マルコによる福音書:その著作動機と思想、手法について

本多峰子

 

<序>

 共観福音書について現在有力な二資料仮説によれば、3つの福音書の中ではマルコによる福音書が最も早く書かれ、その後マタイによる福音書とルカによる福音書とがいわゆるQ資料とマルコを用いて書かれたと見られる。つまり、マルコによる福音書のイエスが、共観福音書の中では最も基礎となるものであり、現実のイエスに近いとも言えるであろう。マルコによる福音書の成立年代については、CE50年代、60年代初頭を考える学者もいるが、第一次ユダヤ戦争(CE66-70)における、エルサレム陥落(CE70)前後を考えるのが現在の多数派の意見であり、私も、その説をとりたい。なぜならば、まず、イエスの死に際して、「神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた」(15:38)という描写は、エルサレム神殿が崩壊する前、あるいは、その崩壊が予測される前には書きづらかったであろうと思われることから、執筆年代の上限が70年前後と定まり、その一方で、この福音書には、後のマタイやルカと異なりまだ教会の概念がないこと、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:14‐15)という個所など、主の再臨と神の国の成就が間近であるという終末的期待が見られることから、エルサレム陥落からまだ間もないと思われるからである。この1章14節‐15節に対応するマタイやルカの並行記事では、「時は満ち」という言葉はない。また、この、時は満ち(peplh,rwtai o` kairo.j)は完了形になっている。それを、大貫隆は、「生前のイエスにとって、短い公の活動のあらゆる「今」が「満ち満ちた時」であった。……これまでの歴史は終わりに到達し、その単純な延長としての未来はすでに存在しない。……イエスにとって「今」は新旧の世界の接点であらゆる時を内包した今なのである」(大貫 50)と指摘しているが、無論この「イエス」は、マルコの見たイエス、としても良く、このようにマルコが描きえたのは、再臨の遅延が問題になっていたであろうルカの執筆時期よりも早い時代であったからに違いない。

 本論ではマルコによる福音書を、著者マルコが一つの目的を持って書いた、神学的主張を持った証の文学として考える。第一に、時代背景を考え、その中でマルコが福音書として一つのまとまったものを書いた動機について一つの仮説を立て、その仮説に従って全体を読み返すことが本論の目的である。著者は実際は「マルコ」という人物ではなかったとされるが、本論では便宜上「マルコ」と言及する。

 

<時代背景>

 マルコによる福音書が書かれたのが70年頃とするならば、当時のキリスト教は対外的な危機と、内部での危機の両方を抱えていたと思われる。

 対外的に見れば、この時期のキリスト教徒は、ユダヤ教徒と、非ユダヤ教徒(異邦人)との両方からの憎悪を受けてまさに「わたしの名のゆえにすべての人に憎まれる」というマルコのイエスの言葉で表わされた状況にあったと、大貫は指摘している。(cf.大貫 14-18)ユダヤ戦争は、ローマに対するユダヤ民族主義の政治的メシア運動の極点であった。しかし、キリスト教徒がメシア、「神の子」と告白するイエスは、約40年前にローマに対して何もなすことなくローマの極刑によって屈辱的な死を遂げた者であった。しかも、エルサレムにあった原始エルサレム教団は、ユダヤ戦争勃発直前に、一説によれば、デカポリスのペルラへ逃げてしまっていた。そうすることによって事実上、ローマとの戦いに加わらぬ立場をとったキリスト教徒に対して、主戦派のユダヤ人たちの軽蔑と憎しみがあった。それは、敗戦後ファリサイ派を中心とした者たちが、今まで以上に自分たちとキリスト教徒との差異を明確に認識し、キリスト教徒を敵視し、やがては異端宣言(それまではキリスト教はユダヤ教の一派であった)を発するに至ったことに現れている。また、一方で、この時代にはユダヤ戦争勃発以来のユダヤ人と非ユダヤ人との報復合戦の結果、非ユダヤ系住民がユダヤ人に対していだいていた憎悪も強く、そうした非ユダヤ人は、キリスト教徒とユダヤ教徒との区別を意識せず、彼らキリスト教徒にも憎悪を向けたであろう。最初のキリスト教はユダヤ教の一派として起こり、外から見ればともにユダヤ人に見えたはずである。また、ローマからの迫害も激しくなり、61年にはパウロが殉教し、62年にはエルサレム教会の指導的立場にあったイエスの兄弟ヤコブが、そして64年のローマの大火の責任をキリスト教徒に帰してなされたキリスト教徒の迫害ではペトロが殉教したとされている。こうした中で、キリスト教徒であることは多方面からの迫害に耐えつづけることを意味し、時には文字どおり、イエスに従い、殉教までもいとわないことを意味したであろう。

 また、内部で見れば、この時期のキリスト教徒の中には、イエスの恵みと救いの使信のみを強調して、その使信を生前のイエスと結びつける必然性を見ない後のキリスト教的グノーシス主義に至る傾向も見られるようになっており、そうした傾向に対するアンチテーゼとして、マルコは、地上でのイエスの生涯すべてを含む全体が福音であると主張しているのであるという見方もなされている。(cf笠原 16)これは、私には正しく思われる。

 

グノーシス主義へと至った展開の中では、イエスの奇跡はもはや物語られなかった。語られたのは、弟子たちの間に働く天に上げられた主の奇跡だけであった……それに対し、もっとも古いマルコによる福音書においては、再度、イエス伝承と十字架の神学との密接な結びつきが示されている。マルコにおいて地上のイエスの伝承群を全体的に特徴づけているのは、まさに十字架と復活のケリュグマとの結びつきである。(シュヴァイツァー,  106)

 

また、マルコ福音書において、マルコの編集の意図を見るべきものに、ファリサイ派との論争、ファリサイ派と対立するイエスの像があろう。フレデリクセンは、イエスとファリサイ派との対立は、イエスの史実上の出来事というよりもむしろ、マルコの福音書が書かれた当時の衝突を投影しているのであろうと指摘している。仮に福音書に表されているファリサイ派との論争が事実であったとしても30年ごろは、ファリサイ派は単なる少数派にすぎず、彼らとの対立は、それによってイエスが十字架に追い込まれるような性質のものであったはずがない。現実にはイエスとファリサイ派との対立はマルコが強調しているようなものではなく、使徒言行録(15:5)などを見れば、ファリサイ派からイエスの弟子になった者もあり、パウロがそのもっとも顕著な例である。イエスは政治的な理由で(彼の「新しい国」の宣教は現在の政治体制に対する批判と見なされたであろう)殺されたのであるが、マルコはそれを宗教的な理由で殺されたとするために、神殿崩壊後ユダヤ教の主流となってキリスト教徒と対立したファリサイ派との軋轢をもちこんだのであろうというのがフレデリクセンの論点である(cf. Frederiksen, 106, 124-125)。そして、私にはこれは、正しいと思われる。実際、マルコのイエスは最も重要な掟について申命記のシェマーによって答えた律法学者に、「あなたは、神の国から遠くない」(12:34)(マタイと、ルカではこのようには賞賛していない)と言っており、実際のイエスが必ずしも、律法学者と対立していなかったことを示す。7章には、「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが・・・・・・イエスの下に集まった」(7:1)とあるが、これは(おそらくマルコにしてはいささか不用意に)敵対的な意図からでなくイエスの話を聞きに来た人々の中にファリサイ派の人々や律法学者もいたことを暴露しているのではないだろうか。ただし、ヨセフスの『ユダヤ古代史』にも、「ユダヤ人社会には,古代から,先祖たちの教えにもとづく三つの哲学があった。すなわち、エッセネ人の哲学、サドカイ人の哲学、そして、第三に、パリサイ人と呼ばれた連中が信奉した哲学である。・・・・パリサイ人は一般大衆に大きく訴えるものをもっており、その影響力は膨大で、その結果、神に捧げる祈りや、もろもろの聖なる務めは、すべてパリサイ人の指示にしたがってなされた・・・」(ヨセフス『ユダヤ古代史 6』16−18)とあるように、イエス当時のユダヤ教についての文献の一般的な同意として、ファリサイ派は、当時から決して力がなかったわけではなく、民衆の中ではラビとして指導的な立場をもっていた。それゆえ、ガリラヤの農村地帯で活動していたイエスと接触があったのは神殿祭司らなどよりもファリサイ派の人々であり、イエスと議論を交わし、イエスに反感を持つものもたしかにいたであろう。その状況についての口伝があったからこそ、マルコはイエスとファリサイ派の議論を書けた、それゆえ、マルコの記述はたとえ誇張であっても創作ではないと考えてもよいであろう。

