キリスト教客観主義者C..ルイス--その、実在の世界への探求と参与(要旨)

    本多峰子

 

前書き

 

C.S.ルイス(Clive Staples Lewis, 1898-1963)は、今世紀になっても依然人気のあるキリスト教作家であり、平信徒伝道者である。彼はオックスフォード大学のフェローとして英文学を教え、後に中世ルネサンス英文学の初代教授としてケンブリッジ大学に移り教鞭をとった。その学術的功績は高く評価されている。しかし、それよりも彼がよく知られているのはキリスト教護教論、童話、SF、小説などによってであり、それらは今、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語など多国語に翻訳され、アンソロジーなども毎年新しく編まれている。1998年には各国のCSルイス協会が彼の生誕100年を記念する催しを行い、映画『シャドウランズ』〈BBC19851222日に放映されたドラマの映画化)は、彼の、ジョイ・デヴィットマンとの結婚生活を描き、彼を読んでいない人々にも彼を広めることとなった。彼の護教論をすでに時代遅れと見る者もいるが、やはり、彼の影響力はまだ強く、ますます広い範囲で読まれている。キリスト教国以外でも彼の人気は強い。この人気はどこから来るのか? 本論では彼の魅力は彼がキリスト教だけでなく、それより広い、実在の世界、客観的真理の世界を探求し、描いたこと、それを理性、道徳、そしてとりわけ想像力を駆使して読者の全人格に訴えかけるやり方でなしたことにあると示す。客観的真理があるという彼の信念はその全作品に貫かれている。

ルイスは神を、超自然的で絶対的な実在、われわれの時空を超えた存在として信じていた。また、天国も、客観的な真理の世界、実在の世界として信じていた。天国は彼にとって意味の世界であり、重要である。彼は客観主義者であり、彼の書くものはすべて宇宙の理解可能性を前提としている。それは、人間と宇宙両方の合理性を信じているということを意味する。なぜなら、それは、宇宙に秩序や合理性があるというだけでなくそれを認知する人間理性の妥当性をも信じ、それを前提としていることだからである。宇宙の合理性は近年まで西洋哲学の基本理念であり、ルイスは自分を古い西洋の伝統に属していると考えていた。

彼は20世紀を相対主義の時代と見ていた。そして、道徳などもかつては客観的な善悪の基準が信じられていたのに今では相対的な基準で物事が考えられていると憂えていた。そうした相対主義に対し、彼は、キリスト教を客観的な真理として論じた。また、道徳律やその他の価値基準についても、客観的な真理として擁護した。文学批評では、彼は、アレゴリーや神話の価値を主張したが、それは、それらを、真理の客観的な表現と見たからである。

彼は神をわれわれの日常生活を超えた超自然の存在として信じ、神が自らをわれわれの想像力や理性や道徳観を通して啓示すると考えた。そして、想像力や理性や道徳を通してわれわれは、他の真理をも知ることができる。

 彼のもっとも顕著な特徴は、彼が客観的な真理の世界を信じただけではなくそれを愛し、あこがれ、人間がいつの日か天国でその実在にあずかり、その実在を分かち持つ一部になれると考えていたことである。そこへいたる道が彼の作品すべてに通じるテーマである。

 

I

1章 想像力

 ルイスは自分を本質的に想像力の人間と考えていた。彼が自分のうちに見る想像力とは、たんに作家や芸術家のいわゆる「想像力」というだけではなく、この世や天国の形而上学的な真理を洞察し、伝える能力である。想像力は世界の意味を察知し、表現し、われわれが形而上の真理に参与することを可能にする。

 彼が想像力にそのような洞察力を見たのは、彼に天国の存在を信じさせるようになったのが、主として彼の美的経験であったことによる。その経験を彼は「喜び」(Joy)と呼び、自伝『喜びの訪れ』で語っている。幼少のころから、彼は度々、日常性を超えた、言い表しようのない憧れの気持ちに打たれることがあった。それは、日常のごくありふれたものによって喚起されるのだが、彼はその憧れの気持ち、「喜び」を、「それ自体どのような渇望よりも望ましい、満たされない渇望」と表現している。「喜び」の特徴は、1)鋭い渇望の気持ちである。 2)それがいつ現れ消え去るかは、受け手の自由にならない。 3)特に、振り返って見られたとき、途方もなく重要な経験に思われる。 4)渇望の対象はその直接の原因となったものではなく、その対象が何であるのか特定できない。5)渇望はこの世の何物にも満たされない 6)渇望それ自体が渇望されるようになる。

 「喜び」の探求は、若き日のルイスにとって非常に重要なものとなり、彼はこの、「喜び」に関わる精神生活を「想像力の生活」と呼び、他と区別した。そこで彼は「喜び」の源と満足を求めつづけた。その渇望を満たすものが見つかればそれがそのであろうと彼は信じ、様々なものを試した。その過程を彼は「渇望の弁証法」と呼ぶ。誤ったものは、最初いかに好ましく見えたとしても、じきに、その不充分さが悟られる。そうして、弁証法的に排除されるのである。この「渇望の弁証法」は、経験をデータとする点で非論理的に見えるかもしれないが、誤った対象を排除してゆく過程は体系だっており、論理的である。ここで重要な点は、ルイスが洞察力としての想像力に、理性と並び、真理を推し量る力を見ていることである。

 この弁証法で、ルイスは、セックスも、オカルトも、「喜び」それ自体すら、「喜び」の渇望の対象ではないと気づいた。そして、その後、主に論理的思考によって彼は、絶対者の存在を信じるようになった。そして、そのとき、神の自己啓示に出会うのである。神は彼に全面降伏を求めた。彼がキリスト教徒として神を創造主、世界の主と信じるようになったのはその時である。イエスを神の子と信じるようになったのは、その後だった。そして、奇妙なことに、回心後、彼はなぜか「喜び」に興味がなくなってしまった。それを、彼は、「喜び」が天国を指し示す指標のようなものだったのだと解釈したのである。「喜び」は道に迷ったときの指標としては重要だが、真の目的地に達する正しい道を見つけ歩き出した今となってはさほど重要ではないのである。

