男女を超 えてフェミニスト神学から得られるもの

                                  本多峰子

        What Feminist Theology tells us, both to men and women

                                Mineko Honda

 

 

 フェミ ニスト神学は、フェミニズム運動の一つとして、現在キリスト教における重要な声となっている。フェミニズム運動とは、もともと19−20世紀にヨーロッ パ、アメリカに起こり、世界的に広がった、男女平等思想に立つ婦人参政権運動などの、政治運動であった。そして、さらに進んで、多様な女性解放運動、ある いは、様々な文化・社会制度の中で虐げられ、軽んじられ、従属を強いられ、排除されてきた女性の復権運動として続いている。現在、依然として解決されない 男女の雇用条件の不均等、不平等の問題、従軍慰安婦問題、セクシュアル・ハラスメント、性差別用語などの問題などが、政治的、社会的な分野におけるフェミ ニズムの課題として取り組まれている。しかし、フェミニズムは、今、そのような政治・社会的な領域にとどまらず、フェミニスト歴史分析や、多様な文化的、 哲学的な側面での女性の視点に立った理論の構築、文学におけるフェミニスト批評なども含むようになっており、フェミニスト神学もその一環として、キリスト 教の今までの男性中心的なあり方に疑問を投じ、新たなキリスト教理解を提示するものとして看過できないものに育っている。

 初代教 会における女性の働きを掘り起こし、新たに光を当てた代表的なフェミニスト神学者エリザベ ス・シュスラー・フィオレンツァは、

 

男性の経 験イコール人間の経験ではない。私たちは、女性の経験に対して排他的でない、全人間存在の経験に対して真に包合的な準拠を、形成する必要がある。それゆえ にフェミニスト神学は、私たちの文化的精神構造自体を疑問の中に投じる。この精神構造は、女性を見えなくさせ周縁化させるような、男性形による総称言語、 古典テキスト、学問的枠組み、科学的現実再構築の中にはっきり表わされている。そしてこれは、女性の経験や文化的貢献が男性のものよりも価値が小さく、重 要性が小さく、意義も小さいという見方を促進させている。[1]

 

と、言 い、聖書やキリスト教の本来の姿に取り組む自分の見方を、「フェミニスト神学の一般的な視点ではなく、フェミニスト神学のキリスト教の視点である……私は この視点を、一つのフェミニスト的・批判的解放の神学として定義する」[2]と、 述べている。

あらゆる フェミニズムがそうであるように、フェミニスト神学もまた、女性に対する偏見や差別をなくすことに関心を持つ。そこから、これは、解放の神学のひとつのか たちと考えられており、フェミニスト神学者たちが行ってきた運動には、女性の牧師職や司祭職への叙階の承認を求める闘争、聖書や教会で神や人間個人に言及 する際に男性中心的言語が用いられることに対し、性差のない包括的言語を用いるように働きかける運動、また、聖書や伝統的文献から読み取られてきた教会の 神学を批判的に見直し、新たな目でそれらの文献を読みなおすことによって、初代教会やキリスト教の伝統において女性が行ってきた活動や、女性が果たしてき た役割がいかに今まで見落とされてきたかを検証し、キリスト教社会において女性が男性に対して低く見られてきたことに対する反省を促すことなどがある。ま た、女性に対する叙任を認めない等の教会の排他的な慣習だけでなく、聖書や歴史的、あるいは最近のキリスト教思想の中に見られる女性に関する否定的見解の 歴史的起源を明らかにすることをめざし、それによって、女性に対する偏見や蔑視を取り除こうとする運動もある。さらには、性的虐待(セクシュアル・ハラス メント)に対する取り組みも行われている。本論では、それらの運動のいくつかを紹介、概観し、フェミニスト神学が、女性解放運動にとどまらず、男性にとっ ても同様に有益な啓蒙的な運動として、初代キリスト教やイエスに対するより正しい理解に通じるものであり、世界各地の多様なキリスト教や宗教間の対話、し いては宗教多元論にも通じる豊かな可能性を持ったものであることを確認してゆきたい。

*      *     *

大越愛子 は、1960年代を境として、フェミニズムに大きな変化が起こったと指摘している。[3]

 

1960年代後半 を境として、フェミニズムの根本精神はまったく一変してしまった・・・それ以前のフェミニズム理論は、概して男性中心の理論パラダイムの中にとどまるもの であった。つまりそれらは自由主義、マルクス主義、実存主義などの男性中心の世界観、価値観をその理論的支柱としており、その意味で思想史全体に対して、 それほどの衝撃をもつものではなかった。他方それ以後のフェミニズム理論は、基本的にいっさいの男性的理論パラダイムに反旗を翻すものである。・・・根本 精神は・・・男性中心の世界観、価値観、男女観を徹底的に問い直し、挑戦し、告発している根本精神・・・である。p.26

 

フェミニ スト神学にも、それに対応する動きがあるように思われる。すなわち、初期においては、この神学運動は、男性中心の社会で永年受け入れられてきた価値観――支配、権 力、力など――や男性社 会の機構の中にとどまり、その中で抑圧され、従属してきた女性の解放を考えるものであった。しかし、近年では、それら男性中心の世界観、価値観、男女観自 体を問い直し、告発し、むしろ女性的な価値観の優れた点や、時には男性を上回る女性の貢献もあったことを認め、それによってキリスト教を理解しなおそうと する積極的な動きがあることが指摘できる。

 

フェミニ スト神学による批判: キリスト教社会における否定的な女性観>

 

 フェミ ニスト神学はその初期から、聖書の男性言語、特に、神を「彼」で表わす伝統に、女性を抑圧する社会を合理化する影響力を見、批判を続けている。それは、1973年のメア リー・デイリーのマニフェストとも言える言葉、「もし神が男性なら、男性が神になる」[4]に顕著で ある。.デイリー は、

 

父なる神 という象徴は、人間の想像力に生みつけられ家父長制度によって裏付けられ支えられてきた。そして、逆に、女性抑圧に向かう父権制社会のメカニズムが正しく 妥当なものであるかのように見せ、そうした父権制社会に都合の良いように働いてきたのである。もし、天の神が実際にの民を支配する父であ るならば、社会が男性によって支配されることは、物事の本質にかなったことであり、神の計画どおり、宇宙の秩序にそったことということになる。[5]

 

と、言 う。そして、こうした問題意識によって、デイリーは、神を男性とするキリスト教を批判し、ついにはキリスト教を離れるに至った。しかし、その後、キリスト 教内にとどまって、キリスト教の伝統を見なおす方向を進めていったフェミニストによって、新たな方向が模索されている。すなわち、社会における支配関係と いう、権力志向の男性的基準を問題意識とするところを超えた方向である。伝統の見直しは、まず、聖書や、 教父以降の神学者たちの文献中で女性が与えられてきた地位や、それらに見られる女性観を、社会学的な目を持って批判的に読み直すことから始まる。フェミニ スト神学者たちは、それらの文献中で、女性が男性の所有物や財産と見られていることを指摘し、男性に対しては従属した位置を与えられていたことを確認して いる。たとえば、イスラエルでは、女子は、男児に比べて好ましくないとされ、嫁に出されるまでは父親に支配され、結婚すれば主人に支配されてきた。[6]フィリ ス・トリブルは、旧約聖書において、いかに女性が精神的、肉体的に男性に搾取され、時に父親の同意によって強姦までも受けたかを、アブラハムの息子イシュ マエルを生んだ奴隷女ハガル、異母兄弟に強姦された皇女タマル、強姦され切り刻まれた士師記の女、むごい生贄にされたエフタの娘を例にとって語っている。[7]第2に、 女性は、穢れ、性的肉体的には危険であると見られていたこと、そしてその一方では、弱い器であり、保護される必要があるとロマンティックに偶像化されてい ることなどが指摘されている。[8]