 それゆえここで、われわれは、マルコが一方ではキリスト教が純粋なケリュグマ化に向かう動きに抗し、十字架と復活に至るイエスの生涯すべてをも福音として述べ伝えること、また、ユダヤ教に対して抗弁すること、そして、彼の福音書を通して、信徒たちに、迫害に負けずに信仰を貫くように促すことを目的としていたと、言えるであろう。そしてまた、何よりもまず、マルコは、十字架というローマの極刑に処せられ、何の抵抗もできなかった、あるいはしなかったイエスがなぜメシアであるかということも、示さねばならなかった。キリスト教の根源と使信の中心はイエスの十字架と復活の出来事であり、この十字架と復活のケリュグマにすべてはかかっているからである。

ウィリアム・バークレーは、「マルコはイエスの神性を決して忘れなかった。・・・・・・同時に、イエスについてこれほど人間的な描写をしている福音書は他に存在しない」(バークレー 12)と言うが、実際、マルコによる福音書には、公生活の初めから、受難、復活に至るイエスの生涯のメシア性と救いの福音を訴えるメッセージ(そこには、マルコの編集の意図が多分に入るであろう)と、ありのままのイエスの生き様を生き生きと描く二本の線が時には不可分に、時には交差して編まれているように思われる。

 

<マルコの手法・「福音書文学」の創造>

 マルコが福音書を書く以前から、イエスに関する口伝は多様にあった。奇跡物語、いわゆるQ資料といわれる言葉資料、また、イエスの言葉に簡潔な状況描写を付して伝承された「アポフテグマ」(重点は言葉にあり、場面は言葉を伝えるために作られた技巧的なもの)、歴史物語、聖伝などである。マルコはこれらを用い、一つの文学を生み出した。初めて、福音書文学という新しいジャンルを生み出したのである。物語の形式は旧約聖書にすでにあったが、E・シュヴァイツァーが指摘するように、「物語が神の行為を宣べ伝える上で必要不可欠な形式を表しているということをマルコが真剣に受けとめたのは、決定的に重要な神学的行為である。・・・とりわけ、その試みは純粋なイデオロギーに堕する危機に対して向けられていた」(シュヴァイツァー 253-254)。なかでも、受難と十字架の死、復活の伝承は、すべての福音書に共通して表れ、マルコの福音書でも中核をなす。

 マルコによる福音書の14章‐16章まで、すなわち受難物語以下の部分は、13章以前と文体が異なり、後世の付け足しではないかと見る見方もある。E・トロクメらの説である。田川建三は、トロクメ説を支持して、

 

M・ケーラーの有名な言葉、「福音書(複数)は長い序論をもった受難物語である」という判断は、他の福音書はともかく、マルコには当てはまる、というのが近年しばしば採用される見解である。・・・しかしこれは逆である。マルコは受難物語という付録を持った生けるイエス・キリストの記録である。(田川 349)

 

と言う。トロクメの論として田川は、1-13章と14-16章では、

 1) イエスと弟子の関係が変わる。1-13章では、常に弟子と共に居る者としてのイエスが強調されるが、14-16章ではイエスは弟子たちと離れて孤独の存在である。

 2)1-13章では、イエスの出来事について著者は語りつつも、読者自身に「歴史を作り出す」ように呼びかけている。ところが14-16章では、「ひとつのできごとをものがたる」ことが主眼点となる。

 3) キリスト論的称号を用いてイエスを理解しようとする試みが、1-13章では根本的に批判されている。それに対して14-16章ではむしろ積極的にキリスト論的称号を打ち出そうとしている。

4)「福音」の概念。1-13章ではこの語は「神が此世を訪れた、という救いの告知」を意味し、現在における意味が重要視されている。しかし、14:9の「福音」は、「キリストについての福音」、すなわちキリストの行ったことについての記録である。伝承として過去の記録を伝えていくことである。――

以上の観察から、1-13章と14章以下とが異なった視点を持つ人物によって書かれていることは明らかである、というように示している。(田川 341-344)加えて、田川は、次のように、14章以下が後世の付加であるというトロクメ説を補強、支持している。

 

まずこの仮説をさらに強化する要素として、トロクメ教授が気がついていないもしくは強調していないが、注目に値する事実を二、三あげておくと、

(一) 文章のはじめをkai?(そして)で書き出す文体はマルコに特有のものである。・・・13章まではkai文章473に対してde文章七一、・・・であるが14章以下では文章の比率が通常のギリシア語に近いくらいに増え、・・・このような基本的な文体の変化は、同一著者の同一著作においては理解しがたい。・・・

(二)民衆の性格が決定的に異なる。1-13章(14:1、2も含む、後述)では、一貫して、イエスを常に民衆に囲まれた者として、民衆の友として描いており、民衆こそ最も喜んでイエスの教えを聞く者なのである・・・それに対して受難物語では一転してイエスは孤独である。群集はここではイエスの敵対者の側につく(14:43)。彼らはイエスを十字架につけよと叫ぶものである(15:11以下)。これは決して同一の群集の心変わりなどというものではない。名もない一般民衆に対する親近感が異なってこそ、このように異なった叙述が生まれる。

(三)予言証明の動機が受難物語では大きな役割を果たしている。・・・1-13章では旧約の言葉は例示として言及される場合か、あるいは旧約を批判してそれに対する新しい立場を示すために用いられている。旧約聖書に関する福音書本体と受難物語のこのような見方の相違は、初期教会において旧約のしめていた位置を思うとき、重要である。(田川 344-345)

 

田川の説はたしかに、文体上の相違から14章以下とそれ以前の基本資料が異なる論証にはなる。しかし、受難物語が<付録>である論点にはならないのではないだろうか。むしろ、受難と復活の伝承がまずあり、それを中心としてマルコが自分の資料として用いたために、他の個所と異なる文体が残されたのであると考えるほうが理にかなっていると思われる。そのことは、この福音書の構成と、キリスト教信仰の本質との両方によって裏付けられるであろう。

キリスト教信仰の本質という点から言えば、そもそも、十字架の後の復活の出来事がなかったならば、イエスの弟子は離散したままであったであろうし、空の墓の話にしても、イエスの復活を本当らしく見せるための後からの付け足しの創作であれば(他の目的でそのような偽りが書かれるだろうか)、その目撃者が女性であるということは奇妙である。当時、女性は公の証人として認められていなかった。それゆえ、復活を真実と思わせるための作り事であれば、目撃者は男性であるほうが効果的だったはずである。それゆえこれは、事実の伝承として伝えられていた内容を、マルコが重要なものとして物語に入れたと考えるべきであろう。しかも、逃げて離散していた弟子たちが殉教までいとわぬ宣教者になったということは、それだけの変化を引き起こす何かがあったはずである。それは決して彼ら自身の作り事ではない。人は自分の作り事や偽りのために命を捨てたりはしないものだからである。また、構成上から見れば、1章からすでに16章の受難が視野に入っている書き方が指摘される。まず最初の「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」(1:1)は、最後の、イエスが息を引き取ったときのローマの百人隊長の言葉、「本当に、この人は神の子だった」(15:39)と円環をなす。また、イエスがヨハネに洗礼を受けた時「天が裂けて」霊が下り「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた(1:10-11)という箇所で用いられているscizw(裂ける)という語は、イエスが息を引き取ったときに「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(15:38)で用いられているのと同じ言葉であり、この二箇所について、大貫は、同様の垂直軸の視点も明瞭で、マルコが明らかに意識して両者を呼応させていると指摘している。どちらもイエスが「神の子」であることの啓示であり、天が「裂けて」イエスの公生活が始まり、神殿の垂れ幕が「裂けた」ことで公生活が閉じる(cf大貫 45-46)。この円環によって、マルコは、イエスが「神の子」であることを印象付けるのである。また、三回にわたる受難予告(8:31; 9:31; 10:33-34)も、14章以下を前提にして書かれていることは明らかである。こうしたことを考えると、文体はどうであれ、マルコが福音書を全体としてまとめるときに、14章以下にも編集の手を入れていることは明らかであり、1章から16章までを一つのまとまりとして読むことがむしろ自然である。

