ユダは救われるか――カール・バルト 『イスカリオテのユダ』と、遠藤周作『沈黙』による考察

本多峰子

<序>

イスカリオテのユダは、救われなかったか? 決して救われえないのか? この問いは、新約聖書に向かう者、キリスト教に向かう者が避けて通れない問題であろう。この世の中にただ一人でも救われえない者がいるならば、それはキリストの救いの業が、ある者に対しては無力であったことを示すことにはならないか? しかし、その一方で、もしも、ユダが最後までキリストによる救いを信じずに自らの命を絶ったにもかかわらず、彼も救われたというならば、人間が自らイエスをキリストと信じ、告白することが救いには必要なのだというキリスト教にとっての本質的な教えも、神が人間に自由意志を与えて人間が自らの意志で神に向かうことができるようにしたという、アウグスティヌスを代表とする正統派の教義も、誤りであるということになりはしないか? これは、もちろん、万人救済説が真か偽かを問う際にも問題となるジレンマであるが、ユダの場合には、特に特殊な問題となる。なぜならば、彼は、決して赦されえないように見える罪、すなわち、イエスを売り渡すという罪と、さらに、絶望の罪である自殺を犯したからである。自殺は、神の救いを決定的に拒否し、神の赦しを信じない絶望の罪として、キリスト教では最大の罪とも考えられている。ユダはイエスに対する裏切りと重ねて、この罪を犯している故に、特に救われ得ないように思われるのである。しかし、一方で、ユダの裏切りがなければ、十字架はなかったであろうこと、そして、イエスの十字架によるわれわれの罪の贖いも、復活も、つまり、元来われわれがキリスト教徒として信じる救いのすべてがなかったであろうということを思うとき、われわれは、簡単に、ユダは救われなかったと、断定できるであろうか?

カール・バルトは、『教会教義学』第2巻『神論』(第2分冊)[1]で、この問題に取り組んでいる。本論では、まず、バルトの考えを、第1に使徒の1人としてのユダとユダの罪について、第2にユダの役割について、そして、第3にユダの救いについて、見てゆきたい。

 

<使徒のひとりとしてのユダ、ユダの罪>

 バルトは、ユダの問題を、「捨てられた者の問題」として論じている。彼は、まず、ユダがイエスの使徒であった事実を強調し、彼がイエスの近くにいたということは、悪魔の危険な力と活動は、ただ、主ご自身の力と活動の直接的な監視と監督のもとでしか、のばされえないことを暴露していると、指摘している。これは、バルトが根本的に二元論を否定し、悪の力を無力とする伝統的な立場にいることを示している。

 イスカリオテのユダは、十二使徒の中では、イエスと共にユダ族、つまり、ダビデの部族に属しているただひとりの使徒であった。この点で、彼はイエスにことに近い弟子であった。しかも、新約聖書で十二使徒が数えられる時に彼の名前が落とされることが、決してなかっただけではなく、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)がどれも、彼の裏切りの実行を報告する際に再び、「十二弟子の一人、ユダ」と、彼が十二弟子のうちにあったことを強調していることは重要である。ユダは、イエスが自ら選んだ弟子であった。これが重要なことなのである。ユダについての新約聖書の報告は、真の使徒たちの間に、見かけだけの使徒がいたということではなく、「まさにまことの使徒たちのひとり、実際に選ばれた者たちのひとりが、イエスの裏切り者として、同時に、捨てられたものであったということ」(29)、を言っているのだと、バルトは言う。

 次にバルトが指摘する重要な点は、バルトの論の中心的なポイントであるが、「ユダがイエスを裏切った」という、この、「裏切る」と訳されてきた言葉paradounaiが、もともと、「引き渡す」というほどの意味で通常使われる語だということである。イエスは逮捕されるとき、別に、隠れていたわけではない。イエスの居場所を発見するために裏切り者の密告者が必要なことはなかったのである。実際、ユダが行ったことは、「引き渡し」であったのだと、バルトは言う。

 

彼がイエスを捕吏どもに、共観福音書の報告によれば、有名な接吻でもって、知らせたとき、そのことの中で、明らかにもう一度、イエスへの近さ・・・・・・が可視的となった。このこと、そしてただ、このことだけが、ここで本質的である。・・・・・・イエスはまさに、御自分に属する者たちのひとりによって、・・・・・「人々の手に」、大祭司たちの手に、異邦人の手に――しかも、十字架につけられるために、それら異邦人の手に――引き渡されたということである。(32)

 

この、引き渡しによって、「イエスがその業を完成するためにし給わなければならなかった決定的なこと――、彼の苦しみと死、が始まったのである」(33)。バルトは、「十二使徒自身が、ひとつの、しかも決定的な箇所で、イスラエルと共に、また、異邦人世界と共に、イエスに対して、過ちを犯さなければならない。それは、まさにその結果、イエスが十二使徒イスラエル世に相対して、神の意志をなしとげ給うようになるためである。・・・・・・この、神の御旨の中で必然的なものとして決定された引き渡しの特別な要因および代表指数が、使徒、イスカリオテのユダ、である」(34)と論じる。バルトはこのように、ユダの行為が世の救いにとって不可欠であったことをそれが、神の摂理であったようにさえも、論じている。このように語るバルトが、少なくとも本書の中では、ユダの自由意志の問題を論じていないことは、重要であろう。バルトは、ユダが罪を犯すに至った動機を心理分析的に論じてもいないし、彼が罪を犯さずにすんだ可能性も論じていない。ただ彼は、ユダを「新約聖書の本来的に大いなる罪人である」(35)として論じるのであるが、その際に、ユダの中にサタンが入ったという福音書記事をユダの行為の原因として信じるに足る根拠であるかのように引用し、彼を「滅びの子」つまり、イエスによって選ばれた者たちの間で、イエスの現臨、守り、保護が無駄であった者、イエスが(ヨハネ17:12によれば)「彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした」と言った、「滅びの子」と見ている。

 イエスはペトロの足を洗うとき、「すでに体を洗ったものは、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなた方はきれいなのだ。しかしみんながそうなのではない」(ヨハネ13:10)と言った。バルトは、ここを引いて、ユダは「使徒たちの汚い足を代表している」と言う。

 

ユダこそが、この彼らの残っている汚れの担い手であり、代表者である。換言すれば、次のような人間――そのもののところで、イエスの現臨、守り、保護が、またその選ばれたものたちにとっても無駄に起こり得たということ、どの程度まで無駄に起こり得たのかということが明らかになる人間――である。(37

 

 ここで、示されているのは、バルトが決して万人救済説を取っているわけではなく、ユダの行為に対して、救いが及ばなかったこと(あるいは、少なくともその可能性)を認めていることである。