 こうし た女性観や社会での位置づけは、女性を特に罪や悪に結びつける見方を促し、女性には神もしくはキリストを十分に創造する能力がないと断定する向きに通じ る。そして、女性をキリスト教の聖職、教職から排除し、キリスト教生活における主要な決定権を下す場も奪うことにもつながっているものである。

そこで、 最近のフェミニスト神学の研究が明らかにしてきたことは、聖書が必ずしも女性を男性よりも劣るものと書いているわけではなく、また、女性が穢れた者であ り、社会から排除される者であるという姿勢はイエスの行いとは正反対のものであるということ、キリスト教の歴史において、女性が最初からただ犠牲者であっ たわけではないことである。エリザベス・シュスラー=フィオレンツァらは、初代キリスト教時代から、女性がその活動の担い手として大きな役割を果たしてき たことを明らかにし、キリスト教自体を弾劾するのではなく、キリスト教の正しいあり方として、男性だけではなく女性も同様に人間として扱う信仰を取り戻そ うとする向きにある。また、その他に、神を男性 “He”として語 ることから起ってきた男性優位の見方に対しては、そのような聖書の男性言語に対する批判と並んで、たとえば聖霊を女性的なものと見て、父なる神の一面性を 補完するような形で、神の女性性を考えることによって、より円満な神理解を促す者もある。以下に、これらフェミニスト神学者の論点を見てゆきたい。

<否定的 女性観の修正>

まず、聖 書では女性が男性よりも劣るとされるという見方についてであるが、その、大きな根拠は「創世記」の218-22節の、主なる神 は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」……そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」

にある。ここで、助け手とあることにより、あたかも女性が男性に仕えるだけの存在であ るかのようにみる伝統ができたからである。しかし、フィリス・トリブルは「フェミニスト聖書解釈と聖書研究」において、ヘブライ語の<助け手>Ezerは、 ごくしばしば、選りすぐれた者であることを示す語であると指 摘しており、[9]これが誤りであることを、明らかにしている。

 聖書から引き出される女性に対する否定的な見方を修正する最も網羅的な試みのひとつ は、エリザベス・キャディ・スタントンの、「婦人の聖書」(Women’s Bible, 1895)である。これは聖書の中で女性に関係のあるところ を抜き出して、フェミニスト神学者たちの手で訳出しなおし、注釈をつけたもので、「女性に直接言及しているテキスト箇所や章、特に、女性の存在が顕著に抜 け落ちているところを改定しようとした」[10]ものである。たとえば「創世記」のアダムとエバの堕罪についての解釈は、スタントン自 身の注に加えてリリー D. ブレークの解釈が載っているが、そこでは、むしろエバのほうがアダムよりも優れている 点が指摘されている。

エバの振 る舞いは、最初から最後までアダムよりも優れていた。知識の木からは食べてはならない、という命令は、女性が作られる前に男性だけに与えられていた。それ ゆえ、禁止は、エバには神の声の荘厳さを持ってもたらされたのではなく、彼女と対等の夫からささやかれたのである。……女は、知恵が得られるなら死も恐れ ずに果物を口にする。そして、その間ずっとアダムは彼女の傍に立って、――夫は彼女と「一緒にいた」と6節に書い てある――一言も異議をさしはさまなかったのである。もし彼が、結婚生活で神に任ぜられた代表であったならば、きっと彼自身、蛇と論じる荷を負ったであろ うものを、彼は、彼らの運命を決する危機に黙っていたのである。……その後のアダムの振る舞いは、徹底的に卑劣である。……神ヤーウェが現れ、「なぜ命令 に背いたのか」とた尋ねた時、アダムは自分がいかにも大切にしていると言っていた優しい彼女の陰に隠れて自分の身を守ろうとするのである。「あなたがわた しと共にいるようにしてくださった女が与えたので、食べました。」……このような話から、男が男性の優位を語る理論を立てたことに、われわれは驚いてしま う! [11]

また、ス タントンは、「ローマの信徒への手紙」の冒頭から、パウロが女性を男性とまったく同等に同労者として扱い、手紙で呼びかけていることも指摘している。

また、R=R・リュー サーはさらに、男性を女 性よりも上位に見る見方がアリストテレスの生物学の影響であり、本来聖書に根ざすものではないことを指摘し、女性が司祭になる道を阻むこの偏見を覆す議論 を展開している。

 

中世のス コラ哲学においては、アリストテレスの生物学が採用されたため、このキリスト論の反女性的用法は、シンボルの次元だけでなく、生物学の次元でも議論され た。男性のみがヒトという種の規範となる、一般的性である。男性だけが、完全な人間の性質を表わし、女性は、身体的、道徳的、精神的に欠陥がある。従っ て、神のロゴスが男性に受肉したのは、歴史的偶然ではなく、存在論的必要である。キリストが男の形で受肉しなければならなかったように、男性だけがキリス トを代表できる。*

 この種 の男性優位のキリスト論は、最近では女性の按手習得に反対する保守派の根本原理となっている。[12]

*Thomas Aquinas, Summa Thelogica, pt.I, q.92, art. I, 2; qu.99, art.2; pt. 3 supp. q. 39 I.

 

アリスト テレスからトマス・アクィナスを経てキリスト教に根付いた女性蔑視の概念のルーツがこのように認識されれば、女性を男性よりも劣ると決めつける見方を聖書 本来のものとしてキリスト教自体を否定することも理にかなっていないことが分かる。

 エリザ ベス・シュスラー=フィオレンツァは、カトリックで依然女性が司祭になることを認められないことを、このように弾劾している。

 

釈義的な 議論を誤用した、いかにもお粗末な例としては、女性の叙任に反対するヴァチカン文書がある。つまりこうである。新約学の洞察によれば、イエスは、その時代 の文化の中で受けいれられていた規範に必ずしも従いはしなかった。……それゆえイエスはもし望めば女性を叙任することもできたはずであった。イエスがそう しなかったということは、女性の叙任に対して正典が否を唱えていることの明白な示唆である、と。この議論は完全に論理的であるかのように見える。だがこの 文書は、一つ大切な事実を述べるのを忘れている。すなわち、今日私たちが理解する仕方での司教職への叙任というものを、一体イエスはだれに対してであろう と行ったのかどうかということに、新約学は重大な疑問を投じているということである。[13]

 

 第二 に、女性を罪深い存在とし、穢れていると見る伝統に対しては、まず、先に男性の優越という点でも問題となった創世記2−3章(人間の創 造物語と、それに続く、蛇に誘惑されたエバが神に禁止された木の実を食べ、それをアダムにも渡し、アダムも食べてしまったという堕罪の物語)から、人 間の原罪、つまり根源的な罪を、最初の女性エバに帰し、しいては全女性を罪と悪の根源として見てきた歴史が指摘される。(cf. エバは聖 母マリアの聖性と処女性に対比して描かれる。)しかし、この見方に対しフィリス・トリブルは

 

 蛇は女に 話す時、複数形を用いて、彼女をこの人間の夫婦の代表としている――これは、 父権制文化の定式とは程遠いやり方である……同様に、「彼女と共にいた」(多くの翻訳は、この決定的な言葉を抜かしてしまっている)は、誘惑を受けている 間一度として道徳的に彼女よりも優れていることはなく、むしろ、腹の欲求によって動かされている。明らかに、この物語に描かれているのは、伝統的な解釈と はまるで異なった二人である。[14]

 

