「ヨブ記」試論−−

神に立ち向かう信仰の人ヨブ

An Essay on the Book of Job--Job,a man against God in firm trust in God

 

本多峰子

<序>

 旧約聖書の「ヨブ記」は、義人の苦難が問題となる時、非常にしばしば引き合いに出されてきた。物語の発生年代や作者は確定していないが、「ベン・シラの知恵」(494)で「ヨブ記」の知識が前提とされているので、成立時期の下限はBC200年頃と想定できる。また、アラム語からの影響や一般的精神的考察に基づいて成立時期の上限を推定すれば、捕囚期以前に遡ることは出来ないと思われる。従って「ヨブ記」の成立は、BC5世紀からBC3世紀までの期間であろうと考えられている(cf.ワイザー 9)。

 旧約聖書は、大体、イスラエルの民と神ヤーウェとの関係を歴史上で記すものであるが、この「ヨブ記」は、ウツの地のヨブという大富豪の転落と苦難、そして苦難の果てに再び与えられる富と幸福の人生を通して、より一般的に人類全体に当てはまる。

 あらすじは、以下のようである。ヨブは東の国一番の富豪であり、七人の息子と三人の娘に恵まれ、正しい人であった。しかし、天でサタン(旧約では、人間の罪を神に告発する者、という意味で、新約の「悪魔」とは異なる)は主に「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは神とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。……御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」(1:9-11)と言い、神にヨブの所有物を一切好きにしてもよいという許可を与えられる。そこで、ヨブは、全財産と息子、娘を失うが、神を呪うことはしない。サタンは、次に、命を除きヨブの体をさいなむ許可を得て、ヨブに全身ひどい皮膚病を負わせる。(これはハンセン氏病と見られている)。彼の妻は「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って死ぬほうがましでしょう」(2:9)と言うが、彼は妻をたしなめ「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(2:10)と答え、彼は「唇をもって罪を犯すことをしなかった」(2:10)。ヨブの友人が三人見舞いに来るがヨブが変わり果てているのを見て、話しかけることも出来ず、ただ、七日七晩ヨブに付き添うのみである。しかしやがて、ヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪い、神に、自分の義を主張し、なぜ正しい自分が苦しまねばならないのか、なぜ不正な人が栄え、正しい者たちが不幸に会わなければならないのか、神に問い始める。三人の友人は、それぞれ、自分の経験から、不正な人が苦しむことはないはずであると論じたり(4:7)、伝統と権威に訴え、ヨブの子供たちが死んだのは彼らが罪を犯したからに違いない、ヨブが「潔白な正しい人であるなら」神はヨブの家を「元通りにしてくださる。……未来のあなたは非常に大きくなるであろう」(8:6-7)と、道を説いたり、あるいは、全能者の神秘を認め不正を避ければ、労苦はなくなるだろうと、宗教的な知恵を繰り返したりする(11:6-16)。ヨブは、友人たちが自分の義を理解してくれていないことを憤り、さらに神に問いかける。友人たちはそれを見て、ヨブに対して怒り、神に対して自分の義を主張する彼をたしなめる。しかし、ヨブは神を賛美はするが、やはり自分の失った幸福を思い、嘆き、あくまでも自分の義を主張する。それを見て友人たちは口を閉ざすが、エリフという若者はヨブに対しても、ヨブに反論できない三人に対しても怒り、神の霊を与えられた言葉として、神の全能と神の前での人間存在の小ささとを弁じ、「なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることをいちいち説明されない」(33:13)と諭す。続いて、神が嵐の中からヨブに答える。

 

これは何者か。

知識もないのに、言葉を重ねて

神の経綸を暗くするとは……

私が大地を据えたとき

  お前はどこにいたのか。

知っていたというなら

 理解していることを言ってみよ……

お前は雌獅子のために獲物を備え

  その子の食欲を満たしてやることができるか……

お前に尋ねる。私に答えてみよ。

お前は私が定めたことを否定し

自分を無罪とするために

  私を有罪とさえするのか……

お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ

その舌を縄で捕らえて

  屈服させることができるか……(38:2-40:25)

 

ヨブは神に答える。

 

