヤ人差別と迫害の歴史は長く、それが20世紀、ヒトラー指揮下のドイツ、ポーランド、その他の国でふたたび公に激化したのだ。そして、それにも『最終解決』に至るまでに、いくつかの段階があった。193341日にはユダヤ人の経営する店にユダヤ人以外の客が入ることが禁止され、一週間後には、非アーリア民族(つまりすべてのユダヤ人)はあらゆる公職と教職から追われ、公民権を剥奪されている。そのときユダヤ人として公職を追われた人の中には、それまでドイツ人として社会や教育に尽くしてきた人も多かった。そもそも元来、ユダヤ人とはユダヤ教を信じる信徒のことで、百科事典などの定義では、いまでも第一にそう記されている。しかし1935年にニュルンベルク法で定められたナチスの定義では、祖父母のひとりでもユダヤ人であった者は、ユダヤ人の血筋と見なされ、実際にユダヤ教を信じているいないに関わらず差別の対象になった。公園のベンチには「アーリア人のみ」という文字が書かれ、ユダヤ人は映画館からも劇場からも閉め出され、公共の交通機関を使うことも禁じられた。そうして、一歩一歩、社会から追われていった彼らは、ついに、財産を没収され、ユダヤ人居住区として仕切られた、せまいゲットーに閉じこめられた。ゲットー内では、住居、食料、水、暖房のすべてが欠乏し、衛生状態も悪く、伝染病がはやり、路上には死んだ人たちの死体が横たわっていた。そこから、強制収容所への輸送が始まったのは1942年だが、そのとき彼らは、新たな土地へ移住させるという作り話でだまされて列車に乗りこんだのである。その時点ではゲットー内の多くの人は、いままで以上のひどい状態が想像できず、ナチスの嘘を信じてダカウやアウシュヴィッツの収容所に運ばれていったのである。そして、ガス室で殺された人々の他にも、多くの人が銃殺され、あるいは移送中に死んでいった。ガス室が考え出される以前には、犠牲者は自分たちの墓穴を掘らされ、穴の脇に並ばせられて、銃で撃たれ、墓に落ちて重なって埋められたのである。

 そして、強制収容所に到着した後のユダヤ人は、選別され、囚人番号を腕に入れ墨されて、死ぬか殺されるかするまでわずかなパンと水のようなスープを一日に一回与えられるだけで苛酷な労働を課せられた。収容所では、極端な飢餓、寒さ、暴力、重労働に加えて、もっとも屈辱的な拷問として便所を与えず、夜間などは、囚人は、自分の食器をそのために用いるように追い込まれたという。[2]しかも、食器を洗う水などは、もとより与えられなかった。文字どおり、人間の排泄物の中に横たわるしか寝る場所もない生活である。エイミー・ナイバーガーも書いているが、「アウシュヴィッツは、入ってくる囚人から、アイデンティティーを示す物をことごとく剥奪することによって、個人性を奪った――囚人たちは、名前を奪われ、服も髪も奪われ、見掛けさえも個性を奪われた。私的な場所はまったくなかった。……飢餓と、苛酷な労働と、病気とが、人間をやせこけた『イスラム教徒』(完全に無感情になったただ死を待つばかりの囚人を収容所ではこう呼んだ)にしてしまった」。 [3]また、テレンス・デプレは、「ただ殺したのでは十分ではなかった。相手が屈服せずに死んだなら、つまりもし、その人間の中で何かが最後まで破壊されずに残っていたとしたら、彼を殺した力は、結局、彼を破壊しきれなかったことになる。何かがその力の手の届かぬところに逃れてしまったことになる。そしてその「何か」----それを「尊厳」と言おうか----それこそ、その力が支配の快感の頂点を極めるためには、死んでもらわねばならないものだったからである」と書いている。[4]強制収容所、ことに、ガス室を備えたアウシュヴィッツのような抹殺収容所は、文字どおり、ユダヤ人を殺すために設計された。その毒ガスが殺虫剤であったことは周知の事実である。それは、人間を殺すための物でなく、虫けらを殺す物であったという点で、まさにナチの目的にかなっていた。ユダヤ人を徹底的に卑しめて殺す、という筋書にあっていたのである。そして、ここには実際にガス室でユダヤ人を殺すドイツの若者にとって、自分たちと同じ人間を殺すのよりも、人間に見えない者を殺す方が、心理的負担が少ないという理由もあった。人間を殺すのよりは、虫を殺す方が、殺す側のものにとって楽だからである。 [5]アウシュヴィッツの合計5つのガス室では24時間に6万人殺害できた。この収容所だけでも、少なくとも250万人の男女がガスで殺され焼却された。そして、その大部分はユダヤ人であった。[6]殺された人々の金歯、衣服などはすべてとり置かれ、焼かれた人々の油から石けんが作られたことも、今では知られている。

 

収容所の生活は、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』や、プリーモ・レーヴィの『アウシュヴィッツは終わらない』など、邦訳された書物にも記録されているが、生き残り作家であるプリーモ・レーヴィ自身、「ラーゲルの歴史はほとんど、どん底まで知ることのなかった私のような者によってしか書かれていない。底まで知ってしまった者は、戻ってこなかったか、戻ってきても苦しみと理解できない経験のせいで見たものを書く能力が麻痺してしまっているからだ[7]と、言っている。事実ははるかにわれわれの想像力を超えたものだったに違いない、ということが、おそらく確かに言いうるすべてであろう。

近年では、さらに、迫害を生き延びた人たちの子どもにまで及ぶ心傷の深さが精神医学などの方面から取り上げられている。その先がけとなったのはヘレン・エプシュタインによる『ホロコーストの子どもたち』である。この本でエプシュタインは、1968年になされた精神科医ニーダーランドの報告から、ホロコースト生存者に顕著な「生き残り症候群」として、「不安、認識及び記憶の障害、慢性的鬱状態、孤独癖、自閉症、自意識の変化、心気症、それに『生きる屍』的な変貌」といった症状をあげている。エプシュタインは、彼らが、自分の衝撃的経験を言葉に表すことができず、「事実、その体験は言葉にして表現することが非常に難しいという性質を持っているので、ほとんどの場合、その伝達は全く不可能といえる」[8]と記している。生存者は自分たちの体験をわが子にさえうまく伝えられない。子供たちは親の苦悩を決して完全には知りえず、自分たちの理解が及ばないということのみを知っている。エプシュタインはこのいわゆる生存者症候群が家庭に影を落とし、第二世代の子どもたちを戸惑わせているばかりか、彼らの心に深刻な影響を与えていることを明らかにしている。子どもたちは、ホロコーストの苦しみを考えると、それを経てきた両親にはあえて何も逆らえず、自分たちが抱えている問題などは、両親の苦しみに比べればほんのささいなことに過ぎないと考えて、自分を抑圧するように育つところから、彼ら自身も神経症にかかってしまうのである。両親が、失ったものや失った家族を埋め合わせるものとして、子どもたちにかける期待の大きさも、しばしば過度のストレスになっている。また、エリー・ヴィーゼルが『五番目のむすこ』[9]で取り上げたように、ホロコーストで殺された兄や姉の影が家庭内で、ホロコースト後に生まれた子どもに重ねられる傾向もある。その場合、幼い子どもは、自分のなかに両親がだれか他の子どもを見ているのを微妙に感じ、自分のアイデンティティーを見失ってしまう。自分がだれなのかが、分からなくなってしまうのである。

 

 

<ジャン・アメリー(Jean Améry 1912-1978)>

 

ジャン・アメリーは1943年に逮捕され1945年まで、アウシュヴィッツなど、複数の収容所を体験する。 そして33年後の1978年、自殺した。彼は『自殺論』で自殺を、「自由意志による死(=自死)」として擁護している。[10]そして、そのとおり、1978年に自ら手を下して、死を選ぶ。彼の『自殺論』を原文のドイツ語から英訳したジョン・B・バーロウによるとアメリーの自死に対する関心は、すでに、大戦前に書かれた未刊行の小説に見られるというから、[11] 彼の自殺には、すでに彼のうちに長いこと存在していた潜在的意志が働いていたということは、あるだろう。それが、他の、自殺しなかった、生き残り作家との違いかもしれない。けれども、バーロウが言うように、

 

自殺に関して彼が以前からどれほどのことを考えていたにしろ、ホロコーストを経て彼が、ますます、個人が死を選ぶ自由を重視するようになったことは間違いない。アウシュヴィッツは死をつくる工場であり、囚人一人一人が生産ラインに乗せられて、綿密に個人性を剥奪する仕方で殺戮された。人々は、厳格な方針通り、ほんのわずかな慰めも与えられず、自分が人間であるという認識さえも奪われて、殺されたのである。まして、一個の個人として死ぬことなど、許されなかった。その対極としての、最高に主体的な行為が、自由意志による死なのである。・・・アウシュヴィッツにおける死は、最も非人格的な死であり、個人の自由の最大の否定だった。それに対し、自殺による死は、「自由意志による死」として、個人の自由と尊厳の、究極的な肯定だったのだ。[12]

 

アメリーは自殺を「無への自由」と呼んでいる。論理的に言えば、自由とは、何ものかからの自由であると同時に、何かの自由であるはずである。しかし、アメリーの言う「自由意志による死――自死」はそのような論理を超えている。

 

自死はなるほどあるものからの自由を約束しても、論理の命じる通り、あるものの自由は約束しない、しかし自死は単なる人間性への肯定にとどまるものでなくてそれ以上のもの、何が何でも生きようとする盲目的な自然の支配に対する断乎たる抵抗だ、ということだ。自死は私たちが到達し得る自由の最終の究極的な形態だ。[13]

 

「得られる自由の究極的な形態」が自殺である、というのは、それ以外の自由をすべて奪われた者の論理としてなら、そしてその場合だけ、自然であろう。アメリー自身、自殺の論理は生の論理を破ったものであると言っている。「死を求める人は……すでに生の論理から飛び出している」のである。[14]しかしそれでもやはり自殺が、この世の肯定的価値を追うものであるなら――そして、だからこそ、アメリーは自殺を肯定するのだが――それは、個人の尊厳を保つための、究極の手段である。