 A・マクグラスは、十字架と復活こそがキリスト教の中心であることを、次のように強調している。

 

イエス・キリストの倫理的教えに従うことがあたかもキリスト教のすべてか、主要なことであるかのように言いたがる人たちは、しばしば、最初の三つの福音書(通常「共観福音書」と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカの福音書)は、イエスの死と復活の記述にはそれほど紙面をさいていないと指摘します。この指摘は確かに正しいのですが、そこから引き出される結論(イエスの死と復活は、彼の倫理的宗教的教えほどは、神学的には重要ではない)は、誤っています。

 覚えておかなければならないことですが、福音書はパウロの書簡と比べ、比較的遅い段階で書かれており、パウロ書簡や初期のキリスト教徒の言い伝えを下敷きとしていることが学者に認められています。そして、福音書の下敷きとなっているそれらのものは、十字架を、イエス・キリストの人生において決定的な重要さを持った(もちろん、復活を別にすれば)唯一の出来事として扱う傾向があります。新約聖書の最も古い伝承は、十字架のイエスの死と、それが信者にとって持つ意味について述べたものです。パウロ書簡にこうあるからです。

 

兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなた方が受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。……最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと……(コリントの信徒への手紙 一 151-4

 

 パウロが自分に伝えられた何か決定的に重要なことを自分の読者に伝えていること(儀式ばった伝承的言葉を用いています)は明らかです。――イエス・キリストの死と復活、そして、それが信者にとって持つ意味が、先立って重要なのです。イエスの死の意味のこの理解はパウロが発明したのではありません――これは、彼に他の者から伝えられたのであり、ほとんど確かに、イエス・キリストの運命について、最も古く大切にされたキリスト教の洞察を代表するものでしょう。(マクグラス『十字架の謎』40-41

 

弟子たちは、師イエスが十字架刑に処せられるという、思ってもみなかった事態に戸惑い、イエスを見捨てて逃げた。おそらく、心の中でイエスに対する失望と、多少は自責の念を感じながら。特に、イエスを3回否んだペトロは、「イエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした」(14:72)とある。彼は、イエスが自分の裏切りを前もって知っていたことを悟り、それでも自分を責めなかったイエスの大きな愛を改めて悟って、心を打たれ、激しく泣いたのであろう。単に、イエスを裏切ったことへの後悔だけではなかったはずである。そうした思いでイエスの死を経験した弟子たちが、イエスの復活に出会い、その意味をずっと考えつづけなかったわけがない。なぜイエスは十字架で死ななければならなかったのか、なぜ、十字架で死んだイエスがメシアなのか。そこから、マルコは、イエスは十字架にもかかわらず、メシアであったのではなく、十字架で死んだからこそ、メシアであったという神学を立てた、あるいは、受け入れた、のであろう(後述)。

 また、民衆が手を返したように態度を変えるということは、特に政治的指導者に対しては今日のわれわれの世界でさえもたびたび見ることであり、むしろ、イエスに対する失望によって彼らが変わることのほうが自然である。このようにイエスを迫害する民衆は、マルコの読者であるキリスト者たちの目には、自分たちを迫害する同時代人と重なったかもしれない。そうした民衆の前でしっかりと信仰に立ち続けたイエスを示すことで、マルコは、読者に、そのようにすぐに態度を変えるような人間こそが一般民衆であり、まさにそのような者のためにイエスは死ぬのであり、そのような弱さや罪がある人間だからこそ贖いを必要とするのだということを示しているのだとさえ、見ることが出来るかもしれない。ただし、そこまで読み込むのは、解釈者の側の視点であり、マルコの意図を超えるものであるかもしれないが。

では、なぜ民衆はこのように激しく変わったのであろうか。当時の民衆は、紀元前164年のマカバイ戦争でハスモン一族が、シリアのアンティオコス四世に支配されていたエルサレムを奪回し、さらには、ユダヤの独立を成し遂げた史実を覚えていた。リー・IA・レヴァインは、「ハスモン家の成功の大半は、疑いもなく、マカバイ一族が持っていたカリスマ性によるものだった。数々の戦闘において勝利を収め、神殿を清め、さらに、一族の多くの者たちが生命を賭けて聖なる神殿と聖なる都を守ったという事実は、彼らに指導者としての資格が十分あることを証明した」と、指摘している(PK・マッカーター・ジュニア他『最新・古代イスラエル史』320)。.ローマによって独立が奪われた後のイエスの当時の民衆は、メシアを待望していたというが、それは実に、かつてユダヤを独立に導いたハスモン家のユダやヨナタンのような英雄があらわれてユダヤを再び解放してくれることを待望していたのだと思われる。

加藤隆は、軍事力で独立を試みる動きはユダヤ人の中に常にあったこと、しかし、武力による蜂起の度重なる失敗を見て、神の介入による解放を望む人々もまたいたこと、特に、イエスの時代にもあったメシア思想は、神の介入によるダビデ王朝の再興を切望するものであったことを、こう述べている。

 

ダビデ王朝のイデオロギーとの関連で考えられるのならば、この王は「ダビデの子」でなければならないことになる。また、ダビデ王朝において王は「神の子」とされていた。…… さらにダビデ王朝においては、王の候補者が王となるとき、……王となるものの頭に油を注ぐという儀式が行われていた。……したがってユダヤ人たちは神の介入による救いの実現を望んでいたのだが、この希望がダビデ王朝の王国のイデオロギーに即して考えられる場合には、「メシア」ないし「キリスト」の出現を待ち望んでいたということになる。これがいわゆる「メシア思想」の基本的な枠組みである。(加藤22-23)

 

どれほど絶望的に支配されていようと、神の介入があれば、イスラエルの解放と国土の奪回はありうるとイスラエルの民衆は信じたであろう。そして、その明らかな例が、「マカバイ記一」にはある。ユダの軍勢は明らかに少人数で勝ち目はなかった。しかしユダは、祈りと信仰の言葉で同胞を励まし、敵を破る。そして、それを読んだイエスの時代の人々は(あるいは、この話を伝え聞いた人々は)、ユダが神の力によって勝利を得たことを思ったであろう。しかも、「マカバイ記一」に描かれたユダの行動は、イエスの行動と奇妙に一致しているところがある。第一に、宮清めである。イエスが神殿の境内で両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒すのと同様に、ユダと兄弟たちは、聖所の異教徒に汚された祭壇を「引き倒し」、「中庭を清めた」(4:45,48)。ユダは第148年キスレウの月の25日に、新たな祭壇を奉献したのだが、これが今でも祝われているハヌカの祭りの起源であるから(キスレウの月は、今の12月であるが、これが、クリスマスと何か関係があると考えるのは読み込みすぎであろうか) 、イエスの時代にも覚えられていたわけである。それゆえ、イエスのいわゆる「宮清め」を見て、ハスモン家のユダの行為を思い出すか、あるいは、イエスが自分をユダの後継者としてデモンストレーションをしているとさえ解釈した者がいたかもしれない。

また、イエスのエルサレム入場は、同じくハスモン家のシモンが棕櫚の枝をかざし、賛美の歌を歌いつつエルサレムの要塞に入った様子を思わせる。マルコによる福音書にはないが、ヨハネによる福音書では群集がなつめやしの枝を持って迎えに出た(12:12-13)とある。なつめやしは棕櫚のことであり、ヨハネがこれを口伝などの伝承にあった状況から書いたとすれば、群集はイエスに解放者シモンを投影して見ていたとは考えられないであろうか。(ただし、なつめやしは、ヤハウェの栄光を表す象徴的な意味をもつというので、こうした状況で用いられることは珍しくなかったかもしれない)。