 ここで、バルトの考えるユダの汚れとは何であろうか。バルトは、ベタニアのマリヤの家でのナルドの香油の出来事に読者の注意を促す。「マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足に塗り、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油の香りが家にいっぱいになった」(ヨハネ12:3)。この、マリヤの無私で謙虚な行為を、ユダは、浪費であると非難する。イエスは、マリヤがなしたことを、イエスの葬りのための行為として評価するが、ユダは、それを理解しない。

 

彼は、マリヤが使徒たちの前で、自分の行為でもって、使徒たち自身の生にとっての模範として、いわばやって見せた全面的な献身が、イエスへの徹底的な犠牲としてなされるのを見たくないのである。ユダにとっては、そのことによって、ただ、イエスの死があがめられるべきであるということだけでは物足りないのである。彼は、この献身が、もしもそれが起こらなければならないとしたら、実りあるものにしたいのである。この献身は、貧しい人たち、不利な立場に立っていて、助けを必要としている人たち、の益となり・・・・・・そのようにしてこそ、完全な献身となるべきである(39-40) 

 

バルトは、このようないわば害のなく、悪くもない考えから出発して、ユダは後でイエスを「引き渡す」ことになる、と指摘する。彼は、何かあるもの(ここでは香油)を、イエスに捧げてしまうにしてはもったいないと思った。「イエスに対する献身を、しかしまた、ほかの人たちがなすイエスに対する献身をも、最後的にはもったいないことだと思い、この献身の力を、最後的にはもっとよい何かのために用いたいと思い、その者にとってイエスは最後的には、このもっとよいもののために売られるべきものである」(41)と考える使徒であるところに、ユダの本質があるとバルトは言う。彼は、イエスに対して、使徒として従いながら、「最後的に何が結果として出てくるべきかについて、自分で決めてゆくべく自分を保留する」(41)。彼にとっては、イエスに従うこと自体が目的なのではなく、何か他の目的があり、そのためにイエスとの関係においても、使い込みを自分に許すような自由を自分に対して保留している。バルトは、このユダの使い込みの動機を、貧しい人たちに施そうとする思いやりからではなく、むしろ「そのような助けに対する彼自身の主導権を、彼は根本において持ちたいと思い、願っている」(42)ところにあると解釈している。(バルトは、この解釈に理由を述べていないが、これは、罪の本質を傲慢の罪と見る、西洋の伝統的キリスト教の教義からであろう。他者の上に立つこと、他者を支配すること、自分自身が主導権を握ることに対する執着は傲慢の罪だからである。バルトが正統派キリスト教の伝統の中にいることがここからも伺われる)。

 ユダにとって、イエスは売り物となった。しかし、その額は、銀貨30枚、ヘブライ語聖書のゼカリヤ書で、預言者がイスラエルの羊(=民)の世話をする役割を、彼らの指導者から引き受ける礼金として受け取る額である銀30シェケルと符合する[ただし実際にはゼカリヤ書の銀30シェケルは、重さの単位で、1シェケルは約11・4gであり、シェケル銀貨は約5.6g、ドラクメ銀貨なら1枚4.3gなので、ユダが受け取った銀はゼカリヤ書の価の半分にも満たない]。バルトは、ここに象徴的な意味を見ており、内容的にちょうど逆の類比を次のように語っている。

 

彼がそのためにこの報酬を得る業績は、彼がほふられるべき羊の番をしたということではなく、むしろ・・・・・・よき羊飼い自身を殺すために引き渡すであろうということ――から成り立っている。・・・・・・ヤハウェに、その民の羊たちに対する忍耐を失わせ、羊たちに対するその世話をやめ、羊たちを自分自身に任せてしまう契機を与えるところのことをするというありうべからざる仕方で・・・・・・。ユダは、(明らかに羊の群れ全体の代表者として)自分自身、羊――、よき羊飼いから身を引き、よき羊飼いの労苦全体を無駄にさせてしまう羊――である。(4445

 

 バルトは、ユダが代表する羊の群れを、彼の出自である、ダビデの一族、しいてはイスラエルの民を表すとし、イスラエルの民は、常にヤハウェに銀貨30枚程度の値をつけてきた、ほんのわずかな賽銭で、少しばかりの犠牲を捧げる礼拝と律法遵守のみで十分満足であるかのように振舞ってきたのだ、そして、それと同様の値踏みを、ユダはしたのだと見ている。――[私見では、こうした、ユダの罪をイスラエルの民全体の罪であるかのように見るバルトの見方は、マタイによる福音書で、イエスを十字架にかけることを主張した民が「その血の責任は、我々と子孫にある」と叫んだ(マタイ 27:25)という記事などに影響されたものであるかもしれないが、誤っており、そうした見方をするならば、むしろ、ユダをわれわれすべてのキリスト教徒のあり方の代表と見るべきであろう。われわれの多くは、少しばかりの献金と、主日のわずかな時間の礼拝とで、イエスを信じる者として救いにあずかろうとしているのではないだろうか。] ユダは、300デナリ(ドラクメ銀貨300枚に当たる)の香油がイエスにはもったいないと思ったが、20枚の銀貨でも彼が受け取るイエスの代価としては少なすぎることはなかった。「ユダがイエスに相対してあくまで踏みとどまろうと欲した自分自身の自由処理と決断の知恵の大きさは、そのくらいなものであった」(48)と、バルトは指摘するが、このユダのおろかさは、彼によれば、長子の特権をレンズ豆のあつもののために売ったエサウのおろかさに等しい。ユダにおいてイスラエルは、イエスを売ることで、神に従わなければならないことなしに生きてゆくという報酬を得たのである。「ユダが全イスラエルと共に、この報酬――それと共にまたすでに刑罰が始まっているこの報酬――を熱望するということ、・・・・・・それがユダの罪である」(49)。ユダの行為は、その後の後悔によっても取り消されることはなかった(バルトは、これを、サムエル記上でサウルが犯した些細な罪がサウルから王国を奪うことになり、それは、サウルがいかに後悔しても変えられ得なかったことに比している)。ユダは事態を改善しようとして、マタイ福音書によれば銀貨を聖所に投げ込み、あるいは、使徒言行録の記録によれば、外国人の墓地にするために、すなわち、客人としてエルサレムの過ぎ越しの祭りに来ているおそらくディアスポラのユダヤ人のために、陶器師の畑を買うのであるが、それによっても事態を変えることはできず、首をつって自死することになる。そうして、せっかく得た土地を享受することなく、彼は、イエスを売ることで結局、使徒としての職と、引き渡しの報酬との両方ともを失うことになるのであるが、バルトはそこに、イスラエルがここで未来を失ったとの象徴的意味を見ている――「ユダもユダ族も、ユダはユダ族の具体化として、ユダ族はユダの中で具体化されて、それ自身、自分たちにとって、事実、もはやいかなる未来持も[原文どおり]っていないということ――を確認している」(62)。彼は、ユダが自分の死に至るまで、「自分自身の審判者であろうと欲し・・・・・・彼の後悔が拒否されたことに逆らいつつ、まさに彼に対して、いずれにしてもただ、与えられることしかできなかったもの、最後の裁き、彼の行為に対する神の裁き、それとともに、彼の行為を通して乱された秩序の回復、を自分でとろうとする」(65)ところに、ユダの罪があると言う。「ユダは、事実、まさにイスラエルの代表者として、使徒団の只中に、教会の只中にいる「滅びの子」、その中にサタンが入って、いや、そのもの自身、悪魔である人間である。それに対応しつつ、新約聖書によれば、また彼の後悔も、たとえそれがどんなに真剣になされるとしても、捨てられている」(68)。――これが、ユダの罪についての、バルトの結論である。