私は軽々しくものを申しました。

どうしてあなたに反論などできましょう。

わたしはこの口に手を置きます……

わたしは理解できず、わたしの知識を超えた

驚くべき御業をあげつらっておりました……

あなたのことを、耳にしてはおりました。

しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。

それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し

自分を退け、悔い改めます。

40:4-42:6)

 

神は、ヨブの友人たちに対しては、彼らが神の僕ヨブのように正しく語らなかったから怒っていると言い、雄牛と雄羊七匹ずつをいけにえとしてヨブにとりなしの祈りをしてもらうように命じる。ヨブが友人たちのために祈ると、神は彼に以前の二倍もの富と新たな七人の息子と三人の娘を与え、彼はその後140年生きて長寿を全うした。

 

 こうしたあらすじの「ヨブ記」は、しばしば苦難にあっても義を貫いた者が神によって贖なわれ、大きな幸を与えられる教訓物語として読まれてきた。しかし本論では、ヨブの人物像としては、義人としてのヨブの他に、反逆者としてのヨブ、そして、神を告発しながらもあくまで神により頼もうとする一見矛盾する態度を備えた信仰の人としてのヨブという、大きく三つの読みが可能であり、この、第三の読みが最も妥当であろうということを、キリスト教だけでなく、ユダヤ人の信仰をも考察に入れて提示したい。旧約聖書は、キリスト教徒の聖典であるのみならず、もともとユダヤ教の聖典であり、その意味で、ヨブ記の意味を宗教的偏りなく考えようと思えばユダヤ教における解釈も重要だからである。そして、この第三の読みは、アウシュヴィッツの苦難に際して今日のユダヤ人に見られる態度と合致することを、アウシュヴィッツ生き残り作家でノーベル平和賞受賞者でもあるエリー・ヴィーゼルを参照して考え、アウシュヴィッツ後の今日に「ヨブ記」がわれわれに提する今日的意味がその読みにあると示したい。

 

<義人ヨブ>

 

 日本語の新共同訳新約聖書(1990年版)でわれわれは、イエスの使徒ヤコブが「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、哀れみに満ちた方だからです」(ヤコブの手紙 5:11)と書いているのを読むが、ここから想像されるような柔和な慈しみ深い神とただ黙ってひたすら苦難に耐えるヨブは、実際の「ヨブ記」には見られない。実際、この「忍耐」という語は、新エルサレム聖書(New Jerusalem Bible)や新米語聖書(New American Bible)ではperseverance と訳され、これは、苦難にあってもその苦難に屈せず硬く信仰を守る強さという意味での忍耐である。

 ただし、ヨブが「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」人であること(悪を避けるとは、悪を行わないということであり、悪からの逃避を意味するものではない)は、語りによっても(1:1)、また、神自身の口からも語られ(1:8)、物語の初めに客観的事実としての地位を与えられている。そのせいからか、ヨブを終始義人として、信仰の模範としてみる解釈は、少なくとも最近までは主流だったように思われる。ヨブは「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」(1:5)と思い、息子たちのためにいけにえを欠かさないが、これも、彼が息子たちを信用しきっていないというよりも、息子たちが心で犯した罪をも案じる親の愛と神への畏れの面が強調されがちであった。(実際、この息子たちが死んだあとヨブが最後に同じ数の息子を代わりに得たことですっかり贖われたことになり、満足してしまうのを見ると、普通のリアリズム小説ならば、彼の最初の子供に対する愛情の深さに疑問を持たざるをえないであろう。ただし、この物語の冒頭「ウツの地にヨブという人がいた」(1:1)の原文は「昔々ウツの地に、ヨブという人が・・・」とも訳せる昔話調で書かれているという指摘があり(ワイザー)、昔話やメルヘンの常として、行為からあまりに細かい心理分析をすることが必ずしも妥当ではないことは、念頭においておくべきであろう。)確かにヨブは、財産が奪われ、わが子が奪われても、感情に走らず神に対する敬虔な態度を保っている。子供たちの突然の訃報を聞いて、彼は衣を裂き、髪をそり落としてから地にひれ伏す。そして、「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(1:21)と言うのであるが、この、衣を裂き、髪をそり落とすというユダヤの弔いの儀式の手順を踏んで地にひれ伏し神を礼拝するやり方は、わが子の訃報を聞いた衝撃で地にくず折れる、我を忘れた悲しみの行為とは異なる。「このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」(1:22)と、あるとおりなのである。この見方によれば、この物語は、サタンと神との賭けにおいて、サタンが、ヨブに神を呪わせることに失敗し、ヨブが試練を乗り越えて義を貫き、それに対して誉れを受けた物語というふうに読めることになるかもしれない。

