悪の問題にむかう――神学と文学における考察に関する試論

本多峰子

Encountering the Problem of Evil—an essay on theodicy and literature concerning evil

                                                             Mineko Honda

 

<序>

 世界にはなぜ悪があるのか?――これは、古来人間が問いつづけてきた大きな問いの一つである。なぜ人間は苦しむのか? なぜ、世の中には悪人がいて、時には善人よりも悪人の方が富み、栄え、幸福そうに見えるのか? これは、哲学ばかりではなく、文学においても大きなテーマでありつづけた。しかし、人が<悪>と呼ぶものは、さまざまである。そして、それに対する答えも。

 本論では、現代世界で悪と呼ばれている概念を多少整理した後に、なぜ、この世には悪があるのか、ということについてのさまざまな見方を、主にキリスト教神学の立場から概観し、護教論の可能性を考察したい。そののち、文学での悪の問題の取り上げ方を実例から、考えてみたい。

 

<悪のカテゴリー>

 「この世になぜ悪があるのか?」を語り合うためには、まずその「悪」というものについて、共通の概念がなくてはならない。どのようなものが悪と呼ばれるかについては、漠然とした合意があるようでもあり(死、病気、殺人、嘘、天災、事故、等)、ないようでもある(今あげたすべての例に関して、必ずしも悪ではないと、言う人もあろう)。あらゆる価値判断は相対的なものであり、善悪の判断も相対的なものだという見方もあろう。けれども、本論では議論の必要上、「悪」というものについて概念上の合意がある程度成り立つという前提で、一般に悪と呼ばれるものをまず分類してみることにする。

 西洋の哲学においては、悪を大別して<自然悪>(natural evil)と<道徳悪>(moral evil)に分けることが通例である。<道徳悪>は<人間悪>(human evil)と言うこともある。自然悪とは、自然の災害や生老病死などに伴う自然な苦しみであり、<道徳悪><人間悪>とは、人間の罪や過誤に帰せられる苦しみや悪である。その他、<形而上学的悪>ということばで言い表わされる、「神に作られた世界における、根本的な有限性や限界」[1]も、悪と見なされる。有限性が悪である、ということは、日本人には必ずしも受け入れられないかもしれないが、これは公理的に、無限が神の属性として(あるいは、神の本質として――旧約聖書では神は自分を「私は在る(I AM)」と定義しているからである――)善と見なされる西洋の伝統からきているのであろう。ギリシア悲劇や日本に見られる<(けが)れ>の概念は、キリスト教神学などで悪が語られるときには、通常問題にされない。

 

<道徳悪―1―悪は善の欠如である>

 アウグスティヌスは、悪を善の欠如あるいは歪曲と定義した。[2]しかも、悪は善がなくては成り立たない寄生虫的な性質のものであると考えている。人間が悪をおこなうのは、何か価値のあるものを、つまり何らかの善を過度に、あるいは倒錯した方法で求めるときだからである。

 

悪と呼ばれているものはすべて、壊敗以外の何者でもない……知識のある魂の壊敗は無知と呼ばれ、思慮ある魂の壊敗は軽率と呼ばれ、正しい魂の壊敗は不正と呼ばれ、勇気ある魂の壊敗は臆病と呼ばれ、静かで穏やかな魂の壊敗は欲望とか恐れとか悲しみとか自惚れとか呼ばれる。さらに生命の身体において、健康の壊敗は、苦痛および病気と呼ばれ、力の壊敗は疲弊と呼ばれ、休息の壊敗は骨折りと呼ばれる。さらにまた、物体だけについていえば、美しさの壊敗は醜さと呼ばれ、真直の壊敗は歪みと呼ばれ、秩序の壊敗は乱雑と呼ばれ、完全性の壊敗は分離とか分裂とか減少と呼ばれる。しかしながら、壊敗が害するとは、本性的な状態を破壊することにほかならず、したがって、それは本性ではなく、本性に反するものであることを見るのは容易である。[3]

 

アウグスティヌスは、悪を悪だからという理由でことさらに求める者がいることは、前提していない。そして、「善は悪なしにも考えられるが、善なしにはいかなる本性も考えられないということは、すべての本性は本性である限り善であるということを理解するのに、たしかに重要な光となる」[4]と、善の絶対的優位と悪の従属性を主張している。彼にとっては、すべてのものは善なる神に作られたので、善であり、自然は何も神に反していない。けれども、歪曲があり、それが悪であり、善に反しているのである。

アウグスティヌスは、自然の事物がさまざまな有限性を持っていることは必ずしも悪とは考えておらず、むしろ、現代のアーサー・O・ラヴジョイが<存在の偉大な連鎖>(the Great Chain of Being)[5]と呼んだような大きな体系をなすために、あらゆる階層の、あらゆる存在度の事物が、宇宙に満ちているほうがよいと、考えていた。[6]

 

獣類や樹木、そしてその他の可変的で死滅すべきものは、知性や感覚を欠いていたり、あるいは全く生命を欠いているものであるが、……これらの被造物はそれ自身の限界を創造主の合図にしたがって受けとるのであって、それは、消え去ったり出現したりすることによってみずからの種において、宇宙の低次のこの部分に適合している時節のめぐりの美しさを成就するためなのである。すなわち、地上的ものが天上的なものと等しくされたわけではないのであるが、天上的なもののほうがいっそう善きものであるがゆえに、宇宙全体にとってこれら地上的なものは欠けてはならなかったのである。[7]

 

アウグスティヌスは人間の死に関して、聖書の創世記どおり、人間は神に従っていれば不死の生を享受すべく創られたと考える。そして、最初の人間アダムとエバが、神に与えられた自由意志の濫用によって不服従の罪を犯し、その結果、死ぬべき存在となったのだと言うのだが、これが彼の考える人間悪の起源であり、人間の原罪である。

 

神は、人間をいわば天使と獣たちとの中間に位置する自然本性を持つものとしておつくりになったのである。つまり、人間がその創造主に対してみずからの真実の主として従順であり、敬虔な心で服従して、そのかたの命じるところをまもるかぎり、かれは天使たちとの共同の生に加わって、死が介入してくることもない終わりなき至福の不死性を確保することになっていたのである。しかし、その人間が自らの自由な意思を濫用して主であり神である方を傲慢と不従順によって損なうかぎり、かれは死を宣告されて欲望の僕となって、死後も永遠なる責苦にさいなまれるよう定められ、獣のように生きることになっていたのである。[8] 

 

ただ、無からの創造を信じるアウグスティヌスは、人間が無から創られた、ということに、自由意志で悪を選択する弱さの起源を見出している。

 

かくして、悪しき意思はその起源を、かれが自然本性であるという事実から得るのでなく、自然本性が無からつくられたという事実から得ることを見出すであろう。なぜなら、もしも自然本性が悪しき意思の原因であるのなら、善から悪が生じることになり、したがって善が悪の原因であるといわざるを得なくなるであろう。じっさい、良き自然本性から悪しき意思が生ずるとすれば。[9]

 

……神が造り定めたすべてのものは、最高のものから最低のものまで、卓越性の段階によって秩序づけられ、すべて善なるものであるが、あるものは他のものよりもより善いということ、また、創造主なる神は自らの知恵によって力強く働き、いわば存在しなかったものを存在しうるようにしたのであって、それらの本性は無から造られたということ、また、存在する限りのものは善であるが、欠けたものである限り、自らが神から生まれたのではなく、神によって無から造られたことを示しているということ、これらのことを学びなさい。[10]