 

しかし生の要求はここでは――ここだけではない、いつでもどこでもそうなのだ――尊厳も人間性も自由も一切ない生を免れることにある。ここで死が生になる――生そのものが誕生の初めからすでに死であるのとにて、今や否定が一挙に積極性に転じる、たとえ何の役に立たないにせよ。[15]

 

 アメリーが、自殺を、この世の生の論理ではまったく語りえない一つの尊厳死と見ていることは重大である。実際、彼らは、この世の生の論理で見ればまったく理解し得ない不条理な生き方を押し付けられた。そして、別の尺度で生きざるを得なく追い込まれたということなのだ。彼は、死がわれわれの生にいつもつきまとう脅威であることを、常に意識せざるを得なかった。

 

死は私たちが中年に達するやいなや、いずれにしろ生とともにあるのであって、私たちのうちで成長し増大して息のつまるような不安と感じられ、あるいはまた外からテロの形を取って襲ってくるのだが、踏み切る瞬間にあっては力ずくで引き寄せられる。 「引き寄せる」という言葉は比喩としてはあいまいな性格をもっており、たとえば、死へ逃れるという言い方とは違った意味をもつかのようであるが、これまたはっきりしない比喩だ。逃れるというが、どこへ逃れるのか? どこへ逃れるわけではないのだ。旅立ちはするけれども、はっきり予想される目的地があるわけではない」。[16]

 

こうした自殺肯定主義の背後には、人間として生きることへの絶望――いったん破壊されてしまった人間は、かつての自由な個人として生きることがもう不可能なのだ――という絶望の念が見える。ニュルンベルク法が制定された日のことを、アメリーは次のように回想している

 

破局から二十年すぎた。ユダヤ人にとって栄誉ゆたかな歳月だった。……私はこのような平和を信じない。人権宣言や民主憲法、自由世界、公正な新聞、いずれもがそうだ。1935年のある朝、目覚めて以来、何一つとして再びもとの安らかな眠りへと誘ってくれない。私はユダヤ人としてこの世にいる。大きな痛みはないのだが、しかし確実に死へと続いている病をもった病人のように。[17]

 

そして、収容所の経験が今までにあった人間性への信頼や、世界に対する信頼を、決定的に打ち砕いてしまったのである。第一に、収容所では、人間の本質的な価値であるはずの精神性、物質的な動物性を越えた超越性が絶対的なものではないことを、彼は見せつけられた。

 

インテリたちは少なくとも収容所にきた当初はなお、ともあれ精神の社会性というものを示そうと努めた。しかし、のべつ女房の料理の話ばかりしている収容所ベッドの隣人に、自分が大した読書家だったことを認めさせるのが関の山だった。いつもおしまいに「くそったれめ!」の返事を聞くうちに、やがては対話をあきらめる。アウシュヴィッツでは、すべて精神的なものがゆっくりと二重に新しい形をとっていった。それは心理学上、すこぶる非現実なものとなる一方で、他方では、社会的な意味合いにおいて定義するかぎり、許されざる贅沢品と化していったのである。おりおり、藁の寝台上での会話の際、この新しい事態を思い知った。とたんに精神は本来の資質、つまり超越性というものを失った。[18]

 

ガス室送りの選別が予期された当日にも、人々はそれをさっぱり意に介さなかった。むしろその日のスープの濃度について一喜一憂しながら語り合った。このようにやすやすと収容所の現実が死を打ち負かしていた。いわゆる「終極のこと」にまつわる一切に打ち勝っていた。収容所では死が恐怖の境界を超えていた。

 どういうわけかおごそかにも「形而上的」などとよばれるすべての問題が、実体をなくしていたわけである。[19]

 

彼は、自分がアウシュヴィッツで人間性への信頼を失ったことを、はっきりとこのように語っている。

 

収容所で認識したことごとくが収容所以外では認識できないたぐいのものであって、その何一つとして実際の効用をもたなかった。また私たちは収容所において深遠な人間ともならなかった。もっともらしく深遠さといったものが、そもそも定義できるとしての話である。さらにアウシュヴィッツにおいて私たちがより善良にも、より人間的にも、より慈愛深くも倫理的により成熟した者ともならなかったことは、あらためて言うまでもないだろう。人間でなくなった人間たちの行為や愚行をながめて、人間本来の尊厳が信じられなくなったとしても不思議はないのである。[20]

 

また、彼が、人間に対してだけでなく、世界に対する信頼、つまり、世界の秩序や正義に対する信頼を決定的に失ったのは、彼がユダヤ人であるという理由で、不必要な拷問を受けたときである。

 

警察で殴られると人間の尊厳を失うものかどうか私は知らない。だが、次のことは自信をもって言える。最初の一撃ですでに何かを失うのだ。何かとは何であるか。さしあたり世界への信頼と呼ぶとしよう。まさにそれを失う。世界への信頼である。それは多くの要素によってなりたっているだろう。たとえば因果律といったものだ。……さらにわけても今の場合にそうなのだが、明文化されているといないとを問わず、暗黙の社会契約というものがあり、それにもとづいて他人が自分を尊重してくれるはずという信念である。[21] 

 

 

プリーモ・レーヴィはアメリーがここで受けた拷問を「アメリーにとっては果てしない死であった」[22]と言っているが、世界に対して信頼を失ったこと、つまり、究極的に絶望したことが、アメリーの死であったということであろう。そして、レーヴィが言うことを、文字通り、アメリーは体験していた。解放後、30年経っても、彼は、毎朝拷問を感じていたのである。

 

 しかし、ユダヤ人であることは、昨日起こり、明日にもないとはいえない破局を私が身につけていることにとどまらない。そのかなたに怖れがある。毎日、朝の起床のたびに左腕の囚人番号に目がとまる。それが私の存在の根をゆるがす。いや、存在の根があるのかどうかすら確かではない。その際、かつてゲシュタポの拳で殴られたこと、あの最初の一撃の時に感じたのとほぼ同じことが起こる。毎日あらためて私は世界への信頼を失う。破局型ユダヤ人とでも名づけたいのだが、はっきりとした形を持たないユダヤ人は世界への信頼なしにこの世に適応しなければない。[23]

 

このように、人間や、世界に対する信頼を打ち砕かれたことが、この世を捨てて「無への自由」を選ぶ一つの理由となったことは明らかであろう。

 しかし、それでもなぜ、彼は収容所の中で、あるいは、解放後すぐに命を絶たず、33年も絶った1978年に自殺したのか?それは逆に、彼はアウシュヴィッツ後、何のために生きていたのか、という問題に結びつく。彼は、作家として、評論家として、人間や世界に対して絶望しながらも、やはり、ホロコーストの悲劇を訴えつづけてきた。そして、それが彼に、生きる一つの意味を与えていたのである。しかし、彼にとって、ユダヤ人としてものを書くということは、けっして自分のアイデンティティーをまっすぐに肯定して、それを世界に訴えることではなかった。彼はユダヤ教の神を信仰するユダヤ人ではなかったから、大戦前までは自分をユダヤ人としてよりはドイツ人と見なし、むしろドイツ人であろうとした。そのアイデンティティーは、ニュルンベルク法によって覆された。そして、ユダヤ人として著作活動をするにしても、ドイツ語でものを書く限り、彼は、自分の世界観とアイデンティティーをすべて覆した加害者の言語に拠って立たなければならない。彼は、「精神の社会的機能あるいは無能さという点で、ドイツで教養をうけたユダヤ知識人にとって事態はさらに深刻だった。というのは、自分がよって立とうとする当の基盤が、ことごとく敵のものだったからである」[24]と言っている。けれども、彼はドイツ人である自分を捨ててユダヤ人として自分を確立することもなかった。

 

 人と話していて、こんなことがある。何かのはずみに相手が急に私をも含めた複数形でこう言う。

「われわれユダヤ人は……」

 こんな時、私は強いとまではいわないにせよ、何か重く苦しいような不快感を覚える。その苦痛をともなった不快感がいったい何ものなのか、ながらく私は考えてきた。……ちゃんとしたドイツの少年らしく見えるかどうか、鏡にうつった自分をながめていたときと同様に、ユダヤ人でありたくないことからくるのだろうか。……ユダヤ人でありたくないからではない。ユダヤ人でありえないのに、にもかかわらずユダヤ人でなくてはならないからである。そしてこの「なくてはならない」に単に身をゆだねているのではなく、はっきりとそれを人間としての自分の一部として要求する。ユダヤ人であることの強制と不可能性、漠然と苦痛を生み出すのはそれだろう。・・・・・・

 

 ユダヤ人であることが、他のユダヤ人と同じ信仰を分かち持ち、ユダヤ人の文化や家族の伝統をたっとび、ユダヤの国家理念を養うことだとしたら、私はとうていユダヤ人でありえない。私はイスラエルの神を信じていない。ユダヤの文化をほとんど知らない。[25]

 

このことが、自分に「存在の根があるのかどうかすら確かではない」という、上のことばにも反映されている、不安で、不安定な所在無さにつながっている。

このように、いわば敵の武器を取って戦う苦しい戦いを続けてきたアメリーにとって、致命的だったのは、ベトナム戦争時1972年から翌73年にかけて、アメリカがハノイ・ハイフォンの両都市に対して行った攻撃である。

 

ハノイ、ハイフォンの両都市がニクソンによって「叩き潰」された。----かつてヒトラーが、イギリスの諸都市にむかって同じことを誓った。違う点は、1940年の大言壮語がこの1972年には、人殺しの現実、しかも自由に関する巧言を伴った人殺しの現実となったことである。ひどい嘔吐感が私を襲った。今日でも私の上に垂れこめた、むかつくような霧はまだ晴れない。[26]

 

1972年から73年にかけて、政治的な冬に起きたもろもろの現象を前にして、嘔吐感が私を襲った。それにつれ強迫観念のような激しさで、ヒトラーがあの汚辱の帝国を使って落とし戸を開け、そこから人類が人類を否定する奈落に落ちたのだという確信が湧き起こった。……あれ以来、いかなる肯定ももうなかった。死の王国がこの世にひらけた。生き残ることはなかった。死霊だけがあの世の闇から立ち上がった。・・・・・・私の存在の非合理が私の内部で私に立ち塞がった。なぜ私はとうに負けた勝負をまだ調子を合わせて続けていたのか?なぜくだらない日常の心配事を馬鹿馬鹿しくも本気にとって、出版社や放送局に手紙を出していたのか?[27]