 このように、ルイスにとって、想像力はまず、満たされぬ渇望を通じて人間を神に導くものである。

 また、重要なことはルイスが、「喜び」を、天国への指標であるのみならず、天国の存在を証明するものと見ていたことである。この世の何物もその渇望を満たすことができないということは、これがこの世を超えた何物かへの渇望であるということであり、その何者かとは、天国であろう。ゆえに、天国は存在するに違いない、という論理である。

 ルイスの「喜び」に類似した経験は、英国ロマン派詩人たちにも共通するが、最も似ているのはプルーストの『失われた時を求めて』におけるマドレーヌ経験であろう。どちらの経験も鋭い喜びの感覚であり、前触れもなく突然、あたかも別世界からのように胸を打つ。そして、理解することもできないままに消えてしまい、とどめておくことができない。そして、ほんのわずかの時間しか続かなかったのに、非常に深い意味を示唆する印象を心に残すので、その意味の探求がその後受け手の重要な関心事となる。英国の詩人や小説家の中では、ワーズワースの「時の中の瞬間(spots of time)」、コルリッジの「喜び(Joy)」、ジェイムス・ジョイスの「顕現(epiphany)」などが、ルイスの経験に似ている。重要な違いは、彼らがみな経験の意味をこの世の中の領域内で解釈したのに対し、ルイスがそれを、彼をキリスト教に導くために神が与えたものととらえたことである。彼らの解釈は人間中心的であり、ルイスの解釈は神中心的と言える。その点、ルイスは『四つの四重奏曲』でのT.S.エリオットや『告白録』のアウグスティヌスに近い。

 ルイスの想像力論は、19世紀英国ロマン派の代表的なコルリッジの想像力論に共通するところが多いという点でも、ロマン派的である。想像力に洞察力を見るルイスの考えはコルリッジの「第一の想像力」の概念に通じる。ただし、ルイスはコルリッジと異なり、人間の想像力を能動的創造的な神の似姿(イマゴ・デイ)と見るよりはむしろ神が人間に自己啓示する啓示の受容器官と見ている。ルイスにおいてイマゴ・デイとしての想像力が言われていないのは、彼が人間のいのち・存在と神の存在との根本的な違いを意識しているからであろう。また、ルイスとコルリッジは、理性と想像力の関係のとらえ方も異なる。コルリッジは想像力が神の啓示を直接受け取るのではなく、理性が受けた啓示を理性を通じて受け取ると考えた。しかし、ルイスは、想像力自体が直接神の啓示を受けると見ており、想像力を理性の下位に置くことはない。理性と並んで神の真理を人間に見せるものと考えている。また、創造的力としてのルイスの想像力は、模倣的で神の創造に劣る点で、コルリッジの「第二の想像力」に通じる。

 ルイスは想像力を「意味の器官」と呼んでいる。「喜び」の経験で彼は、想像力がわれわれに真理を見せることを知った。そして、彼はさらに、美的経験にキリスト教の信仰生活への第一歩となりうる意味を見るようになっている。美は対象が対象であるというそれだけで賛美する無私の感嘆を教える。自然は栄光という言葉の意味を体感させてくれるものである。北欧神話は彼に「喜び」をもたらす媒体でもあったが、彼がキリスト教の神話を受け入れることを容易にしてくれた。とりわけ、彼は、美的喜びが神から来るメッセージであり、われわれの神の感覚を通して神や神の国を知らせるものと考えた。カントが美的経験を主観的ものと考えたのに対して、ルイスは美的感覚をその源たる神の真の客観性をあずかり持つものと考えている。

 ルイスが想像力を「意味の器官」という理由のもうひとつは、彼が、想像力を意味伝達に不可欠の器官と見たからである。彼はオーウェン・バーフィールドの影響で、すべての言語活動の根本には想像力を用いた比喩言語があると考え、理性的な思考を行う際にも、想像力は不可欠と見ている。また、理性には限界があり、洞察力としての想像力や権威などによって与えられたデータをもとに思考する点でも、想像力は必要である。宗教的な事柄を表すのにはことに想像力が必要である。なぜなら、人間は神がどのようであるかを実際に知ることはできず、類推によって想像するしかないからである。今日、比喩を真理を表す客観的な妥当性をもった手段として見る向きは少ないが、ルイスはそう考え、そのことは文学者としての彼には重要なことである。ルイスはアレゴリーやシンボルや神話の妥当性や真実性を信じた。彼の定義では、アレゴリーは肉体を持たないものを擬人化して表す試みであり、シンボリズムはわれわれの経験を超えたものを把握し表現しようとする試みである。アレゴリーは他のやり方では表現できないものの本質を明かす試みであり、そこで用いられる表象は恣意的なものではない。アレゴリーによって表されるものは物事や感情の真理や本質であり、いわば著者自身に押し付けられるものである。そして、神話は、ルイスにとって、アレゴリーよりさらに上のものである。アレゴリーは基本的には著者が知っているものを表すが、神話の意味は完全に著者の手を超えている。

 ルイスは同年代の20世紀を科学万能主義の時代、存在するものはすべて科学で証明しうると一般の人たちが考えている時代と考えていた。けれども、彼が指摘するのは、科学は物理的事実を知るためには重要で役に立つが、包括的真理は科学だけではなく形而上学や神話なども用いて考えなくてはならないということである。その点、中世の神話的宇宙観もひとつの真理を表していたと言える。物理的事実ではなくとも、宇宙の意味を表しているからである。そして、異教の神話にもまた、ルイスは、キリスト教を予示する真理があると見ている。そして、神話とは何かということについては、彼は『批評の実験』で、読者に与える効果によって定義し、神話とはまず、文学を超えたものであり、読者を思考の永遠の対象に誘うもの、そして、読者が決して自己投影しない話とした。同じ話が読者によって神話になったり神話でなかったりする。なぜなら、同じ本でも効果は人によって異なるからである。