*     *     *

 しかし、バルトの論考は、ユダの断罪で終わっていない。そして、ユダをその代表としたイスラエルの断罪(繰り返しになるが、これは、聖書の読み方としては、イスラエルに対する偏見とユダヤ人差別に通じる誤った読み方であると言わざるを得ず、イエスを引き渡したことでイスラエルに未来がなくなったというバルトの論旨は決して受け入れることはできないが)も、最後の結論ではない。バルトは、ユダが捨てられた者であるということ自体を問題として取り上げる。彼が十二弟子のひとりであったということ、その誰もがユダでありえたことを、彼は指摘する。イエスが「あなた方の中のひとりが、わたしを裏切ろうとしている」(マルコ14:19、マタイ16:22)と言ったとき、弟子たちは皆「非常に心配して」ひとりびとり、「主よ、まさかわたしではないでしょう」と尋ねた。この「最高に奇妙なこと」は、誰でもがその裏切り者でありうるし、ありえたということに基づいている(70)と、バルトは指摘するが、これは正しいであろう。イエスの洗足が示すように、弟子たちはまだ、頭と手が洗われているにもかかわらず、足が汚れ――すなわちまだ、この「世に」おり、「イスラエルの本質とその棄却にあずかっている」(81)。だからこそ、ペトロは、イエスによって足を洗ってもらわねばならなかった。

 

イエスは彼らのために死ななければならず、彼らのために死んだものとして御自分を彼らに与え給わなければならなかった。何人も自分で償うことができず、誰にとってもただ赦されることしかできない・・・・・・罪を念頭において、イエスは死に給わなければならなかった。・・・・・・ペテロとユダは、いずれにしても彼らの〔助けを〕必要としている姿に関する限り、一緒に、同一線上に立っている。(8283

 

弟子たちがイエスに足を洗ってもらい、彼らのために裂かれ流されるイエスの体と血とを象徴するパンとぶどう酒の聖餐の予形の食卓にあずかったとき、ユダもそこにいた。そのことから、バルトは、「われわれは、聖餐と洗足の中で、具象的に予示されているイエスの死の、またユダにとっても妥当する、救済的な意味を考慮に入れなければならないであろうか」、という問いをたて、「この問いは簡単に答えられない」(85)と答えている。逆に言えば、ユダの棄却が救済に及ばないとも、答えられないということである。イエスが、十字架の上で神に祈ったとりなしの祈り、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23:34)は、ユダを含むものではなかったのか、あるいは、ユダに対しては無力であったのか。この祈りがユダにも及ぶものであれば、ユダは救われることになる。しかし、先に見たヨハネによる福音書17:12の記事からは、ユダは、イエスの守りが無駄になされた「滅びの子」として、滅びに定められたことになる。この緊張は、解かれていない。

 

その問いは、・・・・・・答えないままにしておかなければならない。むしろ、われわれ自身、ここで明らかに、まず第一に、解かれていない対照(Kontrast)の前に立ち続けるべきである。すなわち、ここではイエスが・・・・・・世とイスラエルとその教会の根本的な欠陥を徹底的につぐなう完全な遂行の中で・・・・・・たち給う。あのところではユダが――・・・・・・ただ、捨てられた人間・・・・・・でしかないユダが――立っている。ここでは、イエスがまたユダのためにも、いや、疑いもなくまさにユダのためにこそ、立ち給い、あそこでは、ユダが、同様に疑いもなくイエスに反対しつつ立っている。(87

 

バルトは、ユダを単にイスラエルの代表と見るだけではない、ユダは、むしろ、捨てられた人間すべての代表――そして、おそらくその、捨てられた人間にはバルト自身を含め、イエスによる救済を必要とするすべての人間が含まれうる――と見做される。

 

新約聖書は、あの対照を、両方の側に向かって、明瞭にあばき示すことによって、――それが一方において、またユダに対するイエス・キリストの恵みに対しても、いかなる制限もおかず、むしろまさにユダをこの恵みの最も明るい光の中に置くことによって、また、他方において、ユダをどういう言葉を用いても、決して万物復興の実例たらしめてはいないことによって――明らかにまた、イエスとユダの間の状況を、まさに、イエスとほかのすべての人間たちの間の、人間の神的選びと人間の必然的な棄却の間の、このもっとも先鋭化された状態を、宣教の開かれた状況として記述している。・・・・・・

一方においてイエス・キリストの、神的に抵抗すべからざる恵みと、他方において・・・・・・この恵みに対する、人間の敵意の間の対立が問題である状況――である。この対立は、宣教の状況の中で、未決なままであり続ける。この対立の中へとユダは置かれており、また、この対立の中で、捨てられた人間はユダの中に自分自身を再認識しなければならず、ペテロは自分がユダと連帯責任があることを知るべきである。(8990

 

ここでバルトが示しているのは、このように、自分の中のユダ、ユダの中の自分を認識するときに始めてわれわれは、捨てられたものとしての自分が救われる福音を真の福音として受け止められるということなのであろう。

 

さらに、バルトは、ユダが最後まで撤回することがなかった使徒職を、彼の死後、実質的にはパウロが継ぐことになったことを強調する。使徒言行録によれば、ユダの後を埋めたのはマッテヤであるが、「起源的な使徒団が、それが数の上で補充された後、その本来的な、本質的な補充を、その、イエスの死と甦りの後の状況に、受け取った罪の赦しに、相応する形態(Gestalt)を見出す人物は、ほかならぬベニヤミン人サウロ[後のパウロ]であるということを、否定することはできない」(9394)。パウロは、迫害者であったにもかかわらず、選ばれて使徒となった。最初は、ユダのようにイエスに敵対するものであったにもかかわらず、使徒とされたのである。バルトは、ユダを「人間の神的棄却の証人」、パウロを「人間の神的選びの証人」として対照させている(96)。

