『海嶺』における、江戸時代日本人のキリスト教との出会いについて

――岩松、音吉、久吉の場合[1]

Japanese people’s Encounter with Christianity in Kairei,

the case of Iwakichi Otokichi and Hisakichi

                                               本多峰子

I

『海嶺』(『週間朝日』19781013日号−801024日号に掲載)は、1832年(天保三年)に起こった千石舟「宝順丸」の遭難と、それに続く一年以上の漂流(小説では一年二ヶ月)、そして、1833年末か34年初頭の、現ワシントン州の北端に近い西岸フラッタリー岬への漂着と、その後の生存者の運命を語る、史実に材をとった歴史小説である。乗組員は十四名、その内生き残ったのは三名にすぎなかった。舵取りの岩松、(かしき)(炊飯係)の音吉と、同じく炊の久吉である。彼らはフラッタリー岬でインディアンに拾われ、奴隷としての生活を強いられるが、1834年の夏、イギリスの商社、ハドソン湾会社の太平洋岸総責任者マクラフリン博士が彼らのことを知り、その指示で、社の商船、ラーマ号の船長マクネイルに救出される。マクネイルがインディアンの酋長に身代金代わりの物品を支払うことによって、彼らを贖なったのである。それは、ただ善意からの行為であり、遭難したこの東洋人を気の毒に思い本国に送り届けるためであった。そこで、彼らは一時ハドソン会社の本拠地の一つ、フォート・バンクーバーに送られ、そこから、日本に帰るためまずイギリスの軍船イーグル号でハワイ、サンドイッチ諸島を経由し、ロンドンへ連れられ、そこで十日間滞在後、商船、ゼネラル・パーマー号でマカオに運ばれる。しかし、当時は徳川鎖国時代で、厳しいキリシタン禁止令が出ていたため、イギリスの商船が単純に彼らを送り届けるわけに行かなかった。さまざまな経緯を経て、結局、同じように漂流してマカオにたどり着いた他の日本人四人と共にアメリカのオリファント商会の船、モリソン号でマカオから日本に向けて立った。18377月4日である。彼らは、7月30日に江戸湾に入港。しかし、厳しい鎖国下、海外に漂流した者たちの帰国も許されず、翌日船は砲撃を受け、江戸湾を離れる。そして、再び810日に鹿児島湾に入るが、そこでも再び砲撃を受け、結局日本に立ち寄ることもできず、再びマカオに戻るのである。砲撃を逃れ日本を離れるところで小説は終わる。

 この小説は、日本人のキリスト教の受容という点で、岩松、音吉、久吉の三人を通して、三浦綾子の見た問題と可能性を提示している。日本に根付いた神や仏への信仰や、いわゆる「お上」(社会といってもよいだろう)への忠誠心を持つ日本人が西洋のキリスト教に触れた時に感じる違和感や、驚き、またその逆に、イエスの教えや宣教師の言葉や生き方に惹かれる気持ちなどがこの三人に三様に表わされ、日本人の心にキリスト教が入りうる道と、その逆に、日本人にキリスト教が受けいれられないならばその時に障害となるものは何なのかということが示されているからである。

 本論ではまず、岩松、音吉、久吉の性格分析を行い、そののち、その性格をふまえて、キリスト教に出会った時の彼らの需要態度を考えてゆきたい。そして、最後に、現在の日本人がキリスト教を受けいれる時、その受けいれるキリスト教は正しく理解されたキリスト教なのか否か、というような問題を考えたい。

 

II 登場人物の性格

<音吉>

 音吉はこの物語の中で、最も善良な人物として書かれている。彼は、生まれつき善への性向を持っており、自然な状態で良い道を歩んでいる人物である。彼の父親武右衛門は、正直で善良な船乗りとして知られていたが、彼には「まさしく武右衛門の正直がそっくり伝わってい、その上母に似て、よく働き、親切者であった」(上7)と、作者は書いている。彼は頭も良く、同年齢の子どもたちが記憶していないような、一休和尚の歌などを覚えていて仲間を感心させたりしている(上21)。彼のまじめさは、ときに面白みのないほどと描かれている。冗談を言って若い女を喜ばせるような如才なさはない(上54)。まだ12才のころ、浜で泳ぎに行った時、船主である源六の孫娘、琴の胸のふくらみに初めて気づいた時も、あえて気づかなかったそぶりをしてほのかな恋心さえ表に出すことをしない。一つ年上の久吉が「「おれ、見たわ。お琴のやつ、色気づいたで」」、と言っても、「音吉はしらぬ顔で抜き手をきった」(上10)とある。しかもおそらく無意識にそうしているのである。そのあと子どもたちが千石舟に入って、握り飯を食べ終わるころ、若い男が現れてその琴の乳房を「むずと」つかんだ。音吉は「はっと息を飲んだ」(上10)と書かれているが、その時の彼の心理は、それ以上書かれていない。しかし、その驚きの様子からは、そのようなことをする男の気持ちに共感しているようにも、また、うらやんだり嫉妬したりしているようにも見えない(上10)。のちに彼は自分が女遊びをしたいと思ったこともないと言っており(212)、そうしたいわゆる「罪」と言われるものに陥る誘惑にうち勝っているというよりも、そもそもそうした誘惑さえ受けたことがないようである。彼は、兄思いでもある。彼は、兄吉次郎と共に宝順丸に乗り組むのだが、舟が漂流して水が不足した時、吉次郎は飲み水を盗もうとする。そのような兄がつかまって皆に殴られそうになった時、音吉は、次のように激しくかばっている。