 シンボリズムとサクラメンタリズムについてのルイスの考えは彼が「転位」と呼ぶ概念によって説明される。表される物と象徴の間に明らかな不連続がある場合はシンボリズムであり、表されているものが象徴のなかに何らかの形で存在する場合がサクラメンタリズムである。いずれの場合も、より豊かな次元のものがより貧しい低次のレベルで表される時には「転位」による。低次の次元のものがひとつで高次の次元のものいくつかを転位して表さざるを得ない。たとえば、三次元のものを二次元の紙に描く場合、現実の三角形も、とんがり帽子も、三角形によって表されうる。これは、神学的に意味がある。なぜなら、おそらく二次元に住んでいる人が転位されたものしか知らない三次元の実際を想像できないであろうのと同様に、われわれが神の国やわれわれの天国での精神生活を理解することはできないであろうが、神の国はこの地上の世界よりも豊かなものであるということだけは、言えるであろうからだ。そして、サクラメンタリズムの考えから、ルイスは、われわれの地上での生活は、すでに天国の生を一部すでに中に持つことによって映していると考えている。

 

2章 理性

 ルイスは自分を「理性主義者」と呼んでいる。理性はルイスにとって2つの意味で重要である。第一に、客観的、包括的真理の探求に不可欠な論理的思考の器官として。第二に、その、非‐物質的な性格は、超自然の絶対理性なる神の存在を推し量るデータとなる。そうした意味で、理性は、直接に真理を洞察するものでなくとも、やはり直接に真理と結びついている。ただし、カントが『実践理性批判』で「理性」と呼んだ、アプリオリに道徳律を知る直感力は、ルイスは「道徳」と呼んで理性とはしていない。また、コルリッジが「理性」と呼んだ、宗教的な真理への直感的洞察力は、ルイスは想像力に帰している。

 神の存在と神の奇跡の蓋然性を論じる際に、ルイスはまず「自然主義」、つまり、彼の定義では「自然以外には何も存在しないという考え」を論駁する。彼は唯物主義の矛盾をついて、唯物主義は人間の理性を頭脳の中の科学反応で説明しようとするが、もしそれが正しいとすれば、そのような科学反応によって得られた唯物主義を正しいなどと信じることは難しい、そして、自然主義も同様の理由で信じられない。彼の論点は、もし人間の理性が、完全に自然主義的な観点から説明できるなら、つまり、もし、理性が物資界の一部であるならば、それは、非‐理性的な現象であることになり、自然についての正しい理論さえも立てることはできないであろう、ということである。彼はまた、部分は全体を理解したり判断したりすることができないと考えており、それゆえ、人間の理性は自然の一部ではないとする。

 そして以下のように帰納して彼は、絶対的な理性が存在するとし、それを神と同一視する。ある人の理性は他の人の理性的思考に拠っていても、理性的でありうる。第二の人の理性も第三の理性を拠り所としていても、やはり理性的と言える。しかし、果てしなくそれを続けていっても、その理性的思考が正しいとは証明できない。ルイスは、遅かれ早かれ完全に自立した理性の存在を認めざるを得ないことは明らかであると言う。そしてさらに、その絶対的に自立した理性が永遠のものであると言う。何かがそれを存在させ始めたのなら、その何かに依存することになるからである。しかも、不断に存在していた。もし、一度存在しなくなれば何かによって、また存在させられたことになり、その何かに依存するからである。ルイスは人間の理性が、<神性を帯びている>のであって、<神の>理性ではないと言う。人間理性が神の理性と異なり身体的な状態に影響もされ、間違えることもあるからである。

 こうして神の存在を論じたあと、彼は、キリスト教と競合すると思われる二元論、汎神論、「生命の力」哲学、他の一神教などを論駁してゆく。二元論について言えば、彼は、二元論には倫理上の善悪二元論と、形而上学上の神と自然の二元論があると言う。いずれの場合にも、対立する二者が両者ともすべてを包括するものではありえない。そして、もし両者が並んで存在するのであれば、実は両者ともがそれを含むより大きなひとつの体系の2つの部分であることになる。ゆえに、二元論は成りたたない。また、彼は自然と超自然との関係が非対称的であり、その例は人間であり、人間は理性に肉体的要素が従うときうまくいくがその逆は成り立たないと指摘する。そして、神と自然との関係も同じに、自然が神に従う方がうまく行くであろうと推論し、それゆえ、自然が神を造ったのではなく神が自然を造ったと考える方が理にかなっている、と考える。

善悪二元論が成り立たないのは、善悪が同等ではなく、そもそも善悪を図るのに、善が基準とされているところから分かる。ルイスはアウグスティヌスに従って、悪を<善の欠如>あるいは歪曲と考えた。

 また、汎神論が不充分なのは、それが、ルイス自身が出会った絶対的に強い人格的な神を示さないからである。彼は、概念的非人格的な神を奉じる宗教をすべて退け、それゆえ汎神論も退ける。しかも、汎神論が不充分なのは、それが、世界や人間存在の根源的土台や意味といった、宗教の要となる究極的問いに答えないからである。今日、世界の意味について確固とした答えがあると考えない哲学者も多いが、ルイスは、客観的な答えがあると考え、宗教にそれを求めたのである。「生命の力」哲学についても、ルイスの異論はそれが神の力強い人格や人間に対する影響や力を理解できていないところにある。「生命の力」哲学を信じる人々のように創造的な力を信じるなら、それが実際「神」であることを知るべきである。

 ルイスは、すべての発達した宗教に共通する3つの点をあげる。1)信徒のヌミノーゼ体験 2)アプリオリに与えられる絶対的基準をもった道徳律 2)道徳の与え手・擁護者と、ヌミノーゼ的な力との同一視、である。そして彼は、その3つの他に、キリスト教はもうひとつ独自の特徴があると指摘する。それは、イエス・キリストの史実性である。イエスが自分を神の子と言ったことは、ユダヤ教徒の間ではあまりに衝撃的でひどいことであったろうと彼は述べる。ユダヤ人にとって、神とはこの世を超絶した絶対的創造主であり、人間とは無限に異なった存在だからである。ゆえに、イエスについては、3つの見方しかできない。彼が狂気であったか、悪魔であったか、あるいは真に神の子であったかである。しかも、彼が人の罪を赦す権威をもつと言ったことは、彼が真に神の子でないならばとんでもないことである。なぜなら、人は自分に対してなされた罪や害を赦す権利はもつが、他の人が蒙った危害を、傷つけられた当人の意見も聞かずに赦すことは道理に適わないことだからである。しかし彼が神の子であった場合は、すべての罪は神の法を破り神の愛を傷つける行為であるから、彼は正しい。ここでも、イエスは狂人か悪魔か神の子かのどれかである。そして、ルイスは言う。イエスが狂人や悪魔でないことは明らかに見える。それゆえ「どれほど奇妙で恐ろしくありえないことに思われようとも、彼が神であったし今でも神であるという見方を受け入れざるを得ない」と。