 ユダは、「しるしづけられ、焼き印を押され、呪縛され、神の呪いを負わされ排除されたものとして」、ことばの古い意味で「聖別された」者であり、「それと共に、イエス御自身との最も顕著な近さへの移されたもの、ではないであろうか」とまでも、バルトは言う――「ヨハネ1150に出てくる大祭司の有名な言葉、「一人の人が人民に代わって死んで、全国民が滅びないようになるのがわたしたちにとって得だ」、は、必用ナ変更を加エテ、また別な使徒たちとの関係におけるユダについても語っていないであろうか」(99)。

 

この一人の使徒が、死に赴いた、また、この一人の使徒の人格の中で表示されて、すべての者たちが――彼と同様、刑罰として(ただ刑罰としてだけ)、・・・・・・死に赴いたのである。・・・・・・それが、イエスへの彼の近さ、イエスとの彼の類似性――すべての使徒たちの中で、ただ彼しか持っていない類似性――である。このこと――まさに彼こそが、イエス・キリストにあって現れた神の恵みに対するこの直接的な対立の中に身をおいており、そのような対立の中で現れているということ――そのことを、ユダの行為の悪意全体も、彼の運命の恐ろしさ全体も、妨げることはできない。・・・・・・

人は、捨てられたものの定めを問う問いに際して、ユダとパウロを念頭において、もともと捨てられたものに属している場所を占めていなかったような選ばれたものはひとりもいないということ、選ばれた者の業はただ、捨てられた者の業の奇しき逆転でしかありえないということ――を考えなくてはならない。両者の真ん中に、すなわち、ユダとパウロの真中に、イエス・キリストが・・・・・・立ち給う。そして、まさにユダの棄却こそが、イエス・キリストが担い給うた棄却であり、まさにパウロの選びこそが、まず第一に、イエス・キリストの選びである。・・・・・・選ばれたものと捨てられた者の間の状況は、宣教の開かれた状況である100-101

 

このように、バルトは、ユダを「捨てられた者」「棄却された者」「滅びの子」と見る点で、伝統的なキリスト教の見方を踏襲しつつ、その、「棄却された」状態は、イエス・キリスト自身の状態でもあったという、今までユダを考える際には見落とされがちであった事実にわれわれの注意を促す。

 

<ユダの役割と意義>

新約聖書で証言されているキリストの救いの業には、「ユダに対して明らかに委託され、その悪い行為の中で、事実、実行に移された使徒ユダの協力、イエス・キリストの選びに基づいて、使徒職と教会の課題における(使徒ユダの)協力ということがある」(103)と、バルトは言う。この「委託」とは明らかに、最後の晩餐の席でイエスが彼に、「しようとしていることを、今すぐするがよい」(ヨハネ13:27)と言った、その言葉に言及しているのであろう。バルトが、ユダの行為の背後にイエスの意志を読んでいることは重要である。彼は、上記で見たように、ユダの罪を、イエスに従うこと自体を超える目的を選ぶ自由と権限とを自己に保留し、その目的のためにはイエスを売ることも辞さず、さらに、神によってしか与えられえない裁きと恵みを拒否して自分自身を裁く権利までをも自己自身で執行したことに見ており、その点ではあくまでもユダの行為を彼自身の意志に基づく行為と見ている。しかし、それにもかかわらず、やはり、一方で、これを、イエスによる「委託」つまり、神の摂理のように、見ているわけである。この摂理と自由意志との矛盾、あるいは、秘儀によってしか解かれ得ない緊張[2]については、バルトはここでは何も言っていない。ただ彼は、神がユダを「神的な引き渡しの人間的な道具」(186)にしたと、言っており、これは重要である。ゲーテの『ファウスト』で悪魔メフィストフェレスは自らを、「悪をなそうとして常に善をなすあの力の一部」と、定義している[3]。悪は自ら意図せずに善の力の道具とされる、ということである。その有名な解釈の代表的なものは、アダムの堕罪を、幸福な堕罪と見る見方、つまり、アダムの堕罪があればこそ、それを贖うためのキリストの受肉もあり、そのことによって、われわれ人間に堕罪前よりも大きな幸福が与えられたと見る見方[4]があろう。バルトも、悪魔は神の道具になるという、伝統的な見方をここでユダに対してもとっているのである。

 そこで、ユダの協力、あるいは、役割に関してバルトが注目するのは、彼の行為がイエスの「引き渡し」であった、ということである。この、「引き渡し」paradounaiは、ルカ1:やパウロの書簡の中では、イエスの事柄を「伝える」という文脈で用いられている。そこにバルトは、「引き渡し」の連鎖を見る。すなわち、まず、ユダによって始められた「引き渡し」が、パウロに継承され、パウロの「引き渡し」が使徒たちによる「引き渡し」すなわち伝承によって、全世界にわたって教会によって続けられてきたという図式である。

 

ユダがなした引き渡しを正当なものとするところのものは、彼を個人的に正当化することに対して、決して十分でない。しかし・・・・・・まさに、それ自体では正当化されえないユダの行為が、確かに事実、真実な使徒たちの行為の中に、ユダの後継者パウロの言い伝えの中に、その積極的な秘密をもらす開示を見出したその同じ形式を持っているがゆえに・・・・・・またパウロも、とりわけ、神の恵みによる言い伝えの行為の中で、現にあるところのものであるということ、そのことがユダを正当化するのであり、そのことがユダの引き渡しの積極的な意味であり、そのことがユダの行為を、その選びに相応しつつ、使徒的な機能として特徴づけ、そのことがこの捨てられた者の棄却に対するこの捨てられた者の選びの勝利を特徴的に表示する。(115

 