 

ここには、収容所での経験が、いかに克服し難い傷を、人間の心に与えるかがはっきりと書かれている。人間は、肉体が健康であっても、生きる意味を失えば、生き続けることが出来ない。彼の死はそれを、ごまかしようがなく訴える。人間は、他の人間から世界や人間への信頼を奪い、相手のアイデンティティーを覆すことによって、苑人を殺すことができるというおそろしい事実を、われわれは知るのである。

徐京植は彼の死についてこう語っている

 

アメリーは、人間は故郷を持つべきだ、ただし、「たえずそれを失うために」、といい、その言葉どおり、真の故郷喪失者として死んだ。……アメリーは母語であるドイツ語に裏切られ、母語の共同体から追放された。自分に乳を与え、子守唄を歌い、物語を語って聞かせた母親が、ある日突然、お前なんか私の子じゃないといって、自分を殺そうと迫ってくるようなものである。[28]

 

<プリーモ・レーヴィ(Primo Levi 1919-1987)   

プリーモ・レーヴィはイタリア人として育ったユダヤ人である。1944年から1945年アウシュヴィッツで、収容所を体験する。そして、1987年に自殺した。彼は、本論で取り上げる作家の中では最もはっきりと、アウシュヴィッツが「人間破壊の場」であったことを伝えている。

アウシュヴィッツの記録で知られているように、ラーゲルに着いたユダヤ人はすべての荷物を奪われ、髪をそられ、囚人服を着せられ、名前を失い、腕に入れ墨された番号で呼ばれることとなる。レーヴィが記録しているドイツの将校は、列車の中のユダヤ人の数を確かめるのに、部下に、「物はいくつあるのか?」と尋ねている。その答えは「650個」、であり、「650人」ではない。[29]ナチはユダヤ人をまず、物として扱い、使えるだけ使って、好きなときに殺したのである。レーヴィは言う。

 

さて、家、衣服、習慣だの、文字どおりもっている物をすべて、愛する人とともに奪われた男のことを想像してもらいたい。この男は人間の尊厳や認識力を忘れて、ただ肉体の必要を満たすだけの、空っぽな人間になってしまうだろう。というのは、すべてを失った物は、自分自身をも容易に失ってしまうからだ。こうなると、このぬけがらのような人間の生死は、同じ人間だという意識を持たずに、軽い気持ちで決められるようになる。……こう考えてくると「抹殺収容所」という言葉の二重の意味がはっきりするだろうし、地獄の底にいる、という言葉で何を言いたいか、分かることだろう。[30]

 

ナチの宣伝によって広められた憎悪と侮蔑は、抹殺収容所の生活の一こま一こまに、実際の行為としてあらわれていた。……ユダヤ人とジプシーとスラブ人は野獣で、藁くずで、ぼろきれであることを偏執狂のように唱え、見せつけていた。たとえばアウシュヴィッツでは、人間にも、牛馬にするように、入れ墨をほどこしたことを思い出してほしい。また流刑者たち(男に女に、子供たち、みな人間だ)を家畜用の貨車にとじこめて旅をさせ、何日も自らの排泄物にまみれさせたこと。名前に変えて登録番号を用いたやり方。スプーンを配給しないで、犬のようにスープをすすらせたやり方。……死体を名もない、ただの原料と見なして、歯の金冠を抜き取り、髪を織物の原料にし、灰を肥料にした、おぞましいまでの死体利用法。そして男や女をモルモットにおとしめ、薬の実験をし、その後殺してしまったやり方。

虐殺用に選ばれた方法自体が(綿密な実験を経たものだった)、はっきりとした象徴的意味を含んでいた。使用されるべき毒ガスは、南京虫や蚤のはびこった場所や船倉の消毒に用いられる毒ガスでなければならなかった。過去にはもっと残虐な方法もあったが、これほど人間を侮辱しばかにしたやり方はなかった。[31]

 

しかし、こうしたことを見とめながらもレーヴィはその後、立ち直り、作家として成功したように見えた。彼は「過ぎ去った災難を語るのは楽しいことだ」[32]とまで語っている。

 

私は生き残りが語る時に感ずるほっとするような開放感以外に、書くことに、強烈で、新しい、複雑な喜びを覚えるようになった。・・・・・・正しい言葉を探し、見つけること、あるいは創造すること、つまり、短くて、強力な、つり合いの取れた言葉を探すことは、胸のおどるような体験だった。それは思い出の中から事物を取り出し、それを最大限に厳密に、少しの邪魔物もなく描くことだった。逆説的なのだが、私のおそろしい記憶の荷物は、富に、種子になった。私は書くことで、植物のように成長していると感じていた。.[33]

 

また、『アウシュヴィッツは終わらない』のあとがきでも、収容所の体験が自分の人間的成長の糧になったと、ことさらに、こう述べている。

 

私の短くも悲劇的だった囚人としての経験には、その後の作家=証人としての長く複雑な経験が続いていて、その感情は確実にプラスになっている。全体的に見るなら、この過去は、私を豊かで、確かな人間にしてくれた。若くしてラーフェンスブリュックの女性収容所に入れられた私の友人は、収容所は私にとって大学でした、と語っている。私も同じことを言えると思う。つまりあの出来事を生き抜き、後に考え、書くことで、私は人間と世界について多くのことを学んだのだ。

 しかしこうした前向きの結果はわずかな人にしか訪れなかったことを、すぐにつけ加えておこう。[34]

 

この「作家=証人として」という彼のことばは重要である。実際、生き残りの人たちは、頻繁に、自分たちが生き残ったのは証言するためであるという認識を示している。ナチスの「最終的解決」つまり、ユダヤ人をすべて殺してしまうことで、ナチスのいわゆるユダヤ人問題を解決してしまおうという決断の目論見は「まず最初にユダヤ人たちを卑しめ、次に、彼らを殺し、さらに彼らについての記憶を抹消することで、彼らを二度目に殺すことにあった」[35]とアラン・バーガーは書いている。それゆえ、殺された同胞を二度目の死から救うことが、証言することの大きな意味なのである。この認識は、レーヴィにもはっきりあり、彼は、ナチスがアウシュヴィッツの存在を明かすような証拠すべてを葬り去ろうとしていたこと、「もし万が一何らかの証拠が残ったとして、また、犠牲者の何人かが生き残ったとしても、犠牲者の言うことはあまりに恐ろしすぎて、その話は信じられないと人々は言うであろう、連合国の宣伝目的の誇張にすぎないと言うであろう」[36]、とナチスが考えていたことを、意識していた。それゆえ、証言者としての彼の活動は、最後まで、ナチスとの戦いであったとも言える。彼らの体験は筆舌に尽くし難いものであったから、証言はけっして真実の悲惨さには及ばないということを彼らは認識していた。しかしそれでも、証言せざるを得ないという気持ちが、彼を始めとして多くの生き残り作家の作家としての動機なのである。

また、死んだ者たちを記憶の中で生き続けさせる使命ということもある。サラ・ホロヴィッツも言っているように、「物語ることには、歪曲や、半分だけの真実に陥る危険がある。けれども、語らないならば、犠牲者を無名のまま葬り去り、あのできごと自体を忘却のかなたに追いやる荷担をするという、別の意味での裏切りを犯すことになるからである。」[37]レーヴィは解放後のアウシュヴィッツで、体の麻痺した幼児の死を目撃した。その子の死を語りながらレーヴィは、「彼に関しては何も残っていない。彼の存在を証言するのはこの私の文章だけである」[38]と、書いている。そして、それと同じことが、多くの生き残りの人々が、知人について書くときにも当てはまるのである。収容所の体験を書き表わすことは、彼らにとって決してたやすいことではない。事実、大戦後しばらくの間、当時者である生き残りの人たち自身による証言はほとんど書かれなかった。その理由には、ものが書けるだけの学識のある人々がほとんどすべて殺されてしまったということもあるが、体験自体がとても筆で表わしきれない、そして、伝えるにしてもとても理解しきれない、言葉も想像力も超えた悲惨なものだったこともある。そして、思い出して書くだけの冷静な目で回顧するには、あまりにつらい思い出であったことは、生き残りの人々の中に、記憶喪失が見られることに明らかであろう[39]しかし、それでも、彼らは、証言することが殺された者に対する義務と考えるのである。

レーヴィは作家として成功した。邦訳されている収容所の記録『アウシュヴィッツは終わらない』(原題『これが人間か?』)、収容所から普通の生活への帰還の過程を表わした『休戦』、第二次大戦中ドイツに抵抗したユダヤ人パルチザン部隊を扱った『今でなければ、いつ』のほかに、ドキュメント、小説等多数の著書をあらわし、イタリアで数々の権威ある文学賞を受賞した。そして、多くの人たちは、彼が過去の悲劇を克服して真の意味で「生き残り」になったと、信じていた。ところが1987年、彼は自宅のアパートで飛び降り自殺をして、自ら67歳の命を断ってしまったのである。これは、人々に衝撃を与えた。彼ほど心傷の克服に成功したように見えた人ですら、やはり勝てないほどの人間破壊の力をアウシュヴィッツは見せつけたのである。そうしてみると、レーヴィが上のような肯定的な発言をする一方で、『休戦』を、次のように結んでいることがいまさらのように重く迫ってくる。

 

私は1019日にトリノについた。・・・・・・私は生命力あふれる友人たちと再会し、確実な食卓の暖かさ、日々の労働の具体性、語ることの開放感を見出した。・・・・・・しかし何か食べ物を探したり、売ってパンを得られるものをポケットに押し込むために、地面を見つめながら歩く習慣は、何ヶ月もなくならなかった。そして時にはひんぱんで、時にはまばらだったが、恐怖でいっぱいの夢が現われるのは止まなかった。・・・・・・私はまたラーゲルにいて、ラーゲル以外は何ものも真実ではないのだ。それ以外のものは短い休暇、錯覚、夢でしかない。家庭も、花咲く自然も、家も。こうした夢自体が、平和の夢が終わってしまう。するとまだ冷たく続いている、それを包む別の夢の中で、よく知っている、ある声が響くのが聞こえる。……それはアウシュヴィッツの朝を告げる命令の言葉、びくびくと待っていなければならない外国のことばだ。「フスターヴァチ」、さあ起きるのだ。[40]