 ただし、この前者の読みのように、あくまでもヨブを義と見る見方をするならば、神議論的には問題が生じる。欠点のない義人が苦しむということは、<神が善であり、全能である>という命題と抵触するからである。罪を犯した人間に対しては、苦難はその罰と見なすことができる。しかし神が善であれば、罪のない者を苦しめることはないであろうし、神が全能であれば、善人には幸福で報い、苦しみから守ることができるであろう。しかし、善人が苦しむならば、それは、神が善か全能に欠けるということではないか、ということになる。

 この考えを突き詰めていったのが、G・C・ユングである。彼は、『ヨブへの答え』で、神に三位一体のほかに第4の悪の面を見て、むしろヨブが神にさえも義で勝り、義においてヨブという人間に負けた神がその負けを取り戻すためには人間にならなければならなかった、と述べている。(ユング52, 91-92, 123-125

 しかし、このような考えは、神をあくまでも善とする伝統的な考えの持ち主には受けいれられないであろうし、また、「ヨブ記」の内的統合性から見ても無理があろう。これから更に見るように、ヨブ自身を含め、すべての登場人物によって、神は究極的に善と考えられており、それが最終的には証明されることになるからである。

 あるいは新約聖書のキリストの苦難やイザヤ書に見られる苦難の僕の例に顕著なように、ヨブの苦しみが他人の罪の贖いになると見ることもできるかもしれず、実際、ヨブにキリストの先ぶれを見ている注釈者もいる。けれども、ヨブはやはり人間であり、人間である限り過ちは犯しているのである。彼自身、「若い日の罪」(14:26)があることは否定しておらず、ただ、そのような若年の過ちは赦されるだろうと思っている。彼は、長年正しく生き、正しくいけにえをささげ、そのような罪はすっかりぬぐい去って今は完全に潔白だと考えている。そして、最初に、神と語り手によっても認められているように、現在は「無垢な正しい人」になっている。

 それゆえ、「ヨブ記」の問題は、やはり、義人の苦難、ということになろうが、ただ、一つの重大な点は、人間はいかなる義人であろうとも、やはり、神とは異なり、完全ではないということであろう。それは、繰り返しのテーマとしてたとえば、ヨブの友人エリファスは

 

どうして、人が清くありえよう。

どうして、女から生まれた者が

  正しくありえよう。

  ……人間は、水を飲むように不正を飲む者

憎むべき汚れた者なのだ (15:14-16)

 

と言い、もうひとりの友人ビルダトも、

 

どうして、人が神の前に正しくありえよう。

どうして、女から生まれたものが清くありえよう。

月すらも神の前では輝かず

星も神の目には清らかではない。

まして人間は蛆虫

人の子は虫けらにすぎない。(25:4-6)

 

と言い、ヨブ自身も

 

神より正しいと主張できる人間があろうか。

神と論争することを望んだとしても

千に一つの答えも得られないだろう。(9:2-3)

 

というように認めている。そして、このように不完全ながらも人間としてはほとんどありうるべき最高度の義を体現している人間の苦しみが、この、「ヨブ記」のテーマだということである。そうすると彼の苦しみは、彼のわずかな罪に関する罰と見られるか、あるいは、そうしたわずかな罪、あるいは欠点を彼に克服させるための試練と見なされる。ただし、欠点や罪と苦難の大きさの不釣合いは、依然問題となろう。