このように、バルトはユダの「引き渡し」の肯定的な面を見ている。ただし、それに続けてすぐに彼は、「もっとも、彼の棄却そのものから何かを削除することは、われわれに禁じられており、われわれはそのことを禁じられたままにしておかなければならないのであるが」(115)と付け加えることを忘れてはいない。この、教義的にはけっして肯定できないと、あくまでも断りつつ、その一方でユダの行為を正当化する向きは、さらに、「神的な「引き渡し」」を指摘することで、決定的になる。「パウロの引き渡し〔伝えること〕とユダの引き渡しの間で、あの関連性を見、この関連性を念頭において、ユダの客観的な義認について語ることは、ただ単に大胆すぎることでないばかりか、むしろ必然的なことであった」(131,傍点本多)と繰り返し、バルトは、ユダの義認、ユダの救いが、客観的に見てもありうるという見方を提示する。そしてさらに、ユダがイエスを「引き渡す」以前に、そもそも、「神ご自身が、イエスを引き渡される〔死に渡される〕方(ローマ4:25,8;3)あるいは、その中で神の子としてのイエスご自身が、自分自身を引き渡される〔ささげられる〕方(ガラテヤ2:20、エペソ5:2,25)である引き渡し」(131-132)があったことを指摘している。ヘブライ語聖書の中では、神が怒りの中で人間を捨て、彼ら自身にゆだねる「引き渡し」が語られる。しかし、新約聖書においては、そうした否定的な意味での引き渡しではなく、肯定的な意味での神の「引き渡し」があったと、言うのである。

 

神は、ちょうどユダが行動したように行動し給うた、しかし、いまや、はるかにより直接的な類似性の中で、行動し給うた。・・・・・・いまや、神がイエスを、イエスがご自身を、引き渡し給う。・・・・・・ユダがイエスを引き渡す以前に、神はイエスを、イエスはご自身を、引き渡し給うた。イエスが使徒的引き渡し〔伝えること〕の対象となり給う前に、神はイエスを、イエスはご自身を引き渡し給うた。神の怒りが異邦人とユダヤ人を引き渡し、捨て、自分自身にゆだねる前に、神はご自身のみ子を惜しまないで、われわれすべての者のために引き渡された(ローマ8:32)。明らかに、すべての引き渡しの必然性、力、意味は、この最初の、徹底的な引き渡し――その中で、神がイエスの人格の中で、あるいはイエスが神の子として、ご自身を、引き渡しの対象とし給う最初の、徹底的な引き渡し――の中に基礎付けられている。(132-133

 

神は、罪によって支配され、規定された人間の捨てられた状態の中に、犠牲として自らをゆだねた。神は、そうした人間を「永遠の生命にあずからせようと欲し給う。まさに彼を、神は意図し、尋ね求め、欲し給う。・・・・・・そのとき、神は、まさにそれと共に、ご自身の身に対して、ちょうど、それからユダがイエスに対して行動したように行動することを欲し給う。そしてこのこと・・・・・・がわれわれに対する神の全き愛である。(142

 

と、バルトは、ユダの引き渡しを、神ご自身による愛の引き渡しと結び付けて論じ、その「引き渡し」とは、「キリストが、自らすすんで、神によって捨てられた罪人としての人間の代わりになり給うということ」(144)だと、指摘する。キリストは、「彼のほか誰ひとり失われ、滅んでしまわないために、失われ、滅び(しかしまた、再び見いだされ)給うたのである」と、バルトは言い、「誰ひとり」に「み子を信じる者が」という、条件をつけることをしない。彼の目から見れば、神の怒りによってサタンに引き渡された者たちの身に及んだことは、「ただ彼らの救いのために、キリストの苦しみとの無限の隔たりの中で、遂行された、その、キリストの苦しみへの接近として・・・・・・人間が陥っている永遠の罰のしるしとして、しかし、とりわけ、また、それを通して彼がこの罰から守られている恵みのしるしとして――しか理解することができない」(159-160)のである。

 

<ユダの救い――捨てられた者の救いの問題>

 バルトはパウロの、「もし、神がわたしたちの味方であるなら、誰がわたしたちに敵しえようか」という問いを引いて、われわれには、ユダの形姿を念頭に置いて「もし、神が彼らの味方であるなら、誰が彼らに敵しえようか」と、続けて言えるか否かを問う。そして、そこから、捨てられた者の救いの希望を、他人のこととしてではなく、自らの問題としても、保ち続けるように、訴えている。

 

神がまた彼らの味方であるということ、そのことは、彼らが自分自身に、あるいはサタンに引き渡されている事態が、われわれにとってより明らかに思えれば思えるほど、ますます顕著なものとなる。なぜならば、その同じ程度に応じて、また――彼らの領域がイエス・キリストの領域とへだたっているへだたり全体の中で――、彼らの立場や運命が彼の立場や運命と似ている類似性が、増してくるからである。・・・・・・神がひとり子をわれわれのために死に渡されたということ、を思い起こす想起は、棄却が何であるかということ、神によって捨てられた人間であることがどういう裁きを意味しているかということが、ほかの者たちに照らして、いや、さらにもっとよく、われわれ自身に照らして、より明らかになればなるほど、より弱くはならず、むしろ、より強くなる。したがって、われわれは、そのことがわれわれに明らかになることによって、ただ、それだけ強力に、・・・・・・イエス・キリストの、罪人の代わりに起こった引き渡しの、終末論的な実在を硬くとって話さないでいるよう、また、この出来事の有効な働きを念頭に置いて、捨てられた者たちの、滅びうせた状況の(へり)にある未来の救いの希望を視野から見失わないよう、それだけ強く要求されているのである。(162-163

 

この訴えは、教義的にではなく、むしろ、信仰から出た「希望」の訴えである。「滅びうせた状況の(へり)にある希望」と、彼が言っているように、これは、保障されたものではないかもしれない。しかし、イエスがすべてのもののために死んでくださったその恵みが、棄却されたものには及ばないとは、バルトは考えられないのである。罪の増し加わったところには、恵みもますます満ち溢れる(ローマの信徒への手紙 5:20)というパウロの言葉は、「ユダのことを念頭に置いても、いや、まさに、とりわけ、ユダのことを念頭においてこそ、正しいのではないであろうか」(179)と、バルトは言う。

 

結論として、バルトは、ユダがイエスを売り、それに対する神の裁きと赦しを拒否して自らの運命を自分で裁く自殺という手段をとったことから、彼の救いを確信することはできないが、それでも、彼のように捨てられた者こそ、救いを必要とするのであり、その救いは最終的には与えられるのではないかと考え、ユダの救いの希望を捨てていない。そして、その、開かれた可能性の前に、われわれは、ただ、終末的な救いを待つのではなく、いま、ここの、宣教の開かれた状況の中で、福音を信じる者となることを求められているのであるということが、本書におけるバルトの、読者に向けての結論である。

 

神が、捨てられた人間、選ばれなかった人間に関して、意志し、計画の中に入れておられることを問う一般的な問いに対して、・・・・・・答えはただ、次のようでありうる。神は、まさに彼〔捨てられた人間〕こそが福音を聞き、それと共にまた彼の選びの約束を聞くようになることを欲し給う。したがって、神は、彼に対してこの福音が宣べ伝えられることを欲し給う。神は、彼が希望――彼に対して、福音の中で与えられている希望――をつかみ、その希望によって生きることを欲し給う。神は、捨てられた者が信じるようになり、信じる者として選ばれた捨てられた者となることを欲し給う、と。・・・・・・