 

結局、レーヴィは平和の夢を覚まされたと感じたのだろうか。いずれにせよ、自殺という形であまりに重い代価を払って証言されているのは、一度収容所の体験をした者は、たとえ生き残ったとしてもおそらく永遠に心の平安を奪われてしまうのだ、ということなのである。徐京植は、レーヴィが自殺をした理由を知るために彼の死んだトリノの家まで訪ね、一冊の本をその考察に費やしている。[41]彼女は、レーヴィの自殺の要因はおそらくいろいろあるが、第一に、19826月、イスラエル軍のレバノン攻撃を見て、イスラエル国家が自分たちの願いのうちにあったユダヤ民族の避難所というイメージとは逆に攻撃的意味でのナショナリズムに向かっている、と感じたこと。またその一方で、ある集会では、パレスチナ人に、彼はイスラエルに好意的だと抗議されたりしたこと、第二には、1986年の初夏から、つまり彼の自殺の前年から、西ドイツで、後に「歴史家論争」と呼ばれることになる論争が始まり、ユルゲン・ハーバーマスが、「過去が過ぎ去ろうとしないことに不快の念をあらわし、もう「終わり」にして、ドイツの過去を原則的にもはや他の国の過去と異ならないものにしたいと思っているのは、果たして日常生活の中の「実際のドイツ国民」の頑迷さだけなのだろうか」(ハーバーマス『過ぎ去ろうとしない過去』)と、呼びかけたことから、「普通の国」としてのドイツ、その国民的アイデンティティーを打ち建てようとする修正主義的な論調が公共の場で語られるようになったこと、そして第三に、個人的な事情があると考えている。[42]個人的な事情には母親の脳卒中の発作、自分自身の抑鬱症などがあり、アメリカ合衆国に住むレーヴィの友人は、1987329日、すなわち自殺二週間前の日付で彼の手紙を受け取っているが、そこには、「自分は今ひどい抑鬱症に苦しんでおり、それから逃れようと無益な戦いを続けている、回復への意志は強いが、現在の状況はアウシュヴィッツ時代を含めて最悪である、と書かれていた」[43]

レーヴィの死は、ヴィーゼルにも衝撃を与えた。ヴィーゼルは自伝『しかし海は満ちることなく』に、

 

死ぬとはどうしてなんだ、プリーモ?どんな人間の人生について、どんな真理をわたしたちに語ってくれるというんだ。

 彼は自分の思索と思い出をとことん突き詰めたかったのだろうか。本気で死の中に入りたかったのだろうか。もはや理由を知る術もないが、彼が死ぬ少し前に私は電話をしていた。突然の虫の知らせだったのか?彼の声はねばつき、重かった。「うまくいかない。まったくだめなんだ」と、彼はゆっくりした口調で言った。「なにがだめなんだ、プリーモ?」「ああ、この世だ、この世がだめなんだ。」そして彼は、それほどうまくいかない世の中に何を探し求めに来たのかわからなかった。「心配事があるのかい、プリーモ?」いいや、心配事があるのではなかった。……イタリアで彼は読まれ、讃えられ、栄誉を受け、だがうまくいかなかったのだ。……

 それは強制収容所を体験した彼という作家が記憶とその働き、ものを書くこととその罠、言語とその限界にどう対処するかということと関わる。カフカという不幸な使者のように、彼は自分のメッセージが受け取られもせず、伝えられもしないと考えた。もっと悪いのは、伝えられたのに何も変わらなかった場合だ。彼は社会や人間の本性になんの影響も及ぼさなかったことになる。まるで人類が彼を使者とした死者たちを忘れ去ったように、すべてが過ぎていく。あたかも彼が使者たちの遺言を紛失したかのようにだ。[44]

 

同じ、アウシュヴィッツを生き残った作家としてのヴィーゼルの言葉は、だれの言うことにもまして重みがある。生き残りの人々の多くが罪悪感に苦しんでいることは、多くの心理学的報告がなされているが[45]、レーヴィも、多くの生き残りが収容所時代にもその後にも「恥」あるいは「罪の意識」を感じてきた[46]と語り、その理由を、一つには、収容所で、動物にまでおとしめられたことに対する恥辱の念をぬぐえないこと、第二に収容所ではだれもが何かしらの盗み(台所や工場や、その他の場所で)をしなくては生き延びられなかったために、盗みをしたことがあるという罪と恥の意識があること、第三に、助けが必要な同胞に十分助けの手をのばさず、自分の命を優先したことで生き残ったという気持ちがあることをあげている。[47]その、恥と罪の意識とともに、「なぜ私が生き残ったのか?」という疑問が湧いてきたとき、レーヴィは友人に「それは、決して知りえないことだが、書かなくてはならないためだろう。書くことによって証言するためだろう」と言われたことを記している[48]。実際そのとおりに、レーヴィは、

 

私は、人間の人生に必ずしもはっきりとした目的があるとは信じない。けれども、もし、私が自分の人生や今まで自分自身に課した目的を考えるなら、ただ一つだけ、明確に意識してきたことがある。つまり、証言をし、ドイツの人々に私の声を聞いてもらうことだった……[49]

 

と、書いている。このように、アウシュヴィッツ後の自分の生涯を証人としての仕事にかけた彼にとって、「メッセージが伝えられたのに、何も変わらなかった」ことは、致命的に感じられたであろう。

かつてナチスがアウシュヴィッツでユダヤ人を殺戮していたとき、世界は見てみぬふりをしていた。それは、ユダヤの人たちにとって、そして、レーヴィにとっても、世界がナチスに荷担していたことを意味した。

 

当時、静かなるドイツ国民の大多数は、できるだけ物事を知らないように努め、従って、質問もしないようにするのを、共通の技法にしていた。……明らかに誰にも、自分自身にさえにも、質問をしなかったのだ。晴れた日には、ブナ工場からも、焼却炉の火が見えたというのに。[50]

 

彼にとって、見てみないふりをすることは、積極的な罪だった。

 

現実には武装集団が存在し、アウシュヴィッツをつくり、正直で無気力な人たちはその地ならしをしたのだった。だからこそアウシュヴィッツに対して、すべてのドイツ人が、そして人類全体が責任があり、アウシュヴィッツ以降は無気力であることは正当化できないのである。[51]

 

そして、世界が今またレーヴィの書いたものを読みながら黙殺するように振舞っていることは、煙突の煙が見えても何もしなかった当時のドイツの人々やナチスのやっていることを明らかに知りながら黙っていた世界の人々がしたことと、まさに同様に思えたに違いない。1986年に出版した『溺れる者と救われる者』を書くまでに、彼は、ナチスの責任者の多くが偽証をすることによって処分を免れ、偽証を繰り返すうちに自分自身自分の言うことを真実を思い込むようになり、罪の意識さえもなくなった状態で平安な余生と死を迎えているのを見てしまった。[52]彼が恐れていた真実の歪曲――アウシュヴィッツはあまりに恐ろしすぎて、とても真実とは信じられない、それゆえ、ナチスが真実を否定すればそちらの方が世の人々の目には本当らしく思われるだろう――ということが、現実になりつつあると、彼は感じたに違いない。その翌年に彼が命を絶ったことは、その絶望感と無関係ではないであろう。

 

<アーロン・アペルフェルド (Aharon Appelfeld1932-)

 

アーロン・アペルフェルドはウクライナで生まれ、9歳で強制収容所に入れられたが、そこ彼脱走し、森の中に隠れた放浪生活の末、ソビエト軍に拾われて、1946年にパレスチナに移民した。彼も、ホロコーストの地獄を体験し、人間として生きることの危機を意識的に生き抜いてきた作家の一人である。

 

ホロコーストのおそろしい恐怖は、自己の存続を脅かした。それは、ただ生き続けたいと望む生物的な自己のことではない。生物学的な自己の方は、生存のためには何でもできた。時には不可能と思われることも、非人間的なことさえもできた。しかし、精神的な自己の本質、義務を持った人間の精神の精髄としての自己が危険にさらされていた。

あからさまに悪辣なやり方で、殺人者たちは、ユダヤ人を無名の、顔もないただの番号におとしめた。そして実際、何年もの苦しみによって、ユダヤ人の内から、人間性が消されていった。あの地獄の中で、自分の人間性を保つことができたのは、ほんの一握りの勇敢な信仰の持ち主だけだった。[53]

 

大戦前当時、ユダヤ人の中には、まわりの人々として生きようとする同化主義者とユダヤ人であることを表に出して民族性を保とうとする国粋主義者がいたが、アペルフェルドの両親は前者だった。アペルフェルドは自分の両親が信念として、「世界は進歩しており、ユダヤ国粋主義をはじめとするあらゆる国粋主義は時代遅れになるだろう」と信じていた[54]と書いている。彼は自分がアウシュヴィッツに送られてホロコーストを体験したことを、一度は、ユダヤ人としての暮らしを捨てて同化しようとしたことに対する神の罰ではないかとも解釈する。「自分を拒否したことに対する罰ではないか」[55]と。生き残りの人々に特有の罪悪感と、罰の概念とは切り離せないものであり、彼がこう感じたのはある意味で自然であった。この罪悪感について、彼自身はこう述べている。

 

ホロコーストの生き残りはほとんどみな、罪悪感を背負っている.それが何に対しての罪悪感なのかははっきりとしないのだが、だからこそ漠然としたままに、年月を経ても数々の形をとって生き残りを苦しめる。その罪悪感と共に贖いの欲求がある。もし罪がはっきりとしていれば、贖いもある程度はっきりとした形で表わせるだろう。けれども、罪悪感が深い謎のままなので、贖いもはっきりとした表現を見出せないでいる。[56]

 