と指摘 し、むしろアダムにも、少なくとも同等の罪を見ている。これは、決して、男性にすべての罪の原因を転嫁しようとすることではない。むしろ、両性がこの世に 存在する悪に共に前向きに向かい、他者を一方的に責めるような偏狭な見方を避ける方向に向かう反省的なあり方を提唱することに通じるものである。R・リュー サーは、このように言っている。

 

女性は単 純に歴史的悪を男性に帰して、自分たちをただの罪のない犠牲者とすることはできないのである。女性は自らをイマゴ・デイとして任じ、完全な人間的潜在能力 を持つ主体として肯定する際、男性の人間性を貶めてはならない。女性は侮辱を甘受してきた人類の半分として、包括的な人間性の定義−−両性のみならず、す べての社会集団、人種を含むような−−を常に目指さなければならない。……女性はまた、人間中心主義、すなわち、創造物の共同体に属する他の存在を貶め て、人間を創造の規範であり、王者とすることを批判しなければならない。これは人間と他の創造物が同じだというのではなく、それらの価値を認めるというこ とであり、ありのままの多様性と特異性を認めるということである。……異なる存在を肯定することをわたしたちに許すような、相互関係のモデルの構築を目指 すのである。[15]

 

ここにも 見られるように、少数派に属する民族や、一方の性や、障碍を持った人たちに対する差別を批判し、多様なものの価値をそれぞれ固有のものとして認めようとす る動きは、フェミニスト神学の重要な側面であり、これは、排他的な方向に向かう正統主義と逆に、キリスト教内の他の多様性や他宗教に対して本質的に開かれ た態度である。そういう意味で、これは、宗教観の寛容や宗教多元論に通じる平和的なあり方であると言えよう。

*    *   *

原罪を女 性に帰す見方は、女性に罪意識を生じ、女性自身の側に劣等意識をもたらしてきたと、考えるフェミニスト神学者は多い。原罪は、西洋ラテンキリスト教の伝統 では、傲慢の罪を本質とすると見られてきた。しかし、罪は、フェミニスト的視点では、神との関係,他の人格との、 自然と生命そのものとの関係の破壊として理解される。罪の本質を、自尊心(傲慢)、過度の自負心、野心などと見るのは、男性の体験を反映しているが、女性 の体験には合わないとされる。女性の場合は、自己鍛錬や責任の欠如がむしろ罪である。キリスト教的愛の中心である自己犠牲や、責任のある献身がなされるた めには、まず、健全で自由な自我がなければならない。(献身と奴属は異なる)。自己に対する意識、活動の担い手としての責任意識を伸ばそうとしない受身の 罪を、フェミニストは指摘する。デイリーは、女性の罪は、むしろ、原罪を女性に帰する社会の中にあって罪悪感を自分のうちに内在化してしまいそれにとらわ れるような、「咎と罪悪感の内面化」[16]に あると見ている。そして、そこからの救済と癒しは、意識の中に刷り込まれた劣等感や、自己嫌悪の念を追い払い、全人的な「両性具有的」存在になることにあ ると考える。[17] また、モルトマン=ヴェンデルは、女性が自立的な存在を奪われ、あるいは失っているところに問題を見て、それに対するメッセージを、復活のイエスがマグダ ラのマリアに向けた言葉に見ている。

 

マリア・ マグダレーナは癒しをほかのだれにもましてからだをもって経験した。彼女はイエスを個人として愛していた。……「わたしに触れてはいけない!」という言葉 を、わたしはこう翻訳したい。「成熟しなさい、大人になりなさい! 別離の痛みを受け入れなさい!」[18]

 

 また、女 性は誘惑者であり、そうした点で罪深いというレッテルは、セクシュアル・ハラスメントがおこなわれた場合も、女性が刺激的な服装や振る舞いをしたのではな いかと疑われたり、さらには、美しい魅力的な顔をしているのだから仕方がない、というように、心身の痛みをまともに問題にしてもらえないという現実的な問 題にも結びついている。そのような目がある限り、被害者の女性は、セクシャル・ハラスメントを受けたことでさらに責められ、冷たい視線を受けるというよう な、第二次被害をこうむるというようなことにもなるという指摘が、フェミニスト神学者からではないが、日本基督教団の中からもなされている。[19]女性を、 男性を罪に陥れる誘惑者、と見るような誤ったイメージは、なくすべきである。

<歴史の 修正――原始キリ スト教における女性の位置について> 

イエスの 弟子たちや原始キリスト教団において、女性が果たして来た役割が現在の聖書正典に残っていない、あるいは残っていないように見えることは、イエスに従って いた当時の人々の実情を真実に伝えているのではなく、それを伝える文書が歴史の中で消されてしまった結果であるということを、フェミニスト神学者たちは示 している。

ディアド リ・J・グッド は、

 

27書で 構成される新約書正典の外部には、キリスト教伝統の中で初めて宗教的幻を語り、預言をする女性の声、殉教の経験、そして洗礼を受け、癒しの宣教を行う女性 たちが疑いなく見出される。死者をよみがえらせる女性の話さえある! それらの記事は女性について書かれ、ある場合には女性自からの手で書かれた。これら の記述は……初代教会の女性たちに知られるようになり、自分たち自身のキリスト者としての生活体験や宣教について表現したり、解釈したりするのに役立った のである。

 これら の文書にあまりにも人気が出たので、教会の体制側はしばしばそれらを信ずるに足らぬものとして扱い、従って何世紀ものあいだそれらの文書は読まれずに、ま た多くの場合存在さえ知られずに来てしまった。今やっとこれらの文献的資料が復元されてきたので、初代キリスト者共同体における女性たちの活動がずっと広 範囲にわたって知られるようになり、次第にキリスト教史の読みを中和するのに役立っている。その歴史とは、初期には女性と男性が対等に教会の宣教に携わっ ていたのに、時代が進むにつれて女性の役割が徐々に制限されるようになったという単純な図式によって枠づけられたものである。[20]

 

と、後の 正典編纂の過程での偏向的排除を指摘している。グッドは、たとえば、外典とされる

『マリア 福音書』は、よみがえったイエスとマグダラのマリアとの出会いについて語っており、このテキストには、ある初代キリスト者共同体に起こった、女性たちの宗 教的権威についての論争が反映されていると指摘している。[21]同様に、 リューサーは、正典が定まった後に、女性の働きを記した正典外文書が消されてしまった過程を、

 

いったん 正典が定まると、それに続く伝統は、正典の写しと見なされる。伝統は、常に正典を正しさの基準として修正される。しかし、一方、カトリック主義とギリシア 正教の中では、初期に存在した正典外の「使徒的」伝統が完全に忘れ去られてしまうことはなかった。正典と並んで存在した権威ある信条、聖餐式、使徒的教座 から伝えられた口承の伝統もまた、「原始共同体」の始めの信仰への手掛かりとなった。……過去に編まれた正典の中に、共同体内の差異をまとめあげようとし ても、現実には現在の共同体の経験を無視することは不可能である。[22]

 

と指摘し ている。

 イエス の弟子や、原始キリスト教団の中に女性がおり、男性と同様に使徒職や重要な役割を果たしていたことは、先のエリザベス・シュスラー=フィオレンツァの、今 やフェミニスト神学の古典ともされる『彼女を記念して』に、明確に示されている。この本の題名は、マルコによる福音書14:9からとら れているのであるが、ここに記されているのは、ベタニアでイエスが食卓についていた時に高価な(労働者300日分以上 の賃金に値すると言われる)香油の入った壷を持って彼に近づき、それを壊し、香油をすべてイエスの頭に注いだ女の話である。そこにいた者の中には、その香 油は300デナリオ ン以上に売って、貧しい人に施せたはずだと、彼女をとがめる者もいたが、イエスは、彼女は自分の埋葬の準備をしてくれたのだと言い、り、この人の行いが 「記念として語り伝えられるだろう」(14:9)と肯定 する。フィオレンツァはイエスの頭に香油を注いだこの女に、古代イスラエルの預言者の型を見て、「預言者がイスラエルの王の額に油を注いだのと同じよう に、この女性はイエスに油を注ぐ。彼女は預言者的象徴行為によって公に彼を指名する」[23]と、大き な役割を指摘している。