彼は、神によって、ただ、捨てられた者でしかないようにと定められてはおらず、むしろ、彼が選ばれた捨てられた者であることを自分に向かって語らせ、自分自身語ることがゆるされるということに向かって定められている。これが、新約聖書の選ばれた者たちである・・・・・・信仰へと呼び召されている捨てられた者、イエス・キリストの選びに基づいて、またイエス・キリストがご自身、彼らのために引き渡されたということを念頭において、自分たちの選びを信じる捨てられた者である。(195-196

 

<遠藤周作『沈黙』[5]におけるユダの救いの問題>

 

日本のカトリック作家、遠藤周作は、小説『沈黙』(1966)においてユダの裏切りと救いの問題を扱っている。『沈黙』は、江戸時代の長崎でのクリスチャン迫害下に材を取った歴史小説である。イエズス会司祭ロドリゴは、先に日本に伝道に来たフェレイラ教父が転んだという知らせを受け、フェレイラを探しつつ伝道するために日本にやってくる。そして、幕府の目を逃れて潜伏しながら、宣教活動を行っているうちに、幕府の捜査が入り、逃亡中、道案内をかって出たキチジローという転びキリシタンに裏切られて、投獄される。そこで、彼は、先に転んだフェレイラ教父が、今では沢野忠庵という日本名をもらい幕府に仕える者となっているのに引き合わされる。そして、ロドリゴも転ばなければ信徒を拷問し、殺すと、棄教をせまられる。結局、ロドリゴは、信徒を救うために、究極の愛の行為として踏み絵を踏み、棄教する道を選ぶのである。

この小説の最も大きなテーマは、神の沈黙の問題、すなわち、迫害に会い、百姓たちが惨めに殉教して行くとき、なぜ神は沈黙を守っているのか、という問題と、日本でのキリスト教の受容の問題、すなわち、日本人は、絶対的な唯一神を信じる正統的なキリスト教を受け入れることができるか、という、遠藤周作が生涯考え続けたテーマである。フェレイラは、自分が転んだ理由を、日本人には結局、キリスト教の神を受け入れる概念的な素地がなく、キリスト教は日本にはけっして根付かないであろうと悟ったからだと、言っている。一時的に、キリスト教が日本に広がったように見えたときもあったが、日本人の中で神のイメージはいつの間にか西洋人が考える<神>ではなくなっていってしまったと、彼は見たのである。「日本人は人間とはまったく隔絶した神を考える能力を持っていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない・・・・・・日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間とは同じ存在を持つものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない・・・・・・私にはだから、布教の意味はなくなっていった。」(『沈黙』198

しかし、この大きなテーマと並行して、『沈黙』には、ユダの裏切りと救いに関する著者の問いが明白に表されていることも重要である。キチジローに裏切られ、獄に入れられたロドリゴはキリストがユダに言った言葉、「去れ、行きて汝のなすことをなせ」を、かみしめるように考える。

 

この言葉こそ、昔から聖書を読むたびに彼の心に納得できぬものとして引っかかっていた。この言葉だけではなくあの人の人生におけるユダの役割というものが、彼には本当のところよくわからなかった。なぜあの人は自分をやがては裏切る男を弟子のうちに加えられていたのだろう。ユダの本意を知り尽くしていて、どうして長い間知らぬ顔をされていたのか。まるでそれではユダはあの人の十字架のための操り人形のようなものではないか。 

それに・・・・・・それに、もしあの人が愛そのものならば、何故、ユダを最後は突き放されたのだろう。ユダが血の畠で首をくくり、永遠に闇に沈んでいくままに捨てておかれたのか。(215)

 

この問いは、ロドリゴの胸の中に神学生時代からあり、彼はそれが自分の信仰に影を落とすもののように感じて、考えまいとしてきたのであった。しかし、自分が裏切られた今、彼は、自分をキリストと重ね合わせるようにして、あらためて、この問いに向かっている。以下でわれわれは、キチジローの裏切りを、ロドリゴの目を通して見たキチジローの性格と、彼のロドリゴとの関係から考察し、そこから読み取れるユダの裏切りの問題を考えてみたい。

 キチジローは、繰り返し、「弱い者」として描かれている。ロドリゴは、最初から彼に対して否定的な目を向けている。初めて会ったキチジローを、彼は書簡で、「一人の酔っ払いが部屋に入ってきました。襤褸をまとったこの男の名はキチジローといい年齢は二十八か九歳くらいでした。・・・・・・酔っているくせに狡そうな目をした男でした。私たちの会話中、時々、目をそらしてしまうのです」(18)と書いている。おそらくキチジローが目をそらしたのは、自分が転んだ過去がやましく、司祭の目をまっすぐに見られないためかも知れず、自分に自信がない者が、相手の目をまっすぐに見られない弱さの表れかも知れない。しかし、ロドリゴはこれを、狡猾さと解釈している。また、キチジローは、お調子者でもあり、隠れキリシタンの村に司祭を連れて行ったことで、村の人気者になり、気を大きくして酔っ払っては、「パードレよ。この(おい)がついとるとよ。この俺がついとればな、案ずることは何もなか」などと、上機嫌で言って眠りこけたりしている。しかし、何よりも、この男の性格として強調されるのは、キチジロー自身言っているが、弱さ、臆病さである。過去に、キリスト教徒としてつかまった時、彼は、他の者がけっして転ばなかったのにもかかわらず、すぐに転んでしまった。また、今回、ロドリゴともうひとりの司祭をかくまっている村に役人の手が伸びたときも、司祭たちがキチジローのところに潜伏することを考え始めると、彼は「恐れを顔いっぱい漂わせて」黙り込むのであった。これは、けっして口を割ろうとしない村人と対照的である。ロドリゴはそうしたキチジローを見て、「今となると臆病で気の弱いこの男は、私たちをここまで送ってきたために事件に巻き込まれ、困惑しきっていたのでした。彼は信徒としての自分の面目を保ち、しかも自分が助かる方法を懸命に考えているようでした」(66)と書いている。この、小狡く臆病な男、というキチジローの人物像は、ロドリゴによってはっきりとわれわれに伝えられる。