また、こうした罪悪感とともに、先に見たレーヴィなどにも共通するであろう証言者としての欲求が彼にもあった。彼は「あれほど多くの死の記憶を、どうしたらよいのか? このまま生き抜くか? 語り伝えるか? すべてがあまりに恐ろしく、われわれの手の届かない、われわれの力を超えたものだった」[57]と書いている。そして結局は、作家として書くことに、彼は自分の生き方を見出してゆくのである。そこには、生身の人間が正気では見据えられないほどの極度に悲惨な真実を語る時の心理的防御があった。彼は、「生き残った者が語り、真実を明かそうとすると、それは同時に真実を隠蔽することにもなってしまう。語らずにいることは不可能であるが、その一方で、起こったことが彼を変えなかったと認めることもまた、不可能であるからだ。彼は同じ人間で、同じ概念に縛られている。その暴露と隠蔽の同時進行が今の今まで続いている」[58]と、書いている。

 また、語りたいという欲求と同時に、忘れたいという欲求の両方があり、それが真実を語る事を困難にしていたということもある。しかもその、忘れたいという気持ちには、真実に根のない罪悪感が結びついていて、それが真実からさらに証言を遠ざけたのである。つまり、犠牲者は、自分に罪がなければこのようなひどい目に会うはずがないと感じてしまい、「悪人たちの邪悪さを自分に引き受け、自分が邪悪であるかのように考えてしまったのである。そこで、ユダヤ的なもの、ユダヤ的に感じられるものはすべて弱く、醜く、われわれを害するように見えた」[59]。アペルフェルドが指摘するこのような心理状態に追い込まれた人々は、ユダヤ人として訴えをすることを敢えてせず、むしろ自分の根であるユダヤ的なものを忘れて、自分をそこから切り離そうとしたのである。しかし、そのような忘却を自分に課しながら、何か暖かい大切なものを失っていくのを感じた、と彼はいう。「それは、何かわれわれが否定することの出来ないもの、両親、子供時代の光景、部族の噂話などである。それらなしに、われわれは何であろう? 単に意識の表面に漂うだけの自我ではないか」[60]。そうした、自己のユダヤ的ルーツに目覚める気持ちと、それを忘れたいと思う気持ちの葛藤は、すなわち、ユダヤ人としての自己認識に忠実でありたいと言う気持ちと周りの人々と同化してユダヤ人であることを忘れたいという気持ちの葛藤であり、ホロコーストについて証言したい気持ちと語りたくない気持ちの葛藤にもつながる。「黙っていたいという欲求と、語りたいという欲求がどちらも深くなっていった。その唯一の解決法は芸術形式だった。しかしそれさえも、何年もたってからやっと試みることができたのであるが、これだけが、この、むずかしい二つの欲求の橋渡しをすることができたのである」[61]

しかし、まだ困難はあった。アメリーの場合と同様、アペルフェルドも、もしホロコーストについて文学を書くとすれば、それは迫害者であるヨーロッパの文学的伝統に拠らざるを得ないということを意識し、抵抗を覚えた。[62]また、彼の場合も、記録することの限界、つまり人間が自らの想像力の及ぶ範囲で言語を使って記録することの限界が大きな壁であった。

 

現実は、実際、人間の想像力を超えている。そればかりではなく、現実は、信じ難く、説明もつかず、度を越えたものでもあるのだ。創作した作品は、残念ながら、それほどにはなれない。

ホロコーストの現実は、どのような想像力も超えている。もし、私が事実に忠実にあろうとすれば、だれも私の書くものを信じないだろう。[63]

 

「恐怖と芸術、これは両立するだろうか?」と、彼は問うている。[64]しかしそれでも、芸術がただ一つのこされた道であった。表現の様々な困難を逃げるわけにはいかなかった。それは、今、自分たちの民族の苦難の意味を問い、答えを求める声がますます高まっているという認識が、彼にあったからである。

 

ラビや神学者が安易に差し出す応報だの罪だのという無邪気な説明は、誠実な感情を踏みにじるものである。

だから、何年経っても、意味を求める声はますます強く迫ってくるのである。かつては隠れた暗黙の非難がわれわれを追いまわしていたが、今われわれは新たな要求の声を聞くのである。意味を求める声を。……「あの出来事はあまりにも私の理解を越えている」と、際限なくくり返すことによって、今までわれわれは自分たちの経験を「意味のない無限の苦難」として棚上げしてしまっていたのだ。[65]

 

そして、ドキュメンタリーの限界に対する解決策を彼は、小説家として、創作の世界で書くことに、見出すのである。小説という形においては、さまざまな拘束を振りほどいて、意味の追求ができる。しかも、現実のホロコーストを見てはほとんど不可能とも思える希望に目をやることさえもできるのである。たとえば『この魂へ』で、彼は、ラビでありながら近親相姦で妹を妊娠させてしまう主人公と、罪悪感を感じながらも兄から離れない妹を中心に、チフスの流行に伴って起こる反ユダヤ感情も著わしている。「墓あらしや、ユダヤ人を憎む者立ちは、邪悪なことをもくろんだ。彼らはユダヤ人たちを殺し、この地上から、ユダヤ人がいたという記憶さえも抹消しようとしたのである」。[66]そして、兄妹は、自分たちが親切にもてなした巡礼者からチフスをうつされ、入院も出来ず死んでしまう悲劇的結末を迎えるのではあるが、その結びの節には自分がチフスで死ぬことを悟った兄の気持ちが、「自分が同じ病に苦しみ、同じ熱にうなされているのだという思いが、彼の恐怖を消し去った。彼はひざを抱えるように体を丸くして、藁の中に頭をうずめて横たわった」。[67]と表わされ、主人公が、救いのないような状況の中で死に向かうにもかかわらず、安らぎを得ていることが暗示されている。

 

<ヴィクトール・フランクルVictor Emile Frankl1905-1997)>

 フランクルもまた、『夜と霧』で、アウシュビッツの収容所がいかに囚人の人間性を剥奪していったかを記録している。彼は精神科医であったから、ことに、人々が収容所の苦難のすべてに耐えるために、無意識の精神的防御としていつのまにか感性を麻痺させ、他人が殺されても人間の排泄物にまみれても、何も感じなくなっていく様子を記録している。収容所での最初のショックが過ぎると「比較的無感動の段階」が訪れる。「すなわち内面的な死滅が徐々に始まったのである」。と、彼は書いている。

 

様々な情緒の反応のほかに、新入りの囚人達は収容所生活の第一期には、苦悩に満ちたその他なお様々な感情昂奮を体験するのであるが、やがて間も無く彼は自らの中でこれらを殺すことを始めるのである。……苦悩する者、病む者、死につつある者、死者これらすべては数週の収容所生活の後には当たり前の眺めになってしまって、もはや人の心を動かすことができなくなるのである。[68]

 

こうした状態についてはエプシュタインも、精神科医ロバートR・リフトン教授の調査結果から、生き残った人にホロコーストの後遺症として見られる「精神の閉鎖作用」、つまり他の精神科医の呼ぶ「情緒の欠乏」、として報告している。

 

生き残った人々は……あの体験を経る以前には可能だったように、物事を感じたり、感情を外に発散させることが出来なくなっている。戦争中、強制収容所や森の中では、「精神の閉鎖作用」は生きのびるための秘訣だった。しかしながら……自分のまわりに壁を築き上げてしまった生き残りの人々、何か面白いことをするという気の失われてしまった生き残りの人々、死は征服したが、同時に生きることも超越してしまった生き残りの人々について、研究者たちはいくつかの報告をしている。この患者たちの多くは、死の日まで、感情が閉鎖されたままか、感情的に抑えつけられた状態でいるだろう、としている。[69]

 

しかしこうした、精神医学的に悲観的な見方に対して、フランクルは感情の雪解けと人間的な生き方の回復は必ず得られるものであると考える。彼は人間に生きる究極的動機を与える「人間の根源的な関心」は、性的衝動でも権力への意思でもなく「意味への意思」だと見ている。人は常に生きる意味を探し求めている。いつも意味の探求に向かっているのである。[70]この考えは、収容所の記録『夜と霧』ですでに明確にされ、1946年に行なわれた講演『それでも人生にイエスと言う』でもはっきりと言われているが、1970年代のアメリカ社会において、物質的には恵まれ社会的にも成功している多くの人が人生が無意味に思えたという理由で自殺を図っている現実を前に、ますます切実に訴えられている。あるアメリカの大学で自殺を試みた60人の学生のうち、85%が、「人生が無意味に思えたから」と答えたという。そして、その93%が大学での成績もよく、家族関係もうまくいっていたという。そのように人生の意味に失望した人たち、「あらゆる励ましの言葉に反対し、あらゆる慰めを拒絶する」人たちにフランクルは、考え方のいわゆる「コペルニクス的転回」を呼びかける。つまり考えを180度転換することである。「われわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである」と。[71]

 

その転換を遂行してからはもう、「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うことはありません。いまではもう、「人生は私に何を期待しているか」と問うだけです。人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。……こう考えるとまた、恐れるものはもう何もありません。……未来がないように思われても、こわくはありません。もう、現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからです。すべてはもう、そのつど私たちにどんなことが期待されているかにかかっているのです。[72]

 

彼はまた、収容所の生活においてさえも、ある人々が決して失わなかった人間性によって、他の人々までが救われた情景に目を留め、究極的に人間の尊厳を肯定している。アメリーは「収容所で認識したことごとくが収容所以外では認識できないたぐいのものであって、その何一つとして実際の効用をもたなかった。……さらにアウシュヴィッツにおいて私たちがより善良にも、より人間的にも、より慈愛深くも倫理的により成熟した者ともならなかったことは、あらためて言うまでもないだろう。人間でなくなった人間たちの行為や愚行をながめて、人間本来の尊厳が信じられなくなったとしても不思議はないのである」(「精神の限界」傍点加筆)と感じた。しかし、フランクルは人の人間性を剥奪するような限界状況においてもなお尊厳を保ちつづける人たちを見て、人生を肯定しているのである。

 