 

<道徳悪―2−悪はリアリティーである>

これは、現実に存在する膨大かつ多様な悪を見て、悪が非実在であるとは考えられない者の立場である。

たとえば、フロムは『悪について』(原題The Heart of Man:  Its Genius for Good and Evil, 1964)において、人間の最も有害で危険な傾向として、死を愛好すること、「悪性のナルチシズム、共生的・近親相姦的固着」をあげている。「この三つのオリエンテーションが結合すると、「衰退の症候群」――≪人間を破壊のための破壊へかりたてるもの≫そして憎悪のための憎悪へかりたてるもの――を形成するようになる」[11]。彼は、この三つが結びついた例をヒトラーに見て、悪をこのように定義している。

 

悪ということは特別に≪人間的≫現象である。悪とは人間以前の状態に退行し、特に人間的なるもの、すなわち理性、愛、自由を排除しようとすることである。……≪悪はヒューマンなる者の重荷を逃れようとする悲劇的な試みにおいて、自己を見失うことである≫。……

悪の程度は、同時に退行の程度でもある。最大の悪とは生に最も逆行しようとすること、すなわち、死に対する愛、子宮、土壌、無機物へ戻ろうとする近親相姦的共生の努力であり、その人間をして生の仇敵たらしめる――その理由はまさに彼が自我(エゴ)の牢獄を離れることができないためである――ナルチシズム的な自己犠牲のことである。こういう生き方は「地獄」のなかの生き方である。[12]

 

<悪の存在はなぜ問題にされるのか>

「この世にはなぜ悪があるのか?」という問いは、「なぜわたしたちは苦しまなくてはならないのか?」という問いと共に、神話時代から人間につきまとってきた。けれども、「この世にはなぜ善があるのか?」という問いは、かなりまれであろう。M・スコット・ペックが言うように、これは見方によれば奇妙なことである。彼は、「われわれは、この世は本来的に善の世界なのだが、なぜか悪に汚染されてしまっているのだ、という前提に立って考えてでもいるようだ」[13]と言うが、まさにそのとおりでる。悪の存在が哲学的つまずきとなるのは、この世が本質的に善であるという前提に立つ場合のみであろう(つまり、還元すれば、悪の存在に疑問を感ずる者は、本人が気づくと気づかないとに関わらず、善なる世界を信じているか、肯定しているのである)

善と悪との関係については大きく分けて、一元論と二元論が考えられる。一元論は、世界を究極的には善と考え、悪は善の欠如、影、対立はするが結局は善に支配されるもの、等と考える。二元論は、この世を、対等な善と悪との闘争の場と考えるものである。J・ヒックの定義では、「一元論とは、宇宙が究極的な調和をなすという哲学的見方であり、神議論的には、悪は一見悪に見えても、宇宙論的文脈で総体的に見れば善であることがわかるのだと、考える。……一方二元論は、神議論としては、この究極的調和を否定し、善と悪とはまったく妥協の余地なく対立し、その二元性は、片方が他方を打ち負かすことによってしか、克服できないのだと考えるのである」[14]。二元論は、ゾロアスター教、マニ教、善と悪との神々の対立を描いたさまざまな神話などに見られ、その見方では、この世に悪があることは何ら疑問の対象にはならない。けれども、一元論、特に、善なる創造主を信じるキリスト教においては、この世に悪が存在することが、大きな信仰上の問題となる。全能で、しかも善なる神が創造した世界に悪が存在するということは、明らかな論理矛盾に思われるからである。その問題は、古くはキリスト教をはるかにさかのぼってギリシアのエピクロスにまで見られるというが、現代では、デヴィッド・ヒュームの以下の問いが、最も的を射たものとしてしばしば引用される。

 

神は悪を阻止しようとする意思は持っているが、出来ないのだろうか? それならば、神は能力に欠けることになる。それとも、神は、悪を阻止することが出来るが、そうしようとしないのだろうか? それならば、神は、悪意があることになる。悪を阻止する能力もあり、その意思もあるのだろうか? でも、それならばなぜ悪が存在するのだ?[15]

 

そこでキリスト教の神学者は、ずっと、全能で善なる神の被造界に悪のある理由を解き明かそうとしてきたのである。しかし、その答えはまだ出ていない。あるいはこの矛盾が、神の存在を否定する論拠にもなっている。スタンダールが「神のできる唯一の弁解は、神が存在しないということだけだ」と言った言葉はよく引かれる[16]。しかし、そのように無神論をとる者は、実際は、「神とは全能かつ善なる者である」という伝統的な神概念を保持しているので、やはり、矛盾した形で神を信じていることにはならないであろうか。

ケネス・スーリンは、「善意にみちた万能の神と悪の存在との矛盾は、中世のキリスト教思想家の目から見れば、信仰の妨げにはならなかった。……この、近代以前の状況は、17世紀以降支配的となった状況とはまるで異なっていた。(17世紀以来、<悪の問題>は、キリスト教信仰の一貫性と明瞭さに関する問題へと、変容していったのである)」[17]と指摘している。われわれの世紀は、長い歴史の中で見れば新しい様相を呈しており、現代は、神義論(つまり、この世の悪や苦しみを根拠に神の善性や存在を疑ったり否定したりする立場に対する、弁神論)が容易に成り立たない時代なのである。彼は、「われわれの時代の歴史的状況下では、もはや悪を、神議論のように本質的に知的で理論的な営みによって<答え>を出せるような<問題>と見なすことは出来ない」[18]と言っているが、アウシュヴィッツや広島を見てしまったのちには、これまで受け入れられてきたさまざまな神義論がその信憑性を失ったと感じる者は多い。

 

そこで、以下に、伝統的な神議論が、悪の存在をどのようにとらえてきたかを概観し、それぞれの見方に対する批判も考えてゆくことにする。

 

<護教論のパターン>

「神が全能かつ善であるならば、なぜ悪が存在のするか」、という問いに答える選択肢は、以下のようであろう。

1)              神は全能でありしかも善であるが、それと悪の存在は矛盾しない。

2)              神は全能であるが、完全に善であるわけではない。

3)              神は善であるが、全能ではない。

4)              神は善ではないし、全能でもない。

上記のうち、4は、通常護教論では考えられない。

1の、神は全能かつ善である、という見方を保持する立場には主に次のようなものがある。

a)       われわれの苦しみは、神の罰である。

b)      すべては神の神秘であり、人間の知の及ぶものではない。すべてに神の摂理があると信じて受け入れるべきである。

c)      神は人間に自由意志を与えた。人間はその自由意志の濫用で堕罪を犯し、それゆえ今悪がある。(カトリック教会に受け入れられてきたアウグスティヌスの立場)

d)      悪の存在は人間の成長の糧となり、人間を完成に導くために不可欠である。(ギリシア正教会に主に受け入れられてきたイレナエウスの立場)

e)       この世は、理論的にありうる限りで最善の世界である。

f)       自由意志論と、成長の糧論との混合

 

神の全能と善をともに信じる見方を詳細に検討する前に、23をまず概観しておくのが良いだろう。

 