このような目でキチジローに接していたロドリゴは、キチジローが姿を消し、しばらく戻らなかったとき、それが自分を密告に行ったためだと解釈する。彼は、キチジローからもらった塩のきいた干魚を食べたために耐えられないのどの渇きを覚え、それで、キチジローが水を探しに行ったのであったが、その帰りが遅いと、裏切られたと思ったのである。彼は、「干した魚をあの男がわざと私に食べさせたのだと今、はっきり、わかりました」と書いている。彼は一人逃亡しかけるが、戻ってきたキチジローは、ロドリゴを悲しそうに見下ろし、「なして、逃げなさった。パードレも、俺ば信じとられん」と、問う。そして、切支丹の隠れている部落に案内しようと言い、そこには教会も司祭もいる、と言うのである。しかし、ロドリゴはキチジローの言葉をすぐには受け入れられない。

 

司祭(パードレ)も?」

思わず声をあげました。この島には自分以外にまだ司祭がいるとは考えられもしなかった。私は疑わしそうにキチジローを見あげました。

「はい、パードレ。日本人じゃなかとです。そげん聞きました」

「そんな筈はない」

「パードレは俺ば信じられん」彼は立ったまま草の葉をむしって、弱々しい声で呟きました。「だあいも、もう俺ば信じんとですけん」(101)

 

このように、自分が誰にも信じてもらえないことをキチジローは嘆くが、ことに、司祭に信じてもらえなかったことは、彼にとって決定的な打撃であったろう。彼は臆病から転びはしたが、神を信じなくなったわけではなかった。なぜ神は自分を転びに追い込むようなまねをするのかと、彼は問いかけているが、それは、彼がまだ神に目をやっているしるしである。彼は、キリスト教の信仰を捨てたわけではなかったと言える。たしかにキチジローは、同じ村の切支丹が殉教したときに転んでしまった、しかし、そのせいで仲間が自分を信じてくれなくなったことをキチジローは嘆いている。そのような彼に、司祭は、「その代わりお前は助かることができた。モキチやイチゾウはあの海のそこに石のように沈められたが」と、言うが、この言葉はキチジローの耳には厳しく響いた。彼は、

 

「モキチは強か。俺らが植える強か苗のごと強いか。だが、弱か苗はどげん肥しばやっても育ちも悪う実も結ばん。俺のごと生まれつき根性の弱か者は、パードレ、この苗のごとです・・・・・・だから、俺あ・・・・・・どこにも行かれんけん、こげんに山の中をば歩きまわっとっとです。パードレ」(101-102)

 

と、自分の窮境を訴えている。そして、そのように話しているときに、役人がロドリゴを捕えに来るのである。結局、ロドリゴの疑いは正しく、キチジローは彼を売っていたのであった。

 しかし、われわれは、キチジローの裏切りを、彼だけの責任とは考えられないであろう。この本のなかで、彼の裏切りの原因はまず第一に、彼の生来の弱さのせいであり、それは、結局は彼をそのような臆病者に作った神の責任である。また、ロドリゴが彼を結局は信じていないことを、キチジローがおそらく悟っていたということも、彼を裏切り行為に走らせる力となったのではないだろうか。本質的に拒絶されているという気持ちが固まったときに、誰が相手を素直に信じ続けられるだろうか。そうした意味では、ロドリゴにも、責任はある。自分の弱さと、拒絶感を強く感じたときに、キチジローは、強い者を妬み、憎みさえしたと、訴えている。囚われたロドリゴのもとに、キチジローは来て、告解を求める――

 

(おい)あ、パードレばずうっとだましたくりました。聞いてくれんとですか。パードレがもし俺ば(みこ)なされましたけん・・・・・・俺あ、パードレも門徒衆も憎たらしゅう思うとりました。俺あ、踏絵ば踏みましたとも。モキチやイチゾウは強か。俺あ、あげん強おなれませんもん」・・・・・・

「じゃが、俺にゃあ俺の言い分があっと。踏絵ば踏んだ(もん)には、踏んだ者の言い分があっと。踏絵をば俺が悦んで踏んだとでも思っとっとか。踏んだこの足は痛たか。痛かよォ。俺を弱か者に生まれさせおきながら、強か者の真似ばせろとデウス様は仰せ出される。それは無理無法というもんじゃい」・・・・・・

「パードレ。なあ、俺のような弱虫あ、どげんしたら良かとでしょうか。金が欲しゅうてあの時、パードレを訴人したじゃあなか。俺あ、ただ役人衆におどかされたけん・・・・・・」(149-150

 

ここには、自分の弱さを担いきれずに神に訴える訴えと、そのように訴える自分を受け止めてくれない司祭への怒りと絶望、そして、強い信徒への羨望と疎外感とが表れている。せめてロドリゴが彼を蔑ろにせず、どこまでも信じてやれば、彼はロドリゴを売らないで済んだかもしれない。それはどこまでも推量であり、結局は彼はロドリゴを売ったのであるが、ただ、その裏切り行為をしたときの彼の心が痛んだということは、小説のなかで、キチジローの罪がイエスによって贖われると信じるにたる重みを持って、受け止められている。キチジローはロドリゴを売った。そして、ロドリゴは、自分が転ぶことで幕府が信徒を拷問することを止めさせるために踏絵を踏むことになる。踏絵を踏むとき、彼は、踏絵のなかのイエスの眼差しが、踏むがいいと彼に語るのを感じるのである。

 

(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう十分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)

「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」

「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」

「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」

「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいといっているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」 (247)

 

 

ここには、キチジローに対しても、ユダに対しても、神の赦しが語られている。

 

<ユダの裏切り>

 この、『沈黙』の、キチジローの裏切りと救いの視点に立って福音書に戻るとき、われわれは、どのようにユダの裏切りを考えられるだろうか。まず、彼が、銀貨30枚に目がくらんでイエスを売ったという見方はまず成り立たないであろう。ヨハネによる福音書には、彼がイエスの共同体の財布を預かっていたことが記され、しかも、(ヨハネによれば)彼は、金をごまかしていたという。金をごまかしていたかどうかということが、ヨハネの推測に過ぎないのか、事実なのかは証明できないだろうが、もし、それが事実だとすれば、ユダにとっては、イエスを銀30枚(日当30日分に当たり、たいした額ではない)で売るよりも、ずっと、金をごまかし続けていたほうがよいはずである。むしろ、マタイによる福音書(20:6−13)に記されている、次の出来事に目を留めたい。

 

  さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。 はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

 