私と並んで進んでいた一人の仲間が突然呟いた。

「なあ君、もしわれわれの女房が今われわれを見たとしたら!たぶん彼女の収容所はもっといいだろう。彼女が今われわれの状態を少しも知らないといいんだが。」

 すると私の前には私の妻の面影が立ったのであった。そしてそれから、われわれが……よろめき進んでいる間、もはや何の言葉も語られなかった。しかしわれわれはその時各々が、その妻のことを考えているのを知っていた。……その時私の身をふるわし私を貫いた考えは、多くの思想家が英知の極みとしてその生涯から生み出し、多くの詩人がそれについて歌ったあの真理を生まれて初めてつくづくと味わったということであった。すなわち愛は結局人間の実存が高く翔り得る最後のものであり、最高のものであるという真理である。私は今や、人間の詩と思想とそして――信仰とが表現すべき究極の極みであるものの意味を把握したのであった。愛による、そして愛の中の被造物の救い――これである。たとえもはやこの地上に何も残っていなくても、人間は――瞬間でもあれ――愛する人間の像に心の底深く身を捧げる事によって浄福になり得るのだということが私に分かったのである。[73]

 

そしてまた収容所においても、労働の最中に一人二人の人間が、自分の傍で苦役に服している仲間に、ちょうど彼の眼に映ったすばらしい光景に注意させることもあった。……一度などは、われわれが労働で死んだように疲れ、スープさじを手に持ったままバラックの土間にすでに横たわっていたとき、一人の仲間が飛び込んできて、極度の疲労や寒さにも拘わらず日没の光景を見逃がさせまいと、急いで外の点呼場まで来るようにと求めるのであった。

 そしてわれわれはそれから外で、西方の暗く燃え上がる雲を眺め、また幻想的な形と青銅色から真紅の色までのこの世ならぬ色彩とをもった様々な変化をする雲を見た。そしてその下にそれと対照的に収容所の荒涼とした灰色の掘立小屋と泥だらけの点呼場があり、その水溜りはまだ燃える空が映っていた。感動の沈黙が数分続いた後に、誰かが他の人に「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」と尋ねる声が聞こえた。[74]

 

フランクルは、1946年の講演をこう締めくくっている。

人間はあらゆることにもかかわらず――困窮と死にもかかわらず、身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず、また強制収容所の運命の下にあったとしても――人生にイエスと言うことができるのです。[75]

 

<エリ・ヴィーゼルElie Wiesel (1928-  )

1944-1945アウシュヴィッツ

 生き残り作家としておそらく最も重要な、1986年度ノーベル平和賞受賞者エリ・ヴィーゼルは、ラビになることさえ考えたことのある敬虔なユダヤ教徒として育ち、現在もユダヤ教徒として世界に対して証言を続けている。

 

 彼もまた、アウシュヴィッツに収容され、父母と幼い妹を失った。彼のホロコースト体験はフランクルの『夜と霧』と共に古典となった『夜』に記されている。『夜と霧』が1947年に出版されたのに対し、彼の処女作『夜』が出版されたのは1958年である。それまで彼は、ジャーナリストとして活動していたが、筆舌に尽くし難いホロコーストの体験については沈黙を守っていた。しかし、フランソワ・モーリャックに促され励まされ、証言の書として『夜』を書く決心をしたのである。[76]そしてその後は一貫して、証人としての活動を続けている。彼は、「ユダヤ人の悲劇について以外は書かないのか、今日の状況に材を取ったドラマは関心がないのか」、というインタビューに答えて

 

たとえ私が他のなにごとも書かず、ほかのなにごとについても書かないとしても、それでもまだ足りないだろう。たとえあらゆる生き残りが自分たちの経験のことしか書かないとしても、それでもまだ足りないだろう。……生き残りたちに沈黙を強要することを、人々はほんとうに望んでいるのか。黙り込んだ証人は、死者ばかりか生者をも裏切ることになるのに、人々にはどうしてそれがわからないのか。[77]

 

忘れないこと、なにも消さないこと。――それが生き残りの心に取り憑いて離れない念願だ。死者たちのために弁論し、彼らの死後の霊、名誉、人間性を擁護したいのだ。[78]

 

と語っている。

今まで見た作家たちとの大きな違いとして、ユダヤ教徒として彼の文学には、ユダヤの民の苦難に対して沈黙していた神への問いがある。

ユダヤの人々は、旧約の時代からずっと、究極的な苦しみに出会ったときに、自分たちを迫害した人間によりも、神に目を向け、なぜこの苦しみがあるのかと、神に問うてきた。彼らは絶対的な正義の神を信じる。その神は完全な善であり、万能の主である。それなのに、なぜ自分たちは苦しむのか。神は万能であるはずなのに、自分の民の苦しみを防ぐことができなかったのか。それとも、この苦しみは神の意志なのか。しかし、それならなぜか。自分たちが神の善に反しているのか、それとも、神が善性を欠くのか。これは、ユダヤの人々にとってだけでなく、善なる万能の神を信じるすべての国民にとって、普遍的な問いである。この悪の問題は、事実、キリスト教徒にとっても、最も大きな問いの一つであり続けた。しかし、今回のホロコーストは特に、この問題は切実だった。伝統的なユダヤ教の神学的理解にたてば、正義の神を信じる限り、ホロコーストについてのまず第一の解釈は、<神の罰>である。ユダヤ教のラビのなかには、現代のホロコーストを、旧約聖書に記されたユダヤの民の苦難と並べて見ている者もいる。彼らも、ヒトラーの行為は倫理に反していたと認めたし、ヒトラーに従った者は今神に罰せられていると主張はしていたのではあるが、「過去にもユダヤ人は、ネブカドネザルその他の「神の怒りの鞭」に打たれたことがある。ヒトラーも単にそうした鞭の一つにすぎない」[79]、というのである。

ホロコーストの神学的解釈としては、また、悲劇が起こったのは神が隠れたか死んでしまったからだ、という見方もある。『我と汝』で神と人間との人格的つながりを強調したマルティン・ブーバーもユダヤ人であるが、彼もアウシュヴィッツを見た後では、「アウシュヴィッツのあるような時代に、神と共に生きることがどうして可能だろうか? 神はあまりに残酷なほど離れ、深く隠れてしまっているのに」[80]と言っている。神が隠れている、というよりも、むしろ、死んでしまった、と考えるのはホロコーストを経験したユダヤ人だけではない。キリスト教神学者の側にも、トマス、アルタイザーやウィリアム・ハミルトンのように、「賞賛や讃美や信頼にふさわしく、讃え信頼しなくてはならない神が、かつてはいたが、もはや、そのような神はいなくなった」と考える<神の死の神学>の立場がある。[81]

 そして実際に、失われたのはキリスト教伝統の神だけでなく、多くのユダヤ人もまた、ホロコーストの際に神が介入して悲劇をくい止めなかったことに、神の不在を強く感じて信仰を捨てたのである。たとえば、リチャード・ルーベンシュタインは、<神の死の神学>を奉じるキリスト教徒と同様――不在の神に対する信仰という、見方によっては矛盾した、しかし、逃れられない選択肢として突きつけられた立場をとる者として――神を信じないながらも、共同体の一員として、ユダヤ人としてのアイデンティティーは保持する立場に移っている。ルーベンシュタインはこう書いている。

 

エリシャ・ベン・アブヤーは、一三一年から三五年のローマ対ユダヤの戦争におおけるユダヤのはなはだしい苦しみを見て「裁きも裁き手もいないのだ」とさけんだ。ほとんど二千年もカミュに先んじて彼は、人間の苦しみを正義として受け入れるよりはむしろ、世界には意味がないのだと、考えた。

 私たちは、この、不条理で究極的には悲劇的な宇宙像に賛同する。私たちはカミュのように、預言書や申命記の神観や歴史観が許すより以上の人間同士の連帯を好むのだ。カミュと私たちとの違いは、私たちが無神論を採らないことだけだ。人間存在が悲劇的で究極的に希望も意味もないものであるからこそ、私たちにとっては、私たちの宗教的共同体が宝なのだ。……

 私たちは、もはや空虚になった自分たちの古い伝統を慈しむ。それは自分たちの伝統が他の民族の伝統よりも優れているからでもなく、他よりも何か神の目を喜ばせるものだからでもない。私たちが自分たちの伝統を慈しむのはただそれが自分たちのものだからであり、自分たちの尊厳や名誉にかけて他のものとは交換できないからにすぎない。同様に、自分たちや、自分たちがもっているものが他の人や他の人のもっているものよりも優れていると証明する必然を失ったので、私たちは、他の人たちの宗教的伝統を尊重するようになった。これは、伝統とは元々選べるものではなく、所与の、個々の人間の固く限られた視野の不条理な性質の一部であるという信念からの、当然の帰結である。[82]

 

 しかし、ヴィーゼルは、不在の神に対する信仰というものを、どこまでも保ち続け、問い続けている。彼は神を正当化するような神学的説明をすべて退ける。戯曲『神を裁く』で、彼は舞台をロシアで起こったユダヤ人大虐殺(ポグロム)にとり、神が信仰の民を見殺しにしただけではなく、娘たちが陵辱されるままに放っておいた罪を告発している。作中では、劇中劇のように模擬裁判が行なわれるが、その中で告発者は、虐殺を許した神は虐殺者の側についたのだから有罪なのである、と言う。それに対し、弁護人をつとめる客人は、ポグロムは人間の罪であり、わずかに虐殺を免れたものがいるだけでも奇跡なのだから、その奇跡に対して神の栄光を讃えるべきだと言う。けれども、劇の最後に、この弁護人は、実はサタンだったということが明らかになるのである。[83]

『夜』で、ヴィーゼルは、神の沈黙を問う声に対し、遠藤周作の母なる神と似た、共に苦しむ神を見て答えているように見える。それは、あるユダヤ少年が絞首刑にされ、見せしめのために囚人が皆強制的に刑の執行を見せられている時のことである。

 

三十分あまりというもの、彼は私たちの目のもとで臨終の苦しみを続けながら、そのようにして生と死との間で闘っていたのである。そして私たちは、彼をまっこうから見つめねばならなかった。私が彼のまえを通ったとき、彼はまだ生きていた。彼の舌はまだ赤く、彼の目はまだ生気が消えていなかった。