 さら に、フィオレンツァは先のスタントンと同様、パウロが手紙の中で女性たちを同労者として述べていることに注目し、「これらの女性はパウロの「助手」でも 「補佐役」でもなかった」こと、「真正なパウロの手紙では、宣教者という呼称とそのような特徴づけを、同労者(プリスカ)、兄弟姉妹(アフィア)、ディア コノス(フェベ)、使徒(ユニア)として、女性に対しても適用している」と指摘している。[24]

 また、 彼の弟子の中に最初から女性がいたことは、フェミニスト神学者たちの福音書注解が示す、動詞diakonevw の用法か らも分かる。イエスに癒されたシモンのしゅうとめは、イエスを「もてなした」(マルコ 1:31)(と訳さ れている)とあるが、そこで使われているこの動詞diakonevwは、天使 や弟子に用いられているときにはイエスに「仕えた」と訳されている。エレイン・ウェインライトは、マタイによる福音書では、この語がイエスの使命と宣教を 特徴づけるために使われ(20:28)、また イエスの包終末論的「神の国」に属する人の生き方の定義を与えているものであることを指摘しており、[25]また、 ジョアンナ・デゥーイは、マルコによる福音書について、この語が、マルコがのちに真の弟子とは何かを描くときに用いる語と同じ語であり、「後者の意味合い がここでも当てはまるのかもしれない」(ジョアンナ・デゥーイ「マルコによる福音書」『聖典の探求へ:フェミニスト聖書注解』p.362)と、指 摘している。

E・モルトマン=ヴェンデルは 言う。

 

福音書の個々の婦人が特権的な役割を果たしたことは、これまでいつも認 められてきた。多くの神学者が、すべての弟子より英知に富み将来を予見していることを証明しているあの大いなる未知の婦人*のほかにも、ス ロ・フェニキア生まれの女(マルコ七・二四以下)やサマリアの女(ヨハネ四・一以下)のように、ほかの人より先に信じた婦人がいた。ユダヤ法では女性は証 言能力がないとされていたにもかかわらず、復活の最初の証人となるのは女性である。[26]

 

特に、ヴェンデルは、女性 たちに、イエスに対する影響力、イエスを変えさえした力を見ており、これは他の男性の弟子には言われえないことであろう。

 

この人たちはだから決して、ただ彼の後についていった女性、市民階級的な理解で言う 「奉仕」を彼に捧げ、……彼の語る言葉に聴き入った女性たちではない。これらの女性の活動の結果は、イエスが彼自身を変革したことである。自分の民族だけ に対象を限定したがったナショナリストのイエスは――カナンの女のおかげで――異教徒カナン人を助ける者、その救済者にもなる。

 男性イエスは、出血する女に触れられたとき、……自分の内から力が離れ去るのを感じ る(マルコ530以下)

 時には消極的に見えることがあり、ラザロを甦らせるまでにこれほど時間のかかった優 柔不断の人が、女たちの積極性によって、死んだ友を呼び醒ます者となる(ヨハネ1119以下)。

……彼女たちは彼の道をともに行くことによって、彼を彼たらしめる――あらゆる人間のための人間 に、あらゆる孤独者のための慰め手となりうる孤独者に、あらゆる者に自己信頼を与えうる自己信頼者に、死へ赴きつつもけっしてひとりではない人間に。[27]

 

 このように、いまや、フェミニスト神学者たちは、原始キリスト教において女性が男性 に劣らず大きな役割を果たしていたことを十分に立証しているといえよう。特に、福音書の中で最も早く書かれたとされ、マタイとルカの資料としても用いられ たと見なされているのはマルコによる福音書であるが、そこでイエスが女性た

 

 

このように、いまや、フェミニスト神学者たちは、原始キリスト教において女性が男性に 劣らず大きな役割を果たしていたことを十分に立証しているといえよう。特に、福音書の中で最も早く書かれたとされ、マタイとルカの資料としても用いられた と見なされているのはマルコによる福音書であるが、そこでイエスが女性たちを対等の人格として扱い、時には彼女たちに影響を受けていることを読み取ってい るのは、フェミニスト神学の重要な洞察のひとつである。

 

「マルコ の描く同伴者のない女性が……イエスのもとに来て個別に彼と語り合い(724-30143-9)さら に、驚くべきことには公衆の面前で語り合っている(525-34)という ことは重要である。女性はすでに「恥ずべきもの」(すなわち、奴隷、解放奴隷、娼婦、女役者)の中に入っているか、そのように見入られることを厭わない場 合にのみ、慎み深ささという社会的役割を無視した。これらの物語によって著者は女性に適切な振舞いを定めている規制的な文化規制のいくつかに挑戦している か、キリスト教に引きつけられた女性たちの中に「見捨てられた」地位のものがいたということを示唆しているかの、どちらかであろう。[28]

 

ヨハネ福 音書 8:3―811の、姦淫 をしているところをつかまってつれてこられた女性の逸話では、「物語を注意深く読むと、イエスの焦点は女性だけに合わされているのではなく、律法学者、 ファリサイ派、その女性に均等に分割されていることが分かる」と、指摘がなされている。

イエスは 二度身をかがめて書き、二度立ち上がってその対話の相手に語りかけている。イエスは両方の登場人物に罪について語っている。「あなたたちの中で罪を犯した ことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という、律法学者とファリサイ派の人々への彼の言葉は(87)過去 に、……「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」という、その女性への彼の言葉(811)は、未 来に、その女性がこれから先生きていくその生き方に、思いをめぐらしている。イエスは律法学者とファリサイ派、その女性の両方を、今この瞬間に新たな生活 を始めるように招いている。彼らは古い生き方を捨てて、新たな生き方に入るように招かれているのである。[29]

 

  イエスが 女性たちを一個の人格として尊重したことは、罪人を招き共食したのと同様に、当時の社会にとってのひとつの革命的脅威であったはずである。それを、E・モルトマン=ヴェンデル は、

 

「神の意志をおこなう者はだれでも、私の母であり、私の兄弟であり、私の姉妹であ る」。この言葉をもって彼は新しい共同体を性格づけている。彼に従い、父、母、子供という家族の紐帯を捨てて来た者は、新しい共同体の中で、自分の捨てた もののすべてを、「家、兄弟、姉妹、母、子供、そして畑を」、再び見出すだろう、と。けれど奇妙なことに、再び見出されるものの中に父は挙げられていない (マルコ1029-30)。新しい共同体は女性と男性の共同体なのであり、たとえそれがイエスという男性を囲 んで成立したものであっても、父的な構造を免れているのである。[30]

 

 こうしたことをさらに裏付ける指摘として、フィオレンツァは、

 

タイセン はこう提案する。イエス運動のラディカルなエートスは非家族的で禁欲的なものであったが、ギリシア・ローマ都市中心におけるキリスト教宣教運動の共同体は 父権主義のやわらげられた形が特徴であったと。そしてこれを彼はトレルチと共に愛の父権主義 Liebespatriarchalismus と表現 した。*実際、キ リスト教宣教運動は、実在の父権制的な家庭の秩序と葛藤を起こした。そしてそれはこの運動が、父権制的な家庭での社会的身分や機能とはまったく関係なく個 々人を回心させたからであった。……家父長 pater familias がいまだ 異教徒でキリスト教に回心していない時であっても、妻、奴隷、娘、息子といった人々を家の教会に入れることを承認したからである。……家庭訓の倫理学は、 家庭と社会の父権性秩序に対して宗教的回心が持っていた転覆力のあるインパクトを緩和するための試みだったのである。[31]