<反逆者ヨブ>

J.C.L ギブソンは、「敬虔と偽善、自己愛と自己欺瞞、見せ掛けのみの卑屈さと天をも恐れぬ高慢、いつの時代にも人間が自分自身の真実を隠そうと試みてきたこのような人間の深層を、容赦なく剥ぎ取った書物は、後にも先にもヨブ記の他にはない」(ギブソン, p.23)と言い、「イエス・キリストのたとえの中に出てくるファリサイ派の人物の−−私たちが感じる−−恐ろしい言葉、「神よ、私は他の人たちのようではないことを感謝します」(ルカ18:11)という言葉を、全く正直にそのままに、偽善の疑いを全くかけることなく受けいれる……ヨブはこのような人物のひとりであったのである」(同掲書, p.31)と、指摘している。この指摘は、まさに正しいであろう。ヨブは少なくとも友人たちよりは自分が正しいことを確信しており、

 

断じて、あなたたちを正しいとはしない。

死に至るまで、わたしは潔白を主張する。

……

わたしに敵対する者こそ罪に定められ

わたしに逆らうものこそ不正とされるべきだ。(27:5)

 

と言い、

 

なぜ、神に逆らうものが生き永らえ

年を重ねてなお、力を増し加えるのか。(21:7)

なぜ、神を愛する者が

  神の日を見ることができないのか(24:2)

 

と、彼の目から見た不義の人々に比べて自分が不幸に見舞われていることに意義を申し立てる。イエスは、姦通の現場を捉えられた女を石打にしようとする律法学者やファリサイ派の人々に対して、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネによる福音書 8:7)と言う。イエスは「罪を少ししか犯したことのないもの」とも、「ほとんど犯したことのないもの」とさえも、言っていない。全く罪を犯したことのない者だけが他人を責める権利を持つのである。そして、それは、神のみ子であるイエスだけである。ヨブは、これらの人々と同じ自己義認の罪を犯していると言えよう。そして、

 

         知れ。

神がわたしに非道なふるまいをし

わたしの周囲に砦をめぐらしていることを。(19:6)

 

人間とは何なのか。

なぜあなたはこれを大いなるものとし

これに心を向けられるのか。

朝ごとに訪れて確かめ

絶え間なく調べられる。……

人を見張っている方よ……

なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。

なぜ、わたしの罪を赦さず

悪を取り除いてくださらないのですか。(7:17−21)

 

と、神に見守られていること、サタンが正しくも言ったように、神が彼を「守って」いることを、神に見張られていることと解釈し、神の「砦」をあたかも監獄のように感じてそこから逃げたいとさえ考えている。

 

詩編8の作者は

 

主よ……

天に輝くあなたの威光をたたえます……

月も、星も、あなたが配置なさったもの。

そのあなたが御心に留めてくださるとは

  人間は何ものなのでしょう。……

神に僅かに劣るものとして人を造り

なお、栄光と威光を冠としていただかせ

御手によって造られたものをすべて治めるように

その足元に置かれました……

(詩編8:2−7)

 

と、天と全地とに啓示された神の栄光と顧みをうけとめ、神を賛美しているが、ヨブは、この顧みを慈しみとしてではなく、拘束と見るようになってしまっている。そうして、彼は神を告発し、自分の義を主張するのである。

 ここで、しばしば問題となるのは、結局ヨブは神を呪ったか否かということである。彼が神を呪ったとすれば、彼が終始義を貫いたという読みは成り立たない。しかし代わりに、苦難の前に義を貫き通せぬ人間をも顧み、その躓きにもかかわらず、あるいは、その躓きを通して成長させ、最終的には以前よりも大きな幸を与える、義を超えた神の愛と慈しみを読むことが出来る。そしておそらく、この読みが妥当であろう。サタンを道具として、神はサタンに苦難を与えさせ、それを通してヨブを成長させる。サタンが序の部分にしか登場せず、神と彼との賭けの結果が結びの部分ではもはや問題にならず、サタンはいつの間にか消えてしまうのは、彼が結局は神に使われただけで、その役割を果たした後は、物語にさえも無用な者となってしまったからであろう。