<神は全能であるが、完全に善であるわけではない>

神の完全な善性を否定する見方は、たとえばユングのように、神には通常三位一体といわれる父と子と聖霊との三つの位格の他に第四の面があり(それをユングは、「四位一体」と呼んでいる)[19]それがわれわれの言う悪の面であると見る見方がある。ユングは、旧約聖書のヨブ記にあらわれた神について「ヤーウェは……迫害者でありかつ助力者である。しかもどちらの面も等しく現実である。ヤーウェは分裂しているのではなく、二律背反なのである」[20]と言う。また、インドのシバ神は創造主であると共に、破壊者であると考えられてきた。

 人間にあって一般に悪と言われる「影」の面を進んで認める立場は、主流とは言えないであろうが、主に心理学的な抑圧の弊害を考える者たちから提唱されている。ジョン・A・サンフォードは、ギリシアの神々にも、インドの神々にも、また旧約聖書のヤーウェにさえも、善なる面と悪の面との両面があることを指摘し、人間もその両方があって始めて十全な自己(Self)といえるのだと言っている。彼によれば、悪とは自己の≪影≫の面であり、この影の面は、善の起動力となる不可欠な要素でさえある。「われわれの完成には、自己の意識と無意識が対立せず、一体化して働く、統一のとれた人格の形成が必要である……そのためには、われわれのさまざまな部分がすべて、しかるべき機能を果たさねばならない。そして、しかるべく機能するためには、心理学的に啓蒙され覚醒していなくてはならない。……人格形成が行なわれるのは、人生の火に焼かれて試され、自己の内にある弱さが浄化されて強い部分だけが残ったときである。……それゆえ、心理学的に言えば、人格形成が起こるためには、悪が不可欠なのである」[21]。サンフォードは、ゲーテの『ファウスト』で悪魔メフィストフェレスがこのことに気づいていて、人間が自分の存在を十分評価してくれないとこぼしていることを指摘している。メフィストフェレスは自分の正体を、「悪をなそうとして常に善をなすあの力の一部です」と語ったが、この有名なせりふの意味をサンフォードは、善の起動力として不可欠な悪の存在の本質を明かすものと見ている。[22]悪の存在が人間の道徳的成長に不可欠であるという見方は、彼に限らず、後に見るイレナエウスの護教論の中心をなすものではあるが、サンフォードは、人間の中にある悪の部分を覚醒した目で認めて行こうとする点で、イレナエウスの護教論を一歩進めていると見ることもできよう。

サンフォードは、新約聖書でさえも、イエス自身は人間に影の存在を認め、それを受け入れていると言う。たとえば、ルカによる福音書にはイエスが「なぜ、わたしを『善い』と言うのか、神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と言っていることが記されているが、これは、≪善≫というペルソナを押し付けられたイエスが即座にそれをつき返したのである、とサンフォードは見る。イエスは、片面的なペルソナを真の自己と同一視することの、精神的危険性を認識している。マタイによる福音書には、イエスが立法学者とファリサイ派の人々に、「あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる(けが)れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」(23,37-38)と言うくだりがあるが、サンフォードは、ここでいわれている偽善と不法を、彼らの影の部分として、こう言っている。「イエスは、人間の弱さにはほとんどいつも寛容であったが、かれらが自分の影を隠してペルソナと自分を同一視しているのには憤慨している。それは、心理学的に不正直で、自己欺瞞や、同情の欠如や、霊的厳格さに通じる態度だからである」[23]。これとあい通じるように、スコット・ペックは

 

私が「邪悪」と呼んでいる人たちのもっとも特徴的な行動としてあげられるのが、他人をスケープゴートにする、つまり他人に罪を転嫁することである。彼らは自分には非のうちどころがないと考えていて、だれかに非難されれば、激しく反撃する。自分の完全な自己イメージを保つために、他人を犠牲にするのである。……

 スケープゴーティング、つまり罪の転嫁は、精神医学者が<投影>と呼んでいるメカニズムによってなされる。邪悪な人間は自分には欠点がないと心から感じているので、世の中の人と衝突したときには、きまって、世の中の人たちのほうが悪いと思う。自分の悪さを否定しなければならないのであるから、他人のほうを悪と考えざるをえないのである。自分の悪を世の中に<投影>するのである。彼らはけっして自分自身を邪悪な人間だとは思わない。それゆえ逆に、他人のなかに非常な邪悪さを見るのである。[24]

 

と言っている。そして、実際われわれには、キリストがスケープゴートとして十字架につけられたことが思い出されよう。

サンフォードは、キリスト教においてはパウロが人々に、自分たちのうちにある影を否定して善や光や愛と自己を同一視することを奨めた結果、心理学的にはイエスの教えに反した不健全な方向に進んでしまったと指摘している。「イエスがわれわれに心理的な成長と、両面的な性質と取りくむ精神的な勇気を求めたのに、パウロはその正反対に、抑圧を求めたのである」。サンフォードは、影の部分を育てることを奨励してはいない。けれども、影を抑圧することではなく、意識化して対処することによって、十全な人格形成ができると言うのである。抑圧することによってはけっして悪は消え去らない。「十全な自己に根ざした人生を送っている人には、何かしら破壊できない永続的雰囲気があり、おのれの魂が悪に屈さないようにする護りが感じられる。……人間の道徳的精神的意識は、悪に向かうことで初めて発達するようである。それゆえ、悪も神の計画の一部かもしれない。……けれども同時に、十全さは悪を含まず、十全性が達成されるか破壊されるかのいずれかの場合には、悪もまた、存在しなくなる」[25]

 

<神は善ではあるが、全能ではない>

神は善であるが悪を防ぐ力がない、と見る立場は正統派のキリスト教には受け入れられていないが、今世紀になって、AN.ホワイトヘッドのプロセス神学がはっきりとこの立場を取っている。プロセス神学は、リアリティーを固定した不変なものとしてではなく、生成してゆくプロセスと見る。ホワイトヘッドは悪を、

 

悪の本性は、事物の性格が相互に妨害し合うということである。こうして、生命の深さは、選択の過程を必要とする。しかしこの選択は、妨害する様相を最小限にしようとする別の時間的秩序に向かう第一歩としての除去である。選択は悪の尺度であると同時に、悪を回避する過程である。[26]

 

とあらわすが、ここでは、神はプロセスの限界内で説得する力として働き、絶対的な拘束力はない。

 

神の役割は……概念的諧和の圧倒的合理性を忍耐強く働かせることである。神は世界を創造しない。神は世界を救済するのである。あるいは、もっと的確に言えば、神は真、善、美のヴィジョンにより世界を嚮導する優しい忍耐をもった世界の詩人である。[27]

 

キリスト教のガリラヤの起源……が強調するのは、統治するシーザーでも、仮借ない道徳家でも、不動の動者でもない。それは世界のうちで、ゆるやかに、そして静謐のうちに愛によって働く優しい要素に依拠する。……愛は統治せず、不動でもない。また、愛は道徳に関してはいささか忘れっぽい。それは未来を見ない。というのは、それは直接的現在のうちにそれ自身の酬を見出すのだから。[28]

 