 メシア思想は、危機の時代ほど強くなるという。そして、イエスの当時は、まさに、マカバイ記と同様の危機の時期でもあった。アンティオコスはユダヤ教を禁じ、偶像礼拝を強要しようとしたが、同様に、ヨセフスの『ユダヤ古代史』などを見ると、ピラトは決して福音書から想像されるような温和な人間ではなく、カイサルの胸像をエルサレム市内に持ち込んだり、導水管の工事に神殿の聖なる拠出金を使うなどのことを行い、民衆の反感を買い、時に譲歩することはあっても、結局は武力で民衆を抑え、多くの命を奪った。しかし、ユダのような英雄が再び現れて、それに打ち勝つこともありえるであろうと、民衆は考えなかったであろうか。しかも、当時ユダヤを支配していたヘロデ王は、親ローマ派で、ローマからの独立を望む者たちの反感を買っていたことは間違いないのであるが、彼は、もともとユダに撃たれたエサウの子孫(5:3, 16)と同じく、イドマヤ人である。ユダがイドマヤ人を撃ったごとく、新たに現れるメシアがこのイドマヤ人ヘロデを倒すことを期待する者があっても不思議はない。こうした動きが、体制側に警戒心を起こさせたと考えれば、イエスの捕獲から処刑までの、異常なあわただしさを説明するものともなろう――おそらく彼らは、民衆が騒ぐ前にイエスを始末してしまいたかったのだ。

 イエス自身が自分と解放者としてのハスモン家の英雄とを少しでも重ね合わせて見ていたかどうかは疑問であるが、宮清め、棕櫚の木のエルサレム入城などにイエスとマカバイ記の英雄たちとの類似を見た群集が、イエスにも、ユダのように命を賭けて聖なる都奪回のために戦う英雄としてのメシアを期待していたとしても不思議はない。そして、彼らは、マカバイらが祈りによって神の助けを得て、勝ち目のない戦いに勝利したように、イエスが奇跡によってローマからの独立や民族の解放を実現することも期待したに違いない。秦剛平は、マカバイ記がプロパガンダ的にユダを理想化していると指摘しているが(秦  11)、それならばなおさら、そのように理想化されたユダを現実の者として心に描く民衆の期待は、イエスに対しても、それだけ大きくなったであろう。――そして、その期待を裏切られた時の、イエスに対する冷淡さ、残虐さも、そこから分かるのである。

マルコによる福音書の中では、キリストがメシアであることを、彼の生前弟子たちが非常な無理解でもって悟らなかったことが強調され、この無理解を、ヴレーデが、「メシアの秘密」という観点から読んだことは良く知られている。(Wrede, W., Das Messiasgeheimnis in den Evangelien, Göttomgen, 4. Aufl.,(1969)それによると、この福音書ではイエス自身、自らがメシアであることを隠し、教えも、その意味を伝授された者だけに理解されるたとえ話で語り、彼の正体を悟った悪魔に対しては沈黙を命じ、奇跡行為の際も、癒された人や民衆に、黙っているように言いつけ、さらに、ペトロが「あなたはメシアです」(8・30)と信仰告白した後、山上で自分の神々しい姿への変容を弟子に一瞬見せた後(9・9)にも他の人に言ってはいけないと命じているが、それは、一方で原始教団においてはイエスがメシアとされたのは復活以後であるということと、その後のキリスト教団の中でイエスはすでに生前からメシアだったとする新しい信念が生まれてきたこととの間にあって、その矛盾をうまく説明するためにマルコが考えた創作であり、それによって、マルコは、イエスは生前からメシアであったが、それが人々に知られることを望まず、復活の時まで自らの正体を隠していたと言おうとしたのである。

 この考えについては多くの批評家がまとめ、批判をしているが、(たとえば川島『マルコ』264-267; 笠原 88-93; 大貫 33-35; シュヴァイツァー249-251)、悪魔に対する禁止命令や奇跡行為についての沈黙命令はすでに伝承の中にあったであろうこと、また、たとえを秘密の言葉として理解することもマルコ以前からのことである、などという指摘がある。それゆえ、イエスが、自分のメシア性を自覚しており、それを意識的に隠していたと考える必然性はないと考えてもまちがいはないであろう。

 

<では、なぜマルコはこのような書き方をしたのであろうか?>

 この福音書は、ペトロの信仰告白(8:29)を境にして、調子が変わる。それ以降、イエスは弟子たちに「はっきりと」(8:32)教え始め、受難予告をし、実際にエルサレムに入り、十字架にかかる道を歩き始める。奇跡を行なうことは少なくなり、民衆たちは離れてゆく。ことに、民衆たちの態度の豹変は、田川やトロクメに、著者が変わったのではないかと思わせるほどである。しかし、私にはこれがすべてマルコの意図した構成にのっとった書き方であると見える。

ペトロの告白まで、著者の関心は、イエスがだれであるか、つまり、イエスが真に神の子であり、メシアとなる資格と権威を持ったものであることを実証することにある。最初の、「神の子イエス・キリストの福音の初め」、という一言は、それ自体、マルコの主張をぶつける言葉である。数学の証明問題の論法のように、彼は命題的にイエス・キリストが神の子であること、これから述べられることが福音であることをまず提示し、その後、あたかも読者が、イエスの何者たるかを知らされていないかのように、奇跡物語、権威を持った教え、譬などで、次々にイエスの権威と神の子たるしるしを示すことで、徐々に累積的証明をなしてゆく。読者は、福音書に書かれた12人の使徒たちのように、たくさんのしるしを見ても悟らないかもしれない。読者が、マルコの教会に属するキリスト教徒であれば、自分たちが信仰を告白していながらすぐにぐらつく信仰の弱さを、使徒たちの心の鈍さと重ねて見るかもしれない。また、キリスト教徒でない場合は、なかなか信じられない自分たちを投影するかもしれない。いずれにしろ、マルコは、物語を進めてゆくうちに、イエスが神の子であり、メシアとして十字架の上でわれわれ人間の罪を贖うことの出来る資格と権威を持ったものであることを、前半でまず実証して見せているのである。前半に奇跡物語が多いのは、そのためであろう。その実証の過程の完成の部分、つまり、結論部分が、ペトロの信仰告白である。

 

イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。(8:27‐30)

 

これはペトロに対する問という形をとってはいるが、また、読者に対する問でもある。「あなた方、あるいは、あなたは、私を何者だと言うのか」が問題なのである。

 まず、イエスがメシアであるということを示すことが重要であったことは、いうまでもないが、ことに、マルコは、イエスの権威を示すことにも重点を置いている。人々は、イエスが悪魔祓いをしたのを見て次のように驚く。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」(1:27)。また、権威についての問答もあり、イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」(11:28)と問う。こうしたことをマルコがことさら示していることについては、ブルース・マリーナ/リチャード・ロアボーの指摘が理解を助けてくれるであろう。

 

地中海世界では、公の権威は常に、権威を持つ者の社会的地位や名誉の序列に由来するものであった。・・・また、この序列は、父親の社会的地位に左右された。しかし、マタイやルカと違って,マルコはイエスの系図を示さない。その代わり,マルコはいきなりイエスを神の子と定義して、ヨセフとのつながりを通してでは得られない地位をイエスに与える。こうしてマルコは、イエスの権威について、その問題が読者の脳裏に浮かぶのと同時に、その基礎を明白にする。(ブルース・マリーナ/リチャード・ロアボー, 201)

 