 

 と、書いて いる。つまり、イエスの教え自体は本質的に家父長的な男尊女卑とはむしろ対立するものであったということである

では、どうして、そのようなものとして始まったキリスト教社会が、現在のような父権制 的なものとなったのであろうか。その問いに答えるひとつの鍵として、フェミニスト神学者が今指摘している大きな点に、ルカによる福音書における、女性排除 を助長する意図的な書き方がある。ジェイ ン・シェイバーグは、

 

ルカ福音 書(と歴史的イエスの宣教)における女性は一世紀当時のユダヤ人女性よりもはるかに解放されているということがしばしば指摘されている。イエスは宗教的な 環境と伝統に対抗した革命的「フェミニスト」と考えられている。するとのちにキリスト教が女性に対して課した制限は、ユダヤ教、あるいはユダヤ・キリスト 教の伝統に対する不可避的な屈服に根ざすものと見なされることになる。……碑文、パピルス、考古学のデータは、大きな多様性の存在を示唆している。ユダヤ 人女性のなかにはシナゴーグの指導者もいたし、財政的に独立した地主や実業家もいたし、宗教教育を受けて一生をトーラーの研究にささげた者さえいた。[32]

 

と、当時 の社会的な状況を指摘しながら、その一方で

 

ルカは女 性の役割を帝国世界での慣習が受け入れる範囲に限定している。言い換えると、ユダヤ教内部の力に対してよりも、ローマ帝国内部の抑圧的な力に降伏している ことになる。ローマ法を女性に関して評価すると、古典古代においては少数の上流階級の裕福なローマ女性でさえ、ごく限られた、名ばかりの意味で「解放され て」いたにすぎなかったことがわかる。[33]

 

と、ルカ が当時キリスト教のローマにおける宣教を助けるために、ローマの父権制社会の倫理に迎合する形で一種の操作をおこなっていることを示唆している。例とし て、彼女は、

 

ルカが女 性たちをその「持ち物」から提供しているあるいは奉仕しているように描いている事実は、ルカの女性への視点だけでなく、富と弟子の身分への視点を理解する 上で重要である。彼女らが(依然として)「持ち物」を持っていたということは、極貧の者ではないことを意味している。彼女らはルカの心のなかでは弟子でも ないのである。なぜなら、弟子たちは「すべて」を売り払い貧しい人々に分け与えるように要求されているからである。(18221433・・・)。 従ってその女性たちは貧しい人々(弟子たちとイエス)を助けているように描かれているが、彼らの階級の外部からのパトロンとしてなのである。・・・女性が 支援し、男性が指導する組織というルカの描写は、多くのキリスト教組織において何世紀にもわたり忠実に模倣されてきたのである。[34]

 

とも書い ており、メアリー・デイリーがキリスト教の本質的部分と見なし、それによってキリスト教から離れてしまった父権的な価値観念は、必ずしも本質的なものでは ないのかもしれないと、思い直させる。とくに、シェイバークは、ルカ103842におけ る、マルタとマリアの逸話においてはイエスの意図とルカの意図が異なることが見えてくる、という洞察を示しており、これは重要であろう。

 

[ヨハネ福 音書では]食卓で給 仕をしているマルタは、この福音書の中心となるキリスト論的告白、キリストとしてのイエスという告白をしている(共観福音書でのペトロの告白参照)。イエ スとの対話に加わっているマリアは、イエスの足に香油を注ぐという預言的行為を行なっている。二人の姉妹のヨハネによる描写のなかでは、食卓と御言葉のdiakoniaが統合さ れ続けているのである。

 ルカは 「女性が教えたり説教することは許さない」とか「女性は黙っているべきである」とか「男性だけが使徒、弟子、執事になれる」と述べているイエスを提示して はいない。ルカの世界ではイエスは「分ける者」ではない(1213を見 よ)。認められている女性たちは自ら受動的役割を選んでいるのであり、それをルカ福音書における主は「良い方」と呼んでいる(1042)。…… しかしルカ福音書1038‐42に女性の 真剣な神学教育の認可を認めるならば、このテキストは破壊的な役割を演じることもありうる。破壊的というのは、女性のリーダーシップをひそかに傷つけると いう、ルカの意図にとって破壊的という意味である。教育を受けた女性はテクストの背後を見て、その異なるレベルを見て取り、ルカの戦略を見て取る。ここで 最も重要なのは、「マルタ、マルタ、・・・」というくり返しのなかに愛情と配慮、そしておそらくは憤慨の調子を聞き取ることである。これは「愛の家父長 制」のやさしそうな声である。しかし、この個所が促しているように「主の御言葉」に耳を傾けるならば、自らの経験と他の女性たちの経験において、テクスト の背後に女性のリーダーシップと和解を奨励するもう一つの声を聞くであろう。[35]

 

このよう に、ルカ福音書は、ローマ帝国の父権制社会において受け入れられてきた性別役割に合うように、東方ローマ帝国のキリスト教集団に圧力をかけるように書かれ ているように書かれているという認識が出されている。「その圧力が認識されるとき、女性を肯定せずに共同体の周縁部へ、とりわけ共同体のリーダーシップの 周縁部へと女性を追いやるキリスト教的前提、理念、制度の創出に、ルカがどれほど影響力を持ったのかが見えてくるのである」[36]

 マルコ による福音書、マタイによる福音書などで、イエスの逮捕の折に男の弟子たちは自己の保身を図って離散、逃亡してしまう。それが、ルカにないことも、フェミ ニスト神学者たちの視点からすれば、男性の弟子たちを良く見せ、女性の弟子たちを小さく劣った者に見せるための操作である。

E・モルトマン=ヴェンデルは 言う。

 

ルカの福音書で始めて、私たちは今日までおなじみの教会的理解に出会う。弟子たちの逃 亡は語られないのである。十字架の場では婦人たちと並んで、イエスを知る多くの人たちも立っていて、しかもそっちが先に挙げられている。おそらくルカはそ れによって、男性の優位を暗示しているのだろう。初期の伝統がまだ認知していた婦人の特別な役割は、墓の場と復活の朝のことだけに縮小されてしまってい る。ルカはそのほかの場合にも婦人の役割を軽減していて、男女が同等の重要性を担う教会という図をつくり出したのである。……

 そしてすでに明らかなように、奉仕とディアコニーは急速に女性固有の任務になってゆ き、男性教会員はそこから身を引くすべを心得ていた。仕えることと説教すること、奉仕と教会指導は、互いに引き離されてしまった。[37]

 

この指摘は、シェイバーグのような洞察を見た後では、正しさを認めざるを得ないであろ う。

 

<神は男 性か――男性言語の問題>

 先に見 たように、メア リー・デイリーは、キリスト教は神を男性で象徴し、男性の救い主、男性の指導者、思想家、改革者たちからなる男性支配の家長制の宗教であり、性差別主義で あり、女性にとっては有害であると考えた。天における神を男性として描く限り、キリスト教は地上において男性を女性より上におくことになるからである。

 同様の 認識から、フェミニスト神学ではずっと、聖書における男性言語に対する取り組みがなされてきた。フィオレンツァは、

 