 ルイスはもうひとつ、神の受肉の教義が正しいと考える理由を、次のようにあげている。音楽や文学との類推によって、交響楽や小説の主題が作品の他の部分をすべてまとめあげるように、受肉ももし真ならば自然すべてを照らすはずである、なぜなら、神の受肉というような大きなことはすべての被造界の中心的出来事でしかありえないからである。そして、そうした前提にたって、彼は、自然の中の4つの原理が受肉にその原型をもつことを発見した。それらは、「人間の複合的性質、下降と再上昇のパターン、選択性、代償性」である。人間の複合的性質は、人間の中にある理性的性質である。これはある意味で超自然であるが、肉体という自然と結びついている。下降と再上昇のパターンは死と再生のパターンである。選択性は物質が空間を占める割合がいかに少ないか、生物のいる惑星がいかに少ないか、種や精子のうちいかにわずかなものしか実を結べないかを見れば分かる。キリスト教では、アブラハムが最初に神に従うように選ばれた。ユダヤ民族は選ばれた民であり、マリアはイエスの母となるように選ばれた。代償性は罪ない者が、罪のある者のために苦しむという、キリスト教の根本的原理であるが、これは、自然全体の相互依存と相互犠牲の体系に見られる。それゆえ、受肉は自然の主題として事実起こった真実だと思われる。

 ルイスは自由主義神学に反対である。自由主義神学は奇跡を否定し、イエスを人間の道徳教師と見る。それに対してルイスは、奇跡が起こらないと言うためには自然の破られない規則性が前提とされなければならないが、その前提がそもそも、全宇宙に計画性があるという信念を含意し、それは、規則の与え手としての神を前提とするものであると指摘する。ルイスは、奇跡を信じることは超自然の神を信じることの当然の帰結ではないが、自然主義とキリスト教の間で選択をせねばならないことはたしかであり、そこではキリスト教を信じることのほうが理にかなっていると考えた。そして、そのキリスト教が受肉の奇跡を教えているのであり、自然と歴史の中心的主題でもある特色をもつ受肉を、彼は受け入れ信じるのである。

 今日、神話やドグマを理性的には受け入れがたいと見る向きが多いが、それに対してルイスは、キリスト教の神話やドグマを信じるだけではなく、理性的にも受け入れられると考える。理性は与えられたデータをもとに論理的思考をする器官であるが、そのデータは必ずしも科学的データである必要はない。形而上学的データや神学的データもありうる。科学は実証的に自然界の物質のみを扱うので宗教的、超自然的なものを無視せざるを得ない。彼は、形而上学的神学的知識は神話や教会で権威を与えられたドグマによって与えられると考えた。神話は人間に対する神の啓示であり、論理的に説明できなくとも真理性が減じることはない。啓示による知識は論理的というよりも、経験的な知識だからである。

 

3章 道徳性

 道徳からのルイスの護教論は、人間の道徳的良心から、その与え手としての絶対者なる神を帰納する形をとる。これは、20世紀の相対主義に対してルイスの客観主義者としての面を良く表している。キリスト教の弁証論であるのみならず、道徳律の客観的真理性を論じるものでもあるからだ。彼はまず、道徳律が普遍的で客観的であることを論じる。道徳律は個人の自由にならず、論理的に説明し尽くすことすらできない。彼は、道徳律とは「われわれの誰かが造ったものではなく、われわれに押し付けられてくるもの」であると見る。そして、その法を、われわれの良心を通じてわれわれに与えた何者かがいるはずだと考える。それは必ずしもキリスト教の神ではないかもしれないが、少なくとも善なる統治者であることは確かであるとし、それをルイスは神と同一視する。彼は言う。「神は道徳律に従うのでもないが、神が道徳律を創ったのでもない。」道徳律はそれ自体絶対的で、自立しているからである。カントと異なり、ルイスは道徳律の客観性を信じる。そして、善は神の意志に沿うので善なのか、それとも、それが善なので神が意志するのかという問題には、神の意志は神が意志したことというそれだけの理由でも善であるが、同時に、善なることはそれが善であるから神の意志に沿うのだと答えている。道徳の完全な自立性と客観性を神の善とともに信じる彼にとって、二つの命題は二者択一ではなく、ひとつの事柄の二つの側面なのである。

 彼は、道徳的良心と理性がおのおの孤立しているとは考えていない。道徳は理性的に把握できると考えた。一方、道徳的行為は単なる感情の問題ではないが、感情にも左右されると意識していた。

 悪の問題については、彼は、悪の存在が神の善性を信じ弁じようとする者にとって最大の問題のひとつであると知っていた。すなわち、もし神が善であれば神は被造物を完全に幸せにしたいと望むであろうし、もし神が全能ならばそうできるであろう。しかし、被造物は幸福ではない。それゆえ、神は善性か力のどちらか、あるいは両方に欠けるのではないか?−−この問題に対しては、ルイスはアウグスティヌスのいわゆる自由意志論で答える。神は人間に自由意志を与え、自由に神に従えるようにした。自由に神に従うほうが強制的な従順よりも良いからである。しかし、人間はその自由を濫用して神に背いた。神に従うよりも自分自身が自分の主でありたいと望んだのである。これが人間の原罪であり、ここから多くの悪が起こる。神は全能であるがこの堕罪をさしとめることはできなかった。なぜなら自由意志を与えておいて堕罪をしないように縛ることは論理矛盾であり、ナンセンスでさえあるからである。神の全能とは、論理的に可能な限りすべてのことができる力であり、ナンセンスが行えるような力ではない。このように、彼は、世界に悪があっても神は善であると主張している。さらに、ルイスは、われわれが世界を不条理で残酷だと思うという事実が、われわれが世界を不条理と判断する基準の存在を示し、結果、世界は完全には不条理ではないということを証明すると指摘している。