 ヨブは神を呪い、その傲慢に気づき、改悛してより大きな信仰に導かれた。確かに彼は「唇をもって罪を犯すことをしなかった」(2:10)が、やはり神を呪っている。ウィルコックスが示唆しているように(Wilcox 58)神を冒涜する方法は、明白であるとは限らず、ヨブは婉曲な言葉を用いて、自分の命をいとい「生きていたくない」(9:21)と言うことで、結局は神を冒涜し、呪っている。それだから、ヨブの友人は彼の言葉を聞いて「あなたを罪に定めるのはわたしではなくあなた自身の口だ」(15:6)と怒るのであり、ヨブも、最後に「塵と灰の上に伏し、悔い改める」のである。(Wilcox 58)神に与えられた命をいとうことは、神の創造の業をいとうことであり、神の業を否むことだからである。わざわざ「唇をもって…」と断ってあるのは、心の中では罪を犯した、ということの暗示とも取れ、そう考えれば、冒頭で「ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである」(1:5)とあるのは、心の中で神を呪うという罪を読者に気づかせる語りの副腺とも言えよう。

 ヨブは、自分の誕生の日を呪い

 

わたしの生まれた日は消えうせよ。

男の子をみごもったことを告げた夜も。

その日は闇となれ。

神が上から顧みることなく

光もこれを輝かすな

暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい……

その日には、夕べの星も光を失い……

曙のまばたきを見ることもないように。

その日が、わたしを身ごもるべき腹の戸を閉ざさず

この目から労苦を隠してくれなかったから。(3:3−10)

 

と言う。<義人ヨブ>という見方をする注釈者の中には「ヨブは誕生の日を呪った。しかし神を呪うことをしなかった。彼は給したけれども、乱れるには、至らなかったのである」(山室)と、している者もいるが、この呪いの言葉は、創世記で神が「光あれ」と言いそれを顧み「良しとされた」ことに逆らい、「星を造り」太陽と星々に「昼と夜を治めさせ」、これを見て「良しとされた」ことに逆らう言葉である。そして、何よりも、人間を祝福し、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創世記1)という神の言葉を不服として、その祝福を否む冒涜の言葉に他ならない。

 

<神を告発しながらもあくまで神により頼もうとする信仰の人としてのヨブ>

 それでは、このように神を呪いまでしたヨブが、なぜ最後まで神に「わたしの僕」(42:7)と呼ばれ、苦難の以前の倍にも近い幸を受けたのだろうか。それは、彼が、神を告発し、呪っているときでさえも、究極的には自分のよりどころは神でしかなく、神は正義であり、絶対者であるという信仰を決して捨てなかったからである。そもそも義人の苦難が問題になるのは、正しい者は報われるべきだという世界の倫理的合理性を信じている場合のみであり、有神論の場合ならば、神が善であり、その神に世界は治められていると信じている場合のみである。善悪二元論や悪による支配を信じていれば、何も問題にならないのである。それゆえ、神を咎める間中、ヨブは逆説的に神の善性を主張していたことになる。しかし、それだけではなく、彼は、

 

神がわたしを餌食として、怒りを表されたので

敵はわたしを憎んで牙をむき、鋭い目をむける。……

神は悪を行う者にわたしを引渡し

神に逆らう者の手に任せられた。(16:9−11)

 

と言うときも、

 

このような時にも、見よ

  天にはわたしのために証人があり

高い天には

  わたしを弁護してくださる方がある。(16:19)

 

と、すぐに、神への信頼の言葉を続け、明白な信仰告白をしている。

 

わたしは知っている

わたしを贖なう方は生きておられ

ついには塵の上にたたれるであろう。

この皮膚が損なわれようとも

この身をもって

  わたしは神を仰ぎ見るであろう。(19:25−26)

 

この、贖う方が誰かということはしばしば論じられるが、これは神と考えて矛盾はないであろう。そしてこのように、神を告発しながらも、究極的には神により頼むヨブの信仰は、次の一節に顕著であろう。

 

わたしの権利を取り上げる神にかけて

わたしの魂を苦しめる全能者にかけて

  わたしは誓う。

神の息吹がまだわたしの鼻にあり

わたしの息がまだ残っているかぎり

この唇は決して不正を語らず

この舌は決して欺きを言わない、と。(27:2−4)

 