聖書テキ ストはすべて男性中心言語によって形成され、父権制的社会構造を反映したものであるゆえに、フェミニスト的・批判解釈はまず、同意と肯定の注釈学ではなく疑 いの注釈学でもって始める。そしてこれは歴史的、事実的注釈学ではなく宣教の注釈学を展開させる。……

疑いの注 釈学は、聖書の中のフェミニスト的権威とか真理といったものを前提せず、聖書テキストと解釈とは男性中心的で父権性機能に奉仕するものだという想定を出発 点とする。……フェミニスト的・批判的解釈は、失くした伝承と解放のヴィジョンを捜し求めて、男性中心的聖書テキストとそれらの諸解釈という歴史遺産の中 をくまなく探す。……

すべての 男性中心言語は、そうではないと証明されない限り、総称言語として理解されなければならないということを理解しない。だが以上のような理由で、男性中心的 な聖書テキストはすべて、女性と女性に関する側面が明らかに除外されているのでない限り、男性と女性両方について語られたものであると想定しなければなら ないのである。[38]

 

と提唱し ている。

 また、神を父なる神とし、男性とするキリスト教義に対するもうひとつの補完的な考え としてフェミニスト神学者たちが出しているのは、聖霊を女性として見る見方である。父、子、聖霊からなる神の三位一体の第三位格である聖霊の女 性性を見なおし、神の男性を補完して見るのである。たとえば、E・モルト マン=ヴェンデルは、ヘブライ語の「ルァハ<霊>」は 女性名詞であり、ヘブライの伝統では霊がもともと女性的に理解されていたことを指摘している。[39]また、 フェレーナ・ヴォートケ=ヴェルナーは、ウアシャリングの三位一体のフレスコ画に描かれている聖霊についての考察から、聖霊の女性的な性質を指摘し、「聖 霊は父と息子を結ぶ一本の帯のようなカリタス[慈愛]なのであ る」[40]と、述べ ている。彼女は、また、「アウグスティヌスの場合、……愛と霊の結びつきをもとに、この教父が第三の神的位格に神のあらゆる慈愛に満ちたやさしい性格特徴 を与えている……。この性格特徴は、愛が中心的な位置を占める中世の伝統においては、判で押したように女性的なものとして理解されていた」[41]とも指摘 し、キリスト教において神の内にある母性的な性質は決して忘れられることはなかったことを示している。

 こうし たことを考えるとヤハウェ信仰がもともとカナンの原住民の女性的な豊穣神崇拝に対立するものとして自己のアイデンティティーを確立してきたことが思い起こ される。小田垣雅也 は、「人類学的には、人間の文化は父なる神ヤーウェによる天地創造の神話に反して、女性崇拝から始まったことが明らかにされている。旧・新石器時代は母系 社会であって、部族ないし家族の中心は女性であった。しかし生殖における男性の役割が発見されるにつれて、神の座に男性的要素が導入されるようになり、紀 元前5000年から600年にかけて、女性神から男性神への移行が漸進的に行なわれたのである。……エデンの園の 物語は、この女性神から男性神への移行の過程で、メソポタミアやカナーンの宗教が持っているグレート・マザーとしての女性神崇拝への抵抗から産まれたもの であるという」[42]と 指摘している。また、R=R・ リューサーは、「ヤハウェは、イスラエルによって征服され、同化された多くの人々の愛情の対象として、女神にとってかわったのではないことは、考古学上の 証拠から明らかである」[43]と 見ており、イザヤ書42: 14(わたし は決して声を立てず/黙して、自分を抑えてきた。今、わたしは子を産む女のようにあえぎ/激しく息を吸い、また息を吐く)に注意を促して、「このよう に子宮的性質をヤハウェに取り込むことに加え、聖書的、神学的伝統の中ではさらに別の重要な女性のイメージが神を描く際に用いられている。「知恵の伝統」 の中では、女性のイメージが神の第二の位格として登場し、神の働きと意思を創造物に仲介する」[44]と 述べている。

 また、フィオレンツァらは、イエスに帰された最初の比喩がソフィア(知恵)であったということに注意を促 している。フィオレンツァによれば、キリスト教宣教運動の神学が「よみがえりの主を神の霊と同一視するだけでなく、神のソフィア(知恵)とも同一視する (ヘブライ語でもアラム語でも両方の言葉が文法的に女性形であり、また、神の臨在、シェキナーと互換可能でもあるゆえに、これは可能であった)。……こパ ウロ以前のキリスト教宣教運動がよみがえりのキリストをソフィアなる聖霊という用語で理解したということは、コリントのコリントの信徒への手紙一における パウロの論争的な議論で歴然としている。またいわゆるパウロ前のキリスト論的な賛歌や第二パウロのコロサイの信徒への手紙やエフェソの信徒への手紙のいく つかの伝統的な素材では、もっと強調された形で歴然としている」[45]と 指摘する。彼女は、より具体的に、コリントの信徒への手紙一、1:24にある「ユダヤ人 であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」というような思想に注意を促し、イエス運動が イエスを神なるソフィア(知恵)の使者、預言者と理解していたのに対し、復活後のイエスをキリストとして宣教するキリスト論は、イエスをその神、ソフィア と同一視していることを指摘している。[46]

このよう に、男性、女性の両方の面を持つ神をあえ て「彼」と表さざるを得ないのは、むしろ、人間の言語における限界によると見なされよう。レーヤマ・アティヤルは指摘する。

 

神が根本 において、男性的でも女性的でもないことは明白である。しかし神の人称代名詞、所有冠詞には「彼は」、「彼を」、「彼の」が使用されている。これは伝統的 に男性支配的な神学が神のために男性人称を使用してきたせいである。不幸なことに、男性的にも女性的にも利用される第三位格の代名詞がない。だからある者 たちは、神に「彼女は」「彼女の」を使うべきだと提案するのである。しかしこれは永続的な解決にはならない。神のために女性的象徴語を導入すれば、男性的 なものを締めだすことになるからである。同時にまた私たちは、神の人格理解に「彼」あるいは「彼女」は使えても、「それ」では具合が悪い。[47]

 

 こうし て言語的限界に望んで、神を「親」あるいは「父と母」と表わそうという提案もなされている。また、リューサーは神をGod/ess とあらわすことを提案し「メアリ・ベイカー・エディの包括的な用語「母=父である神」は、すでに100年前にこの親のモデルを採択している。……母、父と 呼ぶことで、女/神は創造主、私たちの存在の源としてイメージされる」[48]と、 語っている。また、親というイメージを離れるという案など(友人としての神McFague, 1982,1987)もあるが、結局は定着していないように思われる。

 

<男性と 女性――ひとつの人間性か、二つの人間性か>

男性と女 性は同一の人間性を表すのか、それとも、異なったふたつの人間性を表すのかという問題は、フェミニズムにとって重要な問いであるが、これに対する立場は フェミニストのなかでも分かれている。

生物的な 差異を越えて、男性と女性は本質的には同じであると考える立場は、社会的な労働条件などの完全な同等、均等を目指す動きに見られよう。アン・カールは、そ うした立場に立てば、男女の差は、歴史的条件の問題であり,その中で、女性は現在のキリスト教徒の生活と思想の中 に十分に統合されるべき重要な価値を持ってきたと主張されると述べる。また、その一方で、女性は男性と本質的に異なると考える立場がある。そうした立場で は、子どもを生み育てるという、心理的社会的重要性、肉体的なあり方の重要性、特に、母親になる可能性を必然的に含む女性と自然との特別な関係が強調され ると、カールは指摘している。[49]