 

4章 ルイスの文学理論

ルイスはしばしば現代の文学理論や文学の傾向にはっきりと反対の姿勢を示している。とくに、現代の思想的動向を「内面化の動向」と見て、それに批判的であった。彼にとっては、文学とは作家の人格や人間のありのままの生活を表すものではない。文学は真に役に立つものを教え、栄誉に値するものを敬うことを教え、喜ばしいものを味わうために存在する。われわれは、自分の殻から出て自分自身を広げるために本を読むのである。神話やアレゴリーや童話は、人間の自己中心性を促進する「内面化」への防衛としてもルイスにとって重要であった。そして、われわれが読書をするときに重要なのは、本を自分のために用いようとせず、本に完全に自分を明け渡すことである。そして、作家についても、彼は、人間中心主義に反対する。作家の意図は、重要ではあるが、本の意味は必ずしも作家が意図したものと同じではない。そして本の批評は本についてであって、作家についてではないのである。

 作家の独創性についてのルイスの考えは、現代の大方の見方と対照的である。彼は、真の独創性は神にだけ属するものであり、被造物の最高の善は被造物としての、つまり、派生的な、善であるとする。彼は、昔の詩が愛は甘く、死は苦く、徳は美しく、子どもや庭は喜ばしいものである、というようなある種の決まりきった主題を繰り返すことによって「楽しませることで教えてきた」と指摘し、そのような詩を捨てた現代に憂慮を示している。

 

5章 ルイスに対する批判とルイスの文体

 ルイスの批評家は、しばしば、彼の護教論に矛盾や不充分さや論理的欠陥を見る。たとえば、G.E.M.アンスクームは1948年に、彼の『奇跡』に使われた鍵となる用語が曖昧であると批判している。キャスリーン・ノットは『王様の衣服』(1958)で、ルイスの教義主義的面を批判している。そして、ジョン・ビバースルイスは『C.S.ルイスと理性的宗教の探求』(1985)で、ルイスの護教論の3本の柱となる渇望からの議論(想像力に基づいた議論)、理性からの議論、道徳からの議論をひとつずつ批判している。そのような批評家たちがルイスに見る欠陥のいくつかは、彼の側の真の誤りからきている。しかし、ルイスの場合、しばしば厳密な意味では論理的ではなくとも、彼の人間観や言語観からきているおそらく意識的な擬似‐論理や修辞法であって、単なる欠点としては片付けられない効果をあげていることもある。ときには、彼の議論が十分な論証や証拠に欠けるように見えるときに、それが、世界の理解可能性や合理性を信じる伝統的な西洋思想を、公理的に受け入れているためである場合もある。また、彼が理性の限界を意識しており、ドグマや洞察力としての想像力をも真理を把握するための正しい手段と考えていたことも重要である。さらに、彼は議論において感情的な言葉を多く用いるが、これは、彼が、人間が理性的なだけでなく、情緒的でもあることを知っていたからである。彼の議論はわれわれの人間性全体に働きかけてくるのである。彼の確固とした信仰と想像力を用いた訴えによって、読者は彼の議論を知的に受け入れるだけでなく、実在の世界、真理の世界が真に存在すると感じ、いつの日かその世界に行くことができると望むことができるのである。そのようなことは、ビバースルイスやノットが要求するような理詰めの議論では出来ないであろう。

 

II

1章 ルイスの小説−−実在の世界への参与

彼の著書すべてにおいて、彼の主な関心は絶対かつ永遠の真理と実在の世界にある。物語を書くことは、彼にとって真理・実在の世界への積極的な関与の道であった。

彼の物語のもっとも顕著な特徴は、第一に、道徳的要素と楽しみを与える要素がひとつに調和して存在することである。第二に、主題が常に、善と悪の葛藤や対照であること、第三に、『悪魔の手紙』をのぞいて彼の創作は皆、神話的な枠組みで、別世界を舞台に描かれることである。これらの特長はすべて、真理・実在を描こうとする彼の要求から来ると言える。ルイスの考えではキリスト教も、道徳的善悪の基準も、神話も、すべて究極的な形而上学的真理に関わるものだからである。ルイスは、誰でも自分の信じる世界観を表すのを喜ぶものだと言う。キリスト教の神話的世界観はルイスにとっては文学的な刺激であった。彼はその世界観を愛し、惹かれたので、描いていたのだ。だからこそ、彼の書くものは、常に道徳的善悪に関わっているにもかかわらず、退屈で教示的にならないのである。善悪道徳は、彼があこがれた真理の世界の一部であったのだ。

 彼は、自分の創作が常に心に浮かんだイメージから始まると言っている。最初には何も、道徳的なものはない。道徳は後から入り込む。彼は、自分の書いたものが、楽しいだけではなく役に立つことを望むのだが、それは、料理に栄養とおいしさの両方を求めるのと同じなのだと言う。

 そうして書かれた彼の創作は、説教や訓戒抜きで読者に、おのずと善を志向させる。それは、彼が、真理は究極的に善であり、善は喜ばしく悪より強いと信じ、その確信を想像力を通して読者に伝えるからである。読者は真理・実在の世界の香りを味わい、その世界へのルイスの希望と憧れを分かちもつようになる。

 

2 『天国と地獄の離婚』(1946)

  『天国と地獄の離婚』は、夢物語の枠組みで書かれ、ルイスを語り手とする。何人かの幽霊が煉獄から乗合バスで天国のはずれに着く。そこでルイスは幽霊たちが彼らを迎えに天国から来た聖霊と出会うのを目撃する。しかし、何らかの理由で、ほとんどの幽霊たちは、また、煉獄に帰ることを選ぶのである。