 

そのとき、水主たちの前に、音吉がころがるように飛び出してきた。

「すまん。兄さがすまんことをした。皆さん、どうか許してやって下さい」 

と船底に頭をすりつけ、

「親方さまっ! わしは明日の飲み分も、明後日の飲み分も要りません。どうぞ兄さに、たった今、一口でも飲ましてやって……

  音吉はわっと声をあげて泣いた。 (上171)

 

そして、この懇願の誓いを守って実際、二日間、非常な渇きをこらえて水を断とうとするのである。その態度はけっして偽善ではない。そうして自分がのどの渇きで苦しい思いをしても、自分の犠牲心や兄思いについての自負心などは彼の念頭になかった。「音吉は、あまりののどの渇きに、目がくらむほどであった。……自分もまた、鍵を盗んででも、水を飲みたいと思った。そして、水を盗もうとした吉次郎のつらさを共に味わったのだ」(上180)、とあるが、これは音吉自身気づかず、また、この文脈では表には出ないが、人のつらさを共にし、担うという、キリストの愛のうつしである。そして、その誠が分かったからであろう、2日目には炊頭の勝次郎が、「お前が飲まんのなら、わしも飲まん」と、無理やり音吉に水を飲ませるのである(上180)。そうでなければ、彼は二日間決して水を飲まなかったであろう。そうした彼を知っているからこそ、勝治郎はこのように彼の誓いを破らせたのである。そして、この逸話から、彼が仲間たちからも好意を持たれていることが分かる。さらに、まじめな彼は、他から信用もされ、源六に認められて彼の家の手伝いに雇われ、大切な蔵の掃除までも任されるようになる。しかし、彼の善良さはそれにとどまらない。彼は、源六に取り立ててもらうことにこだわらず、そこで、琴が誤って灯篭を壊した罪をとっさに自らの身にかぶり、源六に手をついてあやまる(5859)のである。彼は、源六に、くれぐれも注意して大切なものを壊さないようにと注意を受けていた。それゆえ、琴の罪をかぶることは、大きな仕置きを覚悟しなければできないことであった。しかし、彼のほとんど反射的な行為は、そのような恐れや躊躇をいっさい経ずして、反射的になされている。これは、かつて三浦綾子が書いた小説『塩狩峠』で、暴走した列車を止めて乗客の命を救うために列車の前に自分の身を投げ出した永野信夫のとっさの行為に通じる、利己心を超えた愛の行為の一つの形である。源六は、音吉を見込んで、将来は琴の婿にと音吉の両親に申し入れ、二人は許嫁となる。宝順丸が嵐に会い、漂流しなければ、彼は琴と結婚して源六の息子、重右衛門の後を継ぐはずであった。

 ただ、音吉も、まったく他に対してマイナスの面がなかったわけではなく、彼の存在が兄、吉次郎にとっては、つらいこともあったということは重要である。吉次郎は正直者の音吉の兄でありながら、ずるがしこく、たとえば皆がごまかしてとっている米を、さらにくすねたりしている(上6)。ただし、吉次郎は大悪党ではなく、ある日米を盗みに千石舟にしのびこむが、見つかってつかまると、おどおどして、「あやまろうとしても、上あごに舌が張りついたようで、吉次郎は声も出ない」。やっと「すまなんだ」と床に頭をすりつけるばかりである。(上17)これをとらえたのは、実は次に見る岩松なのであるが、岩松は、吉次郎に対しては「吉! その荷をおろせ!」と、厳しく相対し、米を取り上げ、彼を追い出すが、吉次郎が盗みをしに舟に入ってきたとは知らずに音吉がついてきたことを知ると、「お前の父っさまと、俺は一緒に舟に乗っていたことがある……音、お前も船乗りになるんか」と、問いかけ、「はい」と答える音吉に「そうか、じゃこれはお前にやる」と、米を投げてよこす。そして、おどおどと礼をつぶやく吉次郎の言葉も終いまで聞かず、岩松は姿を消すのである(17-18)。このように、吉次郎はいつでも音吉の影の存在であった。水を盗みつかまった時も、彼は日中、病人として伏して休んでいたが、そのような時だけは歩いて出てゆく。そして、水の配給が皆に等しく一日一合と厳しく制限されていたことを知りながら、「俺は病人だ。病人には水が要るんだ」(上168)と、自分勝手な論理で、鍵まで盗んで水をとりに行ったのであるが、音吉が謝罪して犠牲になってくれたおかげで水を飲めた。しかし、水を飲めて得をした反面、彼の卑小さと音吉の高潔さが際立って見えてしまうことになる。意思の弱い吉次郎は、宝順丸の乗組員たちの中でもほとんど最初に気持ちがなえ、2番目に死ぬのであるが、死の二日前彼は音吉にこのように言っている。