 悪霊が「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と言った時、イエスが「黙れ」と、ものを言うことを許さなかった1:24−25)のも、悪霊に対する権威を示すことである。古代において、名前を呼ぶということは、相手に対して一種呪術的な力を振るうことであり、相手に対して権威を持つことを意味する。イエスは、「黙れ」という一言で、相手が自分の名を呼ぶ権威を持たず、逆に自分が悪霊に対する決定的支配力を持つことを示したのである。また、使徒として召命した者たちをイエスが命名しなおす(3:13‐19)ことにも、彼が弟子たちの主であることの決定的な主張がある。

 そうして、イエスの権威を打ち立てた後、マルコはイエスの権威を受け容れた(と、少なくとも想定される)読者に向かって語り始めるのである。ペトロの信仰告白を聞いたイエスがまだ自分のことを誰にも話さないようにと言ったことは重要である。ペトロたち使徒は、告白をした後ですら、まだイエスの福音、イエスがこの世に来た意味が真に理解できていない。まだ、イエスを宣べ伝えるだけの理解が出来ていないのである。それを彼らが悟るのは、イエスの復活の後である。しかし、信仰告白の後、イエスは自分の教えを、明らかに伝え始める。

現代でも、キリスト教の伝道、あるいは、護教の文章には、神の存在や、あるいはイエスが神の子であることを証明する目的のものと、神の存在やイエスの神性をすでに疑問のない真理としてそれを前提にイエスの使信を伝えようとするものとがある。私は、マルコによる福音書は、ペトロの告白までが前者の役割を果たし、その後が、後者に属すると考える。後半は、神の子であるイエスがいかにして十字架の道を歩んだかを示し、実際にイエスに従う道を信徒に示すことや、最も大切な教え――「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」――(12:30‐31。これは旧約聖書「申命記」(6:5)「レビ記」(19:18)にあり、イエスはそれに従っている)をはじめとする明確な教えが示される。

 

<神の子キリスト・人の子>

マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」で始まる。そして、この「神の子」という言葉は、福音書の終わり近くでイエスの十字架の死を見た百人隊長の、「本当に、この人は神の子だった」(15:39)で繰り返される。この両者に挟まれて表されたイエスの生き方、教えのすべてが、福音として伝えられているのである。ただし、イエス自身は「自分が神の子である」とは言っていない。また、「神の子」という称号は、苦難の義人、カリスマ的霊能者、賢者などに用いられたという(大貫19)。その義人と政治的に力の強いメシアとは、本来別個の概念であった (Frederiksen, 86)が、大貫隆は、「すでにキリスト教成立前後のユダヤ教において「メシア」=「神の子」という同定が、少なくとも準備されていたと想定するには十分」(大貫19)な根拠があるとしている。マカベア戦争などを見てきた当時のユダヤにおいて、ローマからの独立を勝ち取る政治的メシアを期待するメシア願望が、神の介入においてそれが実現するだろうとする希望と結びついて「神の子」メシアという概念が生まれたのであろう。この過程を、加藤隆は、「まず「救い」は、独立王国の再建として考えられる。そのためには「王」が再び現れねばならない。ダビデ王朝のイデオロギーとの関連で考えられるのならば、この王は「ダビデの子」でなければならないことになる。また、ダビデ王朝において王は「神の子」とされていた」(加藤 22)と、分かりやすく説明しているが、この王が十字架で処刑されるなどということは、汚名であり、考えられないことであった。(ただし、フレデリクセンは、ローマによって処刑されたのならばユダヤにとっては英雄であったと示唆している(Frederiksen,  148))。フレデリクセンは、ユダヤ人にとって「木にかけられて」殺されることが、神の呪いのしるしと考えられ、汚名を着せられることであるという考察に欠けてはいるが、いずれにせよ、自分をさえ救えない、処刑されたメシアは、逆説である。それを、マルコは、イザヤ書などに見られる苦難の僕の伝統とメシアを結びつけ、彼の死が罪人のための死であったというように解釈することによって、「十字架にもかかわらず」ではなく、「十字架のゆえに」キリストなのだという救済論を立てたのだと考えられる(cf.大貫 20-23Frederiksen, 86, 110, 136-138)。

もう一つ、重要と思われるのは、ブルース・マリーナ/リチャード・ロアボーの社会学的指摘である。それによれば、

 

Xの子」という文句は、「Xの属性を有している」ということを意味する。したがって「人の子」とは人の属性を有しているということで、つまり人間という意味である。・・・とすると、「神の子」とは「神の属性を有しているもの」ということになり、神または神に似た者を意味することになる。一神教的な文脈においては、「Xの子」が「Xの〔属性にとどまらず〕本質を有する」を意味することはめったにないことを確認しておくのは重要である。……

 「神の子」という名称は、イエスの活動を正当化するためにも重要である。名誉と恥の社会においては、誰でも公的に認められた自分の名誉上の格付けに見合ったところで行動すると常に考えられている。高い地位に生まれたものは、公の場において指導的立場に立つことを期待され、また彼らの社会的地位がそのように行動することに正当性を与える。低い地位に生まれた者は、公の場において指導的立場に立つことを期待されず、たとえそのような事態が生じたとしても、何らかの説明がなされねばならない。……もしそうした説明が何も見出せない場合には、その者の能力は邪悪な諸力に帰されることになる。村の職人の家の子であるイエスには、公の場における人物としての正当性がなかった。しかし、もしイエスが神の子であるならば、彼の正当性は疑い得ないものになる。(ブルース・マリーナ/リチャード・ロアボー 204-205)

 

大貫隆も「神の子」はメシアの形而上学的本質ではなく、その職務が神からの委託によることを示すものである(大貫 20)と指摘しており、この、「神の子」というのが、必ずしも,、後世に多々の論争を経てニカイア総会議(CE325)で決定されたように父、子、聖霊がひとつの本質からなる(ホモウシオス)を示していたのではないであろうと考えられることは覚えておきたい。

 

また、イエスは自らを語るとき、しばしば「人の子」という語を用いるが、このことも重要である。「人の子」とはヘブライ語では単に「人」と同義にも用いられるというが、ダニエル書以来、ユダヤ黙示文学の伝統的イメージで、「天上で神から世界審判の全権を委託され、歴史の終末時に地上に到来し、悪を裁いて選ばれた義人を救う存在」(大貫105)と考えられていた。イエスが受難予告の度にことさら自らを「人の子」(8:38; 9:31; 10: 33,34)と同定しているのにもそうした含蓄があり、その「人の子」が「父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来る」(8:38)と予告する言葉も、その文脈で理解できる。「三日の後に復活する」(9:31; 10:34)と言うことは、すべての人間の復活を信じるファリサイ派の伝統から見れば、それだけではメシア宣言にはならないと考えられる。それゆえ、イエスの復活を見た弟子たちが、イエスをメシアと信じ宣教を始めたのは、彼が「人の子」として、つまり終末の裁き手として、再臨したのだと信じたからだと考えられよう。そう考えれば、マルコの福音書で終末が切迫していると見られていること、大貫隆が特に指摘するように、「今この時は満ち満ちている」(1:15)(口語訳と新共同訳のいずれにおいても「時は満ちた」と訳されている)(大貫 49)と考えられていることが理解できる。時来たり、神の支配が近づいた、悔い改めよ。そして福音を信じなさいという「福音の初め」にさかのぼり、空の墓で終わる、その一見唐突な終わり方も、そう見れば、ふさわしい。16章は突然にgar「というのは・・」という語で切れている。その後に復活のイエスとの出会いを、マルコが書こうとしたが書けなかったか、そこの部分のテキストが失われてしまったのではないかと見る向きがある。しかし、そうした見方に対して川島貞雄は、接続詞「ガル」でおわる文章も、わずかではあるがギリシア語文献の中に見出されることを指摘し、「マルコは、このように唐突に叙述を打ち切ることにより、イエスの復活の使信の超越性、神秘性を読者に強く印象付けることになるのである。イエスの復活は人間に恐れを生じさせる神の驚くべき奇跡である、と」(川島『マルコ』221)と、語っている。16章以下に、まだテキストがあったかどうか私には判断できないが、先に見た「天が裂け」や「神の子イエスの福音」から始まり、百人隊長の告白と神殿の垂れ幕が避ける啓示で終わる枠組みを見れば、それほどの分量のテキストが続いたとは思われない。「人の子」が再臨した、そこでマルコの読者は語られている過去から「今」に引き戻される。あとは、目の前にある現実と、マルコ教会で生きて語られるメッセージを聞き、それに従うことを求められるだけなのである。マルコには、「後日談」などというものはないのである。