この小説で、ルイスは、人間が自分の悪い部分を即座に切り捨てて地獄よりも天国を選ぶことの重要性を訴えている。ここでは、天国と地獄の間の選択は、必ずしもいわゆる「善」と「悪」との間でなされるのではなく、神とこの自然のなかの、それ自体は善でも悪でもないものとの間でなされる。自然のものはすべて、それ自体善でも悪でもなく、神との関係において善になったり悪になったりするのだ。ただし常に悪なのは、自己欺瞞、あるいは、傲慢の罪である。しかし、愛や神学などのように、通常善と思われているものも、神より重要視されるなら、天国への妨げとなる。

『天国と地獄の離婚』で、ルイスはまた、天国と地獄について彼が抱くイメージを描いている。「天国は実在そのものである。」天国は強く、重く、硬く、明るく輝き、大きく、平和と幸福に満ちている。一方、地獄は弱く、影のようで、ほとんど存在しないと言ってよいほど小さく、惨めさと不平で一杯である。そして、この作品では、救いに必要なこととして、天国を望むこと、すべての地上的愛や執着と共に自分の自我を明け渡すこと、そして、神の慈悲を求めて祈ること、が示される。そうしてルイスは天国ではなく地獄を選ぶ人々を数々描くが、そのように地獄を選ぶ人々は影のような幽霊として描かれ、ルイスの強調点は罪や堕地獄ではなく天国を描くことと、天国を選ぶ者すべてに天国は開かれているということにある。

 

3章 『悪魔の手紙』(1942)

これは、悪魔スクリューテープが甥のワームウッドに人間を誘惑して地獄に落とす手管を助言するという設定の書簡集である。中世の道徳劇と共通する形式であるが、違いは、本書では被誘惑者に善の助言をする守護天使がいないことである。けれども、その助言がないことで、読者がその天使の立場に立って積極的に物語に関わることとなる。

 この物語で、ルイスは悪魔の目を通して人間の性質や弱点を描き、同時に、悪魔に何が見え何が見えないかを示す。それによって、悪魔とはどのような存在なのかを描いている。時にスクリューテープは、悪魔の特徴的な弱点をワームウッドにもらすが、それは、彼が人間に知らせてはならないことである。悪魔どうしの関係も示される。たとえば、悪魔たちにとっては、愛とは文字どおり、相手を「食べてしまいたい」ほどに感じる、相手を食い物にするものである。

 ルイスの著書すべてに共通する悪の性質は、歪曲性と神の前での無力さであるが、これは、この作品でも同様である。スクリューテープは人間に対して何も積極的な悪を働くことが出来ない。彼が出来るのはただ、神が創った善を歪曲するか、隠すかして、人間を神から引き離すことだけである。彼は、善を理解することすら出来ない。

人間については、ルイスは、天国で神の実在界に参与することも出来る一方で地獄落ちの可能性ももつ両義的性質を示している。理性や想像力や道徳は人間に神の国の真理を示すが、歪曲せられて天国への妨げとなることもある。たとえば、想像力が誤ると、教会員たちに対する間違った先入観をつくりあげ、そこから、実際の彼らに出会ったときの失望や、さらにキリスト教全体に対する失望を引き起こすことになる。現代の人々の想像力の中では、奇跡は起こりそうにないことに思われ、神の受肉も起こりそうになく思われがちである。理性が歪曲させられるのは、ことに、現代の相対主義によってである。道徳や人間相互の愛は、ことに、自己中心性や自己欺瞞、そして、人間の原罪の核である傲慢の罪によって歪曲される。傲慢の罪に対する最大の防御は、ユーモアの感覚である。それは人間に自分自身を一歩離して冷静に見る余裕を与え、自分の傲慢さをばかばかしいものとして笑うことが出来るようにさせるからである。自分自身の傲慢さを笑うことが出来れば、もう、傲慢ではない。

「悪魔の演説」 (1960)は『悪魔の手紙』の続編で、スクリューテープが誘惑者訓練所の若い悪魔に向けた演説である。ここでは、悪魔に好都合なものとして現代民主主義が指摘されている。内容的にはルイスの現代民主社会批判である。民主主義は、正しくは政治の一形体で、人間は皆平等に扱われるべきであるという信念に立つ。けれども、この政治理念は今や人間は皆等しいという事実をさすと考えられるようになった。これは、ルイスが見たところでは、より優れた者に対する嫉妬を公認することに通じ、優れた者の出ない社会を作り出す。また、ルイスが特に憂えているのは、現代社会での個人性の喪失である。この喪失は深刻である。悪魔は言う。「真の目標は、個々の個人の破壊である。なぜなら、救われたり地獄に落ちたりするのは、個人個人だからだ。」

こうして、『悪魔の手紙』と「悪魔の演説」で、ルイスは、現代の相対主義、唯物主義、誤った民主主義を批判する。しかし、これらは単なる訓戒の書ではない。ワームウッドが誘惑していた若者は結局、悪魔の指をすり抜けて救われてしまう。それを責めるスクリューテープは、不用意に、人間が結局は天国に向けて造られていること、天国の至福は悪魔には理解できないことを暴露してしまう。

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5章 SF三部作(1938-1946): 善と悪との闘争

I

 『沈黙の惑星を離れて』(1938)、『ペレランドラ』 (1944)、『かの忌まわしき砦』(1946)は、ルイスのSF三部作、あるいは主人公エルウィン・ランサムの名をとってランサム三部作と言われる。中心主題は善と悪との闘争である。3部作が『沈黙の惑星を離れて』から『かの忌まわしき砦』に進むに従って、善と悪との本質がますます明らかになってくる。同時に、個々の登場人物が実在の世界の真理に向かう救済のテーマも、ますますはっきりとしてくる。

II 『沈黙の惑星を離れて』(1938)

 この話でランサムは、昔の同級生デヴァインとその同僚ウェストンにさらわれて火星に行く。火星は、マラカンドラと呼ばれている。そこでは、3種類の理性をもった生物が住んでいる。彼らは地球の人間と異なり、堕罪を犯していない。この本で、ルイスは、罪を犯していない生物と人間を対比させて、人間がいかに原罪の自己中心性に犯されているかを示している。通常徳とされるヒューマニズムなども、悪であると分かる。権力や所持品やセックスなどに対する過度の執着は、地球ではありふれたことだが、マラカンドラでは、誰も過度の欲望を持たない。自己の欲望に対する過度の執着は自己に対する執着であり、原罪の表われである。欲望への執着がないことは、自己に執着しない無垢のしるしである。また、マラカンドラの人々は何も、死さえも恐れない。人間は人類の保存のためにヒューマニズムから火星を植民地化しようとするが、マラカンドラの人々には、ひとつの種を永続させることなど考えもよらない。すべての世界が終わりを迎えることを、神の道として受け入れている。