神は他に影響を及ぼすと同時に自らも他に影響される、とホワイトヘッドは考える。彼の有名な言葉を用いれば、神は私たちを理解し、共に苦しんでくれる友、「偉大な仲間――理解ある一蓮托生の受難者」[29]なのである。

そしてまた、人間に対する拘束力に欠けると同様に、神は、世界の各々の構成要素に対しても絶対的な拘束力は持たない。神は最善の結果を生む道を取るように示唆を与え、説得するが、それに従うかどうかは被造物の自由なのである。それゆえ、神は、道徳悪についても、自然悪についても、究極的な責任はないのである。

その他の見方から神の全能を否定する者もある。たとえば、ディヴィッド・グリフィンは、「悪の問題に対する私の解決法は、その基となっている神の万能の教義を否定することで、悪の問題自体を解消してしまおうとするものだ。神が、御心を行使する本質的に無限の力をもっていることを否定する言い分はさまざまあるが、私は、いつでも現実は多元的であって、それぞれ独自の力を持っていると仮定している。この力は、二重の働きをもつ。(ある程度)自分自身を決定すると同時に、他にも影響を及ぼすのである」[30]

彼は楽しむ力と苦しむ力は比例すると考える。「楽しむ能力と苦しむ能力は、必然的な、形而上学的相関関係にあり、事物の本質である」[31]。それゆえ、善しかない世界は神にも創れないのである。これは、論理的な不可能性ともいえる。

 

私は、護教論で、神が世界に存在するいずれの悪に関してでも、責任がないとは言っていない。実際、神は、私たちが悪の問題というときに考えるあらゆる悪に対して、究極的に責任がある。……問いは、「神がこの責任において責められるかどうか?」である。私は「否」と言いたい。……苦難や、苦難を生む罪深い意図だけが悪であるわけではない。苦難がなくても、実現しない善があれば、それは悪である。真の悪とは、「それがなければ世界がより良かったであろうに、それを妨げて悪くしているもの」だからである。……しかも、私の確信をさらに強めているのは、神が私たちの苦しみをすべて分かち合っていてくれるという確信である」[32]

 

グリフィンは、現実に起こったこと、とくに、神の民であるはずのユダヤ人に対するホロコーストを見れば、神は無力と考えざるを得ないと言う。神は全能である、という教義を取りつづけようとすればそれは、「ホロコーストを防ぐ力をもっていたのにそうしなかった神」を弁護しようとすることになる。と、彼は考えるのである。[33]

 

<神は全能で善であるが、それでも悪がある>

先に挙げたように神は全能かつ善であるが、そのことは悪の存在と矛盾しないと考える立場には、以下のようなものがある。

 

a.われわれの苦しみは、神の罰である

この見方は、苦難にあう者は罪がある、という偏見につながる可能性があり、取るべきではないのだが、実際はこれが旧約聖書などで取られてきた見方であった。新約聖書のイエスでさえ、時に、病人を癒す時に、「人よ、あなたの罪は許された」(ルカ5.20)と言っている。ここには、病という苦でさえも「許し」の必要なもの――つまり、一種の罪のようなものであるという暗黙の了解がある。また、イエスの弟子は、生まれつき目が不自由な人を見て、「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と問うている。イエスは答えて、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現われるためである」 (ヨハネ9,2-3) と言って、その人の目を開いているので、イエスにおいては、必ずしも苦難は罪の報いとは考えられないことは事実である。しかしそれでも、ホロコーストにあったユダヤ人でさえも、そのような苦難を、何か自分たちの犯した罪が神の怒りを買ったせいではないかと考えている場合があることは、現実である。神に選ばれた民として与えられた律法を護らなかったことに対し、神はヒトラーを使ってかれらを罰したのではないかという考えが、正統派のユダヤ教神学者の中にも見られるのである。[34]

 

b.すべては神の神秘であり、人間の知の及ぶものではない。すべてに神の摂理があると信じて受け入れるべきである。

 この立場については旧約聖書ヨブ記の一つの解釈として次の一節を取り上げればよいであろう。神の前に生涯正しく生きてきたヨブは神の試練にあって、全財産を失い、自分の子供も健康も失った。そのあまりの苦しさについに彼が、「正義を秤として量ってもらいたい。神にわたしの潔白を知っていただきたい」(ヨブ記31,6)と、自分の苦難に対する疑問と怒りを神にぶつけたとき、神ヤーウェは彼にこう答えた。

 

これは何者か。

知識もないのに、言葉を重ねて

神の経綸を暗くするとは……(382)

私が大地を据えたとき 

    お前はどこにいたのか。

知っていたというなら

    理解していることを言ってみよ。(38,4)

天の法則を知り

その支配を地上に及ぼす者はお前か(3833)

天の下にあるすべてのものはわたしのものだ。(413)

 

その神の言葉を受けたヨブが口を閉ざし、神がこの世に行なう「[人間の]知識を超えた驚くべき御業」(423)を覚えて神を仰ぎ見たとき、神はヨブを祝福し、前にも勝る繁栄を与える。

 このように、神の全知、全能、善性を信じて、それと対比して人間の知の限界を意識したとき、信仰の立場として、神の神秘を受け入れることは決して非合理ではないだろう。自らの知の限界を知ることは、それ自体が理性的な営みだからである。ただし、ここには、人間の目には見えなくても神の摂理が働いていて、苦難も何らかの形で贖われるか、試練としてわれわれを成長させるものであるという、後述する立場が暗に含まれていることがわかる。

 

c. 神は人間に自由意志を与えた。人間はその自由意志の濫用で堕罪を犯し、それゆえ今悪がある。 (カトリック教会に受け入れられてきたアウグスティヌスの立場。神の全能とは、論理的に矛盾のないことはすべて行なえる力であり、論理矛盾(これは、ナンセンスである)までを行なうものではない、と言う見方を含む。)

 アウグスティヌスは、神に最初に作られたときアダムとエバは全く罪を知らぬ無垢の状態にあったと考える。(4世紀ぐらいまでは、アダムが完全な人間として創られたとは考えられていなかった。それを教義に持ち込んだのは、アウグスティヌスだという指摘がある。[35])神は人間に自由意志を与えた。これは、自由に神に従う方が、強制されて従うよりも良いからである。しかし、人間はその自由意思の濫用によって罪を犯した。C.S. ルイスは、神は全能であるが、神の全能もこの堕罪を防ぐことはできなかったと説明する。なぜなら、自由意志を与えておきながら堕罪を犯させないように人間を縛るのは、自由を与え同時に自由を与えないという論理的矛盾だからである。神の全能とは、論理的に可能なことをすべて行ない得る能力であり、矛盾したナンセンスを行なうような力ではないのである。[36]たとえば、丸い三角形をつくるようなことは[37]全能の者にも出来ない。

 では、なぜ、罪のないものとして作られたはずの人間が罪を犯してしまったのか。それは先に見たように、世界が無から作られたことからの必然として、本質的に完全性に欠けるからである。(西洋には、存在=善と考える伝統があることを思い出されたい)

 現在はっきりとこの立場をとっている者としては、アルヴィン・プランティンガがいる。プランティンガは論理的な不可能性(logical impossibility)と因果的、自然的不可能性(causal, natural impossibility)とを区別し、論理的不可能性の他にも、人間が弾丸よりも早く飛んだり、大西洋を泳いで横断したりするような範疇のいわゆる自然的不可能性があることを示したのちに、「自由意思論による護教論の核には、神は道徳的善だけが存在して(少なくとも現実にこの世界にある程度の道徳的善が存在して)道徳的悪が存在しない宇宙を作ることができなかった、という可能性が主張できる」[38]と言っている。