この「人の子」としてのイエス像は、イエスが実際に自らを超人的「人の子」と呼び、このように言ったのか、それとも、八木誠一が言うように、「イエスが「人の子」(終末時に出現するとされた超人間的救済者・審判者)と同一視された場合もあり、ここからしてイエスが自分のことを「人の子」と称したという伝承が生まれた(マルコ831)」(八木12)のかは、私には判断できない。おそらく、これは、この先いかに学んでも、史的に明らかにすることは不可能なのかもしれない。ただ、ファリサイ派との対立にマルコの意図的操作を考えたのと同様、「人の子」という称号にも、マルコの作為が感じられることは事実である。イエスは「私は人の子である」とは言っていない。キュンメルは、他の福音書と比べてマルコでとくにイエスを「人の子」とする向きがあることを指摘して、

 

マルコによる福音書八・三八(並行記事)では事情が異なっている――「邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使いたちと共に来るときに、そのものを恥じるであろう」。・・・ここでも、イエスと「人」は区別されているが、しかし同時に、地上のイエスに対する人間の態度がきわめて厳密に「人」の将来における反応に対応せしめられている、ということは明らかである。その結果,地上のイエスと「人」の間には、密接な関連があるに相違ないのが指示され,そこから、両者は同一ではないか,という問いが少なくとも起ってくる。しかし、勿論この同定は露に言明されているわけではなく、おおわれた仕方においてであるにすぎないのは言うまでもない。(キュンメル115)

 

と言っている。こうしたことから、イエスが「人の子」であると読者に思わせているのは、マルコの微妙な書き方なのかもしれないと、考えることも出来るのである。また、野獣との平和的共存がメシア時代の象徴(cf. 大貫 48)であることを思えば、荒野でイエスが「野獣と一緒におられた」(1:13)という、マルコだけにある一節も、マルコが意識的にメシア論の裏づけとして入れたものとも考えられる。

また、マルコは、ヨハネについての伝承を冒頭におき、「私よりもすぐれた方が、後から来られる」(1:7)というヨハネの予言を、編集によって、イエスのメシアとしての到来を告げる意味にしている。この「私よりもすぐれた方」(ivscuro,tero,j mou)は、本来のヨハネの意図からすれば、神を指すものであったが(大貫 43)マルコはこれを自分の文脈に取り入れ、神とイエスを同定した。それとともに、イエスがヨハネから洗礼を受けたという、イエスをいわばヨハネに従属する立場に置く史的事実にもかかわらず、イエスがヨハネの上に立つものであることを示しているのである。

 

<人間イエス>

論争的、神学的絶対者としての「神の子」「人の子」イエスと並んで、それと矛盾対立するものではないが、あまりに人間的過ぎるのでマタイやルカでは多少変更を加えられているイエスの姿が描かれているのも、マルコの福音書の貴重な点であろう。イエスは、ガリラヤの貧しい人たち、衛生状態も悪く、おそらく大半の人たちが病気もちであった中で宣教し、癒しを行っていた(cf山口225-226)。そしてマルコのイエスは、その民衆に深い憐れみを持つ神を体現している。重い皮膚病の人を癒すイエスがその人を「深く憐れんで」(1:41)とあるのはマルコだけであるが、この、深い憐れみを表すギリシア語の単語(splagcni,zomaiはもともと「はらわたを揺り動かす」という意味の言葉である(笠原85-86)。マルコのイエスは、民衆の苦しみを見て、はらわたがちぎれるほどの悲しみ、哀れみを感じたのである。また、このイエスは、悪霊につかれた人を癒したときにも、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことを」(5:19)と言い、神の憐れみを教えているが、マタイとルカの並行箇所にはこの「憐れみ」という語はない。バルティマイの癒し(ここではマタイ、ルカも)でも、5000人の給食の奇跡でも(これはマタイの平行記事でも)、憐れみということが殊に言われているのは注目したい。

 このような深い憐れみを感じるマルコのイエスは、他の状況においても人間的に強い情緒の持ち主として描かれている。彼が安息日に癒しを行うだろうかと注目している人々の中で、彼は「怒って・・・・・・彼らのかたくなな心を悲しみながら」(3:5)病人を癒す。子供たちを連れてきた人々を叱った弟子たちに「憤り」(10:14)、子供たちを祝福する。共観福音書でこのような感情の動きを表しているのはマルコだけである。また、マルコのイエスのみが、ナザレの人々の不信仰に「驚かれた」(6:6)のも、同じことの一例であろう。

 癒しを行うやり方も、マルコのイエスは、時に、呪術を行う民間治癒者のようなやり方をなし、たとえば指を耳に差し入れ、唾をつけて舌に触れる(7:33)などという癒し方をする。この箇所はマタイやルカに並行記事がないが、それは、マタイやルカの資料になかったのであろうか、それともあまりに人間的なやり方と思われて、彼らが意図的に削除したのであろうか。いずれにしろ、マルコは、このようなイエスを描くことで、イエスが病の人々、虐げられた人々の中に入って、このように病人との体の触れ合いも厭わず親身な交わりを持ったということを、非常に強く訴えるのである。

 イエスが、社会の中で隅に追いやられた人々に対して、人格的な敬意と尊重をもって接していたことは、まず、罪人とされる人々との共食に表れている。それをとがめるように言うファリサイ派の律法学者は、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問うが、イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(2:17)と答えている。食卓を共にするということは、同じ共同体に属するに匹敵するような親しい関係にあるか、少なくとも、相手を人格的に尊重することであった。しかも、律法によって清浄の規則の厳しいユダヤ人社会では、罪人とともに食事をすることは厳しく禁じられていた。それをイエスは破ってまでも、彼らと食事をともにし、親しく交わったのである。この時代、罪人と呼ばれる人々は、まず、誰よりも安息日をはじめとする律法を守れなかった者たちであった。それらの人たちは、多くの場合、貧しさのあまり、安息日を守って仕事を休むことが出来なかった人々であった。ルカはこの並行記事を「わたしが来たのは……罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(5:32)としているが、マルコのイエスは、「悔い改めさせるため」とも言わず、今まで社会から疎外されて顧みられなかった人々をとにかく顧み、人間らしく扱ったことが強調される。また、社会の周辺に追いやられた人々の側に立つ彼の姿勢は、マルコの福音書から見えてくるイエスと女性たちとの関係にも言えることである。彼の弟子の中には、最初から、女性がいた。シモンのしゅうとめもその一人である。(彼女が一同を「もてなした」(1:30)と訳されているのは、不幸なことである。この語 diakonevw が、天使や弟子に用いられているときには「仕えた」と訳されているのは周知である)。婦人たちが、ガリラヤからイエスに仕え(同じdiakonevwを用いている)、エルサレムにもついてきたことは、15章41節で始めて明かされるが、重要なことである。また、ベタニアで彼の頭に香油を注いだ女は、名前を記されていないが、それは、マルコが女性のアイデンティティーというものに対して重要性を見なかったせいもあろう。それに対して、この人の行いが「記念として語り伝えられるだろう」(14:9)と肯定するイエスは、精一杯のもてなしをしてくれたその行為を肯定するだけでなく、当時、女性に控えめで貞淑であることを求める社会通念と偏見に抗って、彼女を平等に扱っている(cf トルバート452)。フィオレンツァはこのイエスの頭に香油を注いだ女について、古代イスラエルの預言者の型を見て、「預言者がイスラエルの王の額に油を注いだのと同じように、この女性はイエスに油を注ぐ。彼女は預言者的象徴行為によって公に彼を指名する」(フィオレンツァ 237)と、大きな役割を指摘している。(ただし、川島貞雄は、おそらくフィオレンツァを意識して、「客の頭に香油を注ぐことは必ずしも特別な行為ではない・・・・・・したがって、この女はイエスがイスラエルの王になると期待してその頭に油を注いだのだ(王下9・1−13参照)、と考える必要はない」(川島『新共同訳注解』 239)と書いている。)いずれにせよ、女性を数にさえ入れない(たとえば、イエスが5つのパンと魚2匹で大勢の人々を満腹にしたことを記してマルコは、「パンを食べた人は男が5000人であった」(6:43)書いているが、食べた中に女性や子どもたちがいなかったはずはない)当時の社会において、イエスが女性に対する態度は、酒税人や罪人との共食と同じほど、画期的であったに違いない。