 

「音、すまんかったなあ

……何もかもすまんかった……俺はなあ、音とちがうでなあ。それはようわかっていたんや……

音、お前は、四つ五つの時から、みんなにほめられもんやったもな。だけどなあ、俺はほめられたことは、一度もなかったでなあ」

(186)

 

音吉は、その時、自分がほめられるたびに兄の吉次郎がどれほど淋しい思いをしてきたか、初めて気づいた。「自分がほめられることは、暗に吉次郎が、くさされることであったかも知れない。ほめられて自分が喜んでいる時に、吉次郎が淋しい思いに耐えていたのかもしれない」(上187)と。

 生きている限り、だれも、他に悲しい思いをさせたり、害を与えたりすることなく生きることはできない、言葉を変えて言えば、生きているものは、だれも完全に罪を免れることはできないのだということが、ここでの三浦綾子の洞察であろう。そして又、逆に、吉次郎も、悪役としてのみ描かれているのではない。彼は、死に際に、音吉に和解の言葉とともに死んだら彼を守ってやると、言い残すのである。(上187

 宗教的には、音吉は、もともと特に神仏に信仰篤かったわけではないが、漠然とした宗教心は持っている。「無事に帰らせてください」と、舟の御守りとして船員が拝むいわゆる「船玉」(舟に祀る神で、帆柱の受け材の中に御神体を納めてある。五穀と、十二文の金、夫婦雛と女の髪が、普通その、御神体であったという。上119)にいつの間にか祈っているというような(157、312など)、日本人に良くある土着的民間信仰の宗教心である。見知らぬロンドンの地に降り立つ時も、彼にとっては不安な新しい経験を前に彼は、心の中で、「(八幡様、お伊勢様、ご先祖様)と神々や仏の名を」(上313)呼んでいる。ただしこれは、それほど強い信仰心として描かれているわけではなく、音吉の性格で強調されているのは、やはり生来の善良さであると言えよう。これが、後にキリスト教に触れた時にどうなるかは次の節で見ることにする。

 

<岩松>

 岩松は作者自身「少なからぬ興味を抱いている」人物と述べており(下「創作後記」127)多面を備えた立体的な人物として描かれている。彼が最初にこの物語に登場するのは、琴が少女らしさを初めて見せた時で、のっそりと入ってきて「傍らにいた琴の乳房をむずとつかんだ」(上10)のが、この岩松であった。そのようないわば破廉恥な振る舞いを印象付けた彼は、次に音吉に会う時には、慈悲心を持つ正義漢として登場する。吉次郎が米盗人を働こうとした時、彼は現れて米を取り上げる。しかし、彼を役人に引き渡すことをせず、ただ米を取り上げて舟から追い出すのである。しかも、先に見たように、彼は正直者の音吉に免じて、一度取り上げた米まで持ちかえらせるという寛大さを見せる(上16)。

彼のもう一つの側面は、とっさの時の行動力である。それは、このように、ただ米を「やるから持ってゆけ」という代わりに投げてよこすという彼の動きにも出ているが、時には感情的な動きとなって、現在彼の妻となっている絹の母親(かん)をなぐった過去の状況にも伺われる。絹はかんの命令で体を売って稼いでいた。岩松も絹を買ったひとりであった。しかしそのうち、絹は金目当てで抱かれることをいやがり、岩松から金をとらなくなる。それを知ったかんが絹を折檻するのを見て彼は止めに入るが、かんが彼にむしゃぶりついたので思わずかんを殴り、翌朝、かんは死ぬのである。医者は卒中と診断するが、彼は自分が殴って殺したのだと思っている(上11)。このように、岩松は、正義感が強い面と衝動的な面とをもっていた。その両面は相反するものではないが、かんの例でも分かるように、必ずしも正義から予想されるような良い結果を生むものではない。この、衝動的な面はたとえば、彼がお陰参り[2]に行くために一度舟を捨ててしまったというような、好ましくない面にも通じる。彼の行動力は嵐の中で舟を転覆から守るために帆柱を切ることになった時、刀を振り上げた重右衛門の腕を突然押さえた激しい動きにも出ている。その時彼は、重右衛門のタイミングがまずいとすばやく見て取った。そして、重右衛門が上司であるにもかかわらずものも言わずに彼の刀を持つ手をつかみ、さらに次の瞬間、「今だっ!」と叫んで有無を言わさぬ強さで重右衛門を動かすのである(上135)。