 この自由意思論に対する反論には、

i)        自由意思で善のみ行なう者もありうるはずだし、全能の神ならばそのような者のみを作れたはずである。[39]

ii)  悪が全くない無垢の状態に作られたものが悪をおこなうということは、矛盾している。[40]

iii)  自由はそれほど与えられていない。人間はそれほど自由ではない。[41]

iv)  生物の進化などを見れば人間の進化も、低次から高次へと完成に近づくと見るほうが自然であり、人間がまず完全な形で創られ、堕罪を犯し、それを贖うために神の御子が受肉して十字架にかかったという教義自体、信じられない。[42]

 

ことに、最後の、受肉の教義自体への批判は、今世紀のイエス論に関わり、大きな問題であるが、この批判を出したジョン・ヒックは、次のようなイレナエウスの立場をとっている。

 

d. 悪の存在は人間の成長の糧となり、人間を完成に導くために不可欠である。(ギリシア正教会に主に受け入れられてきたイレナエウスの立場)

ヒックによる悪の問題に対する解答は、次のようなものである。これは、イレナエウス以前からあった見方であるが、イレナエウスが最もはっきりとまとめたとして、彼はこれを「イレナエウス型の神義論」と呼んでいる。

 

人間は、精神的にも道徳的にも未成熟に作られた。そこから始まって、さらに育ち、発達するプロセスを踏むのだが、それは、神の創造の御業の第二段階なのである。 この第二段階にわれわれは今いるわけなのだが、ここで、人間という知的、倫理的、宗教的動物は、自分自身の自由な応答によって、イレナエウスの言う神の「似姿(likeness)」になる。人間という動物は、神の子へと創られていく途上なのである。[43]

 

このイレナエウスの見解は、アウグスティヌスが、堕罪前の人間は完全であったと考えるのに対し、人間はもともと不完全であり、善と悪とを両方とも体験することによって、善をよりよく理解するようになり、成長し完成に至る、と見る見方である。イレナエウス自身は次のように言っている。

 

神は最初から人間に完成を与える力があったが、人間はそれを受けとることが出来なかった。なぜなら人間はまだ幼少期にあったからである。[44]

 

人間は善悪の知識を受け取っていた。……神に与えられた気高さによって、人間は、従順の善と不服従の悪とを両方とも知った。その心の眼が、善悪を両方とも経験することによって識別力を得て、より良い方を選び、神の命令に対し怠惰になったり、無視したりしないためである。人間は経験によって、神に背くことは自分の命を奪い、悪であると知る。……人間は善の逆を知らないで、どうして善を知ることが出来ようか? なぜなら、じかに経験したことは、推測したことよりも確実で信頼に足るのだから。[45]

 

このように見れば、この世に悪があることは、人間がより十全な道徳的成長を遂げるために、不可欠ということになる。ヒックは次のように、道徳悪も自然悪も、人間の人格形成には欠かせないものと考える。

 

人間の人格形成は――道徳的にも、霊的にも、知的にも――試練とそれに答えることで成る。……もし世界に避けるべき危険もなく、勝ち得るべき報いもなければ、おそらく、人間の知性や想像力の進歩も、事実上全くなかったであろう。それゆえ、科学も芸術も、文明も文化もなかったであろう。[46]

 

 この考えに対する批判は、

i)                    この理論は、生まれてすぐに殺されてしまった赤ん坊や幼児の苦難を正当化できない。魂を成長させるどころか逆に精神的に人間を立ち直れなくするほどの苦痛にも何ら答えとならない。精神障害を伴う病気などはどう考えればよいのか。[47]

ii)                   なぜ、神は何億年もかけて人間を完成に導かねばならなかったのか?その何億年の間には、おそらく全く不必要な苦難がたくさんあったのではないか。[48]

iii)                 iと関連して、世界には、人間の精神的成長のためならば、これほどの量の、しかも、これほどひどい、人間の人間性を破壊するほどの苦痛は必要だろうか。[49]

これらの批判に対して、ヒックは、天国をもちだしている。これは、哲学よりも信仰の範疇であることは明らかである。

 

われわれは、この世に関する限り、苦しみには善いものも悪いだけのものもあり、罪を贖われる者も贖われない者もあると結論せざるを得ない。……しかし、おそらく、人間の苦難に関する限り、苦難は――ある人にとっては非常なものであり、ある人にとっては比較的軽いのだが――ついには、永遠に続く、無限の善に共に与ることにつながっているのだ。この永遠の善に参与した人は、この幸を得るためにずっとすべての苦に耐えてきたかいがあったと、思えるだろう。[50]

 

e. この世は、理論的にありうる限りで最善の世界である。

18世紀にライプニッツが、この世を「ありうる最高の世界だ」と言ったことは、アウグスティヌスらの見解と決定的に異なる見方を取ったこととも見える。しかしヒックは、ライプニッツも自由意思論の伝統を受け継いでおり彼とアウグスティヌスとの違いは、アウグスティヌスやトマス・アクィナスが神にはこの世界以上に良い世界を作る力があったと考え、ライプニッツはこの世が最高の世界だと考えた所にあると指摘している。[51]実際、ライプニッツ自身「アウグスティヌスに従って、神が善をもたらすために、つまり、より大きな善をもたらすために、悪を許したという見解を取っている」ことを認める。その、「より大きな善」とは、ライプニッツによれば、神が人間に自由意志を与えたことと、アダムが堕罪を犯した結果、「神の御子の受肉というとほうもない益によって、その罪が贖われた」ことの、二点である。この世は、善と悪とのつり合いを考えれば「ありうる限り最高の世界」なのである。[52]

 

f.自由意志論と、成長の糧論との混合

リチャード・スウィンバーンは、人間の自由意志とそれに伴う責任の価値を、自由な選択を誤った時に生じる悪の深刻さを差し引いてもなおあまりある大きな善だと考える、自由意思論の立場にたつ。自由に伴う責任の大きさと、自由な選択を誤ったときの結果の深刻さは比例する。それゆえ、大きな自由と重い責任を負えることが人間にとって望ましいと考える限り、それに伴って存在する悪も、大きくなることを受け入れざるを得ない。自由とそれに伴う責任を大きくするため、それに必然的に伴うものとして、悪も存在するべきであると、彼は考える。それに加えて、彼は、論理的不可能性として、あらゆる人間が常に最高を味わえるわけではないと言う。その例として彼はゲームをあげるのであるが、人生には勝つ者がいれば必ず負ける者もあり、それが論理的必然であると彼は考える。その論理的必然のため、全能かつ善なる神でさえ、何もかもが善である世界を作ることは出来ない。その世界のなかでわれわれはさまざまな選択をしながら、成長してゆくように出来ている。そして、その選択において、善をなす可能性は多くの場合、悪の存在によって可能になると彼は言う。「善と悪との間で選択を行なうという特別の善は、あらゆる悪しき欲望によって可能となる。……あらゆる痛みは、それにたいする勇敢な反応を可能にし、たいていは同情や思いやり深い行為を喚起する」[53]。彼は、動物が感じる痛みですら、それに対する同情が善であるために、善に貢献すると考えている。(ファウストのメフィストフェレスの言葉が思い出される。)結論として彼は、「苦難は苦しむ本人には勇敢な行為と精神形成の機会を与えるものであり、他人のためになることもある。そのことを考慮すると、全体として、苦難がないよりもあったほうが良い」[54]と言っている。ただし、彼もやはり、あまりに理不尽な、大きすぎる悪や苦しみがこの世には存在することを意識しており、それに対してすべての苦難が報われる天国の存在を想定し、「死後の埋め合わせと報いがある可能性」[55]を示唆している。