 シリア・フェニキアの女は、汚れた霊に取り付かれた娘の癒しを願うが、異邦人であるという理由で、最初イエスから拒絶される。しかし、イエスの言葉を敢えて否定せず、むしろそれを受けて、イスラエルの人々の受けた恵みのお余りでさえも十分であるという信仰によって、イエスから、求めた癒しを与えられる(7:25-30)。彼女は、女であり、しかも異邦人でありながら、イエスに食い下がり、彼の方針まで変えてしまう。そして、このように変えられる柔軟さと包容力を持っているところがまた、権威主義的な堅さをこえたマルコのイエスの偉大さであろう。

 イエスが周りにいた婦人たちと深い絆を持っていたことは、婦人たちが彼の死を「遠くから見守っていた」(15:40)(おそらく、当時の習慣から、近づけなかったのであろうが、目を離すことができなかった様子が表れている)という描写、そして、マグダラのマリアとヨセの母マリアとが墓で、「イエスの遺体を収めた場所を見つめていた」(15:47) という表現によって、マルコの福音書では特に強く感じられる。彼女たちは、イエスが死んでも、墓の中に入ってしまって見えなくても、イエスのいる方から目を離すことができなかった。これは、彼女たちがいかに深くイエスを慕っていたか、いかに深く「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」彼を愛していたかを示しているように、私には感じられる。そして、そのつながりの中でイエスを見直したとき、貧しいもの、取るに足りないとされた者たちとの深い交わりを持ったイエスという像が、改めて実感される。

そうしたイエスは、革命的ですらあった。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」(2:22)という譬えは、彼の「神の国は近づいた」というメッセージとのつながりで見れば、革命的な意味で取られうることは明らかであり、おそらくそのために、ルカは、「古いぶどう酒を飲めば、誰も新しいものを欲しがらない。『古いものの方が良い』と言うのである」(ルカ5:39)と、体制側に危険視される調子を和らげるような言葉を加えている。

こうした人間的なイエスの姿は、グノーシス主義的傾向によってイエスの神性が強調される動きが強まる前の、実際のイエスの姿をとどめるものとして受け入れたい。そしてまた、考えようによれば、創世記でヤハウィストが描いた人間的な神、アダムのところに降って来て彼と対等の会話を交わす神、アダムに向かって歩いてくる足音まで聞こえる神(創世記3:8-19を考えれば、究極的には神性と抵触する側面でもないのかもしれない。

そして、もうひとつ重要な点は、イエスが決して律法をないがしろにする者ではなく、しかも、「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(2:27)という、形式主義を超えた人権尊重の態度をもつ革新的な面を備えた者であったことである。彼が、律法を本質的に重んじたことは、最も重要な掟として、申命記のシェマーに従っていることに顕著である。マルコは、申命記(6:5)の「心kardi,aを尽くし、精神をyuch/j尽くし、力dunavmi"(マルコではijscuv")を尽くして」に、「思いをdianoi,a原語ギリシア語では<理解力>を意味する)尽くし」を加えている(12:30)。  辞書で見れば、ヘブライ語で申命記(6:5)の「心」にあたる単語bb'leには、kardi,a (heart )だけではなく dianoi,a (understanding)という意味も含まれている。それゆえ、マルコがこれを付け加えたのは、イエスが、申命記の戒めを繰り返したことを、その意味上正しく繰り返し、知情意の全人格で神を愛することを求めているといえよう。

                                                               

<信仰を求めるイエス>

 マルコのイエスは、とりわけ、<信仰>を強調する。 それがもっとも良く表れている個所は、イエスが弟子を召命する仕方であろう。わたしについて来なさい」(1:17)「わたしに従いなさい(2:14)とある。イエスは、自分についてくればいかなる救いがあるか、などと説明してからついて来いとは言わない。無条件に、すべてを捨てて自分に従うことを求めるのである。そして、ペトロもアンドレもレビもそれに従った。漁師であるペトロやアンドレが舟(と、おそらく網も)捨ててイエスに従ったことは、それまでの生活をすべて捨てることであり、レビもそうである。これは、かつてイスラエルの祖アブラハムを主ヤハウェが「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。」(創世記12:1)と召命し、その主に対する信仰によってアブラハムがすべてを捨てて旅立ったのとまさに同様である。アブラハムはそのとき、どこに導かれるかも知らず、主に言われたのは、自分が「大いなる国民」にされ、祝福を受けるということだけだった。しかし、彼はそのときすでに75歳で子供もいなかったから、この「大いなる国民」が自分の子孫のことであると考えることも常識ではできない状態であった。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6,また、cf「ローマの信徒への手紙4:3)とあるが、おそらくマルコもアブラハムの召命を意識して、同様のモチーフを用いているのであろう。そして、マルコの読者も同様にイエスに従うことを求められるのである。

癒しに関しても、彼は「信仰を見て」(2:5)行っており(本人の信仰でなくとも良い)、ナザレでは、人々の不信仰のゆえに、奇跡を起こすこともできない(6:5)。エルサレムに入って以来イエスは治癒奇跡を行わないのであるが、川島貞雄は、「マルコに拠れば、イエスの治癒奇跡は信仰を前提とする。イエスは彼に敵対するエルサレムでは治癒を行いえなかった、とマルコは言いたいのではなかろうか」(川島『マルコ』66)と指摘している。その最もはっきり表れているのは、息子の悪霊払いを望んだ父親から「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(9:24)という、おそらく平凡な人間の大部分が告白しうる最大限の信仰告白を引き出し、それに答えて悪霊を追い出したイエスを描く、マタイ、ルカに並行記事のない描写であろう。そして、ここでまた言えるのは、マルコのイエスが、つねに信仰を要求すると同時に、「信仰のないわたしをお助けください」、としか言えない信仰であっても肯定し、救いを与えるという、人間の弱さに対する憐れみを持ったイエスだということである。

イエスの死後、彼の復活に出会った弟子たちは、生前の師の行為や言葉を思い出せる限り思い出し、イエスに関する話を集め、イエスが本当にメシアであったことを確認しようとしたであろう。そうして、イエスの生前の出来事に、そのときには弟子でさえも悟らなかった意味を見出したのではないか。弟子の無理解とは、実際に自分のそばに神が臨在していてもいざとなるとそれを悟らない人間の弱さを表わすものでもある。そうした弱さを持った人間をイエスが弟子にしたことを描いたところにも、イエスの「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(2:17)という言葉を強調するマルコの姿勢がある。

イエスが逮捕された後、ペトロが自分の保身のために3度、イエスを知らないと否認してしまった物語も、単にエルサレム教会の指導者に対する批判とは見なせない。荒井献は「ペテロのイエス否認そのものの史的信憑性は疑われない」としながら、マルコが受難物語にこの、ペテロの伝承をおいた意図を、

 

大祭司の前でもピラトゥスの前でも自らがキリストであることを肯定したイエスと、イエスの弟子であることを否認したペテロとを対照的に描き出して、イエスの強さとともにペテロの弱さを前景に押し出す。そして、イエスの復活以後、キリスト告白を貫徹して最初期の教会の第一人者となったペテロの強さを知っている、あるいはそれを理想化している初期キリスト教会の人々に、迫害下にあってあって現実にはいわば強さと弱さの狭間にある人々に、このペテロを例示することによって、彼らのキリスト者としてのありようを慰めるとともに、勇気づけようとしたのではないであろうか。(荒井 199-200)