マラカンドラは悪がない楽園なので、「悪」を意味する言葉さえない。最もそれに近いのは「曲がった」である。これは、神に対する曲がった関係が悪の本質であることを見せている。また、この作品では、ルイスは、悪が本質的に愚かなことを、笑劇的場面で描いている。

 『沈黙の惑星を離れて』では、地球が今、ほとんどの人々が気づかぬままに地獄の原理による思想に支配され、天国の領域の外にあることが暗示されている。しかし、地獄の支配が永遠ではないことも、暗示される。

III 『ペレランドラ』 (1944)

 ルイスのSF三部作の2番目『ペレランドラ』は、「守られた楽園」あるいは「失楽園の回避」の物語である。創世記の、エバの誘惑物語やミルトンの『失楽園』が下地になっていると見られる。ランサムは天国から呼び出され棺桶に入れられて金星に運ばれる。金星はまだ若い惑星であり、そこでランサムはそこの最初の女王であり、最初の母になるべき女性と出会う。そして、その女王が悪魔に誘惑されるのを目撃するのである。彼は、悪魔と戦い、女王を堕罪から守るのに成功する。

この物語では、悪魔が誘惑を試みる戦法を通して、またもや、悪の歪曲性が示される。悪魔は、まず、論理的議論で女王に神の禁止を破らせようとし、その後、想像力を通して彼女を動かそうとする(これは、人間が理性と想像力との両方で成り立っているというルイスの見方の表れである)。そして、悪魔の誘惑は、そのどちらも真実の歪曲からなっている。彼は神の禁止を受け入れるように見せて、禁止を破る話を作ることなら禁止されていないと言う。神への不従順はただの可能性だが、世界は事実と可能性との両方から成り立っていて、神はその両方をわれわれが知ることを望んでいる、と言うのである。しかし、実際は彼女にとって不従順は可能性ではなく単にありえないことなので悪魔の論理は最初の禁止命令の部分だけ正しく後半が誤ったねじれた論理である。そのように、いくつかの曲がった論理によって誘惑を試み失敗した後、悪魔は女王の想像力を通して彼女に自己賞賛の念を起こさせ、傲慢の罪を犯させようとする。この誘惑は成功しそうになり、ランサムは、ついに体を持って悪魔と戦い、相手を殺し、誘惑をやめさせるのである。

この作品でルイスはまた、悪が究極的に惨めで善の前では無力なことを示す。また、いわゆる「幸福な堕罪」の見方を否定して、悪からも善は生み出されるが、物は曲げられるために作られるのではない、と主張している。また、神の意志とその意志を遂行する人間の自由意志の、神学的問題についても答えている。ランサムがペレランドラを守ることが自分の責任であると感じたとき、彼はその勤めが単に神に押し付けられてきたとは感じなかった。信仰において、彼の意志と神の意志はひとつであった。摂理と自由はひとつなのである。

IV 『かの忌まわしき砦』(1946)

ランサム三部作の最後『かの忌まわしき砦』は、地球を支配しようとする悪の力とそれを阻もうとする善の力の闘争を描く。主人公は若い夫婦マーク・スタドックとその妻ジェインである。彼らは人間でありながら、超自然的力の戦いに巻き込まれ、夫婦でありながら、悪と善の軍に分かれて加わることになる。マークは悪の力の要塞 NICEに、半ば囚われるようにして加わり、ジェインはランサムのもとで働くセント・アンズの人々に加わる。闘いの後、そして、最後には超自然の奇跡的力の介入によって NICE の組織は全滅し、悪は敗北する。この作品で、ルイスは真の科学ではない「科学万能主義」を批判し、それが人間を物質的な対象として扱うことに通じ、「人間廃絶」につながると示している。この本での悪は、忌まわしさ、善の前での無力、虚偽、自分以外の物を楽しむ能力の欠如、自己中心性などが顕著である。苦難の問題、とくに代償的苦難の問題もまた扱われる。

V神話

この三部作は、中世の神話的世界観を多分に反映している。三部作の天界は悪に汚染されておらず、それゆえ、精神界と自然界との疎外も起こっていない。依然、神話的世界のままである。そして、ルイスは、これが、原初の、神によって意図されたしかるべきあり方だと示唆している。

VI結論

この三部作で、ルイスは特に、悪の歪曲生徒無力さを強調している。3部作でのルイスの悪の扱い方はあまりにも観念的で現実の否応ない悪の激しさを見せていないと批判されるかもしれない。しかし、これは、真理の世界では悪は究極的に善より弱く、敗者であり、単に善の歪曲に過ぎないという、ルイスの確信の表れなのである。

 

5章 「ナルニア国年代記」(1950-1956)

I

1950年から1956年にかけて、ルイスは一連のフェアリーテールを書いた。「ナルニア国年代記」である。これは、『ライオンと魔女』(1950)、『カスピアン王子のつのぶえ』 (1951)、『馬とその少年』 (1954)、『朝開き丸東の海へ(1952)、『銀のいす』(1953)、『魔術師のおい』 (1955)、そして『最後の戦い』 (1956)からなり、ファンタジーの国ナルニアの創世記から終末までを描く。創造主はアスランという名のライオンであり、彼は「世界の王で、海の向こうの偉大な皇帝の息子」と呼ばれている。そして、創造主であるのみならず、救世主でもあり、ナルニアの終末の裁き手でもある。キリスト教三位一体の、父と子と聖霊すべてに当たる。この世界では、3つの神学的徳とされる「信仰」と「愛」と「希望」がことに重要である。

II 信仰

 