 

<神は弁護できないとする立場>

前項までで見たように、この世に悪があることに対して、あくまでも神の義を主張しようとする試みはさまざまになされてきたが、いずれも、批判を免れてはいない。ヒックも認めているように、自由意思論で考えても、成長の糧と考えても、この世に悪があることは、究極的には神に責任がある。「神がこの世界を創造する決断をしたことが、悪が起こる第一不可欠な条件だった。他の条件はみな、これにともなう偶発的な条件に過ぎない。しかも、神は、そこから起こることすべてをはっきりと知っていて、創造の決断をしたのである」。ただし、ヒックも続けて言うように、神の究極的責任は、人間の責任を取り去るわけではなく、「神の責任と人間の責任とは、異なるレベルで働き、矛盾するものではない」のであるが。[56]

ジョン・K・ロスも、悪の存在に対する責任がこの世界を作った神にあるとして、「神の責任は、彼が究極的にはわれわれの生き、動き、存在する限界を定めたという事実にある」[57]と言う。彼は、神がイエス・キリストによって人間の罪を贖ったという教義にも、神がわれわれと共に苦しんでいるという見方にも慰めを見出さない。

 

神はキリストにおいてすべてのものを新しくしたと、まじめに考えていたのだろうか。結局カルバリーの丘の十字架がアウシュヴィッツの焼却炉に通じていたとしても?

 神はキリストにおいて――人間の罪に対する神自身の怒りを静めるための血の犠牲として――苦しまれた……神は人間と共に苦しんでおられる、とキリスト教徒は主張する。しかし、膨大な苦しみは必要ではない。そして、もしも神が唯一の苦しむ神であるとしても、われわれに必要なのはわれわれを助けてくれる神なのだ。[58]

 

アウシュヴィッツに収容され、妹と両親とをホロコーストで失ったエリー・ヴィーゼルも、このように感じている。

 

<神>もまた苦しみ、<彼>はわれわれと共に、したがってわれわれゆえに苦しむ。……いかにも、<神>もまた苦しみを受けておられるからには、われわれには不平をもらす権利はない。しかしながら……<神>の苦しみは、人類の苦しみを除去するわけではなくて、そこに加わるのである。両方が加算されるのであって、差引勘定が行なわれるわけではない。このようにして<神>の苦しみは、われわれにとって慰めではなくて、余分の懲罰となるのではなかろうか。そうならば、われわれは天にこう問いかけてもよいのではなかろうか。「私たちの悲しみだけでもたくさんではありませんか。なぜそのうえに<御身>の悲しみまで加えられるのですか」。[59]

 

<理論的考察における結論>

 結局、世界にはなぜ悪があるのか、神は、もし存在するならば、なぜ悪の存在を許すのか、ということには、結論は出ていない。われわれは、結論が出ないままに、自分の内なる悪に抗し、外なる悪に立ち向かい、善を志向しなければならないのである。

ケネス・スーリンも、悪の問題には理性的に割り切れる答えはないと言っている。今われわれが出来るのは、理論的な答えを求めることではなく、実践的に、「神は自分の被造世界の悪と苦しみを克服するために、何をしているか? われわれは、(神の被造物として)悪と苦しみを克服するために何をしているか?」[60]でしかない。ただひとつ、十字架のイエスから学べることは、神は少なくとも苦しんでいる人と共に苦しむ力を、イエスにおいてわれわれに与えてくれたということであろう。[61]

 

結論の出ない論理的思考の代わりに、われわれがとりうる思考形態に、文学という、想像力を用いた形がある。古来、神話は、悪の起源や性質を提示し、説明する試みであった。現代でも、文学は、完全に答えの出ない悪の問題や悪の現実を提示することで、読者に考察や行動を促している。本論ではまずその代表的なものとして、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を取り上げ、次に、20世紀に最も広く読まれたキリスト教作家・護教家のひとりであるC.S.ルイスの小説を考えてみたい。

*     *     *

<ドストエフスキー 『カラマーゾフの兄弟』>

『カラマーゾフの兄弟』で、悪の問題が取り上げられるとき、常に問題になるのが、次男イヷンが、無垢の子供たちの苦しみを見て、そのようなことを許す「神の創った世界を承認しない、神の世界を承認しない」[62]と宣言するくだりである。彼は、親に拷問にあう幼子の例をとって、敬虔に神を信じつづけようとする弟、アリョーシャを問い詰める。

 

まだ自分の身に生じていることを完全に理解することのできないちっちゃな子供が……痙攣に引きむしられたような胸を叩いたり、悪げのない素直な涙を流しながら、『神ちゃま』に助けを祈ったりするんだよ、――この不合理がなくては人間は地上に生活してゆかれない、なんとなれば、善悪を認識することができないから――などと人はいうけれども、こんな価を払ってまで、下らない善悪なんか認識する必要がどこにある? もしそうなら、認識の世界全体を挙げても、この子供が『神ちゃま』に流した涙だけの価もないのだ。僕は大人の苦痛のことはいわない。大人は禁制の木の実を食ったんだから、どうとも勝手にするがいい。みんな悪魔の餌食になったって構やしない、僕がいうのはただ子供だ、子供だけだ![63]

 

すべての人間が苦しまねばならないのは、苦痛をもって永久の調和を贖うためだとしても、何のために子供がそこへ引き合いに出されるのだ。……どういうわけで子供までが苦痛をもって調和を贖わなけりゃならないのか、さっぱりわからないじゃないか!どういうわけで子供までが材料の中へ入って、どこの馬の骨だかわからない奴のために、未来の調和の肥しにならなけりゃならないのだろう?[64]

 

おおアリョーシャ、僕はけっして神を譏誹(きひ)するわけじゃないよ!もし天上地下のものがことごとく一つの賛美の声となって、すべての生あるものと、かつて生ありしものとが声を合して、『主よ、汝の言葉は正しかりき。なんとなれば、汝の道開けたればなり!』と叫んだ時、全宇宙がどんなに震撼するかということも、僕にはよく想像できる。……しかし僕はその時『主よ』と叫びたくないよ。……従って神聖なる調和は平にご辞退申すのだ。なぜって、そんな調和はね、あの臭い牢獄の中で小さな拳を固め、われとわが胸を叩きながら贖われることのない涙を流して、『神ちゃま』と祈った哀れな女の子の、一滴の涙にすら値しないからだ!……それとも、暴虐者に復讐をして贖うべきだろうか? しかし、われわれには復讐なぞ必要はない、暴虐者のための地獄なぞ必要はない。すでに罪なき者が苦しめられてしまったあとで、地獄なぞが何の助けになるものか!それに、地獄のあるところに調和のあろうはずがない。……僕は神様を承認しないのじゃない、ただ『調和』の入場券を謹んでお返しするだけだ。[65]