 

と考えている。私には、これが正しい見方に思われる。

 

<あとがきに代えて>

 

さまざまなイエス論や宗教多元論が主張されている現在、イエスが神の子であったということをどう理解すればよいのか、私にはまだ、結論は出ていない。そして、かつては異端であるとされた日本的な、母なる神概念、特に、遠藤周作のイエス像に代表される神概念も、簡単に否定できないように思われてくるのである。特に、民衆の苦しみを見て「はらわたがちぎれるほどの悲しみ、哀れみ」を感じたマルコのイエスは、遠藤の描く「永遠の同伴者」なるイエス(遠藤『イエスの生涯』95)に通じるものがある。遠藤のイエスが、決定的に今まで見てきたイエスと異なる点は、その無力さにある。彼は、どこまでも、共感者であるが、全能の神の力は持っていない。

 

イエスは群衆の求める奇跡を行えなかった。……だがイエスがこれら不幸な人々に見つけた最大の不幸は、彼等を愛する者がいないことだった。彼等の不幸の中核には愛してもらえぬ惨めな孤独感と絶望がいつもどす黒く巣くっていた。必要なのは「愛」であって病気を治す「奇跡」ではなかった。(遠藤『イエスの生涯』95)

 

ただし、この遠藤の描くような無力な一面は、最近、ホロコースト以降の神義論などにおいて、神の全能を疑う向きが出ていることを思えば、完全に否定し去ることはできないように思われてくるかもしれない。

旧約聖書などでも、時代的に最初に書かれた部分に表れている神概念は今日のユダヤ=キリスト教で考えられている絶対神の概念よりも、はるかにとまでは行かないまでも、かなり人間的である。先にも見たが、創世記で、その神は、アダムのところに降って来て彼と対等の会話を交わす人間的な神である。それについて、詳しくは、拙論「ヤハウィストの神――旧約聖書のはじめの神観」『二松学舎大学国際政経』第8号(二松学舎大学国際政治経済学会, 2002)で述べたが、そうしたことを考えると、キリスト教の神概念についても、かなりさまざまな見方が許されるのかもしれない。わずかに例をあげるだけでも、東欧のイエス像と、西洋ラテンのイエス像とでは異なり、それは遠藤自身も意識している。

 

欧米から来た日本のいままでのキリスト教は、イエスの贖罪に重点をかけすぎている。そして神の愛を説いたヨハネ神学は、東方教会のほうに行っている。しかし東方キリスト教の中には、日本人に向いている部分があるんです。・・・私個人はヨハネ神学のほうがいいのではないかと思うようになっています。(遠藤『私にとって神とは』59)

 

また、マクグラスが指摘しているように、「西欧や北米の多くの人が『神は愛である』という洞察を根本的だと考え、ラテン・アメリカやアジアの人たちは『神は正義である』とか、『神は正しい』という洞察を根本的だと考える」という現象もあり、「自分たちが発見したがっている神概念に対する文化の強い影響が、私たちに不可避的に、キリスト教の神理解の豊かさから、ひとつの面だけを孤立させ、基準とさせている」(マクグラス『キリスト教の将来』、96)というようなことは、たとえどのようなキリスト像においてでさえも、決して皆無ではありえない。

結局、キリスト教の中心となるのは、十字架と復活の教えに立つ福音であり、それさえ揺らがなければ、キリスト教はたつのであり、それが揺らいでしまえば、いかに万人に受け容れられようとも、キリスト教ではなくなってしまうのではないだろうか。マルコのイエス、マタイのイエス、ルカのイエ スの言葉は、微妙に異なっている。しかし、皆、イエスの言葉として受け入れられる。そうした中で、共観福音書の中で現在最ももととなると考えられているマルコのイエスが、思いのほか日本の遠藤などが描くイエスに近いということは、何も、いわゆる正統的な超越的で絶対的な神概念に立つ西洋キリスト教を日本人が分からない限り真のキリスト教は日本に根付かないと考える必要もないことを示さないであろうか。これは、日本でのキリスト教伝道のひとつの方向を示唆する点でもあろう。

 

 

参考文献

(引用にあたって、縦書きのものの聖書引用箇所は算用数字での慣習に習って表記を改め中点を:に変えたことを断っておく。また、女性の書物からの引用は、著者の苗字と名前の両方を書くのが慣習であるが、男性著者と同様に苗字のみ記した(例、フィオレンツァ))。

 

荒井献 『イエスとその時代』(岩波新書, 1974)

荒井献, 川島貞雄日本語監修, クルト・アーラントギリシア語監修『四福音書対観表』(日本キリスト教出版局, 2000)

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大貫隆『マルコによる福音書 I』(リーフ・バイブル・コメンタリーシリーズ)(日本基督教団, 1993)

笠原義久『新約聖書入門』(新教出版社, 2000)

加藤隆『「新約聖書」の誕生』(講談社選書メチエ、1999)

川島貞雄『マルコによる福音書:十字架への道イエス』(福音書のイエス・キリスト2)(日本基督教団出版局, 1996)

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キュンメル, W. G. 『新約聖書神学: イエス・パウロ・ヨハネ』(NTD補遺3)山内眞訳(日本基督教団出版局, 1981)

ケスター, ヘルムート『新しい新約聖書概説 下』永田竹司訳(新地書房, 1990)

コンツェルマン, ハンス『新約聖書神学概論』田川建三、小川陽訳 (新教出版社, 1974)

シュヴァイツァー, E『新約聖書への神学的入門』(NTD補遺2)小原克博訳(日本基督教団出版局, 1999)

田川建三『原始キリスト教史の一段面: 福音書文学の成立』(勁草書房, 1968)

デゥーイ, ジョアンナ「マルコによる福音書」矢野和江訳, エリザベス・シュスラー・フィオレンツァー編『聖典の探索へ――フェミニスト聖書注解』(日本キリスト教団出版局, 2002), pp.357-387.

トルバート, メアリー・アン「マルコ福音書」, C.A.ニューサム、S.H.リンジ編『女性たちの聖書注解』荒井章三,山内一郎日本語監修、加藤明子, 小野功生, 鈴木元子訳(新教出版社, 1998), pp. 449-470.

トロクメ, エチエンヌ『四つの福音書、ただ一つの信仰』(新教出版社, 2002)

バークレー, ウィリアム『マルコ福音書』大島良雄訳(ヨルダン社, 1968)

蓮見和夫『マルコによる福音書』聖書の使信、試訳・注釈・説教(新教出版社,1999)

秦剛平『旧約聖書続編講義』(リトン, 1999

フィオレンツァ, E.S.『彼女を記念して――フェミニスト神学によるキリスト教起源の再構築』山口里子訳(日本基督教団出版局, 1990)

フルッサー, ダヴィド『ユダヤ人イエス』池田裕・毛利稔勝訳(教文館, 2001)

本多哲郎訳『小さくされた人々のための福音――四福音書および使徒言行録』(新世社, 2001)

マクグラス, アリスター『キリスト教の将来』本多峰子訳(教文館, 2002)

―――『十字架の謎』本多峰子訳(教文館, 2003)

マリーナ, ブルース/リチャード・ロアボー著『共観福音書の社会科学的注解』大貫隆監訳/

加藤隆訳(新教出版社, 2001)

マルクスセン, W『新約聖書緒論』渡辺康麿訳(教文館, 1984)
八木誠一『イエスと現代』(NHKブックス)(日本放送出版協会, 1977)

山口雅弘『イエス誕生の夜明け――ガリラヤの歴史と人々』(日本基督教団出版局, 2002)

ヨセフス, フラウィウス『ユダヤ古代史 4』秦剛平訳(ちくま学芸文庫, 2000)

―――『ユダヤ古代史 6』秦剛平訳(ちくま学芸文庫, 2000)

Fredriksen, Paula. From Jesus to Christ, second edition (Yale Univ., 1988)

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遠藤周作『イエスの生涯』(新潮社, 1972)

遠藤周作『私にとって神とは』(光文社、1983)