ヨブが一番つらいのは、かつて自分を祝福してくれた神が自分を見捨ててしまったような疎外感を味わわされていることであろう。28章で神の知恵を賛美したすぐ後に彼の嘆きが続くのは、神の栄光を知り、神を畏れ敬うからこそ、神との疎外がつらいからである。ヨブの嘆きは

 

どうか、過ぎた年月を返してくれ

神に守られていたあの日々を。

あのころ、神はわたしの頭上に

  灯を輝かせ

その光に導かれて

  わたしは暗黒の中を歩いた

神との親しい交わりがわたしの家にあり

わたしは繁栄の日々を送っていた。

あのころ、全能者はわたしと共におられ

わたしの子らはわたしの周りにいた。 (29:2−5)

 

と始まる。

 

13章で、ヨブは

 

  御前から逃げ隠れはいたしませんから……

御腕をもって脅かすのをやめてください。

そして、呼んでください、お答えします。

わたしに語らせてください、返事をしてください。……

なぜ、あなたは御顔を隠し

わたしを敵と見なされるのですか。(13:20−24)

 

と、神に訴えている。神が顔を隠しているように見えること、神の沈黙が、彼には一番つらいのである。この訴えに答えるのが、嵐の中からの神の啓示であった。それだからこそ、ヨブの最後の言葉は、

 

あなたのことを、耳にしてはおりました。

しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。

それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、

自分を退け、悔い改めます。(42:5−6)

 

神の全能は、すでに9章でヨブの口からも言われていることであり、彼は、知識としては、神が全知全能であることを知っていた。しかし、嵐の中からの神の声は、ヨブにその全能を実感させた。これは神との直接の出会いであり、これこそ彼が求め最後に与えられた答えであった。

 神に問いかけ、神を責めながらも堅く神を信頼する態度は、ユダヤ教の人々に顕著であると思われる。エリー・ヴィーゼルは

 

ユダヤ人の歴史は神との絶えざる口論以外の何であろうか?パスカルは別の言い方でこう言っている。「ユダヤ人の歴史は、神との長い恋愛に他ならない」。そして、すべての恋愛の例に漏れず、口論と和解があり、更なる口論と和解がある。けれども、神もユダヤ人も、相手を放棄する事は決してないのだ(Wiesel 210-211)

 

と言っている。

 中世のユダヤ人訳注解者サーディア(Saadiah)によるユダヤ教のミシュナで「ヨブ記」を参照してみると、いくつかの言葉にその特徴が現れている。たとえば、

 

わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。

わたしは神に向かって申し立てたい。(13:1)

 

というヨブの言葉の、「神に向かって申し立てたい」は、英訳の欽定訳聖書では I desire to reason with God (神と論じたい)となっているが、サーディアの訳では desire to confront the Almighty(全能者に立ち向かいたい/相対したい)となっている。この強さは、「創世記」(32:23−31)で、ヤコブが神と格闘し、「祝福してくださるまでは離しません」と神に組み付いてついに祝福を与えられた、神に立ち向かう信仰を思わせる。また、ヨブを主が「全能者と言い争うもの」(40:1)と呼ぶ個所は、欽定訳ではcontendeth with が用いられ、邦訳と同様「言い争う」という意味だが、ユダヤ教のサーディアの訳ではやはりここもconfrontという語が用いられて、神に面と向かって立ち向かう者、という解釈がはっきりと出ている。英訳でしばしばヨブの義と信仰の堅さを最もよく示すと見られる13章15-16のThough he slay me, yet will I trust in him (欽定訳。「神はわたしを殺すかもしれないが、それでもわたしは神を信頼する」)は、サーディアの訳では、Were He to slay me, I would suffer Him, and with all my needs confront Him となっており、そこにサーディアは、「神がわたしを殺そうとも、わたしは神を待ち望む。そして、必要ならば、神に相対して立ち向かうつもりだ」という意味であると注をつけている。ただし、欽定訳は誤訳とされ、最近の訳では See, he will kill me; I have no hope; but I will defend my ways to his face. (NRSV新改定標準訳。「見よ。神はわたしを殺すであろう。わたしには望みはない。しかし、わたしは自分の道を神の御顔の前に弁護する」)とか、あるいは let him kill me if he will; I have no other hope than to justify my conduct in his eyes(新エルサレム聖書「神が望むならわたしを殺してもよい。わたしには、神の目にわたしの行為の正しさを証するほか望みはない」)などとなっている。邦訳でも、「神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう」となっている。