 私のうしろで、さっきと同じ男が尋ねるのが聞こえた。

 「いったい、神はどこにおられるのだ。」

 そして私は、私の心のなかで、ある声がその男にこう答えているのを感じた。

 「どこだって。ここにおられる――ここに、この絞首台に吊されておられる……。」

 その晩、スープは屍体の味がした。[84]

 

けれども、<共に苦しむ神>は、彼自身にとって、実は究極的な答えとはなっていない。彼は言う。

 

<神>もまた苦しみ、<彼>はわれわれと共に、したがってわれわれゆえに苦しむ。……いかにも、<神>もまた苦しみを受けておられるからには、われわれには不平をもらす権利はない。しかしながら……<神>の苦しみは、人類の苦しみを除去するわけではなくて、そこに加わるのである。両方が加算されるのであって、差引勘定が行なわれわけではない。このようにして<神>の苦しみは、われわれにとって慰めではなくて、余分の懲罰となるのではなかろうか。そうならば、われわれは天にこう問いかけてもよいのではなかろうか。「私たちの悲しみだけでもたくさんではありませんか。なぜそのうえに<御身>の悲しみまで加えられるのですか」。[85]

 

 このように神の苦しみを人間にとっての救済ではなく、余剰の苦しみと取る態度は、イスラエルの神と民族のつながりが、非常に人格的な関係としてとらえられていることとも、関係があるだろう。そして、そこからでてくるのが、他民族には見られない、理屈や道理だけでは割り切れない神と人間とのつながりである。ユダヤの人々は、自分たちの運命の過酷さを神に憤っても、それでも、神を信じ続けようとする。エリ・ヴィーゼルも、そのひとりである。彼は、ラビ、メナヘム=メンデル・シュネールソンに、なぜ神に対して怒るのか、と聞かれて、「神をあまりに愛したから」と、答えている。「今もそうで、<彼>をあまりに愛しています。そして<彼>を愛しているからこそ、<彼>を恨んでいるのです」。[86]

そうして、彼は、神を信じ続けるのである。キリスト教の場合もそうであるが、このように、ユダヤの人にとっても神への愛と信仰とは密接に結びついている。しかも、新約聖書になじんだものにとって不可解なほどに、その愛は、ときに理不尽に見える神を憎み、怒りをぶつけることがあっても、それでも信じようとする愛のようである。キリスト教徒は、この世に苦難があることを神の善性と万能を疑わせる大きな問題としてうけとめたとき、「神は愛である」という教義に傷がつくような説明を避けてきた。新約聖書では最も重要なおきてとして「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ、二二、三七)が、特に重視されているので、キリスト教徒から見れば、ユダヤ人は神を憎みながらも「信じています」と言えるのだということが、意外に思われる。しかし、実際の人間関係で、親子や夫婦などの親しい間柄になればなるほど、ときに相手に腹を立て、憎むことさえあっても、やはり相手を信じ愛していることがあり得るのと同様に、ヴィーゼルは、さまざまな感情をすべて神にぶつけながらもやはり神を信じ愛し続けているように見える。

小説『たそがれ』(1987)で、彼は生き残りの主人公ラファエルの口をとおして、このように書いている。

 

決して答えは見つからないかもしれない。けれども、それでも一緒に考えよう。……

疑問。際限ない疑問。なぜ、あれほどたくさんの犠牲者が?なぜ、犠牲者の中にあれほど多くの子供たちが?なぜだ、あの、同盟国の無関心は?そして、疑問中の疑問は、なぜ神が沈黙していたかだ。なぜ、兄のエズラが生き残れなかったのに、ぼくは生き残っているのか?なぜエズラの代わりにぼくが生き残ったのか?一人の名前を命の書に書き込み、もう一人の名前を死の書に書き込むペンを握っているのは誰か?[87]

 

ヴィーゼルの次の言葉が印象的である。

 

ユダヤ教の歴史は、神との果てしないけんか以外の何だろうか? パスカルはこれを別の言葉でこう言った。「ユダヤ民族の歴史は、神との長い恋愛史にほかならない」。そして、どんな恋愛にもあるように、けんかと仲直りがあり、けんかが多いほど、仲直りも多い。そして、神もユダヤの民も、互いを見限ることはないのである。[88]

 

 このように、ヴィーゼルは、信仰を失うことなく、自分のアウシュヴィッツ体験を、死者を人々の心の中に生かし続け、死者の名誉を弁護するために記録することに自分の使命を見出した。そして、それを超えて、彼が子どもとして体験した悲劇を繰り返さないために、彼自身はユダヤ教徒でありながら、ユダヤ人だけの宗教的民族的関心にとどまらず、世界に平和を訴えることに作家としての意義を見出し、また、ボストン大学の教授としての教育にも打ち込む場を得て、積極的に世界に貢献している。そしてその肯定的態度もまた、彼のユダヤ教徒としての信念から来ているものと見える。

彼は、死者のための証言を繰り返しながら、究極的には生に向かう。

 

われわれの伝統では、死者を嘆くことよりさらに大切なのは、人生を謳歌することなのだ。……われわれの伝統は、われわれに、人生を肯定し希望を宣べよ、いつでも、と命じる。安息日にはすべての喪が中断される。安息日は、人間の希望と歓ぶ力を具現するものだからだ。もっと一般的な言葉でいえば、ユダヤ教は人間に、絶望を克服することを命じているのだ。[89]

 

『たそがれ』の一節で、ヴィーゼルは「キリスト教がイスラエルを追放して以来ずっと、必ずしもキリストに従わないキリスト教徒は、愛と哀れみの名のもとにユダヤ人を迫害することを自分の義務だと思ってきた。……そして、ユダヤ人は、そうした憎しみの勃発を、他の人々が冬の嵐を受け止めるのと同じように受け入れることを学んできたのだ」[90]と書いているが、ここには、迫害者は名目上はキリスト教徒であっても真のキリスト教信仰には従っていないという考えが示され、ヴィーゼルがユダヤ人として、キリスト教に敵するものではないことがあらわれている。それをはっきりと、彼は

 

ユダヤ人は、決して憎しみをもって憎しみに答えることはしない。時には自己防衛のために過激な手段に訴えることはあるが、敵は決して、自分たちが犠牲にしたユダヤ人を自分と同じレベルに引きずりおろすのに成功はしなかった。……

自分たちが敗者になったときには、戦争を憎むことはたやすい。けれども、ユダヤ人たちは、自分たちが勝ったときでさえも、戦争を憎んできた。おそらくわれわれは決して敵を憎みはしなかったのだ。われわれが憎んだのは戦争であって、戦争がわれわれの敵だった。[91]

 

このような立場に立って、彼は、世界的に平和のアピールを続ける。アウシュヴィッツの苦難に際して、世界は沈黙を守り、ナチスに介入しなかった。それは、プリーモ・レーヴィやその他多くの人々にとってと同様ヴィーゼルにとっても、世界が彼らを見捨てたということに他ならなかった。「殺し屋どもが死の収容所でしていることをモスクワもワシントンも知っていたのに、せめて彼らの “生産” を鈍らせるために、何一つ企てられなかったのはなぜか。ただ一機の軍用飛行機さえ、アウシュヴィッツ周辺の鉄道を破壊しようと試みなかったのは、私にとっては依然としてけしからぬ謎なのだ。……ただの一夜でも、ただ一隊の輸送隊が数時間だけでも遅延したならば、どれだけの人数の子どもの命が延びたことか。それはせめて、ドイツ群に対する警告の役に立ったことだろう。――「注意しろ、ユダヤ人の命はわれわれにとって大切なのだ!」と。ところが、ユダヤ人が生きようと死のうと、彼らがきょう消えようとあした消えようと、自由世界にとってはどうでもよいことだった」[92]と、ヴィーゼルは書いている。そして、この疑問を被害者意識に終わらせる代わりに、ヴィーゼルが取っている行動が、世界で犠牲になろうとしている「子どもの命を延ばす」ために、無関心と戦うことだということは意味深いと思う。フランクルの言うように、世界に何が期待できたか、何が期待できるか、のかわりにヴィーゼルは文字通り、世界は自分に何を求めているか、自分は何を出来るかに、生き方を見出しているのである。それによって、彼は、ユダヤ人を見捨てた世界に絶望することもなく、世界を憎むこともなく、かえって、世界に奉仕することになっている。

今年ヴィーゼルが、日本の読者に向けて雑誌に発表した記事がある。彼は、20世紀を振り返り、ファシズムとナチズムの敗北やアパルトヘイトの無力化などの業績を認めながらも、将来を憂慮して、われわれ日本人に次のように提言している。

 

学者たちに自らの責任を自覚させるには、広島の名を口にするだけで十分だろう。愛と友情に渇く男や女が、自分たちの周囲いたるところにある悲しみを沈黙させるには、アウシュヴィッツの夜を染める炎のことをもち出すだけで十分だろう。そうすれば、どこかで重大な過ちが、不幸な逸脱が犯されたという重苦しい感覚が、わたしたちの中に生まれるだろう、と[1945年には]私たちは考えたのである。わたしたちはあまりにも無邪気だったのか?人間を信頼したのは間違いだったのか?人間は死を、その犠牲者たちに忠実でいることによって克服できるだろうと主張したのは間違いだったのか?