また、行動力の強さと共に、彼の気力の強さも、顕著である。漂流が長くなり、皆が壊血病で体に死の予兆となる黒い斑点ができ、気力も体力も衰えている時も、皆が彼だけは「不死身のように思っていた」ほど、元気である。しかし、彼にもその太股に、うす黒い斑点ができてはいたのである。彼は「大丈夫だ」、と言う。「みんなも気を確かにもてば、病気に打ち勝つことができる筈だ」と。そして、どうやってかと聞かれると、彼は、第一は気力だ、第二も気力だ、第三も気力だ、と、言いきっている(上197)。そして、実際、気力があれば、行動力も判断力も知力も保てることを彼はすぐに示す。彼は、舟の船体に藻と貝が育っていることに、乗組員の誰も気づかない時に、真っ先に気づき、それを食べた皆の健康は、めざましく回復するのである。

 その、行動力と気力とから、彼は、インディアンに捕われの奴隷状態となっている時も希望を失わず、彼らに取られた墨と硯を盗み出して、救助を頼む手紙を書き、誰かが読んでくれることを期待して来合わせた呪術師に渡し託す。「日本の言葉を書いても、誰も読み得ないなどとは、岩松は考える余裕がなかった。誰か必ず、手から手へ、その手紙をしかるべき人間に届けてくれるような気がしてならなかった」(上259)。この、一種の信仰にまで近い信念は、三浦綾子自身が神に頼む彼女の声を表わしているものとも読めるだろうが、ここでは岩松の強さとして描かれている。その結果、その手紙がハドソン会社のマクラフリン博士の手にわたり、救いへの道が開かれるのである。この、前向きの姿勢は後にキリスト教に出会った時にも、重要なものとなる。

 彼は、また、寛容な面と、その逆の面とをも両方兼ね備えている。彼は、捨て子であったが、自分を捨てた母親をうらむかわりに、「よほどの事情があったんだろう」(上33)と母を赦している。しかし、自分の留守中に絹のいる家に出入りする銀次という男を、彼はどうしても赦すことができない。岩松はこのように、音吉と比べればはるかに人間的な人物として描かれている。そのような岩松を、音吉は理解できない。「あのときの岩松と、その後一年二ヶ月漂流を共にした岩松とは重ならない。あれは別の男だったと思う。だが、思いだすと、岩松がいやな男に思われてくる」(上251)と、いうのが音吉の印象である。音吉が人間の二面性というものを理解しない生一本な単純さで描かれているのと対象的に、岩松は描かれている。彼は、マクラフリン博士の家で、英語や作法を教わり、親切にされても、最初は、「情けないことに、人間というものはわからんもんでなあ。今は親切にしてくれていても、いつ心が変わるかわからん」(上331)という気持ちで彼らを見ている。そのような人間の移りやすさと弱さ複雑さを知っているのが岩松である。しかし、一方で、彼らに世話になるうちにその親切心が真正なものと悟り、それとともに、彼らの信じる教えに対しても心を開いてゆくのも、岩松が最も早いのである。彼は、良い意味でも悪い意味でも「人間は変わる」ことを知っているし、それを身をもって表わしている。

 宗教的には、彼は、いわゆる日本人の民間信仰の範疇で、強い信仰心をもつと言っても良いであろう。彼は、舟を降りてお陰参りにまで行っている。それは、毎日仏典を読むとか、お経を唱えるとかいう信心深さではない。ただ、彼には、「熱田の宮に対する絶対的な信頼」(上198)があり、それは、それによってなぜか自分だけは死なないような気がしていたほどの確信である。それによって彼の気力は支えられており、壊血病の斑点が太股に現れた時でさえも、絶望感を克服することができるほどなのである。

 

<久吉>

 久吉は、最も一般的な大衆のタイプとして描かれているように思われる。彼は、面白い人、と見られて少なくともつき合い上は人に愛想良くされる生き方を知っている(上79)。ただ、本当に信頼され、重んじられるのは音吉のような堅くまじめなものであることを心では知っている寂しい者でもある(上156)。

 宗教的には、「地獄、天国などは死ななければ分からない」(上25)と、冷観している一方で、家出同然でお陰参りに出かけて行ったりする。そして、放蕩息子の帰還のように父の怒りを恐れておずおずと家に戻り、父が自分の帰りを心から喜んで迎えてくれたことに思いがけなく感動するといったこともしている(上80)。ただ、彼の宗教心は多分に多神教的でしかも日和見的なところがあり、郷に入っては郷に従え、ではないが、アメリカのフォート・バンクーバーでは、「ここの神様にも挨拶しないと義理が悪い」(上324)と、「アーメン」の神を礼拝し、マカオではすぐにナミアムダブツ(下237)を唱え始める。

 

IIキリスト教に触れて

 三者がキリスト教に触れた時それぞれの反応はいかなるものであったろうか?