女性が他 者との結合と依存の文脈の中で生きているという認識に立ち、モルトマン=ヴェンデルは、情緒と理性を司る脳の両半球が、女児と男児では違った使われ方をし ているという、生態学的な指摘をし、そのかぎりで、男女の性差には生物学的背景があるとも言えるとしている。女児の場合、形態知覚が脳の両半球でが行われ ている兆候、つまり生活の理性的な面と情緒的な面とを統合する、より強い能力があることを示す兆候があり、この能力はたぶん他の生活領域にも働いている と、彼女は考えるからである。[50] 

また、 フィオレンツァは、女性独自の霊性を持ってなしうる信仰生活の意義を次のように考えているが、これも、男性と女性の相違を認める立場である。

 

キリスト 教フェミニズムとフェミニスト神学は私たち女性自身の神学を明瞭に表現し、女性自身の霊性を回復し、私たち自身と姉妹たちの宗教生活を自主決定するための 権利と力とを回復する。……私たちは女性の教会が常にエクレシア・リフォルマンダすなわち途上の教会であって、方向転換と「改革的忍耐」が 必要なものであることを十分に自覚し認識している。この忍耐とは私たち自身の失敗への忍耐であり、それと共に私たちの姉妹たちの失敗への忍耐である。「神 の民」になっていくこのプロセスにおいて要点となるのは和解である。……連帯しあい支援しあう中で罪責意識を克服していかなくてはならない。[51]

 

ここで出 されている和解という考えは、教会の外に広がってゆくことで、宗教的寛容と平和への道につながりえないであろうか。

 女性と 男性が、本質的に異なるものであるという認識に立ちつつ、両性を対等と見る見方は、フェミニズムに限ったものではない。たとえば、英国国教会に属するC.S.ルイスは、アウグスティヌスのラテンキリスト教の伝統に立つ護教家であるが(たとえば、彼は女司祭の是非が問題に なった時、女性の叙任に反対であった)、彼は、男性と女性との関係、夫婦の関係はいわばダンスのようなものと考えている。それは、彼の天国のイメージ−ー すべてのものが自己放棄をしながら喜びに満ちている御国――のイメージから来るものであり、互いに対する平等、対等、などの概念を超えた理想である。

 

その偉大 なるダンス(the Great Dance)の中には、入り組んだ無数の構図があり、各々の動きがそれぞれの季節に、構図全体の中心となって花開き、その他の部分がすべてそちらを向く。 そうして、各々が等しく中心にあり、それでいて、どれも同等であることによって中心にあるのではなく、あるものは場所を譲ることによって、あるものはそれ を受け取ることによって、小さいものはその小ささにより、偉大なものはその偉大さにより中心にあるのだ。そして、すべてのパターンは、王笏を手にした愛と 共に膝まづく、その結合によって、繋がれ、輪にされているのである。[52]

 

ルイス は、男女の本質的な相違を、キリスト教の本質に見て、このように言っている。

 

改革論者 が、「善い女は神に似ている」と言うのをやめて、「神は善い女のようだ」と言い始めたらどうでしょう。「天にまします我らの母よ」と祈るほうが「我らの父 よ」と祈るよりむしろ良いと言ったらどうでしょう。そして、受肉は男性の姿ではなく女性の姿をとってなされても良かったし、神の三位一体の第二位格は、神 の息子ではなく、娘と呼ばれても良いのではないかと示唆したらどうでしょう。最後に、結婚の秘義が逆にされて、教会が花婿でキリストが花嫁となったらどう でしょう。私には、こうしたことが、すべて、女性にも司祭として神を代弁できるという主張には含まれていると思われるのです。

 さて、 確かに、もしこうしたやり方が現実になったら、私たちは、ある別の宗教に行き当たることになりましょう。もちろん、女神信仰もあります。女司祭をたててき た宗教もたくさんあります。けれども、それらはキリスト教とは全く異なる性格の宗教なのです。私たちの神学的言語を女性詞に変えることを考えた時にたいて いのキリスト教徒が不快感や恐れさえも感じることを無視して、常識的には、「なぜいけないのか。神は実際には生物学的存在ではなく、性がないのだから、私 たちが、神を彼と呼ぼうと彼女と呼ぼうと、父と呼ぼうと母と呼ぼうと、息子と呼ぼうと娘と呼ぼうと、問題ないではないか」と、問われるでしょう。

 けれど もキリスト教徒は、神自身が神をどのように語ればよいか私たちに教えたのだと考えています。それが問題ではないと言うことは、男性的イメージがどれも霊感 によらない人間の作ったものか、あるいは、霊感をうけてできたものでも単に恣意的で本質的ではないのだと言うことです。そして、それは、決して堪えられな いことです。それとも、もし堪えられるとしたら、これは、キリスト教で女性司祭を支持する議論ではなく、キリスト教自体を否定する議論となるのです。更に また、それは確かに、イメージを浅薄視することにも基づいています。宗教によらないでも、私たちは、詩的経験から、イメージと洞察とが、常識的に認められ るより以上に緊密に結びついていることを知っています。天の母なる神に祈るように教えられてきた子供は、キリスト教の子供とは、根本から異なった宗教生活 を送っているのです。そして、イメージと洞察とが有機的に一つのものであるのと同様に、キリスト教徒にとっては、人間の体と魂とは一つなのです。

 改革論 者は、実際暗に、性は何か表面的で精神生活には関係ないと言っているのです。ある職業に、男性も女性も同様に適していると言うことは、その職業の目的には 性別が無関係だということです。[53]

 

ルイス は、彼の代弁者とも言える小説の人物に、「平等は命を守るが、命を作りはしない。平等は薬であって、食物ではないのです」[54]と 言わせている。法的な平等を超えて真に理想的なのは、人間相互間の自発的な従順さと愛とによる、調和なのである。

この指摘 は、フェミニズムに対して、依然として大きな問いかけであろう。キリスト教徒でありながら女司祭を肯定するフェミニズムは、初期キリスト教の実際に立ち 戻って、司祭職の性別はキリスト教の本質ではないということを示して、自らの正しさを論証している。しかし、神を「父よ」と呼ぶ呼びかけは、イエス自身の ものとして揺らがぬものであろう。それを考えて、神をどのようにとらえてゆくのかは、逃れられぬ課題である。キリスト教徒でありながら、神に女性的な性質 を認めるのか、それとも、キリスト教以外の女性的な神を奉じる宗教にも、キリスト教と並ぶ真理を見るのか--- -。

ひとつ、 私に思われるのは、生物学的な性(sex)と、より本質的な男性性、女性性(gender)とを、混同しないこと が大切ではないだろうか、ということである。男性(male)にも、女性(female)にも、男性性(masculinity)と、女性性 (femininity)の両方があり、ことに神のレベルでは、神が男性であるか女性であるかと生物学的に問うよりも、神がすべてのものの根源として男性 性についても女性性についても、やはり根源であり、両面を備えた究極的な存在であると考えることが正しいのではないであろうか。

 フェミ ニスト神学が明らかにしてきたイエスは、その生き方、言葉、態度において、当時社会の偏狭に置かれてきた女性たちを対等に扱い、すべての人への正義と平和 を実現化し、この世にもたらそうと実践するイエスである。それは、罪人との共食や、重い皮膚病を負った人たちの癒しを行うイエスと、一貫して、特に社会か ら無視された人々、小さくされた人々に対して、革新的に開かれたイエスである。そのイエスに、われわれは、男性であっても女性であっても、(しいては、キ リスト者であろうと、なかろうとまでいえるかもしれない)学び、得るものがないであろうか。そしてそこから、日本人として、ラテンキリスト教の父なる神を 受け入れがたいと感じる多くの日本人にも、キリスト教が訴えかける道も開けてくるのではないであろうか。

 



[1] ES・フィオレンツァ『石ではな くパンを:フェミニスト視点による聖書解釈』山口里子訳(新教出版社,1992)p.35

[2] ES・フィオレンツァ『石ではなくパンを』,p 39

p.35

[3]大越愛子「第二期フェミニズム理論の現在」別冊宝 島編集部編『フェミニズム・入門』(JーCC出版局, 1990), p.26.