 半世紀後のいまもなお、複数の大陸において、貧困が、飢餓が、無知が、不寛容が、踏みにじられた無垢が、不治の病が、疫病が、祖国追放が、離散家族が、腹をすかせた子供たちが、津かれきった老人たちが、大量殺戮が、戦争(1945年以降に70以上の戦争)が存在する。これらすべての胸張り裂ける悲しみをどう説明すればよいのか?そして、それらに対する無関心を?……

 だからこそ無関心と闘うことが絶対的な至上命令となる。……愛の対極にあるのは憎しみではない。無関心である。……無関心とどう闘えばいいのか? わたしたちは教育によって無関心と闘い、思いやる心によって、その力をそぐ。最も効果的な治療薬?それは記憶、いついかなるときでも記憶、である。

 以上が……目撃者としての私、ユダヤ人としての私が、日本の友に伝えたいことである。わたしたちはすでに知っている。一つの民族が苦しむとき、他のすべての民族もそれに傷つくことを。そして、一つの危険がある共同体を脅かすとき、目標となっているのは他のすべての共同体であることを――だからこそ、もはや恐怖の中ではなく、苦悩や欠乏の中でもなく、ごく単純に希望の中で、互いに歩み寄る時がきているのではないだろうか?[93]

 

 



[1] ホロコースト:あるいは、ショアー----「ホロコースト」とは、語源的に、神への燔祭の生け贄を意味し、それが、当てはまらないとして、最近では、「ショアー」という言葉を好む向きが多い。

[2] Terrence Des Pres,  “Excremental Assault,” in Holocaust: Religious and Philosophical Implications, ed. John K. Roth and Michael Berenbaum (Paragon House, 1989), p. 209.

[3] Neiberger, Ami, “An Uncommon Bond of Friendship: Family and Survival in Auschwitz," in Ruby Rohrlich ed. Resisting the Holocaust (Oxford, 1998), pp. 133-p. 134.

[4] Des Pres “Excremental Assault” p. 209.

[5] cf. Des Pres, p. 210.

[6] ポール・ジョンソン『ユダヤ人の歴史』()阿川尚之、池田潤、山田恵子訳(徳間書店, 1999),  pp. 315-316.

[7] Primo Levi, The Drowned and the Saved, English Tr. from Italian, Raymond Rosenthal (1988, Vintage International, .1989), 17.

[8] ヘレン・エプシュタインHelen EpsteinChildren of the Holocaust, 1079『ホロコーストの子どもたち』マクミラン・和代訳 (朝日新聞社, 1984, pp. 93-94.

[9] Elie Wiesel, The Fifth Son, English Tr. from the French by Marion Wiesel (Schoken Books, 1985)

[10] ジャン・アメリー『自らに手をくだし』大河内了義訳(法政大学出版局, 1987 p.11

[11] John D. Barlow, “Translator’s Introduction,” Jean Améry, On Suicide: A discourse on voluntary death, tr. by John D. Barlow (Jean Améry, Hand An Sich Legen, Diskurs über den Freitod (Stuttgart: Klett-Citta, 1976), p. xix.  言及された小説はDie Schiffbrüchigen

[12] Barlow, “Translator’s Introduction,” On Suicide, pp. xix.-xx..

[13] アメリー『自らに手をくだし』, p. 170.

[14] アメリー『自らに手をくだし』, p.27.

[15] アメリー『自らに手をくだし』, p.200.

[16] アメリー『自らに手をくだし』, p.25.

[17] ジャン・アメリー「ユダヤ人であることの強制、ならびにその不可能性について」『罪と罰の彼岸』池内紀訳(法政大学出版局,1984, p.171.

[18] アメリー「精神の限界」『罪と罰の彼岸』, pp.  15-16.

[19] アメリー「精神の限界」『罪と罰の彼岸』, p.38

[20] アメリー「精神の限界」『罪と罰の彼岸』, p.41.

[21] アメリー「拷問」『罪と罰の彼岸, p. 55

[22] Levi, The Drowned and the Saved, p. 25.

[23] アメリー「ユダヤ人であることの強制、ならびにその不可能性について」『罪と罰の彼岸』池内紀訳(法政大学出版局,1984, p170

 

[24] アメリー「精神の限界」『罪と罰の彼岸』pp.17-18.

[25] アメリー「ユダヤ人であることの強制、ならびにその不可能性について」『罪と罰の彼岸』pp147-8

 

[26] ジャン・アメリー「なぜ、どんなふうに」『ルフー、あるいは取り壊し』神崎巌訳(法政大学出版局, 1985, p. 194.

[27] アメリー「なぜ、どんなふうに」『ルフー、あるいは取り壊し』, p.200.

[28]徐京植『プリーモ・レーヴィへの旅』(朝日新聞社, 1999p, p.132134.

 

[29] プリーモ・レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない』竹山博英訳 (朝日新聞社, 1995), p.10

[30] レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない』, pp. 23-24.

[31] レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない』, pp241242

[32] プリーモ・レーヴィ『周期律――元素追想』竹山博英訳(工作舎,1992, p.6.

[33] レーヴィ『周期律――元素追想』, p.238.

[34] レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない』, p243.

[35] Alan L. Berger, Children of Job: American Second-Generation Witnesses to the Holocaust, Suny Series in Modern Jewish Literature and Culture Sarah Blacher Cohen, Editor (State University of New York Press, 1997), p. 159.

[36] Levi, The Drowned and The Saved. pp. 11-12.

[37] Sara R. Horowitz, Voicing the Void: Muteness and Memory in Holocaust Fiction (SUNY, 1997), p. 101.

[38] プリーモ・レーヴィ『休戦』竹山博英訳(朝日新聞社, 1998), p.18.

[39]  Cfヘレン・エプシュタイン『ホロコーストの子どもたち』マクミラン・和代訳 (朝日新聞社, 1984, pp. 93-94.

[40] レーヴィ『休戦』, pp.254-255.

[41]徐京植『プリーモ・レーヴィへの旅』, (朝日新聞社, 1999

[42]徐京植, pp. 212-222.

[43]徐京植, p. 222.

[44] エリ・ヴィーゼル『しかし海は満ちることなく』(下)村上光彦,平野新介訳(朝日新聞社, 1999), pp.300-301

[45] Cf.エプシュタインp95.また、後述するヴィーゼルも参照。

[46] Levi, The Drowned and the Saved, p.73

[47] Levi, The Drowned and the Saved, pp. 75-82.

[48] Levi, The Drowned and the Saved, p.p82

[49] Levi, The Drowned and the Saved, p.174.

[50] レーヴィ『周期律』, pp.336-337.

[51] レーヴィ『周期律』p.340.

[52] Levi, The Drowned and the Saved, pp.25-33.

[53] Aharon Appelfeld, Beyond Despair:Three Lectures and a Conversation with Philip Roth (Fromm International, 1994), pp.55-56.

[54] Appelfeld, Beyond Despair, p.13.

[55] Appelfeld, Beyond Despair, p.14.

[56] Appelfeld, Beyond Despair. pp. 50-51.

[57] Appelfeld, Beyond Despair,. p. 15.

[58] Appelfeld, Beyond Despair,. p. 29.

[59] Appelfeld, Beyond Despair,. p. 17.

[60] Appelfeld, Beyond Despair, p.18.

[61] Appelfeld, Beyond Despair,. p. 35.

[62] Appelfeld, Beyond Despair,. p. 35.

[63] Appelfeld, Beyond Despair,. p.68

[64] Appelfeld, Beyond, p. 27.出典は異なるが、 Sara R. Holowitz Voicing the Void, Muteness and Memory in Holocaust Fiction, (SUNY, 1997), p.16.に引用している。(Aharon Appelfeld “After the Holocaust” 83

[65] Appelfeld, Beyond Despair,. pp. 52-53.

[66] Ahron Appelfeld,Onto the Soul, English tr. from the Hebrrew Jeffreyn M. Green (Schocken Bookss, 1994), p.179.

[67] Appelfeld,Onto the Soul, p.211.

[68] フランクル・E・フランクル『夜と霧』霜山徳爾訳 (みすず書房,1961, pp100-102

[69] エプシュタインp95

[70] VEフランクル『<生きる意味>を求めて』上嶋洋一,松岡世利子訳(春秋社, 1999), p. 33.

[71] フランクル『夜と霧』pp. 183.

[72] フランクル『それでも人生にイエスと言う』pp. 2728.

[73] フランクル『夜と霧』p.123.

[74] フランクル『夜と霧』p.127.

[75] フランクル『それでも人生にイエスと言う』p. 162.

[76] その経過についてはエリ・ヴィーゼル『そしてすべての川は海へ』()村上光彦訳(朝日新聞社, 1995), pp. 102-109, Elie Wiesel, A Jew Today, translated from the French by Marion Wiesel, 1978; New York:  Vintage Books, 1979.などに書いてある。

[77] ヴィーゼル『そしてすべての川は海へ』(),pp. 264-267.

[78] ヴィーゼル『そしてすべての川は海へ』() p. 392.

[79] Richard L. Rubenstein, After Auschwitz:  History, Theology, and Contemporary Judaism, Second Edition (The Johns Hopkins Univ. Press, 1992) , p. 10.

[80] Martin Buber, “The Dialogue between Heaven and Earth,” originally delivered in 1951, quoted in  Rabbi Dr. Norman Solomon, “Jewish Responses to the Holocaust,” An  address to the Consultation of the Anti Defamation League of Bnai Brith and the Polish Bishops’ Conference, Cracow, Poland,  April 1988.  p.11.

[81] William Hamilton, in  Thomas J. J. Altizer and Willliam Hamilton, Radival Theology and the Death of God (Penguin, 1966), p. 14.

[82] Rubenstein, pp. 19-20.

[83] Elie Wiesel, Trial of God, tr. Marion Wiesel (1979, Shocken Books 1986), 3

[84] エリ・ヴィーゼル『夜・夜明け・昼』村上光彦訳(みすず書房,1984 p. 110

[85] エリ・ヴィーゼル『そしてすべての川は海へ』()村上光彦訳(朝日新聞社, 1995), p.212

[86] ヴィーゼル『そしてすべての川は海へ』()村上光彦訳(朝日新聞社, 1995),p. 440.

[87] WieselTwilightEnglish tr. from the French by Marion Wiesel (Schocken Books, 1988),  p. 197.

[88] Ekue Wiesel, A Jew Today, translated from the French by Marion Wiesel (1978; Vintage Books,  1979), p. 193.

[89] Elie Wiesel, A Jew Today. p. 193

[90] Wiesel, Twilight, p. 18.

[91] Elie Wiesel, A Jew Today, p. 364.

 

[92] ヴィーゼル『そしてすべての川は海へ』() p.152.

[93] エリ・ヴィーゼル「二つの世界大戦を超えて」『文芸春秋』(2000年1月号), pp.214-217.(引用はpp.215-217)