 

<音吉の場合>

彼は最初に神棚に手を合わせない人々を見た時、「妙な人種」(上316)と感じる。これは、彼が、厚い信仰心とまでは行かなくとも何かしらの日本的な宗教心を自然なものと受けいれていたことを示す。彼は「ゴッド イズ ラブ」(下67) と聞いた時、どうやらゴッドとは神か仏のようなものだと考えるが、このように、まず神仏を慈悲深いものととらえ、そうした「カミ」の概念に<ゴッド>を彼は結びつけたわけである。一方で、彼は、キリシタンの話は「耳の穢れ」(下9)と言い恐ろしいと考える。日本で言うほどに悪い教えならばキリスト教徒がこんなに親切なはずがないと岩松が言う時も、彼は、うなずきながらもやはり、「なんぼいい教えでも、わしらが信ずることはできん……お仕置きが恐ろしゅうて、恐ろしゅうて、かなわん」(下12)と、キリスト教を避けようとする気持ちはなくならない。自分を助けてくれたイギリスの人々が「ジーザス・クライスト」のことばかりいうのを聞いて、心の中で、「わしらはキリシタンは嫌いなんや! 恐ろしいんや! 嫌なんや!」と呟いている (70)

 しかし、それは、彼の先入観であって、その先入観は、彼がキリスト教の牧師とその妻の世話になり、また、彼女の経営する寄宿学校で働く娘たちが楽しそうに奉仕をする姿を見たり、そこで学び育てられる子どもたちと接したりする中で減じてゆく。彼は、イエスが一匹の迷った羊を助ける場面と、その後、彼が十字架に掛けられた場面とからなる教会学校の劇を見せられるが、そのイエスは、彼の目にも憐れみ深く見えた。そして、十字架につけられたイエスが神であるという教えを聞いた時、彼は衆生済度ということを思い出し、羊を助けたイエスを、「神さんか人間かわからんが、あの人はええ人に見えたわな」(下15)と、感じるのである。 

 礼拝についても最初彼と久吉は仮病を使ってまで行くのを避けようとするが、結局は、仮病を使うことの困難に負けてしまうというように、だんだんとキリスト教に接する度合いが増してくる。また、彼が仮病を使って伏している時に子どもたちが見舞いに来て、祈ってくれたキリスト教の祈りを聞いたことも、彼の先入観を正す一助となった。キリスト教の祈りも、実際に聞いてみると、「普通の言葉や。まじないでも魔法でもあらせん。やさしい言葉や」(21)と分かり、恐ろしかったり耳の穢れと言っていたのは間違いだったと悟るのである。彼は子どもたちとも仲良くなり、キリスト教の人々は恐ろしいという考えは消えてしまう。

 彼は、日本には百も千もの神がいることやキリストを拝んだら家族もろとも皆殺される(下66)ということなどを彼らに伝えるが、そのようなやり取りの中で、彼は、一方では「キリシタンは嫌い、恐ろしい」(下70)と思いつづけながら、一方で、教会の牧師たちは良い人たちだったと(下78)彼らの生き方、特に、見も知らぬよそ者だった音吉たち日本人に親切にしてくれたことに、すなおなきもちで心を開き、受け入れていくのである。

 彼ら三人は、マカオでギュッツラフが聖書を翻訳するのに手を貸すことになるが、その時には、最初は恐ろしがっていた音吉も熱心に考えるようになり、ヨハネによる福音書の冒頭、「初めにロゴスがあった」という、「ロゴス」について「かしこいもの」という訳語を思いつくのも、音吉である(下198)。

 音吉は他の四人の日本人とマニラで出会った後、彼らがキリストを信じられないと言い、「人の罪をかぶる……そぎゃんこつ、信じられんとです!」というのを聞き、「なぜ信じられせん!? ジーザス・クライストはほんとに罪をかぶってくれたんや」と思って、自分自身思わずはっとした(下234)。ここの音吉の突然の改心とも言える心の叫びはいささか唐突にも見え、作者のキリスト教メッセージが生で強く出過ぎた印象も受けるが、それでも、この言葉を作者が託せるのは音吉でしかありえなかったことは事実であろう。彼は生来、いわばヨハネのように、神は愛であるということを真っ直ぐに受けいれられる素直な心を持っていた。その彼がキリスト教徒の親切に接し、キリスト教は恐ろしい、と言う偏見を捨てた時、自然にキリストに導かれたということはありえるのだろう。いわば、彼の「なぜ信じられせん!?ジーザス・クライストはほんとに罪をかぶってくれたんや」という心の叫びは、彼にとっても啓示になったのである。彼は、生まれながらのキリスト教徒として描かれていると言っても良いかもしれない。

 彼は、物語の最後でモリソン号が日本に攻撃を受けた時、キング牧師らが日本に対して怒ることをせず、むしろ、あれほど近くから激しく攻撃されたのにただひとりのけが人も出さずにすんだことに対して、神に感謝をささげようと言っているのを見て、心を動かされる。

 

音吉はその時の驚きを忘れない。どんな時にあっても、まず感謝すべきことを見つけ出すことのできるキングたちの生き方に驚いたのだ。だから、あの祈りを捧げることのできるキングたちは、決して自分たち七人を厄介もの扱いはしないと思う。(下298-299

 