この、女をとがめた弟子は、ヨハネによる福音書の並行記事(12:1-18、多少変更を加えてあるが、同じ出来事を伝えていると思われる)では、イスカリオテのユダと名指されている。そして、マルコでは、この出来事の後、ユダはすぐに祭司長のところに行って、イエスを売り渡す交渉をしている。マタイによる福音書でも、この油注ぎの出来事のときから、ユダはイエスを引き渡す決心を固めている。われわれは、この出来事がユダの心に及ぼした決定的な作用を見過ごせないであろう。彼がイエスを、この世の罪の贖い主として、われわれが言う意味のメシアとして信じていたということは、なさそうに思える。マルコによる福音書では、弟子たちは繰り返し、イエスを真に理解していないことが指摘され、彼らがイエスをわれわれが信じる意味でのメシアと悟ったのは、復活のイエスに会ってからである。むしろユダは、イエスを貧しい人たちの救いのために尽す救世(メシ)()と考え、仕えていたのかも知れない。あるいは、イスラエルをローマの支配から救うメシアとして考えていたのかもしれないが、いずれにしろ、この、油注ぎの出来事で、彼は、そのどちらのメシア像も誤っていたことを知らされたはずである。300デナリ(300日分の日当に当たる)が自分のために用いられることを非としないイエスに、幻滅を感じたのかもしれない。しかも、それをとがめたことで、公衆の面前で辱められるようにイエスに叱咤され、彼は、イエスから拒絶された疎外感と屈辱を味わったのではないか。キチジローがロドリゴに信頼されずに拒絶感を味わったように、彼にも、この時、イエスから拒絶された思いがあったであろう。彼はイエスの財布を預かるほどにイエスに近い者でありながら、このような屈辱と幻滅を味わった。これは、大きなことだったに違いない。又、一方で、彼は、ユダヤの祭司たちの動きなどを見て、イエスについてゆくことで、自分たちすべてが危険にさらされていることがわかっていたのではないか。そうした状況で、イエスに幻滅を感じたとき、彼は、共同体全体を危険にさらしてまでイエスに従ってゆく動機を失ったとは考えられないだろうか。

 彼は、イエスを売ったからといって、イエスを慕う気持ちを失ったとは言えないであろう。むしろ、自分が愛するイエスが自分を皆の前でないがしろにしたことから、愛情の裏返しの憎悪から、おそらく、一時的な激情もあってイエスを引き渡したのかもしれない。ひょっとしたら、祭司たちにイエスの処分について安心させるようなことでも言われていたかも知れず、イエスがたいした罪を問われるとも、まして、死刑になるとまでは、考えていなかったのかもしれない。うまく捕えさせてくれれば、後は悪いようにはしない、と言われたことはありえないだろうか。(ただし、政治犯として捕らえられたのならば、まず、簡単にはすまないことは、常識的にはわかったはずではあるが。)イエスがひどい目にあうことを真に予期していなかったからこそ、彼は、イエスに有罪の判決が下ったとき、ことの重要さに気づき、後悔して銀30枚を返そうとしたし、自分の命を絶つところまで追い詰められてしまったのではないか。遠藤周作のイエスが語るように、イエスを売ったユダの心は痛んだのかもしれない。もし、彼の裏切りが、イエスを愛しながらも、共同体全体を救うためだったのならば、余計である。

 

ユダの裏切りは、キリストを死に引き渡したという大罪である。しかも、その後で自殺をしたことから、ユダは救われないとされてきた。しかし、バルトや、遠藤の視点からすれば、必ずしもユダが救われないとは考えられないであろう。遠藤周作の『沈黙』には、ユダの裏切りが十字架には必要だったということ、ユダは、イエスの操り人形として、罪を犯す方向に追いやられたのではないかという、大きな問題提起がありながら、その点に関しての神の義についての考察は深められておらず、答えも与えられていない。ただ、ユダの心が痛んだということで、赦しが暗示されているだけである。ユダの裏切りについての神の摂理の問題は、キリスト教徒が長く避けてきた問題であり、これからまだ問わねばならない問題でもあろう。とくに、バルトのように、われわれも常にユダを自分のうちに持っているという認識があれば、簡単にユダを断罪することは、この世のすべてのものを断罪することに近くなり、イエスの十字架のとりなしの祈りが結局は力のないものだったのかという、最初の疑問に又引き戻されることにもなるからである。

バルトは、ユダの問題を考えるときに、義人が罪人を考えるようにではなく、自らが徹底的に救いを必要とする、まさに、捨てられた者に等しい存在であるという認識に立っている。そうしてみれば、バルトの論で、ユダはいかなる正当化もなされえない、まさに捨てられた者である、という見方と、それにもかかわらず、イエスは彼を救いうる、という希望とが並行し、交互に出てくるのは、キリスト教の本質的な逆説から来るものであると分かる。罪人こそ救いが必要なのである、罪人こそまず救われるという、多くの人のつまずきとなった教えに、われわれがつまずいてはならないであろう。しかし、それは、すべての罪人が自らの意志にかかわらず救われるということではなく、バルトの言うように、すべての捨てられた者、すべての罪人が、「信仰へと呼び召されている捨てられた者」つまり、神によって、呼びかけられ、神に立ち返ることを求められている捨てられたものである、ということなのであり、そこに、終末に至るまでの、開かれた宣教の時の可能性と希望があるということなのであろう。バルトの徹底的な罪意識が、福音的希望にあふれているのは、この、いかなる罪人も、罪に「定められて」はいないという、この点にあり、まさに、これが、イエス自身が言った言葉なのである。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネによる福音書 8:11)

 

 

 



[1]  Karl Barth, Die Kirchliche Dogmatik, Zweiter Band, Die Lehre von Gott, Zweiter Teil. 邦訳、カール・バルト『イスカリオテのユダ』吉永正義訳(新教出版社, 1997)。以下、引用ページは本邦訳より。

[2] C.S.ルイスは、物事の原因として自然法則と神の摂理とが同時に成り立ちうることを、劇作家の比喩を用いて説明している。たとえば、劇中人物が事故によって死んだ場合、それは、事故があったせいでもあり、劇作家が望んだせいでもある。(C.S.Lewis,  Miracles, A Preliminary Study. 1947;Collins, paperbacks, 1960. p.183)、同様に、劇中人物の行為は、その行為者が望んだせいでもあり、劇作家の摂理によるものでもありうるし、現実でのわれわれの行為も、われわれの自由意志と神の摂理の両方によることがありうると、考えられよう。しかし、上述のように、ここではバルトはこの問題については言及していない。

[3] Johann Wolfgang Goethe, Faust, I (Reclam, 1986), p. 39. 1335-1336.

[4] Arthur O. Lovejoy, Milton and the Paradox of the Fortunate Fall," E.L.H., 4. (1937), pp. 162-163.

 

[5]遠藤周作『沈黙』(新潮社, 1966) 以下、『沈黙』の引用は本書から。