  「ナルニア国年代記」では、アスランに対する信仰は、アスランの存在を信じることと、アスランに積極的に自己を委ねる信頼との両方を含む。そして後者は意志を含む。ナルニアでは、信じる意思を持つことが求められるのである。そして、アスランに従い、アスランの意志に従って行動する意志をも求められるのだ。他の邪悪な神を善と信じて礼拝してきた者が、その信仰をアスランによって、実は善なるアスランへの信仰であったと認められるということもある。

III

 ルイスは、神への愛は、神の意志をおこなう意志を伴うと考えた。それゆえ、ナルニアでは、信仰と愛とは切り離せない。

IV 希望ナルニアへ、そして、アスランの国へ

 第3の神学的徳は「希望」である。これは、神の国への希望、復活の命への希望である。『魔術師のおい』での創世記から、『最後の戦い』での終末まで、われわれはアスランの摂理によって彼の御国にいたるカイロスを見る。われわれの世界でのキリストの誕生から終末までの時期に当たる時期にはナルニアの人々はアスランを信じたり、信じないで離れていったりする。アスランはナルニアから別の世界に2回扉を開く。『カスピアン王子のつのぶえ』でと、『最後の戦い』でである。しかし、扉をくぐるかどうか自由に選べるのは『カスピアン王子のつのぶえ』においてだけであり、終末には、人々は裁かれ、扉の横の暗闇の中に消えてゆかざるをえない者もある。そして、意味深いことは、裁きが、審問によるのではなく、アスランと顔をあわせるというそのことだけでなされることである。うそ偽りの入る隙はない。けれども、アスランを愛し、アスランの国にあこがれる者は、救われる。アスランの国は、アスランの民の真の故郷であり、そこへ至る道は、すべての世界のいたるところにある。われわれの世界にもあるのである。

V 不信

 ナルニアには2種類の懐疑が描かれている。「開いた懐疑」と、「閉じた懐疑」と言える。小人のトランプキンは開いた懐疑の持ち主である。彼は最初アスランも、また、奇跡的な救済も信じなかったが、納得のゆく証拠を見たときには信じるようになった。そして、後にアスランに会ったときには、その権威を即座に悟って、アスランに自らを明け渡した。

一方、他の小人たちの中には「閉じた懐疑」をもつ者があり、彼らはアスランを受け入れようとせず、アスランを拒否すると同時に、アスランから来るすべての良い物を味わう能力も失ってしまう。

「ナルニア国年代記」では、アスランの善性への懐疑の問題もある。この懐疑は、主に、アスランが「飼いならされたライオンではない」という認識から来るものである。ルイスは、神が常に、善であるのみならず恐しいものであると、主張している。その恐ろしさは悪ではなく善なる神の恐ろしさである。

VI 「ナルニア国年代記」における悪

「ナルニア国年代記」の悪の、最も顕著な特色は、傲慢と自己中心性である。これは、しばしば良い物や良い人々からの疎外を伴う。また、悪人は、善悪を区別することも理解することもできない。善い人が両方分かるのと対照的である。悪は常に善より弱い。また、この物語でのもう一つの悪の特徴は、言語能力の喪失である。ルイスは言語を言葉の与え手、つまり創造主アスランと、被造物との正しい関係の象徴として用いている。

VII ナルニアにおける苦難の問題

ルイスは『痛みの問題』で人間の苦難を「神のメガフォン」と解釈している。人間がこの世の幸福に甘んじて神から離れるのを防ぐ警告の音、注意を神に向ける呼びかけの声である。これは、『朝開き丸東の海へ』でのユースタスに当てはまる。痛みは彼に、自分の自己中心性を反省させ、彼を善い人間に変えた。

ルイスは、アウグスティヌスに従って、悪や苦難の源は自由意志の濫用による不服従の罪にあると考えた。しかし、ナルニアでは、彼は、エイレナイオスの見方に従って、苦難は人間の精神的成長に不可欠の試練であるという扱いも取り入れている。

 

6章 『われわれが顔を持つまで:語りなおされた神話』 (1956)

-----ルイスの最後の創作:実在の獲得

彼の最後の小説『われわれが顔を持つまで』は、アプレイウスの『変身物語』にあるアモールとプシュケの神話の翻案である。プシュケの代わりに、長女である姉をオリュアルと名づけて主人公としている。この小説で、ルイスの主な関心は、善と悪とを兼ね備えたごく普通の善意の人間の救いの問題にある。神ならぬ人としての限界によって、オリュアルは神の宮廷が見えず、その結果、プシュケの夫が何かよこしまな男か悪鬼であって、プシュケにありもしない宮廷を信じさせているのだと思い、プシュケに無理やり夫を裏切らせる。そして、この夫が真に神であって彼女は妹の結婚の幸福を壊したのだと啓示された時、彼女は、神が不正に真実を隠して自分が愛する妹を破滅させるように仕向けたのだと考えた。オリュアルは自分がプシュケを無私に愛していると信じていたのだ。けれども、彼女は、神を告発するうちに、自分のプシュケへの愛は自己中心的で、所有心に満ち、嫉妬深かったと気づく。この気づきと改悛によって、彼女は「真の(リアルな、実在界のあるべき姿の)女性」に生まれ変わる。彼女は、神に敵対していたにもかかわらず救われた。彼女が神を責めるという行為のうちに、神に誠実に顔を向けたからである。その救済の過程において、ルイスは、ことに強く、神の正義と、その正義を超える神の愛への信仰を表している。

 

結論

ルイスは、自分が、科学万能主義のキリスト教後の世界に住んでいると思っていた。けれども、実際、今日の世界は彼が思っているほどキリスト教に敵対的ではない。多くの人が、人生において堅いよりどころを求めており、十分な根拠さえあれば、キリスト教を受け入れたいと考えている。ルイスは、そのような人々に、世界は不条理ではなく、意味があると示し、堅固な実在である天国を垣間見させ、確信を与えている。彼は、キリスト教を超えて実在の真理を求める読者に答え、意味を持つ。

彼は想像力、情緒、意志、理性すべてを通して読者に全人格的に訴えかける。読者は、彼の実在の世界への彼の議論を受け入れるだけでなく、それが真に存在すると感じ、そこにいつの日か自分が行くことができると、望むのである。読者を天国への希望にまで導く彼の力は、彼の成功の大きな理由である。