 そして結局、ヨブは神の祝福を受けるのであるが、ここで重要なのは、この祝福はただ心と口で悔い改めることによって与えられるのではなく、神の命じたとおり、三人の友人のひいてきたいけにえを、彼らの為に神にささげ、とりなしの行為を行った時だということである。「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブをもとの境遇に戻し、更に財産を二倍にされた」(42:10)とある。これは、信仰には必ず行為が伴うべきことを示すと同時に、これまで、(おそらく、旅をすることが非常に困難だったこの時代に)遠路はるばる見舞いに来てくれた友人たちのことをヨブのほうからは何も思いやることのなかったことに対する、ヨブの側からの償いの成就でもあると読めないだろうか。もともと、彼らはヨブを見舞いに来て、彼の変わり果てた姿を見て、「嘆きの声をあげ、……七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった」(2:13)ほどに、親身の友人たちであった。(真の同情は、空しい言葉を失い、ただ苦しみを分かち合うのみである)その友情関係がこの物語の最後には取り戻され、友人たちも神の赦しを得るのである。

 しかし、いずれにしろ、ヨブの苦難には、彼の欠点や罪に対する罰であるとか、彼の成長の糧という説明では説明しきれない理不尽さが残る。 結局そうした、われわれの目には理不尽な悪を目にしてあくまでも神に問いかけながらなおも信仰を保ちつづける態度こそ、現代において信仰を持つ者が、あまりにも理不尽な苦難に満ちた世界を目にして取らねばならない態度ではないだろうか。そうした意味でも、第三のヨブ像は、おそらく正しい読みであるだけでなく、現代において最もふさわしく訴えるところの多いヨブ像なのである。

 

 

 

出典

 

『聖書』1990年版(新共同訳)日本聖書協会

 

C.G. ユング, 1981.『ヨブへの答え』野村美紀子訳, ヨルダン社.

 

J.C.L. ギブソン, 1996. 『ヨブ記』滝沢陽一訳(デイリー・スタディーバイブル 旧約篇, 荒井章三監修 第12巻), 新教出版社

 

Saadiah Ben Joseph Al-Fayyūmī, tr.  The Book of Theodicy,  Arabic translation and commentary on the Book of Job, translated from the Arabic with a philosophic commentary by L.E. Goodman, Yale Judaica Series Vol. XXV.  (Yale University Press, 1988)

 

ワイザー, A. 1982.『ヨブ記、私訳と注解』松田伊作訳(ATD旧約聖書注解(11) ヨブ記 )ATDNTD聖書注解刊行会.

 

Wiesel, Elie. 1978;1979. A Jew Today, translated from the French by Marion Wiesel , Vantage Books.

 

Wilcox, John T. 1994.The Bitterness of Job, a Philosophical Reading The University. of Michgan Press,

 

山室軍平 1971. 『民衆の聖書11 ヨブ記』 山室軍平聖書注解全集, 教文館.

 

 

 

Summery

The Book of Job in the Old Testament has often been seen as an exemplary story of a righteous man who suffers tremendous inexplicable evil and yet stand firm in his faith and so is atoned for his righteousness by God with even much more wealth and happiness than before his suffering.  Yet, Job may not be seen such a firmly righteous man but either a self-righteous man who after all swears and condemns God for his suffering or as a man who confronts God and asks the meaning of his suffering, sometimes swearing God, yet all the while keeps firm trust in God.  In this essay, we discuss these three readings as to Job's personality, taking not only Christian commentaries and criticisms but also a Jewish translation with a commentary.  From this, we shall conclude that the third reading of Job is right and it is in accord with the actual attitude that some of the Jewish people show toward God in face of such extreme suffering as of Auschwitz today.   After all, in the world with so much inexplicable horror and suffering, what a believer in God is demanded may be to hold his faith firm yet on the other hand, to keep asking God the meaning of such suffering and fight it.   In that sense, the third reading is also the most relevant in our life today.