 

 イヷンはここで、明らかに、イレナエウス型の「苦しみは成長の糧である」「悪は善と悪とを両方知るために必要である」という護教論を意識して、それを論駁しようとしている。また、ヴィーゼルが神に問いかけたように、すでに無垢な者が苦しんだあとでは、たとえ、天国の調和をもってしてもそれはすり替えにすぎず、無垢な苦しみ自体を真に贖う道はないのだという論点をついていることが分かる。彼の訴えは、無神論のそれではない。神の存在を信じ、この世と天国が神の御国であると信じる者の訴えであることが、ここでは重要なのである。これは、神の絶対性を信じつつその善性を問う訴えである。アリョーシャは、イヷンに反論して神の義を証明することはできないが、彼自身は信仰を捨てず、キリスト教徒として、愛の行為をおこないつづける道を選ぶ。

スーリンは、ドロシー・セールが『カラマーゾフの兄弟』のイヷンとアリョーシャとの違いを、この世の理不尽な苦難を見ているか見ていないかではなく、無垢な人々の苦難を見て取る態度にあると指摘していることに注目して、「神義論的問いに対する完全な知的答えと、あらゆる苦難が即座に止むことを求める兄と異なり、アリョーシャはイエスの弟子として実践的な道を歩んでいる。そうすることで、「悪の問題」に対する形而上学的慰めなしに生きる覚悟を示しているのである」と言っている。[66]

また、先に続く「大審問官」の逸話では、イヷンは、キリストを問い詰め、人間は、そもそも自由を与えられても幸せにはならず、むしろ、パンを与えてくれる保護者や絶対的な権威を、集団で一致して信じる安心感を求めるものだと論じ、自由意志論、あるいは、人間の成長に善悪を両方知ることが不可欠とといたイレナエウスの理論の両方ともを、根底で覆す疑問を呈している。

 

彼らが自由でいる間は、いかなる科学でも彼らにパンを与えることはできないのだ。……つまり、自由とパンとはいかなる人間にとっても両立しがたいものであることを、彼ら自身が悟るのだ。実際どんなことがあっても、どんなことがあっても、彼らは自分たちの間でうまく分配することが出来ないに決まっているからな!……

よし幾千幾万人のものが、天井のパンのためにおまえの後からついてゆくとしてもl、天上のパンのために地上のパンを軽視することのできない幾百幾千の人間は、いったいどうなるというのだ?それともおまえの大事なのは、偉大で豪邁な幾万かの人間ばかりで……浜の真砂のように数知れぬ人間は、偉大で豪邁な人間の材料とならねばならぬというのか?……

人間というものは間違いなく崇拝に値するものを求めている。……これらの哀れな生物の心配は、銘々かってな崇拝の対象を求めるばかりでなく、万人が信仰してその前に膝まずくようなものを探し出すことにある。つまりどうしても、すべての人と一しょでなければ承知しないのだ。

人間という哀れな生物は、生れ落ちるときから授かっている自由の賜物を譲渡すべき人を、少しも早く見つけねばならぬ、この心配ほど人間にとって苦しいものはない。……ところが、実際はどうであったであろう。おまえは人間の自由を支配するどころか、かえっていっそう自由を増してやったではないか! それともおまえは人間にとって平安のほうが(時としては死でさえも)、善悪の認識界における自由の選択より、はるかに高価なものであることを忘れたのか?[67]

 

 

 

けっして解決のつかない悪の問題に、このように、小説は、いくつかの態度を提示し、問題を開いたまま読者自身に選択を迫ることがある。

 

CS ルイス>

ルイスは護教論においては、悪の存在をもっぱらアウグスティヌスの自由意志論によって説明し、SF『ペレランドラ』においても、金星を舞台に、創世記の物語から着想を得て、人間の堕罪が、創造主に与えられた自由意志にかかっていたことを強調している。

『ペレランドラ』は、アダムとエバの楽園喪失に材を採った楽園喪失阻止の物語である。

この物語の主人公は、金星のエバに当たる最初の女王が地球からきた悪魔の誘惑を受けるところに送られてくる。そして、女王が神の禁を破らないように、悪魔と闘うのであるが、言葉による攻防戦の果てに、自らの身体をもって悪魔と戦い、地下の猛火に投げ込み、金星を堕罪から護る。危うく神の命令にそむく所を免れた女王は、自分を誘惑した悪の本質をこのように悟った。

 

眠りを理解するのは覚めているときで、眠りは覚めていることを理解できません。若さのせいで悪が分からないことがあります。でもそれより暗い、悪を行っていることからくる無知もあります。寝ている人に眠りが分からなくなるように。……私達を若さからくる無知から連れ出したのは、あの悪い人自身でした。でも、あの暗い心の人は、自分が本当は何をさせられる為にペレランドラに来たのか、実は分かっていなかったのです。[68]

 

ここで強調されているのは、悪は真理に対して無知なものだということである。悪はあらゆる面で善より弱い、知的にも弱いということである。そして、この見方は、イレナエウス型の悪の意義を否定するように見える。

しかしルイスは、ファンタジー『ナルニア国年代記』では、アウグスチヌスの見方に加えて苦難を成長の糧と見る見方を織り込んでいる。人間はもともと不完全であり、善と悪とを両方とも体験することによって、善をよりよく理解するようになり、成長し、完成に至ると見る見方である。

 ルイスのファンタジーの国、ナルニアの創造主は、アスランという名のライオンであるが、エホバがイスラエルの民に苦難を与えたように、アスランもしばしば自分が選んだ者に試練を与える。それゆえ、ナルニアを訪れた子供たちは、罪の贖いという観点からは説明のできない悪や困難な状況と遭遇する。これは、イレナエウスの考えたように成長の糧としてとらえるのが最も素直な見方であろう。シャスタという青年は命懸けで女友達を救ったあと、疲れた身体で更に隣国の王の所まで走り、敵軍が責めてくることを告げる使命を与えられる。そこで語り手はこのように言っている。

 

もしあなたが何か一つ良いことをすると、その褒美は大抵、もう一つの、もっと辛い、もっと良いことをしなくてはならなくなるということなのです。[69]

 

これは、苦難を成長の糧、試練と取る見方である。そして、悪と闘い、悪を知ることで、ナルニアの子供たちは、確かに成長するのである。

 このように、ルイスのように理論的にはほぼ割り切って自由意志論をとるものでさえも、想像力の世界ではもっと現実的に幅の広い範囲で柔軟に悪を取り扱っている。文学では、哲学的理論の世界よりもより実生活に密着した、生きた世界で悪の問題を取り扱うことができるということの、一つの良い例であろう。

 

<結び>

 悪の問題には、答えがなく、われわれは、答えが出ないままに、悪と対峙し、悪をおこなうことを避けるべく生きていかなくてはならない。それには、哲学的考察と、現実の中での経験と、文学などで得られる思考や代経験とが、すべて助けになるであろう。哲学的考察に立って、さらに数々の文学を見てゆきたいと思うが、それは本論の枠に収まるものではなく、今後のさまざまな論考の課題となろう。



[1] John Hick, Evil and the God of Love, 2nd ed. (1977; rep., Macmillan, 1988), p.13

[2] アウグスチヌスの悪の定義についてはHick, p.44を参照できる。

[3] アウグスティヌス「基本書と呼ばれるマニの書簡への駁論」『アウグスティヌス著作集7――マニ教駁論集』岡野昌雄訳(教文館, 1979), 35pp.161-162.