これはことさら、三浦綾子の声を感じる言葉である。いかなる境遇にあっても神に感謝を捧げるということは、彼女の見るキリスト教徒の基本的なあり方の一つである。

 そしてまた、彼が神は愛であるという教えから入っていったということは、重要なことである。神が愛であるという側面は、神が正義である、という面や、神は真理である、という面と比べてはるかに日本人にとっては受け入れやすいであろう。音吉が日本の神や仏との類推でキリスト教の神を考えたのが典型的である。そしてまた、宗教多元論的に考えれば本質的には神の無私の愛、慈悲、というものは本質的に仏の慈悲と通じるものであると見ても良いのかもしれない。現在宗教多元主義を提唱しているジョン・ヒックは、偉大な世界宗教は、皆それぞれ救いの道であり、「自我中心から実在中心への人間存在の変革」が起こるような、効果的な脈絡をなしている[3]点では同様であると主張している。そして、ヒンズー教でも、仏教でも、儒教でも、道教でも、キリスト教の聖書でも、また、ユダヤ教のタルムードでもイスラム教の聖伝ハーディスでも、「基本的な道徳的主張は、他人を自分と同じだけ価値ある存在として扱えということであり、それが事実上の黄金律」[4]であると述べている。他を自分のように愛すること、真の同情と共感に満ちた愛、慈悲は、キリスト教でも仏教でもその本質にあるものなのである。

  

<岩松の場合>

 岩松の正義感と積極的な態度は彼をキリスト教に対して開かれたものとしている。最初キリスト教に接した時には、彼も、「とにかく信じるわけにはいかん」(下9)と言うが、正しいものを好む性向からか、彼は、三人のうちで最も早くから、「キリシタンは日本の役人たちが思うとるほど、悪いとも思えんがな……日本で言うほど悪い教えなら、わしらをこんなに親切には扱わんで」(11)と言い始め、「いい教えならここにいる間だけでも聞いておいていいような気がする」(下12)と示唆する。これは、彼の、良いものに対しては前向きに向かおうとする態度である。ただし、ここではまだ、これは明確な意味でのキリスト教の信心や、求道心ではない。音吉や久吉が、帰国した時に自分たちがキリスト教徒の世話になったことで親兄弟まで死罪になるのではないかとおびえるのに対し、父母が縛り首にならぬよう、「お伊勢さんにでも熱田さんにでも毎日おねがいしておけばいいやろ」(下19)と言うのは岩松である。この「お伊勢様にでも熱田さんにでも」という彼の信心はおそらく誠のものであろうが、それは、先に見た、日本での民間信仰的な信仰心である。ただし、彼の心の中に何か、そのような「神さま」によっては満たされない求め、あるいは心の訴えのようなものがあるのは見て取れる。彼は、自分に親切にしてくれる人々の中で、自分が珍しがられていることを感じ、「だれも俺たちの気持ちは分からん」と、望郷の思いと共に何か怒りのような気持ちを感じる。それは、親切にしてくれる周りの人々に対する怒りではなく、対象の分からぬ怒りであった(71)というように書かれている。この怒りは、理不尽な運命にもてあそばれた者の、彼自身まだ知らぬ神への怒り、それゆえ、対象の分からぬ、怒りであったと解釈できるのではないだろうか。彼は「自分のために鞭打たれてもかまわぬと言う人間がひとりでもいれば、それだけで人間は喜んで生きていける」(下83)というように感じているが、これは、他の人の罪を背負って十字架にかかったキリストへの道を暗示している。彼は、かつてのイギリス国王ヘンリー八世が気に入らぬ妻を次々に処刑した話など、権力者が自分の力にものをいわせた残酷な仕打ちを聞いて、権力をもてばもつほど、人は大きな誤ちを犯しやすい(下116)という認識に賛成し、「そうかもしれせん。日本のお上やって同じや。無実の者がどれほど打ち首、縛り首、あぶり殺しになったか知れせん。キリシタンなぞ、たくさん死んだ。考えてみればキリシタンになることが、本当に悪いことかどうか、わからせんでな」(下116)と口にする。この時、彼はすでに、キリシタンを無実の者に含んでおり、誤ちを犯しやすい人間性を認め、そのような洞察とともに、罪人を贖なったキリストへの信仰の兆しを見せている。

 彼がキリスト教徒と接していて最も影響を受けたのは、まず、彼らの人権意識、ひとりひとりの人格を金持ちも貧乏人も同じものとして扱う、人間は皆平等であるという意識にである(143)。彼は、そうした平等の思想に惹かれ、キリスト教徒の言うことに耳を傾けるようになるが、それに対し、「舵取りさんはキリシタンになったのか!」と心配する久吉らの心配を、「ならん!」ときっぱり否定しながらも、岩松は、「けどなあ、人間にちがいがないということだけは大賛成や。エゲレス人だって、日本人だって、考えてみりゃあ人間であることに変わりはない。まったくちがう人間のような気がしたが、それはまちがいや」(下144)と、言い切っている。