[4] Mary Daly, Beyond God the Father, Toward a Philosopy of Woman's Liberation (Beacon Press, 1973), p.19.

[5] Mary Daly, p.13.

[6] Phyllis Tribble, “Feminist Hermeneutics and Biblical Studies”, Christian Century, 3-10 February 1982, pp. 116-18, rep in Alister E. McGrath, ed. The Christian Theology Reader, (Blackwell, 1995) p. 76.

[7] フィリス・トリブル『旧約聖 書の悲しみの女性たち』河野信子訳(日本キリスト教出版局, 1994

[8] Anne Carr 「フェミニスト神学」(Feminist Theology) アリスター・E・マクグラス編 『現代キリスト教神学思想事典』(新教出版社, 2001), pp. pp. 476-484.

[9] Tribble, p. 77

[10] Elizabeth Cady Stanton, The Woman’s Bible, E-text, in:   http://www.undelete.org/library/library0041a.html

[11] Lillie Devereux Blake in The Woman’s Bible, E-text, ed. Elizabeth Cady Stanton.

[12] R=R・リューサー『性差別と神の語りかけ:フェミニスト神学の試み』小檜山ルイ訳(新教出 版社, 1996, p.175.

[13] E.S.フィオレンツァ『石ではなくパンを』, p.70.                               

[14] Tribble, p. 77

[15] R=R・リューサー『性差別と神の語りかけ:フェミニス ト神学の試み』小檜山ルイ訳(新教出版社, 1996), p.44

 

[16] Mary Daly, Beyond God the Father, Toward a Philosopy of Woman's Liberation (Beacon Press, 1973) , p.49

[17] Daly, p.50.

[18] E・モルトマン=ヴェンデル 『イエスをめぐる女性たち:女性が自分自身になるために』大島かおり訳(新教出版社, 1982, p. 119

 

[19] 日本基督教団九州地区伝道セ ンター平和・人権部門編集『セクシュアル・ハラスメントと教会』(日本基督教団九州地区, 2003)参考。

[20] ディアドリ・J・グッド「初期の新約聖書外典」, C・A・ニューサム/S・H・リンジ編『女性たちの聖書注解』荒井章三、山内一郎日本語版監修、加藤明子、小野功生、鈴木元子訳

(新教出版社, 1998, p.645.

[21]グッド, p.647.

[22] R=R・リューサー『性差別 と神の語りかけ:フェミニスト神学の試み』小檜山ルイ訳(新教出版社, 1996), p. 38.

[23] フィオレンツァ, E.S.『彼 女を記念して――フェミニスト神学によるキリスト教起源の再構築』山口里子訳(日本基督教団出版局, 1990, p.237

[24] フィオレンツァ『彼女を記 念して』p.254.

[25] エレイン・ウェインライト「マタイによる福音書」 『聖典の探求へ:フェミニスト聖書注解』p.489.

[26] E・モルトマン=ヴェンデル 『イエスをめぐる女性たち:女性が自分自身になるために』大島かおり訳(新教出版社, 1982, p.184.  *は、イエスに香油を注いだ夫人のこと。

[27] E・モルトマン=ヴェンデル 『乳と蜜の流れる国』大島かおり訳(新教出版社, 1988, p.168-189.

[28] メアリー・アン・トルバー ト『マルコ福音書』, CA・ニューサム/SH・リンジ 編『女性たちの聖書注解』, p.452

[29] ゲイル・R・オデイ 『ヨハネ福音書』 CA・ニューサム/SH・リンジ編『女性たちの聖書注解』, pp.509-510

[30] E・モルトマン=ヴェンデル『乳と蜜の流れる国』大島かおり訳(新教出版社, 1988, p. 142.

[31] ES・フィオレンツァ『石ではな くパンを:フェミニスト視点による聖書解釈』山口里子訳(新教出版社,1992)pp.138-139. *Gerd Theissen: "Itinerant Radicalism :  The Tradition of Jesus Syings from the Perspective of the Sociology of Literature," in The Bible and Liberation:  Political and Social Hermeneutics (Berkeley, Calif.:  Radical Religion Reader, 1976), pp. 84--93;  Sociology of Early Palestinian Christianity (Philadelphia:  FOrtress Press, 1978) 及び The Social Setting of Pauline Christianity:   Essays on Corinth (Philadelphia:  Fortress Press, 1982)

[32] ジェイン・シェイバーグ 『ルカ福音書』pp. 470-501. CA・ニュー サム/SH・リンジ編『女性たちの聖書注解』, pp.477-478.

[33] シェイバーグ, p.478

[34] シェイバーグ, p.493

[35] シェイバーグ, p. 496

 

[36] シェイバーグ, p.500.

[37] E・モルトマン=ヴェンデル 『イエスをめぐる女性たち:女性が自分自身になるために』大島かおり訳(新教出版社, 1982,p.180.

 

[38] ES・フィオレンツァ『石ではな くパンを:フェミニスト視点による聖書解釈』山口里子訳(新教出版社,1992), pp. 54-57.

[39] エリーザベト・モルトマン =ヴェンデル「序文」, E・モルトマン=ヴェンデル編 『聖霊は女性ではないのか: フェミニスト神学試論』内 藤道雄訳 (新教出版社, 1996,p.9

[40] フェレーナ・ヴォートケ= ヴェルナー「ウアシャリングの三位一体のフレスコ画に描かれているのは聖霊か女聖霊か?」E・モルトマン=ヴェンデル編 『聖霊 は女性ではないのか』,p.112.

[41] ヴェルナー, p. 113

[42] 小田垣雅也『ロマンティシ ズムと現代神学』(創文社,1992) pp. 124-125.

[43] R=R・ リューサー『性差別と神の語りかけ:フェミニスト神学の試み』小檜山ルイ訳(新教出版社, 1996),p.90.

 

[44] R=R・リュー サー『性差別と神の語りかけ:フェミニスト神学の試み』小檜山ルイ訳(新教出版社, 1996)

p.92

[45] フィオレンァ『彼女を記念し て』, p. 282.

[46] フィオレンァ『彼女を記念して』, p. 284.

[47] レーヤマ・アティヤル「女 性と聖霊教義」E・モルトマン=ヴェンデル編 『聖霊は女性ではないのか: フェミニスト神学試論』p. 230

[48] R=R・リュー サー『性差別と神の語りかけ:フェミニスト神学の試み』小檜山ルイ訳(新教出版社, 1996)

pp.107-108

[49] Anne Carr 「フェミニスト神学」(Feminist Theology) アリスター・E・マクグラス編 『現代キリスト教神学思想事典』(新教出版社, 2001, p.483.

[50] E・モルトマン=ヴェンデル『乳と蜜の流れる国』大島かおり訳(新教出版社, 1988),p36.

[51] (E・S・フィオレンツァ『石ではなくパンを:フェミニスト視点による聖書解釈』山口里子訳(新教出版社,1992) p. 42

[52]  C.S. Lewis, Perelandra:  A Novel (1944; Macmillan, paperbacks, 1965), p.217.

 

[53] C.S. Lewis, “Priestesses in the Church? God in the Dock: Essays on Theology and           Ethics, ed. Walter Hooper (Eerdmans, 1970), p. 237238.

[54] C.S. Lewis, That Hideous Strength:  A Modern Fairy-Tale for Grown-Ups1946; Macmillan,

paperbacks, 1965), p.148.