[4] アウグスティヌス「基本書と呼ばれるマニの書簡への駁論」, 34 p.159.

[5] Arthur O. Lovejoy, The Great Chain of Being (Harvard Univ. Press, 1934 & 1964), p. 59の定義は以下のようである。「厳密ではあるが、めったに厳密には適用されない<連続の原理>によって、無限の階層的な秩序をもち、最も乏しい種類の存在から、「あらゆる可能な」段階を通って、完全を極めたもの(ens perfectissimum)、――つまり、より正統的な言い方をすれば、最高度の可能性を実現した被造物(ただしそれと絶対者との相違は無限であると考えられる)――にまで至る鎖の環から成り立っていて、その環の各々が、そのすぐ上のものと下のものと「可能な限り小さい」相違によって異なっている、という世界観。

[6] 参照。. Lovejoy, <充満の原理>(the principle of plenitude), The Great Chain of Being, p. 52.

[7] アウグスティヌス『神の国』(三)服部英次郎訳(岩波文庫,1983), 124, p. 101.

[8] アウグスティヌス『神の国』(三),1222, pp. 161-162. また、() 131,p.177第も参照のこと。

[9] アウグスティヌス『神の国』(三), 126, p. 111.

[10] アウグスティヌス「基本書と呼ばれるマニの書簡への駁論」, 25, pp. 141-142.

 

[11] エーリヒ・フロム『悪について』鈴木重吉訳(紀伊國屋書店, 1965), p.17.

[12] フロム, pp. 202-203.

[13] M. Scott Peck, M. D. People of the Lie:  The Hope for Healing Human Evil (Simon & Schuster, 1983), p.41.

[14] Hick, Evil and the God of Love, p.15

[15] David Hume, Dialogues Concerning Natural Religion, ed. H. D. Aiken (New York, Harper, 1938), Part X, p.66.

[16] たとえば、Hick, Evil and the God of Love, p. ix.

[17] Kenneth Surin,Theology and the Problem of Evil (Blackwell, 1986), p.9

[18] Kenneth Surin, Theology and the Problem of Evil (Basil Blackwell, 1986), pp. 9 & 39.

[19] C.G. ユング『ヨブへの答え』野村美紀子訳(ヨルダン社, 1981), pp. 122-123.

[20] ユング『ヨブへの答え』, p. 27.

[21] John A. Sanford, Evil, The Shadow of Reality (Crossroad Book, 1998), pp.39-40.

[22] Sanford, p. 40.

[23] Sanford, p. 69.

[24] Peck, pp. 73-74.

[25] Sanford, p. 152.

[26] A.N.ホワイトヘッド『過程と実在』山本誠作訳(松籟社, , 1984 , 1985), 下巻(第5部第1章「理念的に対立するもの」), p. 607.

[27] ホワイトヘッド,下巻同上、p.617.

[28]ホワイトヘッド,下巻(5部第2章「神と世界」), pp.611

[29] ホワイトヘッド, 下巻同上, p.625.

[30] David R. Griffin, “Creation Out of Chaos and the Problem of Evil,” in Stephen Davis ed. Encountering Evil: Live options in theodicy (Edinburgh: T & T Clark, 1981), p. 105.

[31] Griffin, p. 107.

[32] Griffin, pp. 109-110.

[33] Griffin, p. 135.

[34] Rubenstein, After Auschwitz: History, Theology, and Contemporary Judaism, Second Edition (The Johns Hopkins University Press, 1992)  (The first edition was published, with the subtitle Radical Theology and Contemporary Judaism, by The Bobbs-Merrill Company, Inc., in 1966),  p. 10.

 

[35] Richard Swinurne, Providence and the Problem of Evil (Oxford, 1998), 39.

[36] C.S. Lewis, The Problem of Pain (1940, Collins, 1957; paperbacks, 1977), p. 16.

[37]「丸い三角」という形容は、論理矛盾に言及する時によく用いられるようである。

[38] Alvin Plantinga, God, Freedom and Evil (Eerdmans, 1974), p.31

[39] John Mackie, “Evil and Ominipotence,” in The Philosophy of Religion, ed. Basil Michell (Oxford Univ. Press, 1971), pp. 100-101. Quot., in Plantinga, p.33.

[40] John Hick, “An Irenaean Theodicy,” Davis, ed., Encountering Evil, p. 44.

[41] John K. Roth, “A theodicy of Protest,” Davis, ed., Encountering Evil, p.12.

[42] Hick, “An Irenaean Theodicy,” p. 41.

[43] Hick, “An Irenaean Theodicy,” pp.42-43.

[44] St. Irenaeus, The Scandal of the Incarnation, tr. and annotated by Joseph P. Smith (Ignatius, 1952), p.66.

[45] St. Irenaeus, p. 68.

[46] Hick, “An Irenaean Theodicy,” pp. 45-46.

[47] Eg. John Hick, Evil and the God of Love, p.330.

[48] Eg. David R. Griffin, p.53.

[49] Eg. John Hick, Evil and the God of Love, p.309.

[50] Hick, Evil and the God of Love, pp. 339, 341.

[51] Hick, Evil and the God of Love, p. 147.

[52] Gottfried Wilhelm Leibniz, Theodicy, in Philosophical Works, Trans, G. M. Duncan. New Haven, 1890, abridged e-text by Carl Mickelsen.

[53] Richard Swinburne, Providence and the Problem of Evil, P.217

[54] Swinburne, p.233.

[55] Swinburne, p.245.

[56] Hick, Evil and the God of Love, pp. 290-291.

[57], John K. Roth, “A theodicy of Protest,” Stephen Davis ed. Encountering Evil, p. 11.

[58] Roth, p. 17.

[59] Elie Wiesel, Memoirs: All Rivers Run to the Sea  (Schoken Books, 1995), p.104.;訳はエリ・ヴィーゼル『そしてすべての川は海へ』()村上光彦訳(朝日新聞社, 1995), p.212.

[60] Surin, p.69.

[61] Cf Surinp.128.

[62] ドストエーフスキイ『カラマーゾフの兄弟』()米川正夫訳(岩波文庫, 1928), p.54.

[63] ドストエーフスキイ『カラマーゾフの兄弟』(), p. 67.

[64] ドストエーフスキイ『カラマーゾフの兄弟』(), p. 71.

[65] ドストエーフスキイ『カラマーゾフの兄弟』(), pp. 72-74.

[66] Surin, p.114.スーリンが言及しているのは、Dorothee Soelle, Suffering (Darton, Longman & Todd, 1975), p. 175.

[67] ドストエーフスキイ『カラマーゾフの兄弟』(), pp. 89-91.

[68] Lewis, Perelandra: A Novel (1944; Macmillan, paperbacks, 1965), p. 209.

 

[69] C.S. Lewis, The Horse and his Boy (1954; Penguin, 1965; rpt. 1975), p. 124