 その時、彼はすでに、信じている神が違っても心は通うという認識に達しており、「ドクター・マクラフリンも、ミスター・グリーンも、みんな心が通ったやろ」(124)と言っており、だからこそ、「人に違いはない」(下144)と明言するようにもなったのであろう。この思想は彼がキリスト教から学んだものである。彼はまた、キリスト教の人格思想に触れ、改めて自分が捨て子であったことや、奴隷の境遇から贖われた経験を見つめ直し、人を捨てたり、女や奴隷を売ったり買ったりすることを考え直す(下155)。親が娘を売ることや、男が女を買うことなどは、日本ではそう珍しいことではなく、彼も絹を金で買ったことがある。「が、今岩松は、そのいずれも、ひどく冷酷な、非情なことに思われた。ひどい罪を犯してきたような、いやな気持ちだった」(下155)と書かれている。彼は、そのように、道徳的にも変えられてゆくのである。

 彼は、イエスが「汝らのうち罪なきものまず石を投げ打て」と言った言葉、つまり、姦淫をしている女を捕まえて石打にしようとしている人々に対して言った言葉についての説教も聴いた。牧師が、「どこの国の民もどこの国の王も、人間である限りすべて罪人です。誰も意思を投げ打つ資格はありません。ジーザスはこの男共にだけこう言われたのではありません……あなた方一人一人にも言われたのです」と言ったのを思い返した時、彼は、「大変な教えやな。信じないほうが楽かも知れせん」(上141)と考える。それほどまじめに受け止めた彼は、キリスト教の本質に近づいたと言える。そして、信じないほうが楽かもしれないと思いながら、そのとき彼にはイエスの姿が、驚嘆すべき存在に思われた」(上141)のであった。

 そうして、他国民であっても、他宗教であっても、心が通じるという信念をもつようになった彼が、むしろ自国の日本人にその乗った船への砲撃を受けた時、非常な衝撃を受けたのは当然である。彼らを日本に送り届けたモリソン号は何の武装もしていなかった。しかし、それに対して日本の政府は攻撃をしかけ、その一弾が彼の足元に落ちたのである。

 そして、最後に、薩摩藩にまた攻撃されて、最終的に日本から離れる時、彼は、「わしは、生みの親にさえ捨てられた。今度は国にさえ捨てられた」と、思う。しかし、そう言った時に、逆にそれをうち消すように、彼の心に、お絹や、自分の子供や、自分を拾って育ててくれた養父母のやさしい顔が浮かんだのである。

 

 やや経ってから、岩松はぽつりと言った。

「……そうか。お上がわしらを捨てても……決して捨てぬ者がいるのや」

 その言葉に音吉は、はっとした。……

 音吉は、今岩松が何を言おうとしているかわかったような気がした。 (下323

 

これは、彼ら二人が、最終的に誰に見捨てられても共にいる主<インマヌエル>――預言におけるキリストの呼称の一つで、「神われらと共にいます」(マタイ1:23)という意味――への帰依に至ったことを示す。そして、ここで、この小説は終わるのである。

 

<久吉の場合>

 久吉は、結局キリスト教徒にはならない日本人の一つの例である。彼は、義理でキリスト教の神を拝んだこともあるが、それはけっして信心からではない。むしろ彼は、「命あっての物種やでな。問題はいい教えかどうかより、絶対信じてはならんとの掟を守らんならんでな」(下12)という、お上の仕置きをまず避けようとの考えから、キリスト教に深入りしようとはしない。そして、また、神が磔になるはずがない(下15)という理由でも躓くのである。彼は、魂の救いよりも、「お上」を気にする日本人の典型である。それは、今日の日本社会にもあてはまることであり、会社や、仕事や近所のつきあいや評価を優先して、日曜の礼拝を避けたり、熱心な信仰を持っていることを隠したりする日本人にも、それに通じるものがあろう。こうしたメンタリティーは、日本にキリスト教が入ってくるためには、大きな障害となる。

 

IV 結

本書において、三浦綾子は日本人が信仰に至る二つの道を示している。生来の性質が自然に花開くように、イエス・キリストの信仰に至る音吉の道と、民間信仰としてあった日本的な信仰から始まって、キリスト教の方に前向きな目を持って向かった時に、ひとつの契機によってイエスに至る岩松の道とである。岩松の場合、それは、自分の母国にさえも捨てられた遺棄の経験の中での、「イマヌエル」の存在への目覚めであった。このふたつの道は、対立するものではないが、後者のほうがより意識的回心と言える。そしてそのどちらも、キリストのやさしさ、愛の神としての側面に惹かれていることは、重要である。

ギュッツラは、日本に布教をするに際し、ヨハネによる福音書を選ぶ(下223)。それは、「神は愛である」ということから入ることであり、一面成功であった。彼は、日本人が、どこに行っても何に対しても手を合わせるのを見て、「使徒言行録」にある、アテネの『しられざる神に』手を合わせる記事を思い出し、「キリストの神性を確実に伝えるヨハネ伝を選んだ」と言う。それを聞いてキングは深くうなずき、ギュッツラを見つめるが、「そのキングの目に、なぜかちらりとかげるものがあった。それが何であるかを、ギュッツラフはその時は知ることができなかった」(下223)と、作者は書いている。この「かげり」に関しては、小説の中では再び言及されることはないが、これは、三浦綾子が、一つには、日本人が八百よろずの神とキリスト教の神とを混同するやり方に危惧をもち、また、一つには神を愛であるとのみ見る多くのキリスト教徒のあり方に対して疑問を投げかけているとも見られるかもしれない。ただし、少なくともこの小説の中だけでは、岩松と音吉の行きついた(あるいは、行きついたことが確実に暗示されて小説が終わる)「共にいます神」への信仰は、肯定されていると言えよう。三浦綾子の描く人物には、遠藤周作の『沈黙』のキチジローのように、強い信仰を持ちたくてももてない人間の弱さはない。音吉にしろ、岩松にしろ、信仰に至ったことが描かれた時には、それが三浦の証として、ひとつの完成を見ている。遠藤が『沈黙』で問題にしたように、日本人がキリスト教の神を拝んでも、その心の中ではその神は日本の神に変質していて、真のキリスト教の神とは異なったものとなっているのではないか、というような危惧は、確かにギュッツラフのかげりに暗示されるかもしれないが、しかし一方で、岩松が信じ続けた「熱田さん」への絶対的信頼の念は、いかなる宗教にも欠かせない、絶対者への絶対依存の感情であると言え、そこから一歩進んでイエス・キリストへの信仰に至る道は、真正な道のひとつと認められるであろう。

 たしかに、キリスト教の神は、愛の神であると同時に厳しい面をもった全能の父なる神である。すくなくとも、西洋ラテンキリスト教世界ではそれが正統派の教えとして受けいれられていた。そして、たとえば、遠藤周作などの思い描いた<母なる神>などは、日本化されたキリスト教として、異端とまでは行かないまでも、真のキリスト教とは異なるものという目で見られてきたといえよう。しかし、現在の学究により、キリスト教はその原初においては非常に多様であることが分かってきている。特に、最近のフェミニスト神学者などの指摘によれば、父家長的なキリスト教の神概念は、パウロ、ルカを通してローマ・キリスト教会で一世紀のローマ社会の家父長的倫理を多分に取り入れて確立してきたものである。また、もともとキリスト教の神概念には母性的な面もあり、それは聖霊に現れているという見方もある。[5] いずれにしろ、初期のキリスト教徒の中には、イエスの癒しや愛に会って、それのみで彼への信仰に入った者もいたはずである。それゆえ、その多様な面から、「愛の神」としての面に目を向けて、そこから神に至る道も、ひとつ真正な道と言えよう。ホワイトヘッドは、日本的な母なるキリストの概念とは別に、共に苦しんでくれる友というキリスト論を展開し、キリストを、「偉大な仲間――理解ある一蓮托生の受難者」[6]と、理解している。そうした洞察は、様々なキリスト論がありうるということを認めるのにも重要なものである。教義的にいかに論じ、異端と断罪しても、文学的、心情的に人間の心情に訴えかける力として、日本的な、土着化したキリスト教の洞察は現実に働く力を持っており、その働きによって、否定しようのないひとつの真実なのである。そして、また、現在の世界のキリスト教の動きを見れば、西洋のキリスト教の教義をそのまま受け入れはしないアジア、ラテンアメリカなどに、キリスト教の大きな動きが起こっていることも事実であるし、西洋キリスト教が世界に宣教する際に、自らのキリスト教理解を土地の人々に押し付けてきたことへの反省と、そうしたあり方への疑問が、今、西洋キリスト教社会の中からも出ていることは指摘しておいてよいであろう。[7]様々な、キリストへの道がある。そして、音吉のあり方も、岩松のあり方も、それぞれに真正な道と、この小説は証している。いずれにしろ、われわれは、マタイによる福音書の最後の言葉、復活のイエスの次の言葉を忘れることはできないであろう。――わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。

 

 



[1] 三浦綾子『海嶺』(上、下), (朝日新聞社,1981)以下、本文中の参照ページ番号は本書より。また、本論は、二松学舎大学東洋学研究所の研究補助費を受けて進めている研究の一環である。

[2] 誰に断らなくても、金をもたなくても出かけていってよい伊勢参りで、身一つで出ても善意の旅篭が道中にあり、参詣することができた。自分の主人や親や伴侶に断りなく飛び出しても、それをもし咎めたりすれば神罰が下ると信じられていたので、咎めや罰はなかった、というような説明が、作者によってなされている。(上29)

[3] ジョン・ヒック『宗教多元主義への道』間瀬啓允・本多峰子訳(玉川大学出版部,1999p.175

[4] John Hick,  An Interpretation of Religion (London: Macmillan, 1989), p. 149

[5] 拙論「男女を超えてフェミニスト神学から得られるもの」『二松学舎国際政経論集』(2004)(3月刊行予定)を参照。

[6] ホワイトヘッド, A.N.ホワイトヘッド『過程と実在』山本誠作訳(松籟社, , 1984 , 1985), 下巻(第5部第1章「理念的に対立するもの」p.625.

[7]アリスター・マクグラス『キリスト教の将来』(The Future of Christianity)本多峰子訳(教文館, 